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パイオニアスクールのレッスン9にようこそ
今回は悔い改めについて話します
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私はあなたを挑発して、あなたが宗教眼鏡を外して、
はっきりと見ることができるように助けたいと思います。
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あなたに訊きたいのですが、クリスチャンは、
私達は自分達自身を恵みによって救われた罪人
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あるいは 聖人 として見るべきか?
これは本当に重要なのです。
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自分たちを見る見方は、
聖書とは関係がないことが多いのです。
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しかし、宗教眼鏡と私たちの背景に影響を受けています。
今日、
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あなたからその眼鏡を取り去るのをお手伝いします。
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イエスは罪の内にある私達を救いに来たのではなく、
私達を「私たちの罪」から救うために来ました。
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このティーチングは非常に重要だと信じます。
これによって、
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キリストにあって私たちがもつ自由を
あなたも持てるようになります。
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私達は、使徒の働きの中に書いてある人生を
生きる事ができます。神の祝福を!
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最後の改革
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使徒の働き
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あなたの人生を変える20のレッスン
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新しい始まり
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あなたの人生に
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パイオニアスクールにようこそ
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このティーチングにようこそ。このティーチングは
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パイオニアスクールの20レッスンの内の9番目です。
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私は神がなさっていることに喜んでいます。
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神は驚くべきことをされています。過去2回、私はあなたが
救われる為に何をする必要があるかを話しました。
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悔い改め 水と聖霊によるバプテスマが必要だと
いう話をしました
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沢山の応答がありました。その中で私の町に住んでいる
年配の女性が書いてきました。
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バイブルスクールがあるところからですが、
お会いしたことはありません。
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彼女は、ずっと、幼児洗礼によって
救われていると思っていた。
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でもビデオを見た後、彼女はバプテスマを受けたい
と言っていました。
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このティーチングの後、私は彼女の所に行って、
彼女にバプテスマを授けます。
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多くの事が起こっています、これらのレッスンの間に。
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それはとてもうれしいことです。
神が働いているのはうれしいことです。
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今日も本当に興味深い話です。
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私はあなたが宗教眼鏡を取り外せるように、
助けたいと思います。
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これから話す事は
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悔い改めです。普段聞いている悔い改めとは
少し違った形で話をします。
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このバイブルスクールを通して、
宗教眼鏡を取り外すお手伝いができればと思います。
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そうして、あなたが自分で、聖霊によってみ言葉を学び、
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神のみ言葉があなたを自由にする事を
体験することができるように。
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私はあなたにすべての回答を与えることをしません。
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大きな絵を差し上げます。その絵によって、これらのことをみ言葉によってどう理解していいのかわかります。
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そして今日は、沢山あなたを挑発する事になるでしょう
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これから言う事には、「ワォこれって何?」
というようなことがあります
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我々は、何の上に建てるのでしょうか?
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伝統でしょうか、それとも神のみ言葉ですか?
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このティーチングを始める前に、引き続き幾つか前に話した事を話したいと思います
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幾つかの証をシェアします。証はうれしいです。
神が働かれるのはうれしいです。
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前回、福音をどのように、
シェアするかについて話しました。
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私はこのテーブルに座って、
福音のシェアの仕方をお見せしました。
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神は世界中の人々が、悔い改めることを望んでいます
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神は私達に悔い改めることを命じています
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私達の仕事は、弟子として、
悔い改めが何かを、人々に示すことにあります
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彼らに、明確な福音を伝えて、彼らが何をする
必要があるのかを、知るようになることです
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というのは、私が前回お見せしたように、もし彼らが、
神に召されたことをするならば、神が次に動きます。
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彼らが悔い改めるならば、
神が新しい心を彼らの内に造ります。
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彼らが水のバプテスマを受けるならば、
神は彼らを罪から自由にします。
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私達が彼らの上に手を置き、神のみ言葉に従うならば、
彼らは聖霊を受けます。
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前回、私はどのようにするかをお見せしました。
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これは、他の事もそうですが、
ただ神学として終わらせてはなりません。
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私のティーチングから神学を学ぶだけなら、
あなたも私も失敗したことになります
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私達は神学以上に、実践する必要があるのです。
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私がこれを始めた時、
福音を私のやり方でシェアし始めた時、
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それはわたしにとって、全く新しい事でした。
どのティーチングも、私にとって新しいことです。
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というのは、自分自身から眼鏡をはずす
必要があったからです
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神が私を助け始め、自由にしてくれた時、
私はその内を歩き始めました。
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そこをさらに歩むと、より強くなります。歩み始めて、
よく物事が起こるのを見る様になりました
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このティーチングは毎週していますが
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先週、二人の人が救われました
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そこでは、コーヒーテーブルでやったことと、
同じことをしました。
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ひとりは、ビデオを見た人で、私に書いてきました。
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彼は17歳で両親が宗教的な家の出身でしたが
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彼は教会に来なくなり、神や救いを経験した事が
ありませんでした
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彼が書いてきたので、私達は
私がいる町の喫茶店で会いました。
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私達はそこに座って、コーヒーを飲みました。
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私は、イエスについて彼に話しました。彼に尋ねました。
神に会った事がありますか?
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彼はないと言ったので、福音について、
前回説明をしたように、話をしました
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コーヒーショップで。説明を終えると、
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彼は自分がすべきことを理解しました。悔い改めて、バプテスマを受け、聖霊を受け取る必要を理解しました。その後、
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私達はそこを出て、
私が彼のために祈れる場所に、移動しました
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街中だったので、自分達だけになれる場所を
探す必要がありました
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駐車場を見つけて、地下に行くと、車がありませんでした
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私達は二人だけでした。人もいない、車もない。
駐車場の地下で、街の真ん中で、
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私は彼のために祈りました。彼は悔い改め、
聖霊を体験しました。
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聖霊によるバプテスマを経験しました
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そして異言によって語り始め、彼は燃えていました。
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その後、街に出かけて、病気の人を探しに行きました
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彼は女性の為に祈り、彼女は癒されました。
もう一人の女性のために祈ると、彼女も癒されました
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グリーンランドからの人は腕が痛みで動かせなかったのが、癒されて、彼女のご主人が来て
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他の人も来て、彼女は立って彼等に説明しました
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突然、沢山の人々がやってきました。
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彼は、彼らの為に祈りました。私は、別なところに行く
必要があったので、彼を友達の所に車で連れて行きました
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彼らはデンマークの海に出て行き、彼は水のバプテスマを
受けました。とても寒い日でしたが、
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でも彼はバプテスマを受けました。彼は変りました。
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私は彼に言いました。
もうあなたは自分自身のために生きていない、
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大胆になって多くの人にシェアする必要がある、
と言いました
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彼は家に帰って、フェイスブックに書き込みました。
ここでいくつかを読みます
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今日は今迄で最も驚くべき日だった。ト―ベンと言う人に会った。彼のウェブサイトがあるけど
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彼は、全ての信者はイエスと一緒に、使徒と同じ様に生きる事ができる。奇跡の人生を送れる、と言った
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私達は話し始め、彼は全てを説明してくれた。
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私が自分がどういうことになるのかを
正しく理解しているかどうか、彼は確かめていた
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それから私たちは駐車場に行って、
彼が私のために祈ると、私は異言を話し始めた
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本当にすごい現実だった。彼は、
どの様に人は癒されるか、という話をしてくれた
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1時間でそのような事が起こった。神は素晴らしい。
引き続き、どの様にバプテスマを受けるかも話した。
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寒かったが、彼はバプテスマを受けて、
その後、彼はこのように証を終えている
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この証を書く理由は、神は私たちのために
より以上のものを願っている。
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ただ教会に来て、ミーティングに参加するだけではなく、
神は、私達に奇跡と癒しの人生を与えることを願っている
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誰でもそれが欲しいならば
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私に連絡して下さい。これが数日前、私は彼に会った。
座って、福音を説明した。
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私は、イエス様、心の中に入って下さい、
とは祈りませんでした。私は彼と一緒に祈りました。
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彼は悔い改めて、水のバプテスマを受けて、
聖霊のバプテスマを受けて、彼は燃えている
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家に帰り、フェイスブックにこれを書いた2日後に、
ある女の子が彼のフェイスブックを見て
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私に連絡してきました。17歳の少女で
やはり宗教的な背景がありましたが
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罪の中に生きていて、神を知らず、多くのことが彼女にとっては初耳だった、異言を話すことも聞いたこともなかった
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私は彼女とバーガーキングで会った、
座って、話を始めました
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バーガーの紙とカップとかいろんなものを使って、
前のビデオでやったように、福音をシェアしました
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福音をシェアすると、彼女は悔い改めたい、と言いました
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そこで、彼女と祈る場所を探しました。
バーガーキングの隣に家があり、
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建築中で、まだ完成していなかったので、
その建物に入ることができました。
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空っぽだったので。そこに入って私が祈ると、
聖霊が彼女に触れました
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私は預言的な言葉を受けとりました、蛇についての。
蛇がくねくねと這っていく。それは彼女の人生でした。
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突然、蛇に足が生えてきて、地面から立ち上がり、それから羽がついて、飛んで逃げて行った。
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神は彼女を自由にし、地面を這うような
人生から彼女を取り出した
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その予言の言葉を彼女に語ると、彼女は泣いて、泣いて、
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私は、彼女が悪霊から自由になるように祈りました
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彼女の中に居たなにかが彼女から出て行った。
彼女は後でこう語りました
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何かかたまりが上がってきて、喉で留まっていたが、
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それが出て行った。そして彼女はとても自由に感じた。
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彼女は変えられた。それから私達は近くのお店に行って、
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病気の人を見つけて、彼女が初めて病人のために
祈ると、その人は癒されました。
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彼女は家に私を招待してくれました。
私はそこに行き、彼女の母親のために祈りました。
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彼女は癒されました。またもう一人のためにも祈りましたた。その人も何か経験した。彼女の家族と座っている時に
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又母親に呼ばれました。もっと話が聞きたかったからです
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お風呂を持っている友達の所に彼女を連れて行き、
バプテスマを授けることができるか聞きました。
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その日は寒かったので。そこのバスタブで、
彼女はバプテスマを受けました。
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そして彼女が水から上がってきた時、私達が彼女に手を置くと、彼女は聖霊のバプテスマを受けとりました
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そして異言を語り始めて、彼女は完全に変わりました。
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私がここで語っていることは、
毎日の生活で起こるべきことです。
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これが私たちが召されてするべきことです。この2つの証は、先週からこの一週間に私の人生に起こったことです。
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また私の友人のトミーによって一人救われ、
その人もバプテスマを受けた。
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これが今、世界中で起こっています。
もし私達が福音をこのように、シェアして、
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人々が動くと、神も動きます
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この少女にこのことが起こったのは月曜日でした
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月曜日はデンマークは雨でした。
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雨が降って灰色だった。誰も月曜日が嫌いです。
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その日は月曜日で、雨が降り、グレーな日だった。
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しかし神の力はそこにあった。
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彼女は救われて、癒されて、
人々の為に祈ると、彼らは癒された。
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彼女は水のバプテスマを受け、私達が手を置くと、
聖霊のバプテスマを受けた
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そして彼女は異言を話し始めた。
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ある時はショッピングモールで、地下の駐車場の中で、
カフェで、バーガーキングで、
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人々がいるところで起こっている。これが神がなさっていることです。このような証はうれしいです。
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そして彼らは燃えています。
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彼女が救われた時、私は彼を呼び出して言いました。
彼女と一緒にいる事、そして彼女が今ちょうど
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救われて、聖霊を受け取って、異言を話して、
バプテスマを受けた、ことを話しました
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すると彼は「わ~」彼は凄く嬉しくなった。
親しい友人ではなかったが、
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会ったことはなかったが、フェイスブックの友達だった。
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彼は神に出会って、大胆になった。
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誰かがフェイスブックでそれを読んで、
私がそのために招待されて
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家族全員がもっと福音を聞きたかった
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私はこういう証が気に入っている
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又手紙を受け取っています。これもまたいいですね。
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これはカナダのビクトリアからの証です。
ちょうど私達はそこに行ってきたばかりです。
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カナダに行った時のビデオを作り
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各々の場所から少しづつビデオが見られます。
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これは彼女が私に書いてくれた手紙です。
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ビクトリアから報告したい。
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あなたが私の息子のアレルギーの為に祈った後、
何が起こったかを。
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私はびっくりした。アレルギーが完全に癒されて、
彼の妹にもアレルギーが
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あったけれど、その為に祈られて、彼女も癒された。
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これも驚くべきことだ
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6年間も、私は家族をバースデーパーティに
つれていくことができなかった、
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友人の家の夕食や、レストランにも
行くことができなかった。
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どこに行くにも、彼らのための特別な食べ物を
持っていかなければならなかった
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それは私達の生き方を完全に変えてしまった。
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多くの人々は彼らが癒されたことを聞いて、
ショックを受けています。
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私はうれしいです。ビクトリアからの証です。
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神様がしておられることです
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OK、もう一度言っておきたいのですが、私のティーチングから、また神のみ言葉から、神学を作らないでください。
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み言葉をとって、それを実践してください、
行動してください
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すると、人生に実を結びます。たくさんの実を結びます。
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ではこれから、今日のために祈りましょう。
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これは、本当に重要なみ言葉です。
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このみ言葉は多くの人達の宗教眼鏡に反対するものです。
彼らは、「何だって?」となるでしょう。
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これが土台になります。私は悔い改めについて話します。
これはとても重要です。
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これが土台です。ですからみ言葉が何を言っているのかを、理解しなければなりません。
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神様、この日を感謝します。
あなたがしていることすべてに感謝します。
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2人の人達に感謝します。彼らの証を読みましたが、
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彼らは救われ、水と聖霊のバプテスマを受けました。
彼らは燃えています、今。
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神様感謝します。数千人の人達が
日常の生活の中で救われていくことを。
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バーガーキングや、モール、街、職場でも
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人々は救われていきます。
今日、この言葉をシェアするのを助けてください
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この言葉は人々の目を開きます。
また、我々を自由にしてくれます。そうすれば、
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私達は、あなたが私達にくれた人生を、
歩むことができます。
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聖霊と共に来てください。そして私がみ言葉を
シェアするのを助けてください。
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イエスの名前によって、アーメン
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OK、私は、あなたに質問があります。あなたは
クリスチャンですか? 私はそうだと信じていますが。
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今、あなたがクリスチャンとして話をしていきます。
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あなたは自分を、聖徒として見ていますか?
私達はクリスチャンとして聖徒でしょうか?
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それとも私たちは罪人でしょうか?
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クリスチャンをどの様に見ていますか? ご自分の人生をどの様に見ていますか? あなたは聖徒ですか?
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それとも罪人ですか?
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私達は聖徒ですか、それとも罪人ですか?
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そしてこれは非常に重要な事なのです
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正しく答えることが大事です。 私は、
このことについて調べていて、とても驚かされました
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いかに、私たちの伝統、眼鏡に
私達が影響を受けてしまっているか。
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というのは、このデンマークで、人々に、
彼らは聖徒か罪人か?と訊くと、
-
デンマークのキリスト教会のクリスチャン達に
訊いているのです
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殆どの人が、私達は罪人です、恵みによって
救われている罪人だと答えます。
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デンマークで殆ど誰も、私達は聖徒です、
と言う人はいません。
-
なぜでしょう?
-
私達が聖徒だって、あなたは聖徒の様ですか?
-
いえ、いえ、あなたは、罪がないのですか?
私たちは、またあなたは誰だと思っているんですか?
-
聖徒であることについて、話す時には恐れがあります
-
私たちは罪人です、恵みによって救われた罪人です。
私達全員が罪人です。
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そして私は人々とこの事について真剣に話し合いました。
-
ひとつの事が私のメガネを外すのを助けてくれました。
それは、私の旅です。
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世界のあちこちで、人々に会いました。
TLRアメリカで働いている私の友人のダンがいます
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彼と話すのはすごく面白い。
彼から私は沢山の事を学びました。
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彼も私から沢山の事を学びました。
二つの世界の見方が一緒になるからです。
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私が彼に電話をして、
「ダン、私達は聖徒それとも罪びと?」と聞いた時、
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彼は言いました。「私達は聖徒だよ、もちろん私達は聖徒、 かつては罪人だったけど救われて今は聖徒になった」
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彼の住んでいる地域や、彼が働いている教会では
聖徒 という言葉を使っています
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アメリカの大半の場所では、聖徒と言う言葉を使います。
もちろん別の場所では
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他の教派ではもちろん、アメリカでも、
罪人 という言葉を使う所もあります
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しかし私は、はっきりしたパターンを見ることができます。
これらの言葉に関して。
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私に見えてきたのは、カトリック教会とレフォメーション、改革派が強いところ、
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また、アメリカでも、
改革派とカトリック教会が強いところでは、
-
これらの他の教派も、私達は罪人であると、信じている。
もちろん私たちは罪人だ、と。
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しかし、彼らが強くないところでは、
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ペンテコステの運動や、他の教派が強いところでは、
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彼らはより自由なので、私達は聖徒です、と言います。
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バプテストか、メソジストか、ペンテコステが
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私達が聖徒か罪人かという見方を、
作り上げているのではない、
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なぜなら、デンマークのペンテコステは、
とても強いルーテル派の背景があるので、
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他の国々のペンテコステとは違う見方をしている。
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ほかの国々では、ルーテル派や
カトリックの背景がありません
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すべての教会は自分自身によって
影響を受けているのではなく、
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誰もが、レフォーメーションに影響を受けている、ルーテル教会はカトリック教会に影響を受けている。
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このことがわかると、これはとても面白い
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私はデンマークで育ちました。
デンマークで私がクリスチャンに質問すると、
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だれもが、私達は罪人です、罪びとです、
罪びとですと答えます。
-
しかし、、北欧のスカンジナビアの国の、
その小さな箱から出て、例えば、
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その箱から出て、他の場所に行くと、
この眼鏡をかけていない人たちがいて、
-
彼らは他の眼鏡をかけている、
あるいは眼鏡をかけていないかもしれないが、
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彼らは、いいえ、いいえ、いいえ、私達は聖徒です
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あなたの周りの誰もがある一つの事を信じていて、
正しく把握していないかもしれない
-
なぜなら、あなたの周りの誰もが
間違っているかもしれない、
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なぜなら、間違った基礎の上に建て上げているからです。
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カトリック教会、ルーテル教会を、
み言葉が語っていることの代わりに基礎にしている
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み言葉が何を語っているかを見て行きましょう。
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デンマークでは、私達は罪人です、
クリスチャンは誰もが罪びとですと言っています。
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私達は誰もが罪びとです。私たちは聖徒ですというのは、
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いいえ、聖すぎる! 聖徒であるというのは言い過ぎだ
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私は考えました。アメリカでは、
「私たちは聖徒です、あなたは聖徒です」と言っています。
-
それは、み言葉が何かを知らないからではないのか、
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例えば、デンマークでは、アイラブユーと言うと、
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それをデンマーク語で言うと、これからデンマーク語を
習ってもらいますが、アイラブユーは、
-
ヤイエルスカダイ。
-
わたしにとって、デンマーク語で誰かに、アイラブユー、
ヤイエルスカダイ、と言うのは、少し難しい、
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というのは、私はあなたを愛します、という意味であって、
誰にでも向かって使うことばではない
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でもデンマークでは私たちは英語の表現、
アイラブユー、をすぐに取り入れて、
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アイラブユートゥーを使いますが、デンマーク人としては、英語でアイラブユーと
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いう方が、デンマーク語で言うよりも簡単です。
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なぜなら、それはただの言葉だからです。テレビで見たり、歌の中に聞いたりしたことのある表現だからです。
-
誰もが、アイラブユーと表現をしている、
たぶんそれと同じように
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「聖徒」についても同じようなことかなと
私は考え始めました。
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アメリカでは、「私達は 聖徒だ」
「ええ、彼は聖徒です」、のように使っている。
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しかし、カトリックの背景がある人の所に行くと、
-
「聖徒のよう」「いいえ、いいえ、聖徒だって?」
-
「聖徒になるには、
法王があなたを聖徒にしなければならない」
-
「聖徒になるのは、ほんの少数の人々であって、
誰か特別な人です」
-
これはとても面白い、言葉は変えられてしまった。
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クリスチャンという言葉を取ると、
今日誰もがクリスチャンという言葉を使う。
-
クリスチャンの意味は、小さいキリスト、
ということなので、
-
私達がイエスキリストの様だということならば、
人々はこの言葉を使わないでしょう。
-
では、聖徒とは何でしょう。
-
聖徒とは聖書によれば、聖い人達です。
あなたは聖いですか?
-
あなたは罪人でしょうか。
私は聖いという言葉を使いたいと思います。
-
アメリカに住んでいる人にとっては、
聖徒という言葉は誤用されているので、
-
わたしは、聖い人々と、罪人という言葉を用いました。
-
ここで質問です。私たちはどちらでしょう?
あなたはどちらでしょう?
-
あなたは聖い人ですか? それとも罪びとですか?
-
聖書が何と言っているか見てみましょう。
-
聖書には、聖徒は聖い人々だと書いてある。
その例を使徒の働きの中、2か所に見ることができます。
-
エルサレムの聖い人々、と使徒の働きに書いてある。
ルカが使徒の働きを書きましたが、
-
クリスチャン、弟子たちについて、ルカは、
聖い人々 という言葉を使っている。
-
もう一か所では、同じ章に、
ルダに住んでいる聖い人達、
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ここでは使徒の働きを書いたルカが、クリスチャンについて、聖徒または聖い人々という言葉を使っている
-
聖書の他の場所ではどうでしょうか?
使徒の働きの中だけで使用されていますか? いいえ、
-
聖書の中の殆どすべての手紙の中で見られます。
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3通の手紙を見て行きますがエペソ人への手紙では、
エペソに住む、神の聖い人々へ、とあり、
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ピリピ人への手紙では、ピリピに住むすべてのイエス
キリストにある神の聖い人々へ、コロサイ人への手紙では、
-
コロサイに住む神の聖い人々へと書いてある。
ここで私たちは読みます、
-
パウロが、自分の手紙をこの市の聖い人々へ、
この市の聖い人々へ、
-
この市の聖い人々へ、と書いている。面白いのは
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使徒の働き、新約聖書を読むと、
-
彼らはいつも、クリスチャンを聖い人々と呼んでいる。
-
聖徒と。
-
そこで聖い人々、あそこで聖い人々、
聖い人々、聖い人々、、
-
使徒の働き、新約聖書を見ると、クリスチャン、
弟子が、聖い人々と呼ばれている
-
何度も読むことができる。
-
私は、43、44か所、見つけました。
-
聖書の中で、
-
彼らは聖い人々、聖徒と呼ばれていたのを、
見つけることができる。
-
40回以上、見つけることができる。
-
クリスチャンが罪人と呼ばれているところが聖書の中で、
何か所出てくるか知っていますか?
-
一か所もありません。
-
聖書ではクリスチャンは罪人と呼ばれたことはありません。
-
決して、決して、決して、決してありません。
-
今日、多くの教会で、私達の固定概念で、私達を罪人、
と呼ぶことが聖いことだと考えている。
-
私達は恵みによって赦された罪びとだと。
-
デンマークとスカンジナビアの国々では、
私はそこで育ったのですが、
-
もし、私が人々に、私達は聖い人々です、と言ったら、
-
いいえ、いいえ、
-
自分自身を聖い人と呼ぶことは、、、殆ど罪であって、
-
私達は、罪びと、罪人、罪人ですよ。
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デンマークでは私たちの固定概念になっているので、
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バプテスト、メソジスト、ペンテコスト、
どの教派であっても、デンマークでは、
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私達は罪人、罪人、罪人、
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罪人であると考えます。私たちが救われた後になっても
-
なぜそう考えるのでしょうか? なぜなら、デンマークでもあなたが住んでいるところでもそうかもしれないが、
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どの教派も、同じ基礎の上に建てられているからです。その基礎とは、カトリック教会であり、ルーテル教会です。
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そこからこの固定概念が来ているのです。
私達は罪人、罪人、罪人、
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ひとつの真理があり、その真理とは、
人々は罪人であるということです。
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そして、救いを必要としている、ということです。
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しかし、あなたが悔い改めて、救われる時、
-
あなたは、もう罪人ではない。
-
なぜならあなたの内に新しいいのちが始まったからです。
-
でも正直なところ、今日と次のレッスンで見るように、
問題があるのです。
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彼らは、新しいいのちが始まっているのを
見ることができなかった
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人々は罪人であり続ける、救われた後でも。
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というのは、彼らは本当の福音を理解していないからです。
-
使徒の働きを見ると、初期のクリスチャン達に、
ハロー、私は罪人です、と言うと、
-
彼らはみ言葉をあなたにシェアしてくれて、
-
あなたが悔い改めて、救われることを願うでしょう。
-
もしあなたが「私は救われた罪人です」と彼らに言ったら、
-
彼らはあなたを見て、あなたは頭がおかしい?
「救われた罪人」ではありえない、
-
なぜなら、救われることは罪から離れることだから。
だからあなたはもう罪人ではない
-
何から救われると書いてあるのでしょう?
罪から救われるのです。
-
イエスが人々を彼らの罪から救ったのです。
-
イエスは人々を、彼らの罪の中で救いませんでした。
-
彼は人々を、彼らの罪から救い出すのです。
-
もし私たちが、罪の中で救われると考えるならば、
-
私達は罪人であり続けることができます。
救われた罪人であり続けます。
-
これが、一つの間違った固定概念になっています。
神のみことばにはそう書いてありません。
-
私達は、私達の罪から救われます。
-
私たちは罪人でしたが、今は聖い人々です。
-
聖い人とは、どの面でも完全な人という
意味ではありません。
-
私達は再び罪に落ちることができない。
-
人々は聖い人々であっても、まだ戦っている。
神のみ言葉に書いてある。
-
コリント人への手紙では、コリントの教会には
たくさんの問題があった。
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でも、彼らを聖い人々と呼んでいる。聖とは、
あなたが救われるとその日にそうなるということで、
-
あなたはその聖さを持ち続ける、続けることになる。
また後で話をしますが、
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あなたが知る必要があるのは、聖書には、クリスチャンの
ために、罪人という言葉はない、ということです。
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もしそれが真実なら、なぜあなたは自分を罪人と呼ぶのでしょうか。人々はなぜ自分たちを罪人と呼ぶのでしょう?
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これが真実でないなら。なぜなら、
私達は間違った基礎の上に建てているのです。
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でもおそらくあなたは、でも、パウロ、パウロ、パウロは、自分を罪人と呼んでいる、
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私は聖書の中の40か所からの言葉をシェアしていますが、
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聖なる人々、という言葉です。
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しかし教会の人々は、これらのみ言葉を知りません。
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多くの人が知っているのはこの一か所、
イエスキリストがこの世に来たのは、
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罪人を救うためであり、私は罪人のかしらです。
パウロがこれを言っている。
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デンマークではこれが使われています。デンマークの
クリスチャン ルーテル派のウェブサイトに行って、
-
私達は罪人ですか、そうではありませんか、と質問すると、
-
彼らは、私達は罪人です、と言って、
この節を引用するでしょう。
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イエスキリストはこの世にやって来ました、罪人を救うために、私はその最悪のものです。彼らは言います。
-
パウロが自分の事を最悪の罪人だと言ったと。
-
それがどういうわけか、聖いことになってしまった。
私は最悪の罪人です、、という人たちに会います。
-
いいえ、私はあなたより悪いのです、
いいえ、いいえ、私の方が悪いですよ、
-
自分が罪人であるということが、
聖いことになってしまった。
-
教会の中で人々は立ち上がって、私は罪人です、と。どういうわけか、私達をそうすることを聖なることとしています。
-
しかし、パウロは、自分が罪人であると
言っているわけではありません。
-
ここを見てみると、
-
イエスキリストはこの世に来たのは罪人を救うためである、
-
パウロはイエスが今していることではなく、
過去にイエスがしたことについて、
-
イエスは罪人を救うために来た、
-
イエスが救いに来た人々の中でも自分は最悪だった、と。
-
何故でしょう?その前の所を読むと、
彼は神をけがす者、暴力をふるう人間で、
-
めちゃくちゃなことをしていた。教会に反対していた
-
クリスチャンを殺そうとしていた、
彼は神に対して狂暴な人であった、しかし
-
神は彼を救いました
-
彼は自分が最悪の罪人であったと言っている、
-
今はそうであるとは言っていない、過去形です
-
しかし、私は最悪で「ある」という表現をしている、
なぜなら、彼はその時のことを語っているからです。
-
パウロが自分を最悪の罪人だと見ていて、
-
そう表現することが聖なることだと彼が考えていたと、
想像してみてください
-
なぜ彼は聖書の中にある手紙を書くたびに、
-
クリスチャンを聖なる人達と呼んだのでしょう?
-
クレージーなことではないでしょうか、
彼は自分を最悪の罪人と呼び、
-
彼が出会った人達を聖なる人達と呼んでいるのは。
-
あなたは聖い、あの聖い人の所に行きなさい。
-
しかし私は最悪の罪人である、これでは意味をなさない、
というのがわかりますか?
-
これが宗教です。前のティーチングで見たように、
-
神のみ言葉の中でとても明らかな何かを取り上げて、
聖なる人々、聖なる人々、聖なる人々、、、、、
-
と40回以上書かれている。
-
それから、一つの節を文脈から外して取り上げ
-
をの意味が分からないのに、その言葉から、
私達は神学を作りあげる
-
そして、その他の言葉が何を言っているのかわからない。
-
なぜなら、私達は罪人だから。
-
これが、殆どすべての教会が建てられている基礎なのです。
-
私たちは救われた罪人です。
-
恵みによって救われた。
-
わかりますか?
これはすべて固定概念に問題があるのです。
-
私たちがキリストにあって私たちは誰なのかということと、
-
イエスが何をしたのかについて。もし、その固定概念で行くと、お~、あなたは罪人です、あなたは罪人です、あなたは
-
罪人です、私は罪人です、、私は何もできません。あなたは自由を体験すると思いますか。
-
いいえ、そうならないでしょう。
-
あなたが自分を罪人とみなすならば、
あなたは罪人として考え、罪人として生きるでしょう。
-
新しい創造
-
しかしあなたが、
自分は新しく造られたものだと知るならば、
-
新しい何かが始まり、
その新しいいのちをあなたは生きるでしょう、
-
このティーチングを見ている人すべての人が、自分は
-
聖い人だと言いなさい、とは言いません。なぜなら、
-
多くの人が罪人であるかもしれないからです。
-
あなたは悔い改めていなかったり、
-
あなたは、救われていないかもしれません。
-
私達が悔い改めた時に、何が起こるのか、
私達のいのちに何が起こるのかを 話しましょう。
-
そこから沢山の神学を作りたくはありません。
その証をしたいですが、最初は
-
聖書の言葉から始めます
-
み言葉が語っていることがこれです。
私たちが罪について話すときに
-
誰でもキリストの内にとどまる者は罪を犯さない。
罪を犯す者はキリストを見てもいないし、知ってもいない。
-
アウチ!
-
これは、み言葉言っていることです。
-
彼の内にある者は誰も罪を犯さない。
-
罪を犯す者は彼を見たことがなく彼を知らない
-
マタイの7:21が言ってることを憶えていますか。
前にも話しました。
-
多くの人がある日イエスの前に立ちます。
-
イエスは、「私から離れなさい、私はあなたを知らない、
-
あなたがたは罪を犯している」というでしょう。
-
これは神のみ言葉です。
-
多くの人が他のみ言葉を知っています。
-
ヨハネ3:16は最も良く知られています。
-
私の質問はヨハネの3:16は、第一ヨハネ3:6
よりももっと神のみ言葉ですか? いいえ。
-
第一テモテ1:15は、第一ヨハネ3:6
よりももっと神のみ言葉ですか? いいえ。
-
これも神のみ言葉です。
-
これは真実です。
誰も彼の内にとどまる者は罪の中を歩まない
-
しかし、多くの人がこのことに問題を持っています。
-
「いえ、いえ、いえ、いえ、ちょっと、
リラックスして、トーベン!」
-
あなたは罪を犯さないと言っているのですか?いいえ、いいえ、いいえ、ヨハネの1:8-9を憶えていてください。
-
これが第1ヨハネの1:8,9です。
-
もし私たちが罪がないというなら、自分たちを欺いているのであって、真理は私たちの中にはありません
-
もし私たちが罪を告白するならば、神は真実で正しいので私たちの罪を赦し、全ての不義からわたしたちをきよめます
-
これは、神のみ言葉です。
-
これも神のみ言葉です。
-
宗教は一節をとって、神学全体を作りあげます。
-
もし私が教会に今日行くとすると、
-
教会のクリスチャンは殆ど誰もこの節を知りません。
-
でも誰もがこちらを知っています。
-
しかしもし当時あなたが生きていたとすると、
-
その時は章や節がある聖書がなかったので、
-
文脈全体を理解していましたが、
-
今日、聖書には章と節があって、
-
それゆえに、多くの人達がだまされています。
なぜなら、彼らは言います、
-
いえいえ、もしあなたが罪はないと言うなら、
-
真理はあなたの内にない、
私達は皆罪人だから、私達は皆罪人です。
-
しかしあなたはまたこの節を取って言います、もしあなたが罪を犯すなら、あなたは彼を知らない、と。
-
真理とは何でしょう?
-
神のみ言葉全体が真理です。
-
私たちが宗教眼鏡をはずすと、
-
み言葉に問題が無くなります。
私たちはみ言葉の一部を取り出して、
-
外に追い出す必要もないし、早く読み飛ばして、
あたかも見ないようにする必要もありません
-
なぜなら、私達はそこに問題があるからです。
私の人生から証をシェアします。
-
私の人生でよいことは、私が救われた時に、
-
重たい宗教バッグを背負っていませんでした
-
多くの人が背負っているようなバックパックを持っていません。私はノンクリスチャンの背景から救われました。
-
ルーテル教会で、バプテスマを受けて、確信礼をうけた、
-
ただそれは伝統であって、
聖書を開いたことがありませんでした
-
み言葉が何を語っているのか知りませんでした
-
ある友人が私にイエスの事を話してくれた。
-
私は教会に行きそこで、聖霊が私に触れてくれた、
私は上に行って
-
悔い改め、イエスに私を救ってくれるように願った、
そうした時に、聖霊が来るのを感じた
-
それは自分の中に入ってくる光の様だった。私は床に倒れ、そこで横になっていた。本当に神に出会った。
-
聖霊が私のからだの全体に降れているようだった。
1995年4月5日の出来事で、
-
あたかも昨日の出来事のように記憶している。
とても強力だった。私は、立ち上がったがまた座って
-
誰かが、「おめでとう、あなたは生まれ変わったよ、
トーベン」と言った。私は、ありがとう、と言ったが、
-
彼が何を言っているのか、わからなかった。私は、
生まれ変わる、という言葉を一度も聞いたことがなかった
-
私は彼が何を言っているのかわからなかったが、
-
ミーティングから家に帰ると、
なにか私の内に変化が起こった、
-
最初に起こったことは、私はいつも死が怖かった。
-
家に帰ると私は自分に言った、
トーベン、いつかあなたは死ぬ、
-
私が自分自身に、「トーベン、あなたは死ぬだろう」と言った時はいつも、パニックに陥ってしまった、「お~、
-
私は死ぬ、お~私は死ぬ」私はとても恐ろしかった、
死について考えたくなかった
-
いつか私は死ぬ、ということを。
-
でも、今回そこで起きたのは、自分に
-
「トーベン、あなたは死ぬ、いつか」と言った時、
私は自転車に乗っていた、私は「はい、
-
私は家に帰るんです」 何が起こったんだろうと思った。
もう何も恐ろしくない。
-
その瞬間、私は恐れから解放されていた。
-
その時、私はへブル人への手紙2:15を知らなかった。
-
イエス・キリストは彼らを解放するために来た、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放した
-
イエスキリストは私達を自由にするために来た、
-
私達は恐れで押しつぶされている、
-
私はその恐れを経験しました。み言葉を読んで、
私の思いの中で言ったのではありません。。
-
み言葉がそう言っているので、思いを取って、恐れよ、、、出て行け! ではない。
-
いいえ、私は私の霊の中で経験したのです。
そして、このようなことが起こりました。
-
さらに起こったことは、
-
私は新しくなった、全体はわからなかったが、
なにか起こった
-
家に帰って、普通、金曜日には、パブに行って、
ビールを飲むので、
-
私はパブに行った、金曜日にいつもやっていたように。
-
私の思いは、まだ同じで
-
家に帰って自分の顔を見て、私が新しく生まれたって?
-
見た目は同じだ。私にとって、同じように見えた。
-
何が起こっているのか理解していなかった。
-
金曜日にパブに行って、そこに行って、
立って、周りを見回した時、
-
突然、目が開けられた。
-
自分はいったいここで何をしているんだ?
-
ここには自分は属さない。私はイエスに出会った。「ノー」
-
私はそこから立ち去った。何が起こっているのか?
-
もうそれを欲しくなかった。普通は、
よくののしったりしていた、呪いの言葉を吐いていた
-
悪い言葉遣いをしていた、しかし、嘘を言った時、
神の名前を誤用した時、
-
そんな時は、「お~、ひどい」と感じた。
今までなら、そういうことをしても問題がなかった。
-
今までの人生で全く問題がなかった。でも今は、
なにかが変わった、自分の内側で。
-
「お~、ひどい味だ、もうほしくない」
そうするのを止めました。
-
もう一つの事は、私にはガールフレンドがいたが、
罪の生活に慣れていて、彼女とベッドを共にした。
-
罪人である若い人達のように。私は罪人であった。
自分のガールフレンドとベッドを共にした。
-
でも今回は、ガールフレンドが来た。彼女が来る前に、
-
聖書はこのことについて何と言っているのだろう、
と考えていた。
-
彼女は来て、私と一緒に居たかった
-
私は強い誘惑を感じたが、罪だと感じさせるものがあった、
-
オーケー、しかし、
-
いえ、いえ、いえ、もうそういうことの仲間では
なくなった、もうそんなことはしたくない、
-
しかし、その誘惑があって、
-
私は混乱した、み言葉は何と言っているのか、神様
-
これは罪ですか、何ですか? 神様、
私はあなたが望んでいることをやりたい、
-
神様、彼女とベッドを共にすることは罪ですか?
-
私はルーテル教会の堅信礼で学んだことを
思い出そうとした。
-
私はそこで何も学ばなかった、
聖なる日についての伝統だけだった、
-
ルーテル教会の伝統だけだった。
-
オーケー、み言葉は何を言っているのか考えていた。
-
正直なところ、私はその時、み言葉によると、
それは罪であるということが言えなかった。なぜなら、
-
私はまだ新しく(生まれたばかりで)、
神のみ言葉が何を語っているか知らなかった。
-
私は何をしたか。オーケー、神様あなたはいますか?
-
ハロー! 誘惑はとても強かったので、
神様、あなたはいますか?
-
オーケー、神様あなたはそこに居ないなら、
私は神を取って、脇に置き、
-
ガールフレンドとベッドを共にしました。
-
彼女とベッドを共にしたとたん、
「おー、ノー、おー、ノー」
-
神様、私は何をしてしまったのか?
私は何をしてしまったのか?
-
自分の内に、罪を犯したことを感じることができた。
私は罪を犯した、神様、わたしを赦してください
-
神様、私はあなたを見つけました、
私はあなたを失いたくない、私を赦してください。
-
私の身体全体が神に向かって悲しんでいた。
-
私は、罪を犯した。
-
私が罪を犯したことは明らかだった。間違いだった。
-
私が罪を犯したその瞬間、
そのことが悪いことだとすぐわかった。
-
その時、もし私のノンクリスチャンの友人がいたら、
彼らは、こう言ったと思う
-
「ちょっと、トーベン、リラックスしろ、
神は愛だ、神は愛だから、なんでもオーケーだよ、
-
神は愛だから、なんでもオーケーだ。
ガールフレンドとベッドを共にすることは罪ではない、
-
もしあなたが彼女を愛するなら」
と彼らは言ったでしょう。
-
しかし、この地上の誰も
-
私をそれ以外なことを説き伏せることはできなかった。
-
なぜなら私の内に、私は、知っていた、私は知っていた、
-
私は罪を犯したと。なぜ私はそれを知ったのか?
-
私は悔い改めたからです。
-
悔い改めは、ただ私たちがそうするだけではなく、
-
神が何かをするのです。
-
私たちが罪を悔い改める時に、
-
私達がイエスキリストに信頼する時、
イエスが十字架上でしたことに対して
-
神は私たちの人生を変えてくれる、
-
神は私たちの内に何か新しいものを創造してくれます。
-
これが新しい契約です。新しい契約でイエスは
これらのものをもってきました。
-
なぜなら、彼は私達を罪から救いたいからです。
-
新しい契約の中で、
彼は罪の中に居る私たちを救うだけでなく、
-
私達を、「私たちの罪から」救い出します。
-
そして、新しい人を造ります。
-
イエスが来る何年も前に書かれた
エレミヤ書に書いてあります。
-
その預言では、神は新しい契約を創り、
-
私の律法を彼らの内に入れる、エレミヤ31:33
-
彼らの心にその律法を置き、その心に書きしるす、
-
私は彼らの神となり、彼らは私の民となる
-
エレミヤは、イエスが来る600年も前に、預言して、
-
ある日、神は何か新しいものを創り、新しい契約を創り、
-
そこで、神は、石に刻まれた十戒を私たちの心に入れます。
-
そう神は言っている。同じみ言葉がここ、
へブル人への手紙、2章にも書いてある
-
新約聖書のへブル人への手紙の2章では、
古い契約と新しい契約について書いてある、
-
律法は私たちの心の中に書かれる
-
彼が私たちの神となり、私達は彼の民となる
-
これがこのことのすべてです。同じ節がエゼキエル11:19にもあります。この予言者は、こう予言しました。
-
私は彼らに一つの心を与える。
あなたがたの内に新しい霊を与える。
-
彼らのからだから石の心を取り除き、
-
なぜ神は私達に新らしい霊を与えるのでしょう?
-
なぜ神は、私達から石の心を取り除くのでしょう? なぜ神は私達に新しい肉の心をくれるのでしょう?
-
神は言いました、彼らが私のおきてに従って歩み、
私の定めを守り行うためである。
-
こうして彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。
-
これがイエスがしたことで、
私達を罪から救いに来たのです。なぜ?
-
どうやって? 私達に新しい霊を与え、
そして私達に肉の心を与えます。
-
彼は私達から石の心を取り除き、私達に肉の心を与えます。
-
彼は、十戒を私たちの心の中に書きます。
-
そうして、私達は神のおきてに従って歩み、
神の定めを守ることができるように。
-
それは、行って、十戒を記憶しなさい、ではなく、
-
行って、何が悪いことで、何が悪くないことかを憶えていなさい、ではない。「いいえ」
-
新しい創造によって、それは私が体験したものだった、
-
何年も前になるが、それを体験した
-
なぜ? 福音は救いの力であって、
-
ただの宗教的な活動ではない。
-
新しいからだです。何かあたらしいものが始まった。
-
私に起こったことは、私は悔い改めた。
-
神様、私を赦してください。私を赦してください。
-
その瞬間、私は新しくなった、
-
私は、神が私を赦したことを、示される必要があった。
-
私はまだ新しくなったばかりで、
神のみ言葉の全体を知らなかった。
-
私は祈ったが、混乱していた。
-
隣の街に教会があって、そこでその夜
ミーティングをしていたのを聞いて、
-
私は車に飛び乗り、そこに向かった。その途中、
-
神に言った、私を赦してください、私を赦してください、
次に女性と一緒になるときには、
-
自分の妻と、ハネムーンに行きます。
-
神様、助けてください。赦してください。
-
私は本当に悔い改めた
-
そうすると、なにか驚くべきことが起こった。私はそのミーティングに出て、そこの人々は私を知らなかった。
-
ただ数人の人達は私は前に見たことがあった。
-
そのミーティングで、ひとりの女性が、
ミーティングが始まるときに立っていて、
-
私に言葉があります。
「若い男性がしてはならないことの前に立っています。
-
私が見ていることを彼は知らなかった。
-
私を取って、脇に置いて、罪を犯しました。
-
しかし彼は悔い改めたので、私は今、彼を赦します」
-
私はそこで立っていました。ショックを受けて。
私はガールフレンドと二人だけだった。
-
私は誰も見ていないと思ったが、私は、あなたは、
決して一人ではない、神はすべてを見ている。
-
でも私は思った、「お~、」神様、私は神をわきに置いた、
-
しかし神はそれを見ていたそして、
私はミーティングに行った。
-
彼女は、その言葉を語っただけでなく、
-
彼女はこのようにした、私が自分のアパートで
やったのと全く同じようにして。
-
その時以来、神はすべてを見るということを
知った。またドアを閉めて、
-
明かりを消しても、神はすべてを見ることを。
-
私はそこに立っていた。わ~、
-
神様、感謝します。あなたは私を赦してくれたから。
すぐに聖霊が来て、ふ~~っ
-
私は神に出会った。私はハイになった。
-
家まで飛んで帰るようだった。車の中で、私は赦された、
-
私はとても幸せで、とてもハイになって、
-
神に言った。神様、次の人は
私の妻になる女性です、ハネムーンで
-
私は今はあなたとデートをしたい。私はあなたを知りたい。
-
私は女性にフォーカスしたくない。
あなたを求めたい。あなたを知りたい。
-
私のために女性を見つけてください。
-
そのように祈りました。3か月後、デンマークの反対側で
開かれた、大きなクリスチャンコンサートに行った。
-
500人ほどの人がいて、そこで私は立って、
神を賛美していた。突然
-
神が私に語った。女性のことを考えてはいなかった。
先月、というのは、私は神にフォーカスしていたので、
-
そこで神は私に語った。トーベン、あなたの後ろに
立っている人が、ある日あなたの妻になる人だ。
-
私は「なんだって?」 後ろを振り向くと
-
わ~、そこに一人の少女がいて、これが私の妻!
-
そしてもう一度振り向いた。わ~、
自分の後ろに私の妻が立っている、
-
7列後ろに、私は見た時、それがわかった。
コンサートが終わって、最後の歌の時に、
-
私は家に急いで帰らなければならなかった。
私を待っていた友人と一緒に車を運転して、
-
私は彼女に微笑んだだけだった、
彼女は離れて立っていたので、私は微笑んだだけだった
-
そしてすぐ車に飛び乗って、家に帰った。
帰る道で、私は友人に、「ちょっと、
-
マイケル、私は自分の妻に出会ったよ、
彼女の名前も、どこから来たのかも知らない、
-
彼女について何も知らないけれど、神が私に言った、
-
あの黄色のドレスを着ている人がいつか私の妻になる、
-
私にはそれがわかった、
-
家に帰って、神に言った。彼女がデンマークのどこから来ているのか知らないけれど、また合わせてください。
-
3か月後、私は彼女に会いました。
-
ハロー、ハロー。私は彼女と知りあいになり、
一緒に話をして、
-
結婚しました。3日前に、私達は結婚17年を迎えました。
3人の子供たちがいます。
-
私達が罪から、自分たちのやり方から悔い改めると、
神はずっと良いものを私達にくれます。
-
私の妻は驚くべき人です。彼女は聖く、
クリスチャンの家庭で育ち、
-
私以外誰にもキスをしたことがない、
誰かと一緒にいたこともない、
-
神が彼女を保っていてくれた。彼女はとても強く、
-
私達が罪の生活について話すとき、
彼女から多くを学びました。
-
私の妻の中に、他の多くの人達とはとても
異なったものをたくさん見ることができます。
-
彼女の歌を聞いたことがあると思いますが、
彼女は大変なところを通りました。彼女は強いのです。
-
彼女は家族にとって城壁です。
-
私たちはよく一緒に旅します。
-
私達は今一緒に働いています。私は公に知られていますが、
-
妻がいなければ、今の私はありません。私の妻は強いです。
-
驚くべき女性です。神は私達を一緒にしてくれました。
疑いの余地がありません。
-
私たちが自らの道を悔い改めると、
-
神が私たちのためにより良いものを備えている。
-
これはどういうことでしょう?
キリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩まない
-
罪のうちを歩む者は誰も、キリストを見てもいないし、
彼を知ってもいない (第一ヨハネ3:6)
-
もう一つの節、第一ヨハネの3:9、
-
誰も神から生まれたものは罪の中にあり続けない、
神の種が彼の内にとどまるから。
-
彼らは罪を犯し「続ける」ことができない。
彼らは神から生まれたものだからです。
-
これはどういう意味でしょう?これは良い訳だと思います。
-
神から生まれたので罪を犯し「続ける」ことはできない、
なぜなら、彼らは神によって生まれるので。
-
また誰も彼にある者は、罪を犯さない。
誰も彼にあるものは、罪を犯し「続け」られない。
-
これがみ言葉言っていることっです。ヨハネの3:16
神はこの世をとても愛したので、ひとり子を送った
-
それは誰でも彼を信じる者は永遠の命を持つ。
-
この言葉は誰でも彼を信じる者、
-
そして信じ「続ける」者、この言葉は、
-
誰か一回、何年も前に信じた人の事を
語っているのではありません。
-
み言葉を見ると、継続する言葉で、
-
誰でも信じ、信じ「続ける」者、
-
これは、誰も神から生まれたものは
-
罪を犯し「続け」ない、
-
なぜなら、彼は神から生まれたものだから
-
なぜ、彼は罪の中に居続けないのか?
律法が彼の心の中に入れられたから。
-
これが私が体験したことです。
-
世界中の数百万の人々が経験したことです。
-
あなたがあなたの罪を悔い改める時、
-
イエスキリストを信じる時、
神はあなたの内に新しい心を造ります。
-
あなたは罪を犯し続けることができなくなること
を意味します。
-
姦淫の現場でとらえられた女性が、イエスの所に来ました
-
彼らは彼女を、石打ちの刑にしたかったが、
イエスは彼女を責めず、赦しました。
-
そして言いました。「今あなたは赦された、行きなさい、
もう罪を犯してはいけない」
-
もし彼女が罪を犯し続けたら、どうなったでしょう?
-
私達は赦されると罪を続けることができません。
-
私たちは別なみ言葉も正しいということを
理解しなければなりません。
-
もし私たちが罪を告白するならば、
神は真実で正しいので、私達を赦します。
-
赦しは悔い改めと関係があることを
理解する必要があります。
-
悔い改めはあなたの心と、あなたの思いと関係があります。罪を止めるということに関係があります。
-
私が罪を犯した時に、私は赦されました。
しかし、私は罪を続けませんでした。
-
なぜなら、み言葉が何と言っているかを
知っているからです。
-
今日、私達の世界、教会では、人々は、
み言葉が語っていることを知りません
-
彼らは神の真理を知らない。へブル人への手紙を見ると、
-
ヨハネの3:16と全く同じ、神のみ言葉を見つけます。
-
へブル人への手紙10章、
-
10章26節には、
-
真理の知識を受け取った後に、
強情に罪を犯し続けるならば
-
罪のためのいけにえは、残されていません。
-
へブルの10章を読み続けることができます。
-
強情に罪を犯し続けるなら、
-
私達の罪のためのいけにえはもうありません。
-
その結末は永遠の裁きです。
-
これが神のみ言葉が語っていることです。多くの人達がこのみ言葉を知っています。そして読んでいます。
-
お~、強情に罪を犯す、しかし、私は強情に罪を犯してしまった。 そのみ言葉は何を意味しているのでしょう?
-
私がガールフレンドの前に立っていた時、
彼女とベッドを共にしたとき、
-
私は強情に罪を犯していた。
それを自分の中で、どういうわけか、わかっていた
-
知らなかったと同時にわかっていた。
そして私は罪を犯した。
-
しかし神は、私を赦した。このみ言葉、
もしあなたが強情に罪を犯すならば、は、
-
あなたが罪を犯し「続ける」ならば、と同じです。
-
もしあなたが、強情に罪を犯し「続ける」ならば、
-
聖霊があなたから、離れて行くところまで来てしまう。
-
悲しいことに、救われたけれど、ガールフレンドと一緒に
暮らしている人たちを、私は知っています
-
彼らは、その罪の中に居続けることができなかった、彼らは救われたから。ガールフレンドから離れたが、あとで、
-
彼らをその罪に自らを明け渡してしまった。
徐々に罪が入ってきて、
-
徐々に徐々に、入ってきて、またガールフレンドと一緒になってしまった。姦淫の生活をしていた。
-
私は彼らに会いました。「その生活に問題がありますか?」と彼らに聞くと、
-
彼らは、「いいえ」と言いました。しかし以前は、
彼らは問題としていたのです。
-
何が起こったのでしょう? 一時期、彼らは救いを経験
しました。彼らの心の中に聖霊がいました。しかし、
-
そこにとどまらなかったので、注意しなければいけないことを彼らは理解していなかったので、
-
私達に神が与えたものについて、
-
また、聖霊に聞くことについて。
-
彼らは心の中で聖霊に反対し「続け」たと思います。
-
そのような生活を「続け」たので、聖霊は悲しみ、
彼らから去って行きました。
-
彼らは元の罪の中に戻ってしまった。最後の部分は始まり
よりも悪くなってしまう、と聖書は言います。
-
罪について語る時、
-
教会の中で罪の事が全く分かっていない。
-
私達は常に罪人であると考えている。
-
本当は、私達は罪人であったが、
神は私たちの内に新しい心を造られた、
-
もし、私達がその新しい心を持つならば、
私達は強情に罪の内に生き続けることはできない、
-
なぜなら、私達には、新しい心があるから。
-
第一ヨハネの手紙を見てみましょう。
-
面白いことが書いてあります。
-
第一ヨハネ3:7です。神の子供たちについて語っています。
-
また他のこと、私がここで読んでいたことも
書いてあります。
-
小さい子供たちよ、誰にもだまされてはいけません。
-
義を行うものは、キリストが
義人であるのと同様に、義人です。
-
罪の内を歩むものは悪魔から出たものです。
悪魔は初めから罪を犯しているからです。
-
神の約束は、イエスが悪魔のしわざを
打ち滅ぼすことにあらわされました。
-
イエスは私たちの内の罪を打ち滅ぼすために来ました。
-
10節には、
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このようにして私たちは、神の子供たちがだれであり、
悪魔の子供たちが誰であるか、を区別します。
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義を行わないものは誰も、神の子供たちではありません、
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兄弟や姉妹を愛さない者もそうです。
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これがヨハネが言っていることです。
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このようにして、私達は、
神の子供たちと悪魔の子供たちとを区別します。
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このようにして私たちは知ります。
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これはすぐこの節の後に来ています。
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このようにして私たちは知ります。
どうやって私たちは知るのでしょう?
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誰でも新しく生まれた人は罪の内に居「続け」ない、
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それによってあなたは、誰が神の子供たちか、
そうでないのかを知るでしょう、
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異言を語るかによって知るのではありません
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悔い改めたか、最初にすべきことをしたかどうかによって、異言を語るかによってではなく、病人を癒すからではない
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私達が悔い改めたかではない、
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私達はこれによって知ります。
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これによって私たちは知ります。誰が神の子供たちであり、また、誰がそうでないかを。
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私は多くの人達に話しました。
多くのノンクリスチャンに会います。
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また多くのクリスチャンに会います。
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教会の宗教的な人々に話す時、
若い人達の前に立って話す時、彼らに訊ねます。
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あなたは罪の生活をしていませんか?
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ガールフレンドについて、とても軽い調子で、尋ねます。
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あなたのガールフレンドとベッドを共にしますか?
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彼らは「はい」と言います。そのことを問題と思いますか?
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「はい、問題と思うけれど、、」、
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なぜ? どこで? あなたの頭の中では
問題だと思っている?
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なぜなら、これはわるいことだと聞いたことがあるから?
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または、内側でこれは全く悪いと感じるから?
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多くの人が「頭の中では問題がある」と言います。
なぜ、彼らはそう言うのでしょう? なぜなら、
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ここ内側で問題ならば、
これが悪い(軽い感じ)というようにはならない。
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内側からならば
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あなたは罪を犯している! あなたは罪を犯している、
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彼らは疑いの余地なく、自分が罪を犯していると知ります。
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なぜなら彼らは神から生まれたものだからです。
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でも、彼らは神から生まれたものではないので、
彼らの固定概念の中で宗教的になっているだけです。
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これ(頭)は、罪に対して問題はありません。
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固定概念の中で、これはしてはいけない、
悪いことと思っていても
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頭から霊まで達していないので、
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だから教会の中で多くの人達が罪の生活をしている
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そして私たちは彼らをクリスチャンと呼んでいる。
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彼らを罪人と呼んでいる、天国に行く罪人、
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私達は皆罪人です、彼らは罪に生きている、
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しかし、私達は皆罪に生きている、彼らは罪を続ける、
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しかし彼らは神を信じている、「いいえ」
神がそこにいることを信じるかではなく、
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「このこと」により誰が神の子供たちであるか知る、
誰がそうでないかを知る
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「このことに」よって知る
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人々が強情に罪に生きるならば、
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あなたがそれを知っていて、見ているならば、
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彼らが何を信じるかは問題ではない、
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もし彼らが強情に罪に生きるならば、
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彼らは新しく生まれたのではない
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彼らが教会に来ても、彼が神父であっても、
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自分は神を知っている、聖書を読んでいると言っても、
彼は新しく生まれていない。
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なぜなら、神が来て、新しい心を造ってくれた、
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神は常に聖く、神は変わっていない。
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古い契約に私達が読む神と同じ神です。
神は変わっていません
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変わらなければならないのは私達です、神の霊によって。
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神の律法が私たちの心に刻まれる
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悔い改める時に、そういうことが起こる。
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「トム、あなたは罪がありませんか?」 「いいえ」
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私は、いるべきところ(理想なところ)
にいるとは言いません。
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しかし、私は過去の私ではありません。
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さらに先があることを知っています。 キリストのように
なる必要があるからです。私はキリストのようになりたい。
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初めて救われた時に、私は罪を犯した、大きな罪を
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ああ~、私はもうそれはできない、その後、
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そういういことを切り捨てることが簡単になってきた。
もうそれはできません。
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頭と思いを切り分けることはできない、
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最初、大きな罪について、神は私を取り扱い始めた
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私の頭の中の思い
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なぜ私は、このように反応したのか?
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なぜ言ったことを言ってしまったのか?
それは自分の王国を建てるためなのか?プライドのためか?
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私がしたことは、なぜそうしたのか?
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神は私の内に働き「続け」た。
そして今日でも、まだ働いている。
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神は私が彼の前に立つ日まで、私の内で働き「続け」る
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私は神に私の内で働き続けて欲しいと願っている。
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もしそこで私が止まって、
「いいえ、もうたくさん」と言ったら、
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彼は私の主ではなくなってしまう
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私は神に私の内で働いてもらう必要がある。
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ある期間、神は、私の内で、深く、
深く、さらに深く、働いてくれた。
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強情に罪に生きることと、
罪に縛られていることには違いがある。
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私はたくさん悔い改めることがあったが、自由を経験した
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しかし私の生活の中で、
私が抜け出すことができないものがあった。
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ここに一つ、あちらにいくつとか、
私はそれを愛していたわけではない、
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そういう中で生きたかったのではない、しかし
そこにはまってしまった、その中、またほかの中に、
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お~、自分は自由ではないと感じていた、私を苦しめた、
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しかしバプテスマを受けた。バプテスマを受けた時に、
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最初は何も起こらなかったが、あとになって、
バプテスマが何であったかという啓示を受けた
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私は、ローマ人への手紙の6章を歩み始めた。
罪から自由になった。
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ある時、ローマ人への手紙6章を読み、罪からの自由、
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ローマ人への手紙 6:14を読んだ。
すると突然、それが何であるか分かった。
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私は自由だ、あ~、私は自由だ。その瞬間から、
私は新しい始まりを体験して、もう一度、
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私は、罪からの自由を体験し、
最後の(悪い)ものが私の人生の中で壊されて、
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新しい始まりが再度始まった。
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なぜなら、これらのものは罪とかかわりがあった。
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全てがきよめと罪とに関係があった。
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今日、カトリック教会、ルーテル教会、カルビン派や
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他の教会でも、水のバプテスマを受けない人たちがいる
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彼らは、水のバプテスマを受けていないので、
ローマ人への手紙の6章のように、歩むことができない。
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彼らは自由を体験しない。彼らは、ローマ人への手紙の
7章を歩んでいる。罪の意識と戦っている
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彼らは水のバプテスマを受けず、
罪から自由になっていないので、
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彼らは、自らの経験の上に神学を作ります。
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その神学は、私達は罪人です、のようになります。
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私達は皆罪人です。
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私たちは聖徒です、私達は聖いです、という代わりに。
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イエスは罪の中にある私達を救うために来たのではなく、
彼は、私達を、「私達の罪から」救うために来ました。
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イエスはマタイ23章で、パリサイ人に言いました。
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「あなた方はわざわいである。
律法学者、パリサイ人、偽善者よ
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あなたがたはコップの外側をきよめるが、
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中は腐っている、その中は、あまりに腐っている。
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コップの中もきよめなさい、そうすれば外側もきよくなる、
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これがパリサイ人達の問題でした。
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これが宗教的な人達の問題です、今日。
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宗教的な人達は、コップの外側をきよめるが、
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内側はとても腐っている。
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私は多くの人達に会ったが、
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彼らは宗教的な伝統の中で育ってきた
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私が、「あなたは自由になることができる」、と伝えると、
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それはいいニュースになる。なぜなら彼らは何年も、クリスチャンとして歩もうとしていたし、すべての知識があった、
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しかし、いつも自責の念がある。彼らは、いつも戦っており、罪を続け、戦って、また罪を続け、戦って、戦って、、
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自由を経験できないでいる。
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なぜか? 誰も彼らの内側を新しい心で、
きよめなかったからです。
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バプテスマの自由。彼らは、きよめられていないので、
内側が腐っていると感じます。
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多くの人の内側が腐っています。
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教会に何年も来ている大勢の人たちに、私は会いましたが、
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彼らは、自分たちは救われていると考えていた、
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なんでも知っていると考えていた
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しかし、本当に救われた時、彼らは、
私は騙されていた、と言いました。
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正直なところ、そういう人たちに、
ペンテコステ教会でも、バプテスト教会でも
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多くの教会で会いました。それは宗教以上のものであって、いのちなのです。
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私達は、いのちから神学を作りあげるべきではありません
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私が罪から自由になる経験をしたのは、
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誰かが私の上に2秒間、手を置いたからではない、
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いいえ、神を求めることによって経験しました。
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悔い改めと、断食と、神を求めることによって。
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私達の問題は、時々、大きいものを今すぐここで、
欲しい、ということではないかと思います。
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私達は時間のかかることをしないので、
神が私達に与える自由に入ることができない
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必要なことを私たちはしていない、
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それゆえに、多くの人達が自由の中を歩んでいない
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次に、私は、水のバプテスマについて話します。
罪に関連して話します。
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私の証をシェアします。いかにして
罪から自由になったかという経験を。
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私の本の中にあります。今日この本を入手しました。
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このティーチングをする前に、郵便が来て、
その中に、この本もありました。
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始めて自分の手にする本です。ほんの1時間前に
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これが私の本、「健全な教義」という本です。
アマゾンから出ました。
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私はアマゾンに発注しました。それで今日この本をここに持っています。あなたもアマゾンに発注できます。
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私のウェブサイトに行くと、そこにあります。
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この本の中に、どのように断食したかということを
話しています。
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いかにして、罪から自由になったか、いかにして、
罪を憎み始めたか、あなたは罪を憎む必要があります。
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自由になるためには。私がどのようにして罪から
自由になったかの経験をそこに書いています。
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もしあなたがもっとティーチングを欲しいならば、
私は普段、英語を話さないので、
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あまり詳しく英語で話しません、
英語は、まだ私も学びの途中ですので。
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しかしここでは、聖書の言葉がたくさん入っています。
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また、罪についても、神を恐れることについても、
罪からの自由について、
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詳細が書かれています。どうかこの本を買って、
次のティーチングまでに、読んでください。
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次には、この続きを離します。
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これがあなたへのみ言葉です。
このビデオをこの言葉で終わります。
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あなたはどこにいますか、あなたはどこですか?
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私がこのことについて話すとき、
多くの人がクリスチャンの家庭で育ち、
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そう簡単ではないですが、
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なぜならあなたは、どう生きるかという生き方について
すべてを知っている、
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私の思いの中にある、私の霊の中にある。一番重要なことは
あなたが今、罪の中に生きているということです。
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あなたは自由を体験しますか?罪からの自由を?
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もし私が何か悪いことをすると、
お~、この道を進んではいけない
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ここで今、止まらなければいけない
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もしこの先を行くなら、これは罪だ、
そう私の内で感じることができます。
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あなたが今どこにいるのか、私は知りません。
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あなたはそのようなことを全く経験したことがなくて、
罪の中で生きていますか?
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もしあなたが罪の生活を送っているなら、あなたは新しく
生まれていません。あなたは悔い改めなければなりません
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あなたは悔い改めて、これを理解して、全てを神に
差し出して、水と聖霊のバプテスマを受けてください。
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神を知るために、まだそれらをしてなかったのならば。
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しかしあなたはたぶん、そういう経験をした、
というところにいるかもしれない、
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しかし聞くのに遅く、大分前には、
とても革新的だったかもしれない、
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もしそうだとしたら、あなたは何かをしなければならない、
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もしテレビが問題なら、それを家から放り出してください、
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革新的に生きるのを妨げているものがあれば、
それを廃棄してください。
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あなたが聖い生活をするのを妨げているものがあれば、
それを処分してください
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私達がそれがなんであるかを知ると、自然にわかります。
私達は物から遠ざかります。
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家にはテレビがありません。それは私が座って
テレビでポルノを見るからではなく、
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インターネットがあるので、ポルノを見たかったら、
私は見ることができます。
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今は私の人生には、神への恐れがいっぱいあって、
自由を体験しているので、
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私はそうしません。しかし私はテレビを持っていません。
私は自由に時間を使うことができるので。
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テレビは私をスローダウンさせるし、思考が不活発になる。
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英語の単語を知らないけれど。 まあ、そんなに問題ではない、これを見て、あれを見ても大丈夫、
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と自分がいっぱいになってしまう。
多くのクリスチャンはテレビを始終見ている
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ノンクリスチャンの音楽を聴いている。
私には理解できない。
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それはできない、
あなたの霊を良いもので満たす必要があります。
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あなたの霊を満たす必要があります。
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罪から離れるだけでなく、
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ガラテヤ人への手紙 5章には、
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肉の実と、聖霊の実について書いてある。
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19節に。肉の働きは、
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長いリストがあり、偶像礼拝、妬み、
他にもたくさんあり、彼はそこで、
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そのようなことを行っているものは、決して
神の国を継ぐことができないと書いている。
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彼はそのことをクリスチャンに言ったのです。
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もし、そのようなことをするならば、
あなたは、決して神の国を継ぐことはない
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それから聖霊の実について彼は語っている。愛、喜び
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忍耐、親切、善意、誠実、そして彼は、
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イエスキリストにつくものは自分の肉を十字架に
つけてしまった、情欲と欲望とともに。
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もしあなたがキリストにあり、彼につく者であるならば、
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あなたの肉を十字架につけてしまった。
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クリスチャンとは何か? 悔い改めとは何か?
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悔い改めとは、肉によって歩んでいる、
その道に出て歩いている、
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その大きな道の先には裁きがある、
その道をあなたは歩いている、
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ガラテヤ人への手紙 5:19に書いてあることを
まさしく行っている、
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でもあなたは、悔い改めて、
そこから向きを変えて、神の方に向かい、
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神があなたの内に置いた律法を経験する、
あなたは新しくなり、
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新しい人生を歩き始めます、
肉ではなく、聖霊によって導かれて。
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今日のティーチングの中で、あなたはどこにいますか?
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ある人達はまだ救われていない、
ある人たちは水のバプテスマを受けたことがない、
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自由を体験したことがない、
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またある人たちは宗教眼鏡をかけているので、
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私の語っていることが理解できない。
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あなたの内に求める心があり、
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これが正しいとみることができ、
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私はそれが欲しい、私は聖徒になりたい、
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私は神が私にくれる自由を経験したい、でも私はここに立っていて、私はそのすべてが欲しい、どうやって得られる?
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リラックスしてください、神を求めてください、
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あなたの内の神の取り扱いに耳を傾けてください、
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このようなティーチングの問題は、
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人々はそれぞれ違った旅をしています。しかし、
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あなたが今いるところを知っている方がいます。
それは神です。神はあなたの必要を知っています。
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あなたは悔い改めて救われて、水のバプテスマを
受ける必要があるかもしれない。
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神はそれを知っていて、あなたもその必要を知っている、
神はあなたに語り、あなたにその必要性を示すでしょう
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また別な人に、あなたは救われているかもしれない。
でも、罪に束縛されているかもしれない、
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バプテスマを必要としているか、
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あなたの過去の水のバプテスマが何だったのか、
啓示を必要としているかもしれない
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ローマ人への手紙6章を読む必要があります。
聖霊があなたの目を開いて、
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あなたを自由にする経験をします。
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また、別な人は、あなたは罪をもてあそんでいて、
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そのためにあなたは罪と戦っている。そうであれば、
悔い改めなければならない、
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あなたの人生の中の物たちを断ち切ってください。
インターネットを切って、
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暫くインターネットを切って、あなたの人生に、
神の恐れを得るまで
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そうすれば、罪を犯さずに
インターネットを見ることができます、
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あなたは自分が何と戦っているか知っています、
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そこから自由になる必要があります
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あなたは、キリストにあって歩く必要がある、
肉に従ってではなく、聖霊に従って、
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これが私たちが召されていることです。
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あなたの生活の中に罪があるならば、
あなたが悔い改める時、
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そこから向きを変えて、罪から離れ、悔い改めます
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あなたが罪を告白するならば、
神は真実な方であなたを赦します
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私が最初に体験したような、強い経験を得られないなら、
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もう私は悪いことはしないけれども、
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もし悪いことをしてしまったら、神が私を導いて、私は
ごめんなさい、そして私は自分が自由であることを知ります
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もうそれをしないように、私が正しい言葉を言って、
告白するからではなく、
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神が働いて、わたしをきよめてくれる、
私が何かする、神は私を赦す、
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あなたの罪を告白することは、
神に対してそうするだけではなく、
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それが悪いと自分自身に気付かせるためでもある。
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もう私はその罪を続けない、しかし神は真実な方です
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私は、あなたがどこにいるか知りません。
あなたは、自分がどこにいるのか知っています。
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このことについて、あなたが混乱する時期があっても
大丈夫だと、言っておきたい。
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なぜかと言うと、私が救われてから6年後に
神は私を罪に関して取り扱い始めた。
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私は混乱し始めた、わ~、これについてはどう、
あれについてはどう?
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そうして、神の恐れを持ち始めた、
神はこの本を私に啓示した、
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これが私の証です。自由を体験した、しかし、
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自由を経験する前に、
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しかし数日間、私は罪責感を感じた
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今、私は地獄に行く、神は、私を赦すことができない
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聖霊に対して罪を犯してしまった、
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私は罪責感があったが、それは神からのものであった、
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神は私に心の奥深いところで、悔い改めをして欲しかった。
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私がそこに至ると、自由の啓示を経験した
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私は自由になり、再び、新しく生まれ変わったようだった。
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正直なところ、私は混乱して、
自分は本当に新しく生まれているのだろうかと?
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以前も私は新しく生まれていたのだろうか?
これは、全く新しい経験だった。
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キリストにあって自由があった、
未だかつて経験したことがなかった自由を
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私の旅はこのようなものであった。戦って、もがいていた。
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数日間、自分を責めていた、私は地獄に行く、
と考えていた。私は泣き叫び、神を見ていた、しかし、
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そこで、啓示が与えられ、自由が来た、
あなたも、そういうところに来る必要がある、
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そしてあなたがいるところから歩く必要がある、
次のステップを取る必要がある、
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そのステップが何か私にはわからない。
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神の恐れが必要かもしれない、あなたの人生の中で。
私達誰もがそれを必要としている。
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あなたは悔い改めの必要があるかもしれない、
そして救われるように。
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バプテスマが何であるのかの啓示を
必要としているのかもしれない。次回話しますが。
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ただ、あなたの目を罪からそらして、
キリストを見る必要があるのかもしれない。
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人々は私に訊いてきます。
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「トム、私はあることで戦っているけれども、
外に出て病人を癒して、福音を伝えることができますか?」
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あなたは外に出て、そうする必要があります。
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なぜなら、私達が罪と自分自身から目を離して、
イエスを見るなら、物事はずっと良くなるからです。
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もし私が罪をもう見なくなるなら、
そのことを考えなくなる、その罪を
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考えなくなる、罪、罪、
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もし私が自分自身に、私はもうそのことを考えない、
と言うと、かえって、それを考えてしまう、
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しかしイエスを見る時、彼がしたことを見る時、
私は罪を考えない、
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ですからこのメッセージは
あなたを自由にするためのものです。
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最初はあなたに動揺を少し与えるかもしれないけれども。
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キリストがもってきた自由を、あなたが理解することを
願っています。彼は私達を自由にするために来ました。
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あなたは真理を学びます。真理があなたを自由にします。
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あなたは罪人ではなくなります、
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あなたは聖徒になります。あなたは聖くなります、
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あなたは罪から自由になって歩きます、
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これが私が話したいことです。私の本を読んでください。
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次回は、2週間後です、その間に本を読んでください。
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続きを楽しみにしています。質問を送ってください。
質問から始めることができます。次のティーチングでは、
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水のバプテスマと罪からの自由について話す予定です。
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おどろくべき愛、神がしてくださっていることを。
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次回を楽しみにしています。水のバプテスマと
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罪からの自由について語ります。
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神の祝福を。
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Jesus lamb of God 神の子羊