パイオニアスクールのレッスン9にようこそ 今回は悔い改めについて話します 私はあなたを挑発して、あなたが宗教眼鏡を外して、 はっきりと見ることができるように助けたいと思います。 あなたに訊きたいのですが、クリスチャンは、 私達は自分達自身を恵みによって救われた罪人 あるいは 聖人 として見るべきか? これは本当に重要なのです。 自分たちを見る見方は、 聖書とは関係がないことが多いのです。 しかし、宗教眼鏡と私たちの背景に影響を受けています。 今日、 あなたからその眼鏡を取り去るのをお手伝いします。 イエスは罪の内にある私達を救いに来たのではなく、 私達を「私たちの罪」から救うために来ました。 このティーチングは非常に重要だと信じます。 これによって、 キリストにあって私たちがもつ自由を あなたも持てるようになります。 私達は、使徒の働きの中に書いてある人生を 生きる事ができます。神の祝福を! 最後の改革 使徒の働き あなたの人生を変える20のレッスン 新しい始まり あなたの人生に パイオニアスクールにようこそ このティーチングにようこそ。このティーチングは パイオニアスクールの20レッスンの内の9番目です。 私は神がなさっていることに喜んでいます。 神は驚くべきことをされています。過去2回、私はあなたが 救われる為に何をする必要があるかを話しました。 悔い改め 水と聖霊によるバプテスマが必要だと いう話をしました 沢山の応答がありました。その中で私の町に住んでいる 年配の女性が書いてきました。 バイブルスクールがあるところからですが、 お会いしたことはありません。 彼女は、ずっと、幼児洗礼によって 救われていると思っていた。 でもビデオを見た後、彼女はバプテスマを受けたい と言っていました。 このティーチングの後、私は彼女の所に行って、 彼女にバプテスマを授けます。 多くの事が起こっています、これらのレッスンの間に。 それはとてもうれしいことです。 神が働いているのはうれしいことです。 今日も本当に興味深い話です。 私はあなたが宗教眼鏡を取り外せるように、 助けたいと思います。 これから話す事は 悔い改めです。普段聞いている悔い改めとは 少し違った形で話をします。 このバイブルスクールを通して、 宗教眼鏡を取り外すお手伝いができればと思います。 そうして、あなたが自分で、聖霊によってみ言葉を学び、 神のみ言葉があなたを自由にする事を 体験することができるように。 私はあなたにすべての回答を与えることをしません。 大きな絵を差し上げます。その絵によって、これらのことをみ言葉によってどう理解していいのかわかります。 そして今日は、沢山あなたを挑発する事になるでしょう これから言う事には、「ワォこれって何?」 というようなことがあります 我々は、何の上に建てるのでしょうか? 伝統でしょうか、それとも神のみ言葉ですか? このティーチングを始める前に、引き続き幾つか前に話した事を話したいと思います 幾つかの証をシェアします。証はうれしいです。 神が働かれるのはうれしいです。 前回、福音をどのように、 シェアするかについて話しました。 私はこのテーブルに座って、 福音のシェアの仕方をお見せしました。 神は世界中の人々が、悔い改めることを望んでいます 神は私達に悔い改めることを命じています 私達の仕事は、弟子として、 悔い改めが何かを、人々に示すことにあります 彼らに、明確な福音を伝えて、彼らが何をする 必要があるのかを、知るようになることです というのは、私が前回お見せしたように、もし彼らが、 神に召されたことをするならば、神が次に動きます。 彼らが悔い改めるならば、 神が新しい心を彼らの内に造ります。 彼らが水のバプテスマを受けるならば、 神は彼らを罪から自由にします。 私達が彼らの上に手を置き、神のみ言葉に従うならば、 彼らは聖霊を受けます。 前回、私はどのようにするかをお見せしました。 これは、他の事もそうですが、 ただ神学として終わらせてはなりません。 私のティーチングから神学を学ぶだけなら、 あなたも私も失敗したことになります 私達は神学以上に、実践する必要があるのです。 私がこれを始めた時、 福音を私のやり方でシェアし始めた時、 それはわたしにとって、全く新しい事でした。 どのティーチングも、私にとって新しいことです。 というのは、自分自身から眼鏡をはずす 必要があったからです 神が私を助け始め、自由にしてくれた時、 私はその内を歩き始めました。 そこをさらに歩むと、より強くなります。歩み始めて、 よく物事が起こるのを見る様になりました このティーチングは毎週していますが 先週、二人の人が救われました そこでは、コーヒーテーブルでやったことと、 同じことをしました。 ひとりは、ビデオを見た人で、私に書いてきました。 彼は17歳で両親が宗教的な家の出身でしたが 彼は教会に来なくなり、神や救いを経験した事が ありませんでした 彼が書いてきたので、私達は 私がいる町の喫茶店で会いました。 私達はそこに座って、コーヒーを飲みました。 私は、イエスについて彼に話しました。彼に尋ねました。 神に会った事がありますか? 彼はないと言ったので、福音について、 前回説明をしたように、話をしました コーヒーショップで。説明を終えると、 彼は自分がすべきことを理解しました。悔い改めて、バプテスマを受け、聖霊を受け取る必要を理解しました。その後、 私達はそこを出て、 私が彼のために祈れる場所に、移動しました 街中だったので、自分達だけになれる場所を 探す必要がありました 駐車場を見つけて、地下に行くと、車がありませんでした 私達は二人だけでした。人もいない、車もない。 駐車場の地下で、街の真ん中で、 私は彼のために祈りました。彼は悔い改め、 聖霊を体験しました。 聖霊によるバプテスマを経験しました そして異言によって語り始め、彼は燃えていました。 その後、街に出かけて、病気の人を探しに行きました 彼は女性の為に祈り、彼女は癒されました。 もう一人の女性のために祈ると、彼女も癒されました グリーンランドからの人は腕が痛みで動かせなかったのが、癒されて、彼女のご主人が来て 他の人も来て、彼女は立って彼等に説明しました 突然、沢山の人々がやってきました。 彼は、彼らの為に祈りました。私は、別なところに行く 必要があったので、彼を友達の所に車で連れて行きました 彼らはデンマークの海に出て行き、彼は水のバプテスマを 受けました。とても寒い日でしたが、 でも彼はバプテスマを受けました。彼は変りました。 私は彼に言いました。 もうあなたは自分自身のために生きていない、 大胆になって多くの人にシェアする必要がある、 と言いました 彼は家に帰って、フェイスブックに書き込みました。 ここでいくつかを読みます 今日は今迄で最も驚くべき日だった。ト―ベンと言う人に会った。彼のウェブサイトがあるけど 彼は、全ての信者はイエスと一緒に、使徒と同じ様に生きる事ができる。奇跡の人生を送れる、と言った 私達は話し始め、彼は全てを説明してくれた。 私が自分がどういうことになるのかを 正しく理解しているかどうか、彼は確かめていた それから私たちは駐車場に行って、 彼が私のために祈ると、私は異言を話し始めた 本当にすごい現実だった。彼は、 どの様に人は癒されるか、という話をしてくれた 1時間でそのような事が起こった。神は素晴らしい。 引き続き、どの様にバプテスマを受けるかも話した。 寒かったが、彼はバプテスマを受けて、 その後、彼はこのように証を終えている この証を書く理由は、神は私たちのために より以上のものを願っている。 ただ教会に来て、ミーティングに参加するだけではなく、 神は、私達に奇跡と癒しの人生を与えることを願っている 誰でもそれが欲しいならば 私に連絡して下さい。これが数日前、私は彼に会った。 座って、福音を説明した。 私は、イエス様、心の中に入って下さい、 とは祈りませんでした。私は彼と一緒に祈りました。 彼は悔い改めて、水のバプテスマを受けて、 聖霊のバプテスマを受けて、彼は燃えている 家に帰り、フェイスブックにこれを書いた2日後に、 ある女の子が彼のフェイスブックを見て 私に連絡してきました。17歳の少女で やはり宗教的な背景がありましたが 罪の中に生きていて、神を知らず、多くのことが彼女にとっては初耳だった、異言を話すことも聞いたこともなかった 私は彼女とバーガーキングで会った、 座って、話を始めました バーガーの紙とカップとかいろんなものを使って、 前のビデオでやったように、福音をシェアしました 福音をシェアすると、彼女は悔い改めたい、と言いました そこで、彼女と祈る場所を探しました。 バーガーキングの隣に家があり、 建築中で、まだ完成していなかったので、 その建物に入ることができました。 空っぽだったので。そこに入って私が祈ると、 聖霊が彼女に触れました 私は預言的な言葉を受けとりました、蛇についての。 蛇がくねくねと這っていく。それは彼女の人生でした。 突然、蛇に足が生えてきて、地面から立ち上がり、それから羽がついて、飛んで逃げて行った。 神は彼女を自由にし、地面を這うような 人生から彼女を取り出した その予言の言葉を彼女に語ると、彼女は泣いて、泣いて、 私は、彼女が悪霊から自由になるように祈りました 彼女の中に居たなにかが彼女から出て行った。 彼女は後でこう語りました 何かかたまりが上がってきて、喉で留まっていたが、 それが出て行った。そして彼女はとても自由に感じた。 彼女は変えられた。それから私達は近くのお店に行って、 病気の人を見つけて、彼女が初めて病人のために 祈ると、その人は癒されました。 彼女は家に私を招待してくれました。 私はそこに行き、彼女の母親のために祈りました。 彼女は癒されました。またもう一人のためにも祈りましたた。その人も何か経験した。彼女の家族と座っている時に 又母親に呼ばれました。もっと話が聞きたかったからです お風呂を持っている友達の所に彼女を連れて行き、 バプテスマを授けることができるか聞きました。 その日は寒かったので。そこのバスタブで、 彼女はバプテスマを受けました。 そして彼女が水から上がってきた時、私達が彼女に手を置くと、彼女は聖霊のバプテスマを受けとりました そして異言を語り始めて、彼女は完全に変わりました。 私がここで語っていることは、 毎日の生活で起こるべきことです。 これが私たちが召されてするべきことです。この2つの証は、先週からこの一週間に私の人生に起こったことです。 また私の友人のトミーによって一人救われ、 その人もバプテスマを受けた。 これが今、世界中で起こっています。 もし私達が福音をこのように、シェアして、 人々が動くと、神も動きます この少女にこのことが起こったのは月曜日でした 月曜日はデンマークは雨でした。 雨が降って灰色だった。誰も月曜日が嫌いです。 その日は月曜日で、雨が降り、グレーな日だった。 しかし神の力はそこにあった。 彼女は救われて、癒されて、 人々の為に祈ると、彼らは癒された。 彼女は水のバプテスマを受け、私達が手を置くと、 聖霊のバプテスマを受けた そして彼女は異言を話し始めた。 ある時はショッピングモールで、地下の駐車場の中で、 カフェで、バーガーキングで、 人々がいるところで起こっている。これが神がなさっていることです。このような証はうれしいです。 そして彼らは燃えています。 彼女が救われた時、私は彼を呼び出して言いました。 彼女と一緒にいる事、そして彼女が今ちょうど 救われて、聖霊を受け取って、異言を話して、 バプテスマを受けた、ことを話しました すると彼は「わ~」彼は凄く嬉しくなった。 親しい友人ではなかったが、 会ったことはなかったが、フェイスブックの友達だった。 彼は神に出会って、大胆になった。 誰かがフェイスブックでそれを読んで、 私がそのために招待されて 家族全員がもっと福音を聞きたかった 私はこういう証が気に入っている 又手紙を受け取っています。これもまたいいですね。 これはカナダのビクトリアからの証です。 ちょうど私達はそこに行ってきたばかりです。 カナダに行った時のビデオを作り 各々の場所から少しづつビデオが見られます。 これは彼女が私に書いてくれた手紙です。 ビクトリアから報告したい。 あなたが私の息子のアレルギーの為に祈った後、 何が起こったかを。 私はびっくりした。アレルギーが完全に癒されて、 彼の妹にもアレルギーが あったけれど、その為に祈られて、彼女も癒された。 これも驚くべきことだ 6年間も、私は家族をバースデーパーティに つれていくことができなかった、 友人の家の夕食や、レストランにも 行くことができなかった。 どこに行くにも、彼らのための特別な食べ物を 持っていかなければならなかった それは私達の生き方を完全に変えてしまった。 多くの人々は彼らが癒されたことを聞いて、 ショックを受けています。 私はうれしいです。ビクトリアからの証です。 神様がしておられることです OK、もう一度言っておきたいのですが、私のティーチングから、また神のみ言葉から、神学を作らないでください。 み言葉をとって、それを実践してください、 行動してください すると、人生に実を結びます。たくさんの実を結びます。 ではこれから、今日のために祈りましょう。 これは、本当に重要なみ言葉です。 このみ言葉は多くの人達の宗教眼鏡に反対するものです。 彼らは、「何だって?」となるでしょう。 これが土台になります。私は悔い改めについて話します。 これはとても重要です。 これが土台です。ですからみ言葉が何を言っているのかを、理解しなければなりません。 神様、この日を感謝します。 あなたがしていることすべてに感謝します。 2人の人達に感謝します。彼らの証を読みましたが、 彼らは救われ、水と聖霊のバプテスマを受けました。 彼らは燃えています、今。 神様感謝します。数千人の人達が 日常の生活の中で救われていくことを。 バーガーキングや、モール、街、職場でも 人々は救われていきます。 今日、この言葉をシェアするのを助けてください この言葉は人々の目を開きます。 また、我々を自由にしてくれます。そうすれば、 私達は、あなたが私達にくれた人生を、 歩むことができます。 聖霊と共に来てください。そして私がみ言葉を シェアするのを助けてください。 イエスの名前によって、アーメン OK、私は、あなたに質問があります。あなたは クリスチャンですか? 私はそうだと信じていますが。 今、あなたがクリスチャンとして話をしていきます。 あなたは自分を、聖徒として見ていますか? 私達はクリスチャンとして聖徒でしょうか? それとも私たちは罪人でしょうか? クリスチャンをどの様に見ていますか?  ご自分の人生をどの様に見ていますか? あなたは聖徒ですか? それとも罪人ですか? 私達は聖徒ですか、それとも罪人ですか? そしてこれは非常に重要な事なのです 正しく答えることが大事です。 私は、 このことについて調べていて、とても驚かされました いかに、私たちの伝統、眼鏡に 私達が影響を受けてしまっているか。 というのは、このデンマークで、人々に、 彼らは聖徒か罪人か?と訊くと、 デンマークのキリスト教会のクリスチャン達に 訊いているのです 殆どの人が、私達は罪人です、恵みによって 救われている罪人だと答えます。 デンマークで殆ど誰も、私達は聖徒です、 と言う人はいません。 なぜでしょう? 私達が聖徒だって、あなたは聖徒の様ですか? いえ、いえ、あなたは、罪がないのですか?  私たちは、またあなたは誰だと思っているんですか? 聖徒であることについて、話す時には恐れがあります 私たちは罪人です、恵みによって救われた罪人です。 私達全員が罪人です。 そして私は人々とこの事について真剣に話し合いました。 ひとつの事が私のメガネを外すのを助けてくれました。 それは、私の旅です。 世界のあちこちで、人々に会いました。 TLRアメリカで働いている私の友人のダンがいます 彼と話すのはすごく面白い。 彼から私は沢山の事を学びました。 彼も私から沢山の事を学びました。 二つの世界の見方が一緒になるからです。 私が彼に電話をして、 「ダン、私達は聖徒それとも罪びと?」と聞いた時、 彼は言いました。「私達は聖徒だよ、もちろん私達は聖徒、 かつては罪人だったけど救われて今は聖徒になった」 彼の住んでいる地域や、彼が働いている教会では  聖徒 という言葉を使っています アメリカの大半の場所では、聖徒と言う言葉を使います。 もちろん別の場所では 他の教派ではもちろん、アメリカでも、 罪人 という言葉を使う所もあります しかし私は、はっきりしたパターンを見ることができます。 これらの言葉に関して。 私に見えてきたのは、カトリック教会とレフォメーション、改革派が強いところ、 また、アメリカでも、 改革派とカトリック教会が強いところでは、 これらの他の教派も、私達は罪人であると、信じている。 もちろん私たちは罪人だ、と。 しかし、彼らが強くないところでは、 ペンテコステの運動や、他の教派が強いところでは、 彼らはより自由なので、私達は聖徒です、と言います。 バプテストか、メソジストか、ペンテコステが 私達が聖徒か罪人かという見方を、 作り上げているのではない、 なぜなら、デンマークのペンテコステは、 とても強いルーテル派の背景があるので、 他の国々のペンテコステとは違う見方をしている。 ほかの国々では、ルーテル派や カトリックの背景がありません すべての教会は自分自身によって 影響を受けているのではなく、 誰もが、レフォーメーションに影響を受けている、ルーテル教会はカトリック教会に影響を受けている。 このことがわかると、これはとても面白い 私はデンマークで育ちました。 デンマークで私がクリスチャンに質問すると、 だれもが、私達は罪人です、罪びとです、 罪びとですと答えます。 しかし、、北欧のスカンジナビアの国の、 その小さな箱から出て、例えば、 その箱から出て、他の場所に行くと、 この眼鏡をかけていない人たちがいて、 彼らは他の眼鏡をかけている、 あるいは眼鏡をかけていないかもしれないが、 彼らは、いいえ、いいえ、いいえ、私達は聖徒です あなたの周りの誰もがある一つの事を信じていて、 正しく把握していないかもしれない なぜなら、あなたの周りの誰もが 間違っているかもしれない、 なぜなら、間違った基礎の上に建て上げているからです。 カトリック教会、ルーテル教会を、 み言葉が語っていることの代わりに基礎にしている み言葉が何を語っているかを見て行きましょう。 デンマークでは、私達は罪人です、 クリスチャンは誰もが罪びとですと言っています。 私達は誰もが罪びとです。私たちは聖徒ですというのは、 いいえ、聖すぎる! 聖徒であるというのは言い過ぎだ 私は考えました。アメリカでは、 「私たちは聖徒です、あなたは聖徒です」と言っています。 それは、み言葉が何かを知らないからではないのか、 例えば、デンマークでは、アイラブユーと言うと、 それをデンマーク語で言うと、これからデンマーク語を 習ってもらいますが、アイラブユーは、 ヤイエルスカダイ。 わたしにとって、デンマーク語で誰かに、アイラブユー、 ヤイエルスカダイ、と言うのは、少し難しい、 というのは、私はあなたを愛します、という意味であって、 誰にでも向かって使うことばではない でもデンマークでは私たちは英語の表現、 アイラブユー、をすぐに取り入れて、 アイラブユートゥーを使いますが、デンマーク人としては、英語でアイラブユーと いう方が、デンマーク語で言うよりも簡単です。 なぜなら、それはただの言葉だからです。テレビで見たり、歌の中に聞いたりしたことのある表現だからです。 誰もが、アイラブユーと表現をしている、 たぶんそれと同じように 「聖徒」についても同じようなことかなと 私は考え始めました。 アメリカでは、「私達は 聖徒だ」 「ええ、彼は聖徒です」、のように使っている。 しかし、カトリックの背景がある人の所に行くと、 「聖徒のよう」「いいえ、いいえ、聖徒だって?」 「聖徒になるには、 法王があなたを聖徒にしなければならない」 「聖徒になるのは、ほんの少数の人々であって、 誰か特別な人です」 これはとても面白い、言葉は変えられてしまった。 クリスチャンという言葉を取ると、 今日誰もがクリスチャンという言葉を使う。 クリスチャンの意味は、小さいキリスト、 ということなので、 私達がイエスキリストの様だということならば、 人々はこの言葉を使わないでしょう。 では、聖徒とは何でしょう。 聖徒とは聖書によれば、聖い人達です。 あなたは聖いですか? あなたは罪人でしょうか。 私は聖いという言葉を使いたいと思います。 アメリカに住んでいる人にとっては、 聖徒という言葉は誤用されているので、 わたしは、聖い人々と、罪人という言葉を用いました。 ここで質問です。私たちはどちらでしょう? あなたはどちらでしょう? あなたは聖い人ですか? それとも罪びとですか? 聖書が何と言っているか見てみましょう。 聖書には、聖徒は聖い人々だと書いてある。 その例を使徒の働きの中、2か所に見ることができます。 エルサレムの聖い人々、と使徒の働きに書いてある。 ルカが使徒の働きを書きましたが、 クリスチャン、弟子たちについて、ルカは、 聖い人々 という言葉を使っている。 もう一か所では、同じ章に、 ルダに住んでいる聖い人達、 ここでは使徒の働きを書いたルカが、クリスチャンについて、聖徒または聖い人々という言葉を使っている 聖書の他の場所ではどうでしょうか? 使徒の働きの中だけで使用されていますか? いいえ、 聖書の中の殆どすべての手紙の中で見られます。 3通の手紙を見て行きますがエペソ人への手紙では、 エペソに住む、神の聖い人々へ、とあり、 ピリピ人への手紙では、ピリピに住むすべてのイエス キリストにある神の聖い人々へ、コロサイ人への手紙では、 コロサイに住む神の聖い人々へと書いてある。 ここで私たちは読みます、 パウロが、自分の手紙をこの市の聖い人々へ、 この市の聖い人々へ、 この市の聖い人々へ、と書いている。面白いのは 使徒の働き、新約聖書を読むと、 彼らはいつも、クリスチャンを聖い人々と呼んでいる。 聖徒と。 そこで聖い人々、あそこで聖い人々、 聖い人々、聖い人々、、 使徒の働き、新約聖書を見ると、クリスチャン、 弟子が、聖い人々と呼ばれている 何度も読むことができる。 私は、43、44か所、見つけました。 聖書の中で、 彼らは聖い人々、聖徒と呼ばれていたのを、 見つけることができる。 40回以上、見つけることができる。 クリスチャンが罪人と呼ばれているところが聖書の中で、 何か所出てくるか知っていますか? 一か所もありません。 聖書ではクリスチャンは罪人と呼ばれたことはありません。 決して、決して、決して、決してありません。 今日、多くの教会で、私達の固定概念で、私達を罪人、 と呼ぶことが聖いことだと考えている。 私達は恵みによって赦された罪びとだと。 デンマークとスカンジナビアの国々では、 私はそこで育ったのですが、 もし、私が人々に、私達は聖い人々です、と言ったら、 いいえ、いいえ、 自分自身を聖い人と呼ぶことは、、、殆ど罪であって、 私達は、罪びと、罪人、罪人ですよ。 デンマークでは私たちの固定概念になっているので、 バプテスト、メソジスト、ペンテコスト、 どの教派であっても、デンマークでは、 私達は罪人、罪人、罪人、 罪人であると考えます。私たちが救われた後になっても なぜそう考えるのでしょうか? なぜなら、デンマークでもあなたが住んでいるところでもそうかもしれないが、 どの教派も、同じ基礎の上に建てられているからです。その基礎とは、カトリック教会であり、ルーテル教会です。 そこからこの固定概念が来ているのです。 私達は罪人、罪人、罪人、 ひとつの真理があり、その真理とは、 人々は罪人であるということです。 そして、救いを必要としている、ということです。 しかし、あなたが悔い改めて、救われる時、 あなたは、もう罪人ではない。 なぜならあなたの内に新しいいのちが始まったからです。 でも正直なところ、今日と次のレッスンで見るように、 問題があるのです。 彼らは、新しいいのちが始まっているのを 見ることができなかった 人々は罪人であり続ける、救われた後でも。 というのは、彼らは本当の福音を理解していないからです。 使徒の働きを見ると、初期のクリスチャン達に、 ハロー、私は罪人です、と言うと、 彼らはみ言葉をあなたにシェアしてくれて、 あなたが悔い改めて、救われることを願うでしょう。 もしあなたが「私は救われた罪人です」と彼らに言ったら、 彼らはあなたを見て、あなたは頭がおかしい?  「救われた罪人」ではありえない、 なぜなら、救われることは罪から離れることだから。 だからあなたはもう罪人ではない 何から救われると書いてあるのでしょう? 罪から救われるのです。 イエスが人々を彼らの罪から救ったのです。 イエスは人々を、彼らの罪の中で救いませんでした。 彼は人々を、彼らの罪から救い出すのです。 もし私たちが、罪の中で救われると考えるならば、 私達は罪人であり続けることができます。 救われた罪人であり続けます。 これが、一つの間違った固定概念になっています。 神のみことばにはそう書いてありません。 私達は、私達の罪から救われます。 私たちは罪人でしたが、今は聖い人々です。 聖い人とは、どの面でも完全な人という 意味ではありません。 私達は再び罪に落ちることができない。 人々は聖い人々であっても、まだ戦っている。 神のみ言葉に書いてある。 コリント人への手紙では、コリントの教会には たくさんの問題があった。 でも、彼らを聖い人々と呼んでいる。聖とは、 あなたが救われるとその日にそうなるということで、 あなたはその聖さを持ち続ける、続けることになる。 また後で話をしますが、 あなたが知る必要があるのは、聖書には、クリスチャンの ために、罪人という言葉はない、ということです。 もしそれが真実なら、なぜあなたは自分を罪人と呼ぶのでしょうか。人々はなぜ自分たちを罪人と呼ぶのでしょう? これが真実でないなら。なぜなら、 私達は間違った基礎の上に建てているのです。 でもおそらくあなたは、でも、パウロ、パウロ、パウロは、自分を罪人と呼んでいる、 私は聖書の中の40か所からの言葉をシェアしていますが、 聖なる人々、という言葉です。 しかし教会の人々は、これらのみ言葉を知りません。 多くの人が知っているのはこの一か所、 イエスキリストがこの世に来たのは、 罪人を救うためであり、私は罪人のかしらです。 パウロがこれを言っている。 デンマークではこれが使われています。デンマークの クリスチャン ルーテル派のウェブサイトに行って、 私達は罪人ですか、そうではありませんか、と質問すると、 彼らは、私達は罪人です、と言って、 この節を引用するでしょう。 イエスキリストはこの世にやって来ました、罪人を救うために、私はその最悪のものです。彼らは言います。 パウロが自分の事を最悪の罪人だと言ったと。 それがどういうわけか、聖いことになってしまった。 私は最悪の罪人です、、という人たちに会います。 いいえ、私はあなたより悪いのです、 いいえ、いいえ、私の方が悪いですよ、 自分が罪人であるということが、 聖いことになってしまった。 教会の中で人々は立ち上がって、私は罪人です、と。どういうわけか、私達をそうすることを聖なることとしています。 しかし、パウロは、自分が罪人であると 言っているわけではありません。 ここを見てみると、 イエスキリストはこの世に来たのは罪人を救うためである、 パウロはイエスが今していることではなく、 過去にイエスがしたことについて、 イエスは罪人を救うために来た、 イエスが救いに来た人々の中でも自分は最悪だった、と。 何故でしょう?その前の所を読むと、 彼は神をけがす者、暴力をふるう人間で、 めちゃくちゃなことをしていた。教会に反対していた クリスチャンを殺そうとしていた、 彼は神に対して狂暴な人であった、しかし 神は彼を救いました 彼は自分が最悪の罪人であったと言っている、 今はそうであるとは言っていない、過去形です しかし、私は最悪で「ある」という表現をしている、 なぜなら、彼はその時のことを語っているからです。 パウロが自分を最悪の罪人だと見ていて、 そう表現することが聖なることだと彼が考えていたと、 想像してみてください なぜ彼は聖書の中にある手紙を書くたびに、 クリスチャンを聖なる人達と呼んだのでしょう? クレージーなことではないでしょうか、 彼は自分を最悪の罪人と呼び、 彼が出会った人達を聖なる人達と呼んでいるのは。 あなたは聖い、あの聖い人の所に行きなさい。 しかし私は最悪の罪人である、これでは意味をなさない、 というのがわかりますか? これが宗教です。前のティーチングで見たように、 神のみ言葉の中でとても明らかな何かを取り上げて、 聖なる人々、聖なる人々、聖なる人々、、、、、 と40回以上書かれている。 それから、一つの節を文脈から外して取り上げ をの意味が分からないのに、その言葉から、 私達は神学を作りあげる そして、その他の言葉が何を言っているのかわからない。 なぜなら、私達は罪人だから。 これが、殆どすべての教会が建てられている基礎なのです。 私たちは救われた罪人です。 恵みによって救われた。 わかりますか?  これはすべて固定概念に問題があるのです。 私たちがキリストにあって私たちは誰なのかということと、 イエスが何をしたのかについて。もし、その固定概念で行くと、お~、あなたは罪人です、あなたは罪人です、あなたは 罪人です、私は罪人です、、私は何もできません。あなたは自由を体験すると思いますか。 いいえ、そうならないでしょう。 あなたが自分を罪人とみなすならば、 あなたは罪人として考え、罪人として生きるでしょう。 新しい創造 しかしあなたが、 自分は新しく造られたものだと知るならば、 新しい何かが始まり、 その新しいいのちをあなたは生きるでしょう、 このティーチングを見ている人すべての人が、自分は 聖い人だと言いなさい、とは言いません。なぜなら、 多くの人が罪人であるかもしれないからです。 あなたは悔い改めていなかったり、 あなたは、救われていないかもしれません。 私達が悔い改めた時に、何が起こるのか、 私達のいのちに何が起こるのかを 話しましょう。 そこから沢山の神学を作りたくはありません。 その証をしたいですが、最初は 聖書の言葉から始めます み言葉が語っていることがこれです。 私たちが罪について話すときに 誰でもキリストの内にとどまる者は罪を犯さない。 罪を犯す者はキリストを見てもいないし、知ってもいない。 アウチ! これは、み言葉言っていることです。 彼の内にある者は誰も罪を犯さない。 罪を犯す者は彼を見たことがなく彼を知らない マタイの7:21が言ってることを憶えていますか。 前にも話しました。 多くの人がある日イエスの前に立ちます。 イエスは、「私から離れなさい、私はあなたを知らない、 あなたがたは罪を犯している」というでしょう。 これは神のみ言葉です。 多くの人が他のみ言葉を知っています。 ヨハネ3:16は最も良く知られています。 私の質問はヨハネの3:16は、第一ヨハネ3:6 よりももっと神のみ言葉ですか? いいえ。 第一テモテ1:15は、第一ヨハネ3:6 よりももっと神のみ言葉ですか?  いいえ。 これも神のみ言葉です。 これは真実です。 誰も彼の内にとどまる者は罪の中を歩まない しかし、多くの人がこのことに問題を持っています。 「いえ、いえ、いえ、いえ、ちょっと、 リラックスして、トーベン!」 あなたは罪を犯さないと言っているのですか?いいえ、いいえ、いいえ、ヨハネの1:8-9を憶えていてください。 これが第1ヨハネの1:8,9です。 もし私たちが罪がないというなら、自分たちを欺いているのであって、真理は私たちの中にはありません もし私たちが罪を告白するならば、神は真実で正しいので私たちの罪を赦し、全ての不義からわたしたちをきよめます これは、神のみ言葉です。 これも神のみ言葉です。 宗教は一節をとって、神学全体を作りあげます。 もし私が教会に今日行くとすると、 教会のクリスチャンは殆ど誰もこの節を知りません。 でも誰もがこちらを知っています。 しかしもし当時あなたが生きていたとすると、 その時は章や節がある聖書がなかったので、 文脈全体を理解していましたが、 今日、聖書には章と節があって、 それゆえに、多くの人達がだまされています。 なぜなら、彼らは言います、 いえいえ、もしあなたが罪はないと言うなら、 真理はあなたの内にない、 私達は皆罪人だから、私達は皆罪人です。 しかしあなたはまたこの節を取って言います、もしあなたが罪を犯すなら、あなたは彼を知らない、と。 真理とは何でしょう? 神のみ言葉全体が真理です。 私たちが宗教眼鏡をはずすと、 み言葉に問題が無くなります。 私たちはみ言葉の一部を取り出して、 外に追い出す必要もないし、早く読み飛ばして、 あたかも見ないようにする必要もありません なぜなら、私達はそこに問題があるからです。 私の人生から証をシェアします。 私の人生でよいことは、私が救われた時に、 重たい宗教バッグを背負っていませんでした 多くの人が背負っているようなバックパックを持っていません。私はノンクリスチャンの背景から救われました。 ルーテル教会で、バプテスマを受けて、確信礼をうけた、 ただそれは伝統であって、 聖書を開いたことがありませんでした み言葉が何を語っているのか知りませんでした ある友人が私にイエスの事を話してくれた。 私は教会に行きそこで、聖霊が私に触れてくれた、 私は上に行って 悔い改め、イエスに私を救ってくれるように願った、 そうした時に、聖霊が来るのを感じた それは自分の中に入ってくる光の様だった。私は床に倒れ、そこで横になっていた。本当に神に出会った。 聖霊が私のからだの全体に降れているようだった。 1995年4月5日の出来事で、 あたかも昨日の出来事のように記憶している。 とても強力だった。私は、立ち上がったがまた座って 誰かが、「おめでとう、あなたは生まれ変わったよ、 トーベン」と言った。私は、ありがとう、と言ったが、 彼が何を言っているのか、わからなかった。私は、 生まれ変わる、という言葉を一度も聞いたことがなかった 私は彼が何を言っているのかわからなかったが、 ミーティングから家に帰ると、 なにか私の内に変化が起こった、 最初に起こったことは、私はいつも死が怖かった。 家に帰ると私は自分に言った、 トーベン、いつかあなたは死ぬ、 私が自分自身に、「トーベン、あなたは死ぬだろう」と言った時はいつも、パニックに陥ってしまった、「お~、 私は死ぬ、お~私は死ぬ」私はとても恐ろしかった、 死について考えたくなかった いつか私は死ぬ、ということを。 でも、今回そこで起きたのは、自分に 「トーベン、あなたは死ぬ、いつか」と言った時、 私は自転車に乗っていた、私は「はい、 私は家に帰るんです」 何が起こったんだろうと思った。 もう何も恐ろしくない。 その瞬間、私は恐れから解放されていた。 その時、私はへブル人への手紙2:15を知らなかった。 イエス・キリストは彼らを解放するために来た、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放した イエスキリストは私達を自由にするために来た、 私達は恐れで押しつぶされている、 私はその恐れを経験しました。み言葉を読んで、 私の思いの中で言ったのではありません。。 み言葉がそう言っているので、思いを取って、恐れよ、、、出て行け!  ではない。 いいえ、私は私の霊の中で経験したのです。 そして、このようなことが起こりました。 さらに起こったことは、 私は新しくなった、全体はわからなかったが、 なにか起こった 家に帰って、普通、金曜日には、パブに行って、 ビールを飲むので、 私はパブに行った、金曜日にいつもやっていたように。 私の思いは、まだ同じで 家に帰って自分の顔を見て、私が新しく生まれたって? 見た目は同じだ。私にとって、同じように見えた。 何が起こっているのか理解していなかった。 金曜日にパブに行って、そこに行って、 立って、周りを見回した時、 突然、目が開けられた。 自分はいったいここで何をしているんだ? ここには自分は属さない。私はイエスに出会った。「ノー」 私はそこから立ち去った。何が起こっているのか? もうそれを欲しくなかった。普通は、 よくののしったりしていた、呪いの言葉を吐いていた 悪い言葉遣いをしていた、しかし、嘘を言った時、 神の名前を誤用した時、 そんな時は、「お~、ひどい」と感じた。 今までなら、そういうことをしても問題がなかった。 今までの人生で全く問題がなかった。でも今は、 なにかが変わった、自分の内側で。 「お~、ひどい味だ、もうほしくない」 そうするのを止めました。 もう一つの事は、私にはガールフレンドがいたが、 罪の生活に慣れていて、彼女とベッドを共にした。 罪人である若い人達のように。私は罪人であった。 自分のガールフレンドとベッドを共にした。 でも今回は、ガールフレンドが来た。彼女が来る前に、 聖書はこのことについて何と言っているのだろう、 と考えていた。 彼女は来て、私と一緒に居たかった 私は強い誘惑を感じたが、罪だと感じさせるものがあった、 オーケー、しかし、 いえ、いえ、いえ、もうそういうことの仲間では なくなった、もうそんなことはしたくない、 しかし、その誘惑があって、 私は混乱した、み言葉は何と言っているのか、神様 これは罪ですか、何ですか?  神様、 私はあなたが望んでいることをやりたい、 神様、彼女とベッドを共にすることは罪ですか? 私はルーテル教会の堅信礼で学んだことを 思い出そうとした。 私はそこで何も学ばなかった、 聖なる日についての伝統だけだった、 ルーテル教会の伝統だけだった。 オーケー、み言葉は何を言っているのか考えていた。 正直なところ、私はその時、み言葉によると、 それは罪であるということが言えなかった。なぜなら、 私はまだ新しく(生まれたばかりで)、 神のみ言葉が何を語っているか知らなかった。 私は何をしたか。オーケー、神様あなたはいますか? ハロー! 誘惑はとても強かったので、 神様、あなたはいますか? オーケー、神様あなたはそこに居ないなら、 私は神を取って、脇に置き、 ガールフレンドとベッドを共にしました。 彼女とベッドを共にしたとたん、 「おー、ノー、おー、ノー」 神様、私は何をしてしまったのか? 私は何をしてしまったのか? 自分の内に、罪を犯したことを感じることができた。 私は罪を犯した、神様、わたしを赦してください 神様、私はあなたを見つけました、 私はあなたを失いたくない、私を赦してください。 私の身体全体が神に向かって悲しんでいた。 私は、罪を犯した。 私が罪を犯したことは明らかだった。間違いだった。 私が罪を犯したその瞬間、 そのことが悪いことだとすぐわかった。 その時、もし私のノンクリスチャンの友人がいたら、 彼らは、こう言ったと思う 「ちょっと、トーベン、リラックスしろ、 神は愛だ、神は愛だから、なんでもオーケーだよ、 神は愛だから、なんでもオーケーだ。 ガールフレンドとベッドを共にすることは罪ではない、 もしあなたが彼女を愛するなら」 と彼らは言ったでしょう。 しかし、この地上の誰も 私をそれ以外なことを説き伏せることはできなかった。 なぜなら私の内に、私は、知っていた、私は知っていた、 私は罪を犯したと。なぜ私はそれを知ったのか? 私は悔い改めたからです。 悔い改めは、ただ私たちがそうするだけではなく、 神が何かをするのです。 私たちが罪を悔い改める時に、 私達がイエスキリストに信頼する時、 イエスが十字架上でしたことに対して 神は私たちの人生を変えてくれる、 神は私たちの内に何か新しいものを創造してくれます。 これが新しい契約です。新しい契約でイエスは これらのものをもってきました。 なぜなら、彼は私達を罪から救いたいからです。 新しい契約の中で、 彼は罪の中に居る私たちを救うだけでなく、 私達を、「私たちの罪から」救い出します。 そして、新しい人を造ります。 イエスが来る何年も前に書かれた エレミヤ書に書いてあります。 その預言では、神は新しい契約を創り、 私の律法を彼らの内に入れる、エレミヤ31:33 彼らの心にその律法を置き、その心に書きしるす、 私は彼らの神となり、彼らは私の民となる エレミヤは、イエスが来る600年も前に、預言して、 ある日、神は何か新しいものを創り、新しい契約を創り、 そこで、神は、石に刻まれた十戒を私たちの心に入れます。 そう神は言っている。同じみ言葉がここ、 へブル人への手紙、2章にも書いてある 新約聖書のへブル人への手紙の2章では、 古い契約と新しい契約について書いてある、 律法は私たちの心の中に書かれる 彼が私たちの神となり、私達は彼の民となる これがこのことのすべてです。同じ節がエゼキエル11:19にもあります。この予言者は、こう予言しました。 私は彼らに一つの心を与える。 あなたがたの内に新しい霊を与える。 彼らのからだから石の心を取り除き、 なぜ神は私達に新らしい霊を与えるのでしょう? なぜ神は、私達から石の心を取り除くのでしょう? なぜ神は私達に新しい肉の心をくれるのでしょう? 神は言いました、彼らが私のおきてに従って歩み、 私の定めを守り行うためである。 こうして彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。 これがイエスがしたことで、 私達を罪から救いに来たのです。なぜ? どうやって? 私達に新しい霊を与え、 そして私達に肉の心を与えます。 彼は私達から石の心を取り除き、私達に肉の心を与えます。 彼は、十戒を私たちの心の中に書きます。 そうして、私達は神のおきてに従って歩み、 神の定めを守ることができるように。 それは、行って、十戒を記憶しなさい、ではなく、 行って、何が悪いことで、何が悪くないことかを憶えていなさい、ではない。「いいえ」 新しい創造によって、それは私が体験したものだった、 何年も前になるが、それを体験した なぜ? 福音は救いの力であって、 ただの宗教的な活動ではない。 新しいからだです。何かあたらしいものが始まった。 私に起こったことは、私は悔い改めた。 神様、私を赦してください。私を赦してください。 その瞬間、私は新しくなった、 私は、神が私を赦したことを、示される必要があった。 私はまだ新しくなったばかりで、 神のみ言葉の全体を知らなかった。 私は祈ったが、混乱していた。 隣の街に教会があって、そこでその夜 ミーティングをしていたのを聞いて、 私は車に飛び乗り、そこに向かった。その途中、 神に言った、私を赦してください、私を赦してください、 次に女性と一緒になるときには、 自分の妻と、ハネムーンに行きます。 神様、助けてください。赦してください。 私は本当に悔い改めた そうすると、なにか驚くべきことが起こった。私はそのミーティングに出て、そこの人々は私を知らなかった。 ただ数人の人達は私は前に見たことがあった。 そのミーティングで、ひとりの女性が、 ミーティングが始まるときに立っていて、 私に言葉があります。 「若い男性がしてはならないことの前に立っています。 私が見ていることを彼は知らなかった。 私を取って、脇に置いて、罪を犯しました。 しかし彼は悔い改めたので、私は今、彼を赦します」 私はそこで立っていました。ショックを受けて。 私はガールフレンドと二人だけだった。 私は誰も見ていないと思ったが、私は、あなたは、 決して一人ではない、神はすべてを見ている。 でも私は思った、「お~、」神様、私は神をわきに置いた、 しかし神はそれを見ていたそして、 私はミーティングに行った。 彼女は、その言葉を語っただけでなく、 彼女はこのようにした、私が自分のアパートで やったのと全く同じようにして。 その時以来、神はすべてを見るということを 知った。またドアを閉めて、 明かりを消しても、神はすべてを見ることを。 私はそこに立っていた。わ~、 神様、感謝します。あなたは私を赦してくれたから。 すぐに聖霊が来て、ふ~~っ 私は神に出会った。私はハイになった。 家まで飛んで帰るようだった。車の中で、私は赦された、 私はとても幸せで、とてもハイになって、 神に言った。神様、次の人は 私の妻になる女性です、ハネムーンで 私は今はあなたとデートをしたい。私はあなたを知りたい。 私は女性にフォーカスしたくない。 あなたを求めたい。あなたを知りたい。 私のために女性を見つけてください。 そのように祈りました。3か月後、デンマークの反対側で 開かれた、大きなクリスチャンコンサートに行った。 500人ほどの人がいて、そこで私は立って、 神を賛美していた。突然 神が私に語った。女性のことを考えてはいなかった。 先月、というのは、私は神にフォーカスしていたので、 そこで神は私に語った。トーベン、あなたの後ろに 立っている人が、ある日あなたの妻になる人だ。 私は「なんだって?」 後ろを振り向くと わ~、そこに一人の少女がいて、これが私の妻! そしてもう一度振り向いた。わ~、 自分の後ろに私の妻が立っている、 7列後ろに、私は見た時、それがわかった。 コンサートが終わって、最後の歌の時に、 私は家に急いで帰らなければならなかった。 私を待っていた友人と一緒に車を運転して、 私は彼女に微笑んだだけだった、 彼女は離れて立っていたので、私は微笑んだだけだった そしてすぐ車に飛び乗って、家に帰った。 帰る道で、私は友人に、「ちょっと、 マイケル、私は自分の妻に出会ったよ、 彼女の名前も、どこから来たのかも知らない、 彼女について何も知らないけれど、神が私に言った、 あの黄色のドレスを着ている人がいつか私の妻になる、 私にはそれがわかった、 家に帰って、神に言った。彼女がデンマークのどこから来ているのか知らないけれど、また合わせてください。 3か月後、私は彼女に会いました。 ハロー、ハロー。私は彼女と知りあいになり、 一緒に話をして、 結婚しました。3日前に、私達は結婚17年を迎えました。 3人の子供たちがいます。 私達が罪から、自分たちのやり方から悔い改めると、 神はずっと良いものを私達にくれます。 私の妻は驚くべき人です。彼女は聖く、 クリスチャンの家庭で育ち、 私以外誰にもキスをしたことがない、 誰かと一緒にいたこともない、 神が彼女を保っていてくれた。彼女はとても強く、 私達が罪の生活について話すとき、 彼女から多くを学びました。 私の妻の中に、他の多くの人達とはとても 異なったものをたくさん見ることができます。 彼女の歌を聞いたことがあると思いますが、 彼女は大変なところを通りました。彼女は強いのです。 彼女は家族にとって城壁です。 私たちはよく一緒に旅します。 私達は今一緒に働いています。私は公に知られていますが、 妻がいなければ、今の私はありません。私の妻は強いです。 驚くべき女性です。神は私達を一緒にしてくれました。 疑いの余地がありません。 私たちが自らの道を悔い改めると、 神が私たちのためにより良いものを備えている。 これはどういうことでしょう?  キリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩まない 罪のうちを歩む者は誰も、キリストを見てもいないし、 彼を知ってもいない (第一ヨハネ3:6) もう一つの節、第一ヨハネの3:9、 誰も神から生まれたものは罪の中にあり続けない、 神の種が彼の内にとどまるから。 彼らは罪を犯し「続ける」ことができない。 彼らは神から生まれたものだからです。 これはどういう意味でしょう?これは良い訳だと思います。 神から生まれたので罪を犯し「続ける」ことはできない、 なぜなら、彼らは神によって生まれるので。 また誰も彼にある者は、罪を犯さない。 誰も彼にあるものは、罪を犯し「続け」られない。 これがみ言葉言っていることっです。ヨハネの3:16  神はこの世をとても愛したので、ひとり子を送った それは誰でも彼を信じる者は永遠の命を持つ。 この言葉は誰でも彼を信じる者、 そして信じ「続ける」者、この言葉は、 誰か一回、何年も前に信じた人の事を 語っているのではありません。 み言葉を見ると、継続する言葉で、 誰でも信じ、信じ「続ける」者、 これは、誰も神から生まれたものは 罪を犯し「続け」ない、 なぜなら、彼は神から生まれたものだから なぜ、彼は罪の中に居続けないのか? 律法が彼の心の中に入れられたから。 これが私が体験したことです。 世界中の数百万の人々が経験したことです。 あなたがあなたの罪を悔い改める時、 イエスキリストを信じる時、 神はあなたの内に新しい心を造ります。 あなたは罪を犯し続けることができなくなること を意味します。 姦淫の現場でとらえられた女性が、イエスの所に来ました 彼らは彼女を、石打ちの刑にしたかったが、 イエスは彼女を責めず、赦しました。 そして言いました。「今あなたは赦された、行きなさい、 もう罪を犯してはいけない」 もし彼女が罪を犯し続けたら、どうなったでしょう? 私達は赦されると罪を続けることができません。 私たちは別なみ言葉も正しいということを 理解しなければなりません。 もし私たちが罪を告白するならば、 神は真実で正しいので、私達を赦します。 赦しは悔い改めと関係があることを 理解する必要があります。 悔い改めはあなたの心と、あなたの思いと関係があります。罪を止めるということに関係があります。 私が罪を犯した時に、私は赦されました。 しかし、私は罪を続けませんでした。 なぜなら、み言葉が何と言っているかを 知っているからです。 今日、私達の世界、教会では、人々は、 み言葉が語っていることを知りません 彼らは神の真理を知らない。へブル人への手紙を見ると、 ヨハネの3:16と全く同じ、神のみ言葉を見つけます。 へブル人への手紙10章、 10章26節には、 真理の知識を受け取った後に、 強情に罪を犯し続けるならば 罪のためのいけにえは、残されていません。 へブルの10章を読み続けることができます。 強情に罪を犯し続けるなら、 私達の罪のためのいけにえはもうありません。 その結末は永遠の裁きです。 これが神のみ言葉が語っていることです。多くの人達がこのみ言葉を知っています。そして読んでいます。 お~、強情に罪を犯す、しかし、私は強情に罪を犯してしまった。 そのみ言葉は何を意味しているのでしょう? 私がガールフレンドの前に立っていた時、 彼女とベッドを共にしたとき、 私は強情に罪を犯していた。 それを自分の中で、どういうわけか、わかっていた 知らなかったと同時にわかっていた。 そして私は罪を犯した。 しかし神は、私を赦した。このみ言葉、 もしあなたが強情に罪を犯すならば、は、 あなたが罪を犯し「続ける」ならば、と同じです。 もしあなたが、強情に罪を犯し「続ける」ならば、 聖霊があなたから、離れて行くところまで来てしまう。 悲しいことに、救われたけれど、ガールフレンドと一緒に 暮らしている人たちを、私は知っています 彼らは、その罪の中に居続けることができなかった、彼らは救われたから。ガールフレンドから離れたが、あとで、 彼らをその罪に自らを明け渡してしまった。 徐々に罪が入ってきて、 徐々に徐々に、入ってきて、またガールフレンドと一緒になってしまった。姦淫の生活をしていた。 私は彼らに会いました。「その生活に問題がありますか?」と彼らに聞くと、 彼らは、「いいえ」と言いました。しかし以前は、 彼らは問題としていたのです。 何が起こったのでしょう? 一時期、彼らは救いを経験 しました。彼らの心の中に聖霊がいました。しかし、 そこにとどまらなかったので、注意しなければいけないことを彼らは理解していなかったので、 私達に神が与えたものについて、 また、聖霊に聞くことについて。 彼らは心の中で聖霊に反対し「続け」たと思います。 そのような生活を「続け」たので、聖霊は悲しみ、 彼らから去って行きました。 彼らは元の罪の中に戻ってしまった。最後の部分は始まり よりも悪くなってしまう、と聖書は言います。 罪について語る時、 教会の中で罪の事が全く分かっていない。 私達は常に罪人であると考えている。 本当は、私達は罪人であったが、 神は私たちの内に新しい心を造られた、 もし、私達がその新しい心を持つならば、 私達は強情に罪の内に生き続けることはできない、 なぜなら、私達には、新しい心があるから。 第一ヨハネの手紙を見てみましょう。 面白いことが書いてあります。 第一ヨハネ3:7です。神の子供たちについて語っています。 また他のこと、私がここで読んでいたことも 書いてあります。 小さい子供たちよ、誰にもだまされてはいけません。 義を行うものは、キリストが 義人であるのと同様に、義人です。 罪の内を歩むものは悪魔から出たものです。 悪魔は初めから罪を犯しているからです。 神の約束は、イエスが悪魔のしわざを 打ち滅ぼすことにあらわされました。 イエスは私たちの内の罪を打ち滅ぼすために来ました。 10節には、 このようにして私たちは、神の子供たちがだれであり、 悪魔の子供たちが誰であるか、を区別します。 義を行わないものは誰も、神の子供たちではありません、 兄弟や姉妹を愛さない者もそうです。 これがヨハネが言っていることです。 このようにして、私達は、 神の子供たちと悪魔の子供たちとを区別します。 このようにして私たちは知ります。 これはすぐこの節の後に来ています。 このようにして私たちは知ります。 どうやって私たちは知るのでしょう? 誰でも新しく生まれた人は罪の内に居「続け」ない、 それによってあなたは、誰が神の子供たちか、 そうでないのかを知るでしょう、 異言を語るかによって知るのではありません 悔い改めたか、最初にすべきことをしたかどうかによって、異言を語るかによってではなく、病人を癒すからではない 私達が悔い改めたかではない、 私達はこれによって知ります。 これによって私たちは知ります。誰が神の子供たちであり、また、誰がそうでないかを。 私は多くの人達に話しました。 多くのノンクリスチャンに会います。 また多くのクリスチャンに会います。 教会の宗教的な人々に話す時、 若い人達の前に立って話す時、彼らに訊ねます。 あなたは罪の生活をしていませんか? ガールフレンドについて、とても軽い調子で、尋ねます。 あなたのガールフレンドとベッドを共にしますか? 彼らは「はい」と言います。そのことを問題と思いますか? 「はい、問題と思うけれど、、」、 なぜ? どこで? あなたの頭の中では 問題だと思っている? なぜなら、これはわるいことだと聞いたことがあるから? または、内側でこれは全く悪いと感じるから? 多くの人が「頭の中では問題がある」と言います。 なぜ、彼らはそう言うのでしょう? なぜなら、 ここ内側で問題ならば、 これが悪い(軽い感じ)というようにはならない。 内側からならば あなたは罪を犯している! あなたは罪を犯している、 彼らは疑いの余地なく、自分が罪を犯していると知ります。 なぜなら彼らは神から生まれたものだからです。 でも、彼らは神から生まれたものではないので、 彼らの固定概念の中で宗教的になっているだけです。 これ(頭)は、罪に対して問題はありません。 固定概念の中で、これはしてはいけない、 悪いことと思っていても 頭から霊まで達していないので、 だから教会の中で多くの人達が罪の生活をしている そして私たちは彼らをクリスチャンと呼んでいる。 彼らを罪人と呼んでいる、天国に行く罪人、 私達は皆罪人です、彼らは罪に生きている、 しかし、私達は皆罪に生きている、彼らは罪を続ける、 しかし彼らは神を信じている、「いいえ」 神がそこにいることを信じるかではなく、 「このこと」により誰が神の子供たちであるか知る、 誰がそうでないかを知る 「このことに」よって知る 人々が強情に罪に生きるならば、 あなたがそれを知っていて、見ているならば、 彼らが何を信じるかは問題ではない、 もし彼らが強情に罪に生きるならば、 彼らは新しく生まれたのではない 彼らが教会に来ても、彼が神父であっても、 自分は神を知っている、聖書を読んでいると言っても、 彼は新しく生まれていない。 なぜなら、神が来て、新しい心を造ってくれた、 神は常に聖く、神は変わっていない。 古い契約に私達が読む神と同じ神です。 神は変わっていません 変わらなければならないのは私達です、神の霊によって。 神の律法が私たちの心に刻まれる 悔い改める時に、そういうことが起こる。 「トム、あなたは罪がありませんか?」 「いいえ」 私は、いるべきところ(理想なところ) にいるとは言いません。 しかし、私は過去の私ではありません。 さらに先があることを知っています。 キリストのように なる必要があるからです。私はキリストのようになりたい。 初めて救われた時に、私は罪を犯した、大きな罪を ああ~、私はもうそれはできない、その後、 そういういことを切り捨てることが簡単になってきた。 もうそれはできません。 頭と思いを切り分けることはできない、 最初、大きな罪について、神は私を取り扱い始めた 私の頭の中の思い なぜ私は、このように反応したのか? なぜ言ったことを言ってしまったのか? それは自分の王国を建てるためなのか?プライドのためか? 私がしたことは、なぜそうしたのか? 神は私の内に働き「続け」た。 そして今日でも、まだ働いている。 神は私が彼の前に立つ日まで、私の内で働き「続け」る 私は神に私の内で働き続けて欲しいと願っている。 もしそこで私が止まって、 「いいえ、もうたくさん」と言ったら、 彼は私の主ではなくなってしまう 私は神に私の内で働いてもらう必要がある。 ある期間、神は、私の内で、深く、 深く、さらに深く、働いてくれた。 強情に罪に生きることと、 罪に縛られていることには違いがある。 私はたくさん悔い改めることがあったが、自由を経験した しかし私の生活の中で、 私が抜け出すことができないものがあった。 ここに一つ、あちらにいくつとか、 私はそれを愛していたわけではない、 そういう中で生きたかったのではない、しかし そこにはまってしまった、その中、またほかの中に、 お~、自分は自由ではないと感じていた、私を苦しめた、 しかしバプテスマを受けた。バプテスマを受けた時に、 最初は何も起こらなかったが、あとになって、 バプテスマが何であったかという啓示を受けた 私は、ローマ人への手紙の6章を歩み始めた。 罪から自由になった。 ある時、ローマ人への手紙6章を読み、罪からの自由、 ローマ人への手紙 6:14を読んだ。 すると突然、それが何であるか分かった。 私は自由だ、あ~、私は自由だ。その瞬間から、 私は新しい始まりを体験して、もう一度、 私は、罪からの自由を体験し、 最後の(悪い)ものが私の人生の中で壊されて、 新しい始まりが再度始まった。 なぜなら、これらのものは罪とかかわりがあった。 全てがきよめと罪とに関係があった。 今日、カトリック教会、ルーテル教会、カルビン派や 他の教会でも、水のバプテスマを受けない人たちがいる 彼らは、水のバプテスマを受けていないので、 ローマ人への手紙の6章のように、歩むことができない。 彼らは自由を体験しない。彼らは、ローマ人への手紙の 7章を歩んでいる。罪の意識と戦っている 彼らは水のバプテスマを受けず、 罪から自由になっていないので、 彼らは、自らの経験の上に神学を作ります。 その神学は、私達は罪人です、のようになります。 私達は皆罪人です。 私たちは聖徒です、私達は聖いです、という代わりに。 イエスは罪の中にある私達を救うために来たのではなく、 彼は、私達を、「私達の罪から」救うために来ました。 イエスはマタイ23章で、パリサイ人に言いました。 「あなた方はわざわいである。 律法学者、パリサイ人、偽善者よ あなたがたはコップの外側をきよめるが、 中は腐っている、その中は、あまりに腐っている。 コップの中もきよめなさい、そうすれば外側もきよくなる、 これがパリサイ人達の問題でした。 これが宗教的な人達の問題です、今日。 宗教的な人達は、コップの外側をきよめるが、 内側はとても腐っている。 私は多くの人達に会ったが、 彼らは宗教的な伝統の中で育ってきた 私が、「あなたは自由になることができる」、と伝えると、 それはいいニュースになる。なぜなら彼らは何年も、クリスチャンとして歩もうとしていたし、すべての知識があった、 しかし、いつも自責の念がある。彼らは、いつも戦っており、罪を続け、戦って、また罪を続け、戦って、戦って、、 自由を経験できないでいる。 なぜか? 誰も彼らの内側を新しい心で、 きよめなかったからです。 バプテスマの自由。彼らは、きよめられていないので、 内側が腐っていると感じます。 多くの人の内側が腐っています。 教会に何年も来ている大勢の人たちに、私は会いましたが、 彼らは、自分たちは救われていると考えていた、 なんでも知っていると考えていた しかし、本当に救われた時、彼らは、 私は騙されていた、と言いました。 正直なところ、そういう人たちに、 ペンテコステ教会でも、バプテスト教会でも 多くの教会で会いました。それは宗教以上のものであって、いのちなのです。 私達は、いのちから神学を作りあげるべきではありません 私が罪から自由になる経験をしたのは、 誰かが私の上に2秒間、手を置いたからではない、 いいえ、神を求めることによって経験しました。 悔い改めと、断食と、神を求めることによって。 私達の問題は、時々、大きいものを今すぐここで、 欲しい、ということではないかと思います。 私達は時間のかかることをしないので、 神が私達に与える自由に入ることができない 必要なことを私たちはしていない、 それゆえに、多くの人達が自由の中を歩んでいない 次に、私は、水のバプテスマについて話します。 罪に関連して話します。 私の証をシェアします。いかにして 罪から自由になったかという経験を。 私の本の中にあります。今日この本を入手しました。 このティーチングをする前に、郵便が来て、 その中に、この本もありました。 始めて自分の手にする本です。ほんの1時間前に これが私の本、「健全な教義」という本です。 アマゾンから出ました。 私はアマゾンに発注しました。それで今日この本をここに持っています。あなたもアマゾンに発注できます。 私のウェブサイトに行くと、そこにあります。 この本の中に、どのように断食したかということを 話しています。 いかにして、罪から自由になったか、いかにして、 罪を憎み始めたか、あなたは罪を憎む必要があります。 自由になるためには。私がどのようにして罪から 自由になったかの経験をそこに書いています。 もしあなたがもっとティーチングを欲しいならば、 私は普段、英語を話さないので、 あまり詳しく英語で話しません、 英語は、まだ私も学びの途中ですので。 しかしここでは、聖書の言葉がたくさん入っています。 また、罪についても、神を恐れることについても、 罪からの自由について、 詳細が書かれています。どうかこの本を買って、 次のティーチングまでに、読んでください。 次には、この続きを離します。 これがあなたへのみ言葉です。 このビデオをこの言葉で終わります。 あなたはどこにいますか、あなたはどこですか? 私がこのことについて話すとき、 多くの人がクリスチャンの家庭で育ち、 そう簡単ではないですが、 なぜならあなたは、どう生きるかという生き方について すべてを知っている、 私の思いの中にある、私の霊の中にある。一番重要なことは あなたが今、罪の中に生きているということです。 あなたは自由を体験しますか?罪からの自由を? もし私が何か悪いことをすると、 お~、この道を進んではいけない ここで今、止まらなければいけない もしこの先を行くなら、これは罪だ、 そう私の内で感じることができます。 あなたが今どこにいるのか、私は知りません。 あなたはそのようなことを全く経験したことがなくて、 罪の中で生きていますか? もしあなたが罪の生活を送っているなら、あなたは新しく 生まれていません。あなたは悔い改めなければなりません あなたは悔い改めて、これを理解して、全てを神に 差し出して、水と聖霊のバプテスマを受けてください。 神を知るために、まだそれらをしてなかったのならば。 しかしあなたはたぶん、そういう経験をした、 というところにいるかもしれない、 しかし聞くのに遅く、大分前には、 とても革新的だったかもしれない、 もしそうだとしたら、あなたは何かをしなければならない、 もしテレビが問題なら、それを家から放り出してください、 革新的に生きるのを妨げているものがあれば、 それを廃棄してください。 あなたが聖い生活をするのを妨げているものがあれば、 それを処分してください 私達がそれがなんであるかを知ると、自然にわかります。 私達は物から遠ざかります。 家にはテレビがありません。それは私が座って テレビでポルノを見るからではなく、 インターネットがあるので、ポルノを見たかったら、 私は見ることができます。 今は私の人生には、神への恐れがいっぱいあって、 自由を体験しているので、 私はそうしません。しかし私はテレビを持っていません。 私は自由に時間を使うことができるので。 テレビは私をスローダウンさせるし、思考が不活発になる。 英語の単語を知らないけれど。  まあ、そんなに問題ではない、これを見て、あれを見ても大丈夫、 と自分がいっぱいになってしまう。 多くのクリスチャンはテレビを始終見ている ノンクリスチャンの音楽を聴いている。 私には理解できない。 それはできない、 あなたの霊を良いもので満たす必要があります。 あなたの霊を満たす必要があります。 罪から離れるだけでなく、 ガラテヤ人への手紙 5章には、 肉の実と、聖霊の実について書いてある。 19節に。肉の働きは、 長いリストがあり、偶像礼拝、妬み、 他にもたくさんあり、彼はそこで、 そのようなことを行っているものは、決して 神の国を継ぐことができないと書いている。 彼はそのことをクリスチャンに言ったのです。 もし、そのようなことをするならば、 あなたは、決して神の国を継ぐことはない それから聖霊の実について彼は語っている。愛、喜び 忍耐、親切、善意、誠実、そして彼は、 イエスキリストにつくものは自分の肉を十字架に つけてしまった、情欲と欲望とともに。 もしあなたがキリストにあり、彼につく者であるならば、 あなたの肉を十字架につけてしまった。 クリスチャンとは何か? 悔い改めとは何か? 悔い改めとは、肉によって歩んでいる、 その道に出て歩いている、 その大きな道の先には裁きがある、 その道をあなたは歩いている、 ガラテヤ人への手紙 5:19に書いてあることを まさしく行っている、 でもあなたは、悔い改めて、 そこから向きを変えて、神の方に向かい、 神があなたの内に置いた律法を経験する、 あなたは新しくなり、 新しい人生を歩き始めます、 肉ではなく、聖霊によって導かれて。 今日のティーチングの中で、あなたはどこにいますか? ある人達はまだ救われていない、 ある人たちは水のバプテスマを受けたことがない、 自由を体験したことがない、 またある人たちは宗教眼鏡をかけているので、 私の語っていることが理解できない。 あなたの内に求める心があり、 これが正しいとみることができ、 私はそれが欲しい、私は聖徒になりたい、 私は神が私にくれる自由を経験したい、でも私はここに立っていて、私はそのすべてが欲しい、どうやって得られる? リラックスしてください、神を求めてください、 あなたの内の神の取り扱いに耳を傾けてください、 このようなティーチングの問題は、 人々はそれぞれ違った旅をしています。しかし、 あなたが今いるところを知っている方がいます。 それは神です。神はあなたの必要を知っています。 あなたは悔い改めて救われて、水のバプテスマを 受ける必要があるかもしれない。 神はそれを知っていて、あなたもその必要を知っている、 神はあなたに語り、あなたにその必要性を示すでしょう また別な人に、あなたは救われているかもしれない。 でも、罪に束縛されているかもしれない、 バプテスマを必要としているか、 あなたの過去の水のバプテスマが何だったのか、 啓示を必要としているかもしれない ローマ人への手紙6章を読む必要があります。 聖霊があなたの目を開いて、 あなたを自由にする経験をします。 また、別な人は、あなたは罪をもてあそんでいて、 そのためにあなたは罪と戦っている。そうであれば、 悔い改めなければならない、 あなたの人生の中の物たちを断ち切ってください。 インターネットを切って、 暫くインターネットを切って、あなたの人生に、 神の恐れを得るまで そうすれば、罪を犯さずに インターネットを見ることができます、 あなたは自分が何と戦っているか知っています、 そこから自由になる必要があります あなたは、キリストにあって歩く必要がある、 肉に従ってではなく、聖霊に従って、 これが私たちが召されていることです。 あなたの生活の中に罪があるならば、 あなたが悔い改める時、 そこから向きを変えて、罪から離れ、悔い改めます あなたが罪を告白するならば、 神は真実な方であなたを赦します 私が最初に体験したような、強い経験を得られないなら、 もう私は悪いことはしないけれども、 もし悪いことをしてしまったら、神が私を導いて、私は ごめんなさい、そして私は自分が自由であることを知ります もうそれをしないように、私が正しい言葉を言って、 告白するからではなく、 神が働いて、わたしをきよめてくれる、 私が何かする、神は私を赦す、 あなたの罪を告白することは、 神に対してそうするだけではなく、 それが悪いと自分自身に気付かせるためでもある。 もう私はその罪を続けない、しかし神は真実な方です 私は、あなたがどこにいるか知りません。 あなたは、自分がどこにいるのか知っています。 このことについて、あなたが混乱する時期があっても 大丈夫だと、言っておきたい。 なぜかと言うと、私が救われてから6年後に 神は私を罪に関して取り扱い始めた。 私は混乱し始めた、わ~、これについてはどう、 あれについてはどう? そうして、神の恐れを持ち始めた、 神はこの本を私に啓示した、 これが私の証です。自由を体験した、しかし、 自由を経験する前に、 しかし数日間、私は罪責感を感じた 今、私は地獄に行く、神は、私を赦すことができない 聖霊に対して罪を犯してしまった、 私は罪責感があったが、それは神からのものであった、 神は私に心の奥深いところで、悔い改めをして欲しかった。 私がそこに至ると、自由の啓示を経験した 私は自由になり、再び、新しく生まれ変わったようだった。 正直なところ、私は混乱して、 自分は本当に新しく生まれているのだろうかと? 以前も私は新しく生まれていたのだろうか? これは、全く新しい経験だった。 キリストにあって自由があった、 未だかつて経験したことがなかった自由を 私の旅はこのようなものであった。戦って、もがいていた。 数日間、自分を責めていた、私は地獄に行く、 と考えていた。私は泣き叫び、神を見ていた、しかし、 そこで、啓示が与えられ、自由が来た、 あなたも、そういうところに来る必要がある、 そしてあなたがいるところから歩く必要がある、 次のステップを取る必要がある、 そのステップが何か私にはわからない。 神の恐れが必要かもしれない、あなたの人生の中で。 私達誰もがそれを必要としている。 あなたは悔い改めの必要があるかもしれない、 そして救われるように。 バプテスマが何であるのかの啓示を 必要としているのかもしれない。次回話しますが。 ただ、あなたの目を罪からそらして、 キリストを見る必要があるのかもしれない。 人々は私に訊いてきます。 「トム、私はあることで戦っているけれども、 外に出て病人を癒して、福音を伝えることができますか?」 あなたは外に出て、そうする必要があります。 なぜなら、私達が罪と自分自身から目を離して、 イエスを見るなら、物事はずっと良くなるからです。 もし私が罪をもう見なくなるなら、 そのことを考えなくなる、その罪を 考えなくなる、罪、罪、 もし私が自分自身に、私はもうそのことを考えない、 と言うと、かえって、それを考えてしまう、 しかしイエスを見る時、彼がしたことを見る時、 私は罪を考えない、 ですからこのメッセージは あなたを自由にするためのものです。 最初はあなたに動揺を少し与えるかもしれないけれども。 キリストがもってきた自由を、あなたが理解することを 願っています。彼は私達を自由にするために来ました。 あなたは真理を学びます。真理があなたを自由にします。 あなたは罪人ではなくなります、 あなたは聖徒になります。あなたは聖くなります、 あなたは罪から自由になって歩きます、 これが私が話したいことです。私の本を読んでください。 次回は、2週間後です、その間に本を読んでください。 続きを楽しみにしています。質問を送ってください。 質問から始めることができます。次のティーチングでは、 水のバプテスマと罪からの自由について話す予定です。 おどろくべき愛、神がしてくださっていることを。 次回を楽しみにしています。水のバプテスマと 罪からの自由について語ります。 神の祝福を。 Jesus lamb of God 神の子羊