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さて、前編のおさらいから始めよう。
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革命指導者であるトゥーサンを裏切ったのは、
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まず、ある意味彼自身の近侍の将軍たちだよね。
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土壇場にルクレールの側についたわけだから。
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そして、ルクレールとの闘いをやめてしまったわけだから。
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彼らは、ルクレールがそれほど悪い奴ではないと思い込んだ。
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つまり、奴隷制を戻すつもりや、
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人々の権利、特に
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アフリカ系市民の権利を取り上げるつもりではないと思っていた。
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ほら、これがルクレールの写真ね。
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こいつです。
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トゥーサンは武装解除に追い込まれ、
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ルクレールとの和議交渉に赴いたんだけど、
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騙されてルクレールに監禁され、
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船に載せられ、
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フランスに運ばれて、
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翌年に獄死してしまった。
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つまり、トゥーサンは裏切られ、
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1,803に獄死。
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そしてトゥーサンという人物は、あらゆる意味で、
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ハイチ革命におけるという意味だけでなく
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歴史を通してみても、偉大な指導者だった。
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トゥーサンは権力を握った時、前も言ったけど、
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白人の前支配階級に対し報復行為をせず、
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ハイチの経済発展に尽力し、
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国を富ませようとまず頑張ったんだ。
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そして彼はさらに、ハイチ、つまり当時のサント・ドミンゴを
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イギリス王立海軍からも守ってみせた。
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前編で言うの忘れたけど、
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イギリス王立海軍というのは、
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当時の世界では、
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圧倒的な力を誇る海軍だったんだよ。
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なので、この戦役で彼は
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本当に偉大な軍事指導者であるとの評価を得ている。
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彼は偉大な指導者であるだけでなく、
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報復行為に踏み切らず、
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当時では一般的だった殺し尽くし焼きつくし
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敵と見れば徹底的に嬲り尽くすという戦法を潔しとしなかったんだ。
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けど、彼は裏切られた。
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ちょっとはっきりさせておくけど、
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このルクレールというやつは、ちょっと悪魔の角がお似合いの悪党で
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とはいえ、もうちょっとしたら
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本当にもっと大きな角が似合う奴がすぐ出てくるけど。
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ルクレールはその大悪党の
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先駆け的な存在だったのかもね。
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1802年5月、
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ナポレオンが署名したのは、
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奴隷制が消滅していない場所での奴隷制復活、という法案だった。
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奴隷制が消滅していない箇所
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というのはとても曖昧な表現で
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場所によっては
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奴隷制がまだ続いていた場所もあった。
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フランス領マルティニーク島もそうだったし、
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セントルシアやドバゴでも、そうだった。
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けど、ハイチ、当時のサント・ドミンゴでは
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そこらへんの事情は
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少し曖昧だったわけだね。
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奴隷制はほんとうの意味で
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消滅したか否か?
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ハイチでは奴隷たちは自由だった。
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けれど、ハイチ全体でみた場合、どう解釈すべきだろう?
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けれど、当時
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ハイチの人々はここらの事情を知っていたわけではない。
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1802年5月に可決した法律なんだけどね。
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けど、ちょっとはっきりさせておくと、
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ナポレオンはルクレールに秘密文書を送りつけていたんだ。
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機が熟したら
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奴隷制を復活させよ、と。
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タイミングがいいときに奴隷制を復活させる。
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ナポレオンたちは自分の立場をわかっていた。
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つまり、ハイチの影響力を得るためには
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トゥーサンの前側近たちの
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協力が必要だってこと。
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デサリーヌとか、トゥーサンの将たちのことね。
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ルクレールは彼らが必要だった。
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けれど、腹の中では最初から、
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つまりハイチへの影響力を十分得た状態になったら
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手のひらを返して奴隷制復活と
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有色人種の市民権剥奪を狙っていたんだ。
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けど、ハイチ側のリーダーたちもバカじゃない。
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デサリーヌを覚えているかな。
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これが写真なんだけど。
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彼自身も解放奴隷で、
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トゥーサンの片腕として活躍していたんだけど、
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彼は優秀な将軍だった。
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さっきも言ったように
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ルクレールとの闘いで、
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最後にルクレールに寝返って
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言い方によっては
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トゥーサンを裏切ったことになる人なんだけれど。
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けど、デサリーヌや
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他のトゥーサンの元側近たちは、
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状況のまずさをちゃんと察していた。
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別にナポレオンの秘密文書を盗む必要なんてない。
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マルティニーク島、ドバゴやセントルシアで
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奴隷制が復活された噂はちゃんと耳に入ってる。
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彼らにとって、フランス軍はもはや
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まともに交渉したり信用したりするのに値する相手では見なされなくなった。
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奴隷制に関してはね。
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そして、デサリーヌとその将ちは再び武装蜂起した。
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けれど、デサリーヌは
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トゥーサンとは全く違うタイプの人物だった。
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ひとつ共通点があるとすれば、
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ふたりとも優秀な軍人であったことだけれども
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大きな違いは、
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デサリーヌは、ちっとも遠慮なんかしなかったってことだ。
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彼は、言ってしまえば
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トゥーサンなどよりも、よほど「目には目を」というタイプの人で
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この時デサリーヌは、言うなれば
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奴隷反乱軍の指導者の座についたわけだけれど、
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それに対するは
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ルクレールと4万人のフランス軍。
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ナポレオンの命でハイチ革命を鎮圧しに来た人たちだよね。
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けど、デサリーヌにとって幸運なことに
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ハイチでは黄熱病が大流行。幸運って言っちゃいけないか。
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実際、沢山の人が病で亡くなったわけだし。
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けど、この病が戦争の命運をわけた。
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島のアフリカ系の人々に有利な方にね。
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黄熱病が島を襲い、ルクレールをはじめ、
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2万近くのフランス軍兵士の命を奪ったんだ。
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2万4千だったかな。どっかで読んだけど。
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なので、フランス軍は半分以下になり
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8千人がさらに戦闘不能状態に
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つまり、4万のうち3万2千がだめになり、
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8千足らずの軍勢になってしまう。
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なので、一夜のうちに、戦いの勢いは反転し、
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数の面では完全に逆転してしまったんだ。
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反乱軍の敵側がね。
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けど、それでは終わらなかった。
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ルクレール、この小さな角の悪党は、
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もっともっと邪悪な人間によって
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取って代わられることになってしまう。これが、ロシャンポー子爵。
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父親と同じ名前だから間違えないように。
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彼の父は、
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アメリカ独立戦争の英雄で、
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アメリカ軍に味方していたフランス軍と戦ったわけだけれども、
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彼の息子は・・・
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まあ、僕の知る限り父親のほうは、
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わりとまともな人だったんだけど、
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この息子は本当に本当に邪悪なやつだ。
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歴史の流れを見ると、「完全な悪」と言い切れる人物は
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そんなにいないけど、
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彼は紛れもなくそのひとりだった。
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そして、黄熱病でバタバタと倒れた軍勢を立て直すのに
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彼は必死になっていて、
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しかも、猛烈な敵とも戦わねばならなくて必死だったんだろうけど
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彼はとても残忍な戦い方を選んだ。例えば、
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ちょっとひどいけど書いておこうか。
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ロシャンポーはアフリカ人たち
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つまりアフリカ系住民たちを
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解放奴隷や自由有色人種たちを
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虫で一杯にした穴の中に生き埋めにしたり、
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煮えたぎった黒糖の鍋で、彼らを煮殺したりした。
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他にも、ロシャンポーはある日、
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混血の地元有力者たちを晩餐会に招き
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自宅でのパーティなんだけど、
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12時ぴったりに、客を全員殺すことを
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宣言したり、とかね。
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つまり、彼はこの上なく残忍で、
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その被害者たちは
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彼が好きな様に出来る人達、
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つまりハイチのアフリカ系住民たちだった。
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けれど、彼のこの残忍さは
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ハイチに住む全てのアフリカ系の人々、
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彼ら全ての心を、本当の意味でひとつにするという効果をもたらした。
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奴隷たちと、解放奴隷たちと、
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そして混血の自由有色人種たち全てをね。
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それで時は1803年だけど、
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思い出してほしいのは
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ハイチはまだイギリスと戦争中で
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イギリスは、前も言ったけど
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彼らの持つ王立海軍は紛れもなく世界一
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世界一の海軍だね。
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ロシャンポーは邪悪で残酷だったけれども、
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デサリーヌと渡り合うには
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ナポレオンからの援軍が必要だった。
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そして、もうひとつ。
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デサリーヌは、前も言ったけど
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決して報復行為を恐れるタイプではない。
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例えば、あるとき、
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ロシャンポーが500人の反乱軍捕虜を生き埋めにしたとき
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デサリーヌは仕返しに500人のフランス軍捕虜を絞首刑に処したりした。
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なので、デサリーヌは決して
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血を見るのをためらうタイプではないんだよね。
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トゥーサンとは決定的に違うところなんだけれども。
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これは思うに、歴史の教訓だね。
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ある敵と戦っている時、
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敵の割りと話のわかる常識的な指導者を引きずり下ろした場合、
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その次にリーダーに就く人間がとんでもなく
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自分に近いというか、もっと残酷な人間だったりすることがあり、
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結果的にもっと沢山血を見ることになってしまうことがままあるんだよね。
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まあ、これは僕の考察にすぎないけれど。
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さて、これで舞台は整った。
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フランスはイギリスと戦争中。
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イギリスはカリブ海などを制しているし
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ロシャンポーは、滅法強い奴隷反乱軍を相手に
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援軍が欲しいって言ってる。
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けど、ナポレオンは損切りが速いことで有名だ。
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例えばエジプトでしたように。
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ナポレオンは、なんていうか、個人の将軍がどうなろうが
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どうでもいいタイプの指導者で、
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彼にとって見れば自分のエゴと権力がずっとずっと大事。
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なので、ナポレオンは援軍要請を無視。
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まあ、状況を把握してたら仕方ないんだけど
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援軍はきっとイギリスの軍艦をかいくぐってハイチに辿りつけないし
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同時に、ナポレオンは
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ヨーロッパとの戦争で首が回らない。
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そしてそもそもフランス革命が起こったのは
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フランス国庫がカラだったからなんだよね。
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なので、ナポレオンはロシャンポーを見捨てただけでなく
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まあ、ロシャンポーにとっては当然の報いだけれど。
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ナポレオンは他の植民とも全部諦めたんだよね。
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西半球にあるやつはほぼすべて。
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戦争資金のために、
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ナポレオンは仏領ルイジアナをアメリカに売り払った。
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このルイジアナってのは、ルイジアナ州、
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今のこの小さな州のことではなく、
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こんなに大きかった。
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まあ、実は僕はルイジアナ生まれなんだけど、
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ここでいう仏領ルイジアナは、
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この大きな部分、現在のアメリカの3分の1の面積を占める広大な土地のことだったんだ。
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彼はこれを全部売っぱらった。
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すごい必死だったんだろうね。
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だって、たったの1千5百万ドル。
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6千万フランに当たるんだけど、
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現在のドルに直すと
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100億ドルというところか。
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けど、土地の大きさを見ると
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ほら、100億ドルでアメリカの3分の1だよ?
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そう考えれば
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すごく安値で売り払ったことになる。
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今の100億ドルで。
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でも、1803年当時の1500万ドルというのも、
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当時でもたいした額ではなかったので、彼の必死さが伝わるよね。
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地球の裏側の植民地を支配し続けることは
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ナポレオンには無理と判断したからなんだが。
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特にイギリスが事実上海を支配していて、
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自分たちはヨーロッパでどんぱちやってて首が回らない状態では。
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なので、アメリカはすごく得な買い物をしたわけだ。
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けど、言ってしまうとね。もしナポレオンがこのとき二束三文で売らなかったら、
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そのうちイギリスかアメリカのどっちかがたぶん
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占領して終わり、ってことになってただろうしね。
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話を戻すと、ロシャンポーはナポレオンに切り捨てられ、
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デサリーヌに滅ぼされた。
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そして、デサリーヌはサント・ドミンゴの独立を宣言。
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1804年1月1日のことだ。
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デサリーヌは、サント・ドミンゴの独立を宣言し、
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この新しい国をハイチと名付けた。
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先住民たちにとってのこの地の呼び名をとってね。
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山脈の地、という意味らしい。
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さて、気づいてない人もいると思うけど
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思い出してほしいのは、
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この時点で、ハイチはとてもとても貧しい国だった。
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そしてデサリーヌの後にも、次から次へと、まあ飽きもせず
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いつかこれについてビデオ作る予定だけど、
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次から次へと、独裁者が現れては消えていき、
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人々にとっては過酷な年月が流れていく。
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そして、ひとつはっきりしているのは、
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彼らの国としてのスタート時点がまず苛烈だったこと。
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デサリーヌが1804年に独立を
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宣言はしたものの、
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フランスはこの独立を1805、いや失礼、1825年まで認知しなかった。
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フランスによる認知
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どういうことかというと、
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まあ、そんな認知とかどうでもいいとか思うかもしれないけど、
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前宗主国とかどうでもいいってね。
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けど、認知するまでフランスは、
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ハイチを経済封鎖していたんだよね。
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外国とのありとあらゆる
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貿易を阻止した。
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これでは経済は立ち行かない。
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そして、認知されるために、
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ハイチは9千万フランの賠償金の支払いをフランスに約束させられたんだ。
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これがどれだけな額かというと、
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特にこんな小さな島の半分、
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解放奴隷によって建国されたばかりで、
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前宗主国に無理やり賠償金を押し付けられ
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さらにはその拘束は
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アメリカやイギリスによっても強化された。
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嫌な話だよね。
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前の敵国どうしでも、こういうこと、
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つまり小さな貧国を抑えつけるという点ではみんな協力しあえるわけらしいから。
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なので、彼らは、さっきナポレオンが
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ルイジアナを売っぱらった額の1.5倍の賠償金を
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背負うことになる。
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ルイジアナの売値は6千万フラン。
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それがルイジアナ全部。
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そして、ハイチがフランスに支払うのは9千万フラン。
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今のドルに直せば、
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140-150億ドルくらいか。
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で、当時のハイチの人口はたったの
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50万人くらいの、しかもほとんど解放奴隷。
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なので、これがどれだけひどい額かよくわかると思う。
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そして、この件は、19世紀の
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帝国主義時代の出来事ってだけでは片付けられない。
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実際、
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この賠償金は利息付きで、1947年にやっと完済したんだ。
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20世紀の半ばまでハイチは利息付きで、この賠償金を支払わされ
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しかも傷口に塩というか侮辱付きで。
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賠償金の理由は、財産の損害。
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それがフランスの主張なんだよね。
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ハイチはフランスの財産を侵害したため、賠償金を背負うことになった、と。
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で、この財産というのは、
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土地と奴隷のことだ。
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つまり、やっと得た自由と引き換えに
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宗主国にたくさんの賠償金支払い義務を背負うわけだが、
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宗主国に彼らを所有する権利と引き換えなんだよね。
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これが、傷口に塩。ひどい話だよね。
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僕はこれを読んだ時とてもショックだった。
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この金額と、
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そして、ハイチがこの金額を実際支払い続けるはめになったこと。
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この小さく貧しい国が、だよ。
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ハイチは、そうして1947年に至るまで
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西側の先進国に支払い続けさせられ
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自分たちの自由を買っていたわけなんだ。