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古代から現代まで、世界の偉大な精神的指導者
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らは、私たちの存在の最も深い真実は1つの宗教
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や精神的伝統が所有するのではなく、各人の心の
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内にあるという見解を共有してきました。
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詩人ルミ曰く、「昇りも沈みもしない月はどこか。
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我々と共にいていない魂はどこか。ここやあそこと
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言うなかれ。万物は見える目以外のそれである。」
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バベルの塔の話では人類が無数の言語、信仰、文化、
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関心に分裂しました。バベルは「神の門」を意味し、
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門は私たちの考える精神、条件付けされた構造です。
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名前や形を超えた本質、真我に目覚めた者は
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門の向こう側の偉大な神秘に足を踏み入れます。
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象を使った古代の寓話は、様々な伝統が同一の
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偉大な真実を差すのを説明するのに使われます。
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盲人のグループがそれぞれ象の一部分に触れて、
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その印象を受けます。足元に立つ人は象は木のようだ
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と言い、尻尾に立つ人はロープのようだと言います。
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牙の前に立つ人は槍のようだと言い、耳に触れた人
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は扇子のようだと言います。お腹に触れる人は
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壁のようだと言い張ります。私たちが象の一部に
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触れ、自分の経験が唯一の真実だと信じることが
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問題です。各人の経験が同じ動物の異なる側面で
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あることを認めたり、それを尊重したりしません。
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永遠の哲学とは、すべての精神的や宗教的な
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伝統が、知識や教義の元となっている神秘的
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または超越的な1つの普遍な真実を共有している
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という理解です。
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スワミ・ヴィヴェカナンダは、「全宗教の目的は神に
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目覚めること。それが普遍的な宗教だ」と、永遠の教えを
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まとめました。この映画で「神」は超越したもの、限られた
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自我を越えた偉大な神秘を指します。真我や内在の自己
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に気付くのは己の神聖さに気付くことです。全ての魂
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に、高次の意識を顕現し、自分を眠りや形と同一視
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することから目覚める可能性があります。
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「すばらしい新世界」の作家で先見の明あるオルダス・
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ハクスリーは、「永遠の哲学」と題した本で、歴史上
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多数の文化に組み込まれ何度も繰り返されてきた1つ
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の教えについて、「永遠の哲学はサンスクリット語
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の『Tat Tvam Asi(汝はそれなり)』に最も簡潔に
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表現されている」と書いています。内在する永遠の
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自己アートマンが、全存在の絶対原理ブラフマンと
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一体で、全人類の最終目的はその真実を発見する
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こと、自分が誰かを知ることです。
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各伝統は同じ真実の独自の視点を反響し、互いに
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照らし合う宝石の面のようです。言語や概念的枠組み
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を問わず、永遠の教えを反映する全宗教には、自分より
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も偉大で超越したものと結合する概念があります。
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1つや複数の情報源から学び、それらと自己を
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同一視せずに統合することが可能です。真の霊的
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教えはすべて超越的な真実を指すと言われています。
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教義や教えに安らぎを求めて固執すれば、霊的進化
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は妨げられます。すべての概念を超えた真実を知る
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のは依存心、執着、宗教的概念を手放すことです。
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自我の観点からすると、サマーディを指す指は
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奈落の底を指しています。
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十字架の聖ヨハネ曰く、「確実な道を歩むには、
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目を閉じて暗闇を歩く必要がある。」
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サマーディは未知への飛躍に始まります。
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古代の伝統で、サマーディを悟るには意識を全ての
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既知の対象、つまり現象、条件付けされた思考や感覚
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から切断し、意識自体・内なる源・存在の心や本質
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に向けるべきだと言われてきました。この映画で
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サマーディは超越的なものを指し、最高とされる
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ニルヴィカルパ・サマーディを意味します。
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ここでは自己活動、全探求、全行動が停止します。
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語れるのは近づくと消え去るものと、戻ると再び
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現れるものだけです。知覚も非知覚もなく、「物」も
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「無物」もなく、意識も無意識もなく、絶対的で、
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計り知れず、精神には不可解です。
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自己が行動に戻れば未知の状態になります。一種の
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再生で、すべてが新しくなり、神聖な香りが残り、
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進歩するにつれて香りがより長持ちします。
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古代の伝統では多数のサマーディが説明されており、
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言葉が長年、多くの混乱を引き起こしてきました。
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ここでは超越的な結合を指すのにサマーディという
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単語を使いますが、他の伝統からの言葉も使えました。
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サマーディはインドのヴェーダ、ヨガ、サーンキヤ
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の伝統に共通する古代梵語の単語で、他の伝統にも
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浸透しています。パタンジャリ・ヨガの8番目の
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支則で、ブッダの八正道の8番目です。ブッダは
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自己活動の停止を「涅槃」と呼びました。パタンジャリ
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はヨガやサマーディを梵語で「チッタ・ヴリッティ
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・ニローダ」(精神の渦や螺旋の停止)と説きました。
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意識を精神の基盤や創造主から放すという意味です。
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サマーディに概念はありません。
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概念的な精神を捨てることで実現するからです。
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さまざまな宗教が神との結合を意味する単語を
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使ってきました。英語のreligionはラテン語の"religare"
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(再接続する) から来ています。ヨガの「くびきを
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掛ける(世のものと超越的なものを結ぶ)」という
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意味に似ています。イスラム教のイスラムという
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言葉自体、古代アラビア語で神への服従、つまり
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自己構造の完全な降伏を意味します。
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アッシジの聖フランチェスコ、アビラの聖テレサ、
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十字架の聖ヨハネなどキリスト教神秘主義者は、神と
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の神聖な結合、内なる神の王国を描きます。 トマスの
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福音書でキリストは「父の王国はここにもそこにも
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なく地上に広がるが、人々にはそれが見えない」と言
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いました。 ギリシャの哲学者プラトン、プロティノス、
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パルメニデス、ヘラクレイトスの作品を永遠の教えの
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観点から見ると同じ知恵を指します。プロティノスは
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人間の最大の努めは魂の完成と結合だと教えました。
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ラコタ族の呪医・聖者ブラックエルクは言いました。
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「最初の平和で最も重要な平和は、人間が宇宙やその
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力との関連性・一体性に気付き、宇宙の中心に大霊
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が存在し、それが私たち一人一人の中を含め、至る
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所に存在するのを認識するときに生じる平和です。
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悟りへの道には、サマーディに達していない限り、
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常に2つの極性、2つの入り口、2つの次元があります。
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1つは純粋意識、もう1つは現象の世界です。上昇流は
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真理へ、下降流はマーヤと目に見える・見えないものも
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含め、顕現する万物への扉です。相対的なものと絶対的な
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ものの関係は、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジの
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次の言葉で表現できます。「知恵は私が無だと知ること、
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愛は私がすべてだと知ることで、私の人生はこの2つ
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の間に動きます。」この結合から神意識が生まれます。
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これらの二極性の結婚・結合や二元性の崩壊で何か
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が生まれますが、それは物でもなく生まれたことも
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ありません。意識が花を咲かせ、新しいものを創造し、
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永遠の三位一体と呼べるものを創造します。
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超越的で、不可知で、不変な父なる神は変化するもの
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全ての神聖な女性性と一体化することで、錬金術的な
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変化、つまり一種の死と再生をもたらします。
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ヴェーダでは、神の結合はシヴァとシャクティの2つ
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の基本力で表現します。さまざまな神の名前や顔は
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時代とともに変わりますが、基本的属性は変わりません。
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この結合から新しい神意識や存在方法が生まれます。
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切り離すことのできない、1つの二極性。中心や制限が
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ない純愛なる普遍的エネルギー・・・空であると同時
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に充満しているため、得るものも失うものもありません。
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メソポタミアの神秘学派、バビロニアとアッシリアの
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精神的伝統、古代エジプトの宗教、古代アフリカの
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ヌビアとケメット文化、世界中のシャーマニズムと土着
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の伝統、古代ギリシャの神秘主義、グノーシス派、
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二元論者、仏教徒、道教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター
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教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の共通点
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は、最高の精神的洞察でサマーディを実現できることです。
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サマーディは、万物との同一性・一体性を実現すると
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いう意味です。統合です。自分自身のすべての側面を
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統合することです。ただし知的な理解をサマーディの
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実現と誤解しないでください。あなたの静寂さや
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空虚さが、生命の螺旋の全レベルを統合します。
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人類は古代のサマーディの教えを通して、すべて
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の宗教の源を理解し始め、生命の螺旋、つまり
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大霊、ダルマや道と再び調和することができます。
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この螺旋は、小宇宙から大宇宙まで、あなたのDNA
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からチャクラを通して広がるエネルギーの内的
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蓮華まで、天の川銀河の腕まで伸びる橋です。
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魂の各段階は、生きて探検しながら進化を続ける枝
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として螺旋状に表現されます。真のサマーディは
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各段階の自分、魂のすべての鞘の空虚さを悟ること
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です。螺旋は二元性と生死サイクルの無限の遊びです。
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時に私たちは源とのつながりを忘れます。
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私たちが世を見るレンズは非常に小さく、
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自分を地球上を這う限られた生物と自覚し、
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そのうちに再び旅を終えて、その源、
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あらゆる場所にある中心へと戻ります。
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荘子は「これとあれの間に分離がなくなるとき、
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それは道の静止点で、螺旋の中心の静止点から
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万物に無限を見ることができる」と言いました。
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古代のマントラ「オーム・マニ・パドメ・フム」には、
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詩的な意味があります。蓮の花の宝に目覚めるのは、
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魂の本質や、世界の中の世界に目覚めることです。
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「上の如く、下も然り。下の如く、上も然り。」と
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いうヘルメスの原理に基づき、精神と静寂、相対と
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絶対の関係を、類推を使い理解することができます。
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サマーディの非概念的な性質を把握するために、
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ブラックホールの類推を使います。
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ブラックホールは伝統的に、光も物質も逃れられない
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ほど強力な重力を持つ空間領域とされてきました。
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新理論では、極小の微粒子から銀河のような大宇宙
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の形成物まで、全物体の中心にブラックホールや
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神秘的な特異点があると仮定しており、この類推では
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「あらゆるところにある中心」という定義を使います。
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禅には、門のない門と直面するための詩や公案が多数
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あります。サマーディに達するには、門のない門を
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通過する必要があります。事象の地平線とは時空の
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境界で、それを超えると事象は外部の観察者に影響が
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ないため、その向こうで何が起きても認知できません。
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ブラックホールの事象の地平線は、門のない門に
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似ており、自己と無自己の境界です。ここを通過
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する「私」はいません。ブラックホールの中心には
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想像を絶するほど小さな空間に数十億個の太陽の
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質量を含む、 実質的には無限の質量の、1 次元の
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特異点があります。砂粒よりも極小の宇宙です。
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時間や空間を超えた計り知れないもので、物理学
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によれば活動も、物の存在もあり得ません。それが
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何であれ、知覚の世界には属しませんが、ただの
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静止とも呼べません。静止や動きを超越しています。
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どこにもありどこにもない中心を認識すれば
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二元性が崩壊します。形式と空虚。時間と永久。
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それを暗闇の中心にある躍動的な静寂や含蓄ある
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空虚とも言えます。道教の師、老子は「暗闇の中の
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暗闇は完全な理解への入り口だ」と言いました。
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作家で比較神話学者のジョゼフ・キャンベルは、
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「世界軸」と名付けた永遠の哲学の一部で繰り返し
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現れるシンボルを、中心点や最も高い山と呼び、
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この極の周りをすべてが回転すると説明します。
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静寂と動きが共存する点で、そこから力強い花咲く
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木が現われます。全世界を結ぶ菩提樹です。
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太陽がブラックホールに吸い込まれるように、偉大な現実
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に近づくと人生がその周りを回転し自分は消え始めます。
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内在の自分に近づくのを、自己構造が恐ろしく感じる
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ことがあります。門番は、旅人らを試すためにいます。
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最大の恐怖に立ち向かう勇気と、自分本来の能力を
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認める必要があります。無意識の恐怖と内的美を明るみ
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に出します。精神が動かず自我が反応しなければ、
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無意識から来た全現象は、生じては消えます。
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これが精神の旅で最も信念が必要となる地点です。信念
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とは何でしょうか。信仰とは違います。信仰は、安心感や
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確信を得るために精神レベルで物事を受け入れることで、
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経験を分類・制御します。信念はその反対で、知らない状態
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に留まり、無意識から生じるものをありのままに受け入れる
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ことです。信念は、門のない門を通過するために特異性の
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引力や、自己の溶解・解体に降伏することです。
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銀河の進化と構造がそのブラックホールの規模と密接に
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関連しているように、あなたの進化も真我である内在の
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自己の存在と関連しています。ブラックホールは
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見えませんが、周りの物体の動きや物理的現実に与える
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影響から認識できます。同様に、真我は見えません。
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内在の自己は物体ではありませんが、覚醒した行動は
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観察できます。鈴木禅師は「厳密に言えば、悟りを
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開いた人はいない。あるのは悟った行動だけだ」と
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言いました。目に目が見えないように、それ自体は
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見えません。それ自体が見る能力を提供するからです。
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サマーディはブラックホールと同様、無でも物でもなく、
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物や無の二元性の崩壊です。偉大な真実への門はなくても
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道は無限にあります。道・ダルマは始まりも終わりも
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ない無限の螺旋です。誰も門のない門を通過できません。
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誰の精神もその謎を解いたことも、解くこともありません。
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誰も通過できないから、「誰」でなくなるしかないのです。
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サマーディは道のない道、黄金の鍵です。内的・外的世界
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を分ける自己構造を自分だと認識することの終わりです。
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自己構造の層やレベルを説明する発達モデルは数多く
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あります。非常に古い例を使います。ウパニシャッド
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ではアートマン(魂)を覆う鞘をコーシャと呼びます。
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各コーシャは鏡のような自己構造の層で、それを自分
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だと思うことが真我の認識を妨ぐ、マーヤのベール
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またはレベルです。大抵の人が映っているものを自分
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だと信じます。1つの鏡は動物の層、肉体を映します。
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次の鏡は精神つまり思考、本能、知覚を映します。
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別の鏡は、内面的に観察できるエネルギーまたは
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プラーナを映し、別の鏡は想像レベルつまり高次の
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精神・知恵の層を映します。そしてサマーディ直前
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に経験する超越的・非二元的な至福の層があります。
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分別できる鏡や自己の側面は無数に存在するかも
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知れず、それらは常に変化しています。
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大抵の人はプラーナ、高次の精神、非二元的な至福
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の層をまだ発見しておらず、その存在さえ知りません。
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人生に影響を与えていても、見ることができません。
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隠された鏡は、見える鏡より影響を与えています。
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意識に完全に照らされていないため、大抵の人に
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は見えません。インドラの宝石の網のように、鏡は
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反射し合い、反射が無限に他の反射を反射します。
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1 つの層の変化は、すべての層に同時に影響します。
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光を照らしてくれる有能なガイドに恵まれない限り
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鏡のいくつかが影に残される可能性があります。自分は
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何を知らないのか知らないのが現実です。ここで鏡を
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全部割り、自分自身を反射するものがなくなれば、自分
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はどこですか? 精神が静まれば鏡は反射しなくなります。
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主体と客体はなくなりますが、原初の状態を無や忘却と
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誤解しないでください。内在の自己は物でも無でもありません。
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源は物ではなく、空虚または静寂そのものです。
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万物の源である空虚です。形はまさに空虚として、空虚は
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まさに形として実現されます。この源は創造の大子宮で、
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いかなる可能性も含みます。
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サマーディは非個人的意識の目覚めです。夢から覚めたとき
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に、その夢が全部頭の中で起きたことを知るのと同じです。
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サマーディを悟ると、世のすべてはエネルギーや意識の
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階層の中で起きているのを認識します。すべては鏡の中
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の鏡で、夢の中の夢です。あなたが自分だと思い込んでいる
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あなたは、夢でもあり、夢見る人でもあります。
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この映画が語ることはすべて手放し、精神で捉えないで
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ください。魂はあなたという夢を見ています。夢は変化
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するものすべてですが、不変のものも認識可能です。
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これは限られた個人的精神には理解できません。
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ニルヴィカルパ・サマーディから戻ると、鏡は
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再び反射を始め、今生きているように見える世界が
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自分だと認知します。一時的な反射だけの限られた
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自分ではなく、全存在の源としての本来の自分に
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気付きます。高次の知恵の覚醒、胚、般若や
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グノーシスはサマーディから生じます。
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ヨブ記によると、ホークマー(知恵)は無から生じ、
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無限に小さな一点でありながらも存在全体を包含
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していますが、鏡の宮殿で形や形態を与えられるまで
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認識できません。鏡の宮殿はビナーと呼ばれ、神霊
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の胚に形を与える、高次の知恵が作成した子宮です。
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[音楽]「Abwoon d'bashmaya」Indiajiva作
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鏡や精神の存在が問題なのではなく、それを自分だと
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思い込む、人間の知覚が問題なのです。私たちが
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限られた自己であるという幻影がマーヤです。ヨガ
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でサマーディを悟るには、瞑想の対象物が消えるか、
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自分がその中に消えるか、それが自分の中に消える
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まで観察するように教えています。さまざまな伝統
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で使う言葉は違っても、自我認識や自己中心的な活動
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を停止するように教えます。仏陀は否定的な教え方を
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し、自己構造の働きを直接調査するように教えました。
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サマーディに関しては、苦の終わりだとだけ言いました。
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ヴェーダンタの「ネティネティ」は「あれでも、これ
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でもない」という意味で、自己実現を試みる者は、自分が
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何でないかを知ることで真我・ブラフマン性を探求します。
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同様にキリスト教ではアビラの聖テレサが、否定的
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な道に基づく祈りについて説明しました。「静寂、降伏、
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そして統合の祈りは、神に近づく唯一の方法だ」と。
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この段階的な剥ぎ取りプロセスを通じて、永続的で
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ないもの、変化するものをすべて捨て去ります。精神も、
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自我構造も、隠れた自己の層を含むすべての現象も。
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無意識は、唯一の源を反映するには透明になる必要が
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あります。無意識内に深い知識や自己が働けば、生命
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は未発見の自己を構成する隠れたパターンの迷路に
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閉じ込められたままになります。自己の全層が空である
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のが明白になると、自己や概念から解放されます。
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進化の転換点は、自分が誰だかわからないことに
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気付いたときです。呼吸をするのは誰?味わう
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のは誰?詠唱や儀式や、踊りや山を体験するのは誰?
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観察者を観察し、目撃者を目撃してください。
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観察者を観察するとき、最初は偽りの自己しか
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見えませんが、粘り強く続ければ消えます。
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誰の体験・何の体験かを直接調査してください。
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瞬きせず、鋭く、染みるように全存在を使って。
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[音楽] 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(意味:行った、
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行った、向こう岸まで行った。最後まで行った。解脱だ、万歳。)
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目覚める自己はおらず、目覚める「あなた」もいません。
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目覚めるのは、分離した自己の幻想や限られた自分の
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夢からであり、言葉にしても無意味です。その認識は
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実際の自己の停止を要し、言葉では表現できません。
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言葉にしようとした瞬間、精神に戻ってしまいます。
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私はすでに言いすぎました。
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普通、目覚め・夢・深い眠りの 3 つの意識状態があります。
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サマーディは意識の基底状態、第 4 の意識と呼ばれる
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ことがあります。この原始的な覚醒状態は、他の意識
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状態と並行して持続的に存在できます。ヴェーダーンタ
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ではトゥリヤと呼ばれ、キリスト意識、クリシュナ意識、
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仏性、またはサハジャ・ サマーディとも呼ばれます。
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サハジャ・ サマーディでは、内在の自己が人間の
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全機能を使い存在し続けます。変化する現象の螺旋
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の中心で静寂さが動かずに存在します。思考、感情、
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感覚、エネルギーはその周囲を回りますが、静止度や
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「私は在る」感覚は、活動中も瞑想と同様に残ります。
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深い眠りでも内在の自己は存在し続けるかも知れず、
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意識状態が変化しても「私は在る」感覚は変化しません。
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これがヨガの睡眠です。
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ヘブライ聖書(旧約聖書)の雅歌(ソロモンの歌)
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には「私は眠るが、心は目覚めている」とあります。
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永遠の非人格的意識は、キリストの言葉「アブラハム
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がいた前から、私はいる」に反映されます。
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無数の顔、無数の形を通して輝く1 つの意識。
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最初は両極性から生まれる弱い炎のようです。
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女性的エネルギーを開放するために男性性が意識
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を浸透する。繊細で簡単に失われるため、成熟する
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まで守り、生かし続けるのに細心の注意が必要です。
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サマーディは、時を超えた意識状態であると同時に
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成長過程の一段階で、有機的に時間をかけて養われます。
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サマーディに・今に・時を超えた現実に長くいれば
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いるほど、心・魂・アートマンからの指示が増え、
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条件付けされた構造からの指示は減ります。こうして
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人は低次の精神や病的な思考から解放されます。
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内部配線が変わります。エネルギーはもはや無意識
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に古い条件付けされた構造に流れません。つまり、
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自己構造や外界の形態と同一視されなくなります。
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サマーディを実現するには、自身の完全な降伏となる
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偉大な努力と、自身の全存在やエネルギーの包括的
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な降伏が必要です。努力と降伏のバランス、陰と陽です。
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一種の努力のない努力です。
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インドの神秘家でヨガ行者のパラマハンサ・ラマクリ
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シュナ曰く「髪に火の付いた人が池を求める如く覚醒を
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求めないのなら、求めるな。」全存在で求めるのです。
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自我を超越する修行中は、胎児を生存させるために、
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世のパターンに戻らないために、勇気、警戒、忍耐
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が必要です。流れやマトリックスの容赦ない圧迫や
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輪廻の歯車に逆らって進む意志が必要です。全呼吸、
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全思考、全行動が源を悟るためにあるべきです。
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サマーディは努力によっても、努力なしでも実現できません。
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努力も無努力も捨ててください。精神の中にだけ存在する
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二元性です。サマーディの実際の実現はあまりにも
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単純で曖昧なため、二元論的な言葉で常に誤解されます。
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世に目覚める原始意識は1つだけですが、それが多数の
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の精神層に隠されています。雲の裏に隠れた太陽のように
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層を1枚ずつ削るごとに、真我が明かされていきます。
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精神層が落ちるごとに、違う名のサマーディで呼ばれます。
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異なる経験や現象に名前を付けます。
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サマーディは非常に簡単なので、何でありどう実現する
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か教わったとしても、精神は必ずそれを見逃します。
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サマーディは実際、簡単でも難しくもなく、精神がそう
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するだけです。実現するために精神を止めるので、精神
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がない限り問題ありません。出来事とは全く違います。
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サマーディの最も簡潔な教えは、この句にあるかも
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しれません。「静かになって、知りなさい。」
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言葉や画像でどう静けさを、音を立てながらどう沈黙を
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表現するのでしょうか。この映画はサマーディを概念的
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に説明するものではなく、不活動への革命的な呼びかけ
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です。瞑想・内的沈黙・祈りへの呼びかけと・・・
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やめなさい!
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病的な精神の行動をやめ、静かになり知ってください。
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静寂から何が生まれるかは誰も言えません。
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霊的な心から行動せよという呼びかけです。
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それは古代を思い出すようなもので、魂が目覚めて
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自分を思い出します。それまでずっと眠っていた乗客
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でしたが、空虚が目覚め、自分は万物だと気付きます。
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盲人に色を説明できないように、限られた自我の精神
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にサマーディは想像できません。精神はそれを知ること
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も作ることもできません。サマーディを悟るのは見方を
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変えることで、物を見るのでなく見る者を認識します。
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アッシジの聖フランチェスコは「探している物は、探して
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いる者だ」と言いました。一度月を見れば、その反射
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を認識できます。真我は万物に常在しますが、あなたは
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それに気付きません。精神や感覚を超えて真我を認識し
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それに留まれば、平凡さにも畏敬の念を抱きます。
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自分自身が畏敬の対象になります。
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欲を捨てたいと思うのも欲。捨てようとしないでください。
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静かになる努力自体が行動なので、頑張っても無駄です。
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既存の静寂さに気付き、「静かになって、知りなさい。」
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すべての好みを捨てれば源が明確になりますが、源に
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さえ執着しないでください。偉大な真実、道は1つでも
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2つでもありません。ラマナ・マハルシは言いました。
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「自己は1つで、制限されていれば自我で、無制限なら
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それは無限で偉大な真実です。」
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この説明を信じても、信じなくても見逃しました。どちら
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も同じ精神レベルで作用するからです。知識は必要です
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が、自己探求を始め、自分の存在のあらゆる側面を調べ、
-
誰が調査しているかを発見し、自己でなくより高い意志
-
に従って生きれば、知識を超えて旅する意志があるなら、
-
私が指摘することに気付くかもしれません。そして
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初めて、存在の深遠な神秘と美を味わえます。
-
人生には別の可能性があります。概念や教義、条件
-
付けされた活動や好みを超えた、自身の存在の奥深い
-
静寂の中に、神聖で計り知れない何かを発見できます。
-
技術や儀式や実践からは得られません。それを得る方法
-
やシステムもありません。道への道はありません。
-
禅で言われているように、生まれる前の本来の顔を
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発見することです。自分にさらに何かを加える
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ことではありません。幻想を払拭する自分自身の
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光になることです。名前や形を超えた神秘に留まるまで、
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生命は常に満たされず、心が落ち着くことはありません。
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「音楽」オーム・シュリーム・ラクシミ