-
バイブルスクールのレッスン第2へようこそ
-
今日は宗教についてお話します
-
それはイエスが携えてきたものとは反対のものです
-
今日、多くの教会でやっていることは
宗教的なことで
-
それは イエスが教え、
携えて来られたものとは違います
-
今日、 多くのクリスチャンは日曜日になると
着飾って いわゆる聖なる場所である教会へ行き
-
教会の行事に参加します
-
他の宗教の人達も同じように
着飾って宗教行事をしに特別な場所に行きます
-
しかしイエスはそのために来られたのではなく
私たちに新しい体を建て上げるために来たのです
-
今日イエスに属している私たちは
宮なのです
-
私たちは聖霊に満たされ
皆が祭司なのです
-
私たちは彼から油注ぎを受けています
彼は私たちの日常すべてに関わりたいのです
-
この学びでそれがおわかりになるでしょう
-
この学びがあなたを自由にし 使徒の働きにあるような生活を
体験するのに役立つことと信じます
-
神様の祝福を!
-
最後の改革
-
使徒の働き
-
あなたを変える20のレッスン
-
新しい始まり
-
あなたの生活に
-
パイオニアスクールにようこそ!
-
改めましてこんにちは!またお会いできてうれしいです
パイオニアスクールのレッスン第二です
-
再びお会いできるの楽しみにしていました
-
前回は教会の歴史についていくつかお話しました
-
早速素晴らしい反響がありました
-
とてもたくさんの人達が私に連絡をしてきて
-
革命的な学びだとおっしゃってくれました
-
彼らが今まで思っていた事を
確認することが出来たそうです
-
それまで何が間違っているかを見つけるのは
簡単ではなかったそうです
-
しかし 聖霊が彼らに働いて下さいました
-
前回のレッスン中に
「なるほど、やっと分かった!」という様にになったようです
-
このような反響は 私の著書 The Last Reformation からも頂けます
-
と言うのは私の本を読んだ時(あるいは教えを聴いた時)
-
多くの人は感動して
「これは私が思っていたことだ!」
-
「今までずっと疑問に思ってきたことだ」
-
「何年もの間この問題とつきあってきた」
-
「そして今 突然理解できた」という言うのです
どうしてでしょうか。
-
建てられているのは神だからです
イエスご自身が彼の教会を建てられているからです
-
イエスは既に 世界中で 多くの人々の中で働かれています
-
私たちは 今まさに最後の改革の目の前にいると信じます
-
間もなく これが世界中に広がっていくのを見るでしょう
-
なぜなら神は歴史を通して働き続けておられるからです
-
先ほど話しましたように様に 神は今も働かれています
-
これを世界中に広げるのを少しでも助けたいと思うなら
-
この学びを広げて「パイオニアスクール」について
多くの人に話して下さい
-
多くの人に加わってもらい
そこから起こることを見ていきましょう
-
人々が再び燃え上がり
-
聖書にあるような人生を
歩み始めるを見ていきましょう
-
多くの人々は箱の中で死につつあります
つまり教会の中でです
-
人々は「ト―ベン、君は何故このようなことをするのか?」
「なぜ教会を改革したいのか?」と尋ねます
-
イエスがそうなさりたいから
これがイエスのお心だから
-
イエスが弟子を作る様にと私たちを呼び出されたから
-
多くの人たちが今行っている教会のシステムは
弟子を作るのに効果的ではないと思います
-
彼らは何年も教会に座り続けていますが
神にどのように仕えるかをいまだ知りません
-
どのように病を癒し 悪霊を追い出し、
人々をキリストへと導くのかを知らないのです
-
何故か彼らはその箱の中で仕えることもしません
-
他の人たちが神に仕えているのを座って見ているだけで
自身はだんだんと霊的に死んでいくのです
-
私たちは全ての人が神に仕えるように召されています
神に用いられるように召されています
-
ただ座って聞いているだけで 何もしなければ
霊的な命はそのうちに消えてしまうでしょう
-
私たちには改革が必要なのです
多くの人たちは かつては神に燃えていたのです
-
今彼らは霊的に死にかけていて
多くの人はすでに死んでしまいました。神から離れると言うことは
-
そのことについて少し話しましょう
-
神から離れるというのは 教会を去ることと同じではありません
-
神から離れるというのは 初めの愛から離れるということなのです
-
従って教会に行き続け主に手を掲げ、礼拝を続けることも結構です
-
長年続けてきたことをする事も結構です
-
しかし神への最初の愛、祈りの対する初めの愛、
御言葉への初めの愛が消えてしまったら
-
その時は、あなたは信仰から離れたことになります
-
私がこのレッスンを行っているのは、あまりにも多くの人々が
離れてしまったのを見ているからです
-
彼らは教会に行っていますが 霊的には死んでいます
-
しかし何とか彼らと働き 訓練を始めると
-
再び火が付くのです
-
このレッスンの少し前に
ある人とFacebookでやり取りをしました
-
デンマーク出身の男性で
個人的に会ったことはありませんが
-
私がある人を訓練し、その人をストリートに連れていき
その人がまた他の人を訓練し
-
今度はその人がその男性を訓練しました
-
彼と連絡を取ったのは
彼の人生が完全に変えられていたからです
-
彼の証はこうです
彼は何年も何年も教会にただ座っていました
-
毎週水曜日と日曜日には教会に来て
-
聖書は一年に二回くらい読んでいました
突然、彼の中で変革が起こり
-
突然自分にも何かができると解ったのです!
そこで彼はストリートに出向き
-
病人を癒すことを学びました
彼の中で何かが変わりました
-
今は彼の人生は完全に変わっています
彼は毎日のように奇跡を見ています
-
これはストリート上での奇跡だけではなく
-
神と彼との個人的な生活が変わりました
彼は長年の間、数回しか泣いたことがなかった
-
それは泣くことができなかったからだと言っていました
-
母親や家族の誰かが亡くなった時だけしか
泣くことが出来なかったそうです
-
しかし、ここ2週間ストリートに出るようになってから
ずっと泣いているそうです
-
聖書を読んでいる時も泣いているそうです
今も聖書は毎日読んでいます
-
今は常に祈っていていますが泣いているそうです
彼の周りの人々はびっくりしています
-
彼は今教会でその証をしています
-
そして今日は他の人をストリートに連れ出し
-
明日は牧師も一緒にストリートに連れ出して行くそうです
-
ある意味、彼に起こったことが教会全体を変えたのです
-
なぜなら 突然火が教会の中に入って来て
-
それを見て 彼らにも何かできることが分かったのです
-
人々は待つ必要がない、
自分たちは既に持っているのだと解ったのです
-
私たちはただストリートに出向けばいいのだと、
これが彼の証なのです
-
そして彼を訓練した人は、その人の友達から訓練受けていました
彼女の証も同じです
-
彼女も教会には何年も通っていましたが
霊的には死んでいました
-
まったく霊的命がなかったので
突如外に出て訓練を受け
-
イエスが彼女と共に働いてくれることを経験しました
先月から彼女は人々をイエスに導いて
-
人々に水と聖霊のバプテスマを授けています
彼女の人生は完全に変わりました
-
この二人は私にまったく同じことを言います。
それは彼らの周りの人たちが
-
「あなたに何が起こったの?あなたに起こったことを教えて」
-
このように聞いてくるのはノンクリスチャンではなく
-
これまで信仰に携わっていない人たちでもありません
-
「あなたに何が起こったの?」
と聞いてくるのはクリスチャンの方々です
-
長年教会に座り続けてきた人たちです
-
しかし 教会にいる人たちの中には
「何が起こったの?私もそうなりたい!」と聞いてくる人もいます
-
そして 突然彼らは初めの神への愛から
離れてしまっていたことに気づくのです
-
なぜなら光が入り始め、 闇が出て行くからです
-
今私達が目にしているのは この様な証が広がっていることです
この素晴らしい話は、わたしに限った事ではありません
-
私はクリスチャン環境で育ったわけではないところから
救われました
-
私の周囲の人は皆「何が起こったんだ?」と聞いてきました
-
そう聞いてきたのは既に教会に何年も
通っている人たちです
-
しかし、命が突然吹き込まれた時、
しかもそれが始めての体験だった時、
-
それはあまりにも力強く急激的な変化のため
周りの人たちはこう言うのです
-
「あなたに何が起こったの?」
これが今私たちが目にしていることです。
-
数年前に私は予言的な言葉を受けとりました
-
誰かが大きな樽とその中に燃え盛る火を見ていました
-
しかし、その樽に蓋が置かれ
その火が少しずつ消えてしまったのです
-
しかし私がその蓋を取り去ると
突然火が再び燃え上がったのです
-
これは神様がなさっていることを良く描写していると思います
-
このように、何かが変わるとそれが引き金となり
-
火が再び燃え上がります
-
例えば、前回の学びで話しました時
多くの皆さんが御言葉に新しい飢えを覚えたことでしょう
-
御言葉を掘り起こし これは何のことだと知りたくなります
-
以前は「これは何のことか既に知っているよ」と言っていました
-
しかし、突然新たな御言葉への飢え乾きが生まれます
これは神様がされている事なのです
-
このように神様がなされていることは、その反応も含め
とても喜ばしいことです
-
幾つかの批判的な反応もありました
それはよくあることです
-
前回お話したように人々は異なった眼鏡をかけていますから
-
もし 大きな眼鏡をつけたままで私の学びを聴くなら
問題が起こるでしょう
-
この様な色眼鏡を通して見ても 他の問題が出て来ます
-
前回のレッスンで二点、聖書的ではないところがあると
言ってきた人がいました
-
それについてお答えしたいと思います
一つ目は教会にについてです
-
最初の教会の建物は
カトリック教会の時代に現れたと話しました
-
それ以前、使徒の働きでは
教会の建物自体は無かったと言いました
-
その人はそれは事実ではない
私は聖書的ではないと言いました
-
使徒の働きによると 当時 会堂・シナゴーグがあって
パウロはそこに行って説教をしたとあるからです
-
使徒の働きを読む際に理解しなければならないのは
-
使徒の働きは その時代背景から
ユダヤ人に焦点が当てられたということです
-
たしかにパウロは会堂シナゴーグに行きました
何故なら、そこがユダヤ人の集いの場所であったからです
-
しかし、ユダヤ人のいない国に行った時
新しい会堂・シナゴーグを建てたというわけではありません
-
建ててはいないのです
それはイエスの教えではないからです
-
パウロが会堂・シナゴーグに行ったからと言って
現在の私達が教会に行くのと比較することは出来ません
-
また 彼らはどこでパンを食べましたか?
どこで聖餐をしましたか?
-
彼らの家でそれをしていました
-
なぜ 会堂で聖餐をしなかったのでしょうか?
-
それは会堂・シナゴーグはクリスチャンの交流する場所ではなかったので
そこでは出来なかったのです
-
会堂・シナゴーグは古い契約のもとにある
ユダヤ教徒のための集いの場所でした
-
そこでパンをさくことはありませんでした
なぜならそれはイエスが来たあとから始まったからです
-
イエスが来た後に新しい契約のもとに行われることになったからです
-
そしてそれらは彼らの家の中で行われていました
-
パウロは確かに会堂・シナゴーグで説教をしました
-
それは 人々にイエスこそがキリストであることを理解させ
悔い改めて欲しかったからです
-
パウロは追い出されることもありましたが
時には次のように言う人もいました
-
「あなたを信じ従いたいです」と言い、
キリストに従うためにパウロと共に会堂・シナゴーグを去りました
-
つまり、会堂・シナゴーグは教会ではありませんでした
また、クリスチャンが宮に集まることがありましたが、
-
それをクリスチャンの集まり、つまり教会と言う人もいます
-
しかし、宮は 彼らがイエスを称え、福音を伝えた場所であり
-
病人を癒したり
ただ彼らがそこに集まっていた場所でした
-
そこは教会で行うような
パンを割く場所ではありませんでした
-
今日で言えば、 市場のような場所で
クリスチャンはそこへ出かけて行って
-
イエスの話を分かち合い
神の御言葉を褒め称えていたのです
-
人々はそこで癒され 救われました
よって、聖書を読む時は
-
ある意味宗教的メガネを取って
御言葉が何と言っているかを理解しなければなりません
-
もう一つの批判は 幼児洗礼についてでした
-
聖書に幼児洗礼を授けている記載があるので
私が言ったことは間違っているとのことでした
-
使徒の働きからの例を挙げていました
-
家族全員が 洗礼をどのように受けたかについてです
また、ある人は私が前回のレッスンで
-
「幼児洗礼はこの時期の後から始まっている」と
言ったと言いました
-
彼は それ以前に始まっていたと言いました
正にその通りです!
-
西暦200年くらいに、
歴史では初めての幼児洗礼が行われたと言われています
-
しかし、それは後に教義として受け取られたと私は言ったのです
-
それが教会の一部になり
-
コンスタンティヌス帝より前には始まっていませんでしたが
-
その時には 教義として受け取られるようになったのです
-
幾つかのことがコンスタンティヌス帝よりも以前に起こりましたが
-
使徒の働きにおいて、幼児や赤ん坊の洗礼はありませんでした
-
その箇所をピンポイントで示しましょう
例えば
-
使徒行伝の16章を読むと
-
獄吏と彼の家族について書いてあります
-
家族全員が何とかして洗礼を受けています
-
今日、多くの人は 文書に何かしら自分の所見を付け加え
自分たちの教義に当てはめようとします
-
この聖書箇所に、家族の中に幼児や赤ちゃんがいたと
解釈する人がいます
-
しかし、その様なことは書いてありません
使徒の働きの16章を読むと
-
次のように書かれています
-
「主イエスキリストを信じなさい
そうすればあなたも家族も救われます」
-
そして、彼と共に住む家族全員と御言葉を分かち合いました
-
後に、家族全員は即座に洗礼を受けたと書いてあります
-
そこに住む家族全員が洗礼を受けましたが、
すべての人が洗礼を受けたと言う意味ではないのです
-
別の言い方で言いますと、
大勢の人がイエスのもとに集まって来て
-
全ての人を癒した、とありますが、
そこにいたすべての人が癒されたのでしょうか?
-
来た人、全てが癒されたというわけではないですよね?
-
しかし、病人は全て癒されました
-
そこには違いがあるわけです
-
今一度その聖書箇所を読んでみますと、大勢の人々が来て
-
全ての人が癒されたと書かれていますが
-
そこに居た一人一人が病から癒されたという意味ではなく
-
癒しが必要な人はすべて癒されたということです
-
先に述べました使徒16章においても
家族皆が洗礼を受けたとあります
-
しかし家族全員を意味しません
-
洗礼を受ける必要があった人達が受けたということなのです
-
赤ちゃんや幼児は洗礼を受ける必要はないのです
-
宗教的色眼鏡を外して 読み続ければ
-
家族全員がイエス様を信じたから喜んだとあります
-
家族全員と読むときに赤ちゃんも含まれていると考えると
-
家族全員の中には赤ちゃんも含まれていることになりますが
-
聖書は 家族全員が信仰を得たことを喜んだとあります
-
赤ちゃんが信仰を得て喜んだのを見たことがありますか?
-
ないと思います
これは例えに過ぎませんが、、
-
聖書的でないと思われることが度々あります
それは、世界にはとても頭が良い人たちがいて
-
多くの教義を持っていて
即座に聖書的ではないと判断してしまうからです
-
彼らの教義に合うようにその聖句を
当てはめようとするからです
-
使徒の働きを読む時も
それがユダヤ教が舞台であることをしばしば忘れています
-
ユダヤ教の会堂・シナゴーグを取り上げ、
別のものに見立ててしまうのです
-
洗礼について読む時も
聖句に他の何かを付け足してしまいます
-
それも自分たちの伝統、教義に当てはめたいからなのです
-
ある意味、私はもっとシンプルにする必要があると思います
-
宗教的色眼鏡を外す必要があるのです
-
ただ御言葉を読んで
それをそのまま信じるのです
-
あなたの神学に当てはめるために
御言葉を変えようとはしない事です
-
聖書の御言葉にあわせて
自分たちの神学を変えるべきなのです
-
これこそが必要なことです
シンプルな信仰、そして御言葉を読み、聞き従う
-
先ほどお話しした男性の様に
彼は完全に変えられ、再び信仰の火が燃え上がりました
-
キックスタートを始め、外に出て病気の人のために祈ったからです
とてもシンプルなことです
-
ルカ10:9でイエスが言われました
「出て行って病を癒し、福音を宣伝えなさい」
-
これはシンプルなことです
誰でも出来るシンプルなことです
-
御言葉はシンプルなのですが
私達が難しくしてしまいがちです
-
イエスは宗教を携えて来られたのではありません
-
彼の御言葉を理解をするためには
7年間教育が必要と言うわけではありません
-
イエスは子供ですら理解できるような
シンプルな命を携われて来ました
-
子供の方が大人よりも簡単に行えることが度々あります
-
なぜなら大人の問題はここ(私達の脳)にあるからです
-
私たちの頭には多くの情報が入り
シンプルに出来ることでさえ複雑にしてしまいます
-
前回のレッスンで、教会の歴史についていくつかお話しました
-
使徒の働きや
クリスチャンのリバイバルについて話しました
-
聖書に出てくるイエスは今も同じです
-
しかし、その当時多くの変化があり
その上に私たちも建て上げています
-
ルーテル教会は カトリック教会を基準に建てられ
-
現在も全てがそれと同じように見えますが
今、まさに改革が必要なのです
-
なぜなら、イエスが弟子を作りなさいと命令されてたからです
-
人々を訓練し、整えなさいと命令されたからです
-
今日の教会のやり方ですと
人々は整えられないことが多いです
-
訓練も受けずにただ座っているだけだからです
-
他の誰かがやっているのを聴いているだけです
-
私たちは焦点を変えて
人々を訓練し整える必要があるのです
-
イエスを”箱の中”から取り出して
私たちの生活の一部にする必要があるのです
-
いくつかのことをシェアしたいと思います
-
まず、私の人生の証から始めたいと思います
-
自分の物事に対する見方が
変わってきてからここ数年の間、
-
今からお話しするような証をいくつも
目の当たりにしてきました
-
使徒の働きにあるような証をお話します
-
聖霊がどのように私たちを導くかがわかる証であり
-
人々がどのように救われ
イエスが今日も同じであることがわかる証です
-
この証をお伝えするのは
私が教えようとすることの助けになるからです
-
どのくらい前のことでしょうか
-
一年ほど前、私の父が神様に本当に出会い
救われました
-
私が父に洗礼を施しました
私はクリスチャンファミリーで育ったわけではありません
-
私が救われた時、父は私に教会とは何も関って
欲しくはありませんでした
-
しかし、今は彼自身が変わり
私が父を洗礼する機会を得ました
-
とても素晴らしいことでした
そして、半年前くらいのことです
-
両親と家に居て一緒に座っていました
-
イエスやイスラエルについて話していました
-
両親はイスラエルについて話すミーティングに
参加したこともありました
-
イスラエルにつて話していた時に
私は父に言いました:
-
「僕はイスラエルに行って歩きながら
様々な場所を見ることをいつも夢見てきた」
-
「僕は家族と一緒にそこに行きたい」
-
そして続けました「何かを感じるんだ」
-
「神様も僕にすぐに行ってほしいと思ってると
僕は信じてる」
-
その想いは、突然私の中から出てきたことでした
-
これが神様が私にさせたいことだと感じたからです
-
しかし、それがこんなにも早く実現されるとは
思ってもいませんでした
-
それから、たった二日後に電話を受けました
-
イスラエルのエルサレムの女性からでした
-
「話があります、話があります」と言い
-
”二日前”(つまり、両親の家に居たその日)
-
「二日前、寝ようと思ったら
聖霊が私を起こして語りました」
-
[Youtubeを開いて「符号と奇跡」と書きなさい]
-
「言われた通りにすると、突然あなたが出てきたので
あなたのビデオやウェブサイトを見ました」
-
「そして何かが違う、何かがあると感じました」
-
「だからあなたの電話番号を書きとめました」
-
「今、聖霊が私に語りかけているのは」
-
「あなたに電話をして、イスラエルに招待しなさいと」
-
「エルサレムに来て、私達と一緒に滞在して下さい」
私は、もちろん!という感じでした
-
二日前、両親の家で話をしていた時
-
イスラエルに行くことをいつも夢見てきたと話した時、
そのことについて祈りました
-
そして翌日、早速彼女から連絡がありました
-
「あなたに2500ユーロ送金したので
家族全員で来てください」私は驚愕しました
-
私はこの女性を全く知りませんでした
-
電話でたった5分間話しただけでした
-
-
で、突然彼女は私に2500ユーロを送金してくれて、家族全員で行けたのです
-
神様はこのように私達を導かれます そして3か月前私はイスラエルのエルサレムに居ました
-
私と家族は彼らの家に1週間滞在しました
-
色々な場所を見て祈りそこに居ることは非常に素晴らしかったです
-
「イエス様 ここであなたは私に何をさせたいのですか?」と尋ねました
-
「ここで私に何をお見せになりたいのですか?」と
-
ある瞬、 我々はガラリア湖に行きました。
-
ヨハネによる福音書21章で読める場所に行きました
-
イエス様が復活した後に 彼の弟子たちの場所に来て立たれて
-
弟子たちは釣りをしているのを見た場所にです
-
イエス様は網を反対側におろせと言われたのです
-
彼らはたくさん魚を捕まえました イエス様に会うために来ると彼に会えて
-
イエス様はペテロに3回尋ねました「私を愛しますか?」と
-
そして 我々もその同じ場所に居てて 弟子たちがどこで魚釣りをしていたのか、
-
イエス様と一緒に過ごされた場所なのかを見ていた
-
そこに居ることは素晴らしかった 今はそこには大きなカトリック教会が建てられている
-
しかし、イエス様の時期にはそれはありませんでした
-
イスラエルに居てて複雑なのは 何処でも何年も前には何かが起きた場所なのです
-
現在そこにはとても大きなカトリック教会、あるいはルーテル教会があります
-
ある意味、私たちが聖書で読む単純な生活を殺してしまい、破壊します
-
イエス様と共の人生を破壊します
-
私達はあそこに居ててカトリック教会の周りを歩いた時
-
湖のそばで、車いすに乗っていたある女性がいました
-
私と一緒にいたある女性が、彼女の所に近づいたので、私も追って行きました
-
その女性はブラジルから来た人で、私は何が問題なのか分かりませんでした
-
彼女の膝が壊れていて歩けないことが分かりました
-
私と一緒にいた女性が、「祈れますか?」と言いました
-
そして、私はただ、私の手を彼女に置いて祈ると、突然多くのことが起こったのです
-
彼女は車いすから飛び上がり、その周りを歩き始め、叫び始めたのです
-
異言で叫び初めました。異言だったと思います
-
色々言っていましたが私には理解不能でした
-
そしてたくさんの人々が突然海からやって来ました
-
団体の人々も居ました 中国の人々も居て写真を撮っていました
-
そして彼女は、周りを歩き、車いすは空っぽだったのです
-
叫んで、叫んでいました
-
そうしていると、神父がカトリック教会からやってきて 言いました
-
[シー、シー、シー」!、 静かに 静かに、というの様に
-
彼は 大きくて美しい衣類を着て立っていました
-
そこで起こった全てのことが非常に素晴らしい事でした
-
後で、そこには「静かに」という看板があるのに気が付きました
-
その看板には「静かに」と3か国語で書かれていました
-
彼女は気にしていませんでした、ただ幸せで泣いたのです
-
その神父は 「静かに!、静かに!」と言っていたのですが
-
そして突然 そのグループの他の人々もやってきて
-
ブラジル人で彼女の言っていることを通訳してくれた。彼女はこう叫んでいると言いました
-
「もう痛みはないは、もう痛みはないは!私歩けるは!私は歩けるは!」と
-
すると、もう一人がやってきて「私の為に祈ってもらえますか?」
-
そして私は彼のために祈ると、彼は癒されました
-
団体からもう一人、杖を突いて来ました
-
彼のために祈ると、彼も癒されました。 別の人も来てこう言った
-
「僕は牧師だ、ブラジルに招待する」。そしてもう一人来て言いました
-
「私のために祈ってもらえますか?」私はあなたの持っている物がほしい」
-
私は人々が聖霊を受け取るために祈ることを信じています
-
しかし、油注ぎを上げることは信じていません
-
今日教会でよく見るようなことは。この事について後程説明します
-
しかし、ただ私の手を置いて祈ったのですが、何が起きたかは分かりませんでした
-
神様が来られて彼を自由にしたのだと思いました
-
彼は地面に、石の上に倒れたのです
-
彼が倒れた石はカトリック教会の真前でした
-
そこにいるのはかなり素晴らしい事でした。 突然みんなが私を見ていて
-
そして誰かが写真を撮っていました
-
私はそこを去らざるを得ませんでした 焦点があまりにも私に当たっていたので 去りました
-
私はおどろいていました、このことはウェブサイト上に「最後の改革」でビデオがあります
-
そのビデオの名前は「イスラエルにて奇跡」です(日本語未訳)
-
そこで私が先ほど言ったことを見ることが出来ます
-
そこで起こったことに、かなり驚きを覚えました
-
その設定はかなり強い経験となりました
-
イエス様があるいた同じ場所で起こったのです、奇跡が。同じ場所で
-
その時代イエス様はパリサイ人達と問題がありました
-
今は大きなカトリック教会があり、そこには神父が来て言っているのです
-
「シー!シー! 静かにしろ!」と
-
彼は、私達が大きな音をしていることを
-
この女性が神に出会って癒されたことの方より、気にしたのだった
-
それは私にとって 非常に強い印象と経験となりました
-
その後、私はイエス様が生活をしていた場所に行きました
-
ビデオでは私はこう言っています
-
「ご覧になってください、ここがイエス様の故郷なのです、ここで彼が生きた場所なのです」
-
彼は今、この地上を歩いてはいないけれども、アッ!勿論、彼は一緒におられますが!
-
イエス様は、今も私やあなたを通してこの地上を歩かれているのです 私達は彼の身体ですので。
-
イエス様は今もイスラエルの人々を癒し続けておられるのです。
-
今 彼は世界中の人々を癒しておられます
-
どうしてでしょうか? それは、彼は変わられていないからです。我々は彼の身体なのです
-
これが 普通のクリスチャンの人生です!
-
あちらでの滞在最終日に 多くの事が起こったのを見ました
-
そして 他の事も山に居た時に同様に起こりました
-
山の宮 、宮があったところ
-
もちろん、エルサレムは 何度も壊滅されてきました
-
ですので、これらの石は当時のと全く同じではないでしょう
-
しかしおなじ場所に宮が建っていたのです
-
その場所に 私は立ってて 今ふたつの異なったモスクが建っています
-
そこに私は立って 見て 考えていました
-
ここ ここ ここ、聖なる一番の聖なる方がおられた場所!
-
宮はここにありましたが もうここにはないのです
-
そして 突然 閃いたのですが、私がここに居るから 宮がここにあると
-
聖霊が私の内に宿っているのだから 宮はここに立っているのだと
-
これらが私が今 あなた方に共有したかったことのいくつかです
-
啓示は私達は宮であるということ
-
啓示は私達がイエスの身体であるということ
-
そして啓示は私達の内に聖霊が宿っているということ
-
私達は キリストの身体でありその心であるということ
-
そしてその悟りは多くの人々を自由にするということ
-
これを初めに理解した時に 人々は自由になれるのです
-
しかし 宗教的な集まりでは 宗教の色眼鏡を掛けることになります
-
多くに人々は 宮はあなたが行くところではないと聞いたことがあるでしょう
-
あなたが宮であり ”身体”なのです
-
しかし 彼らはそれを悟りませんし理解しません
-
イエス様が何をもってこれたかを見せたいのです
-
先回のうにあなたを驚かせたいのです
-
準備はできているでしょうか
-
まず あなたに見せたいのは 一般的な言葉の見方
-
例えば教会とか物事と言ったような違った言葉です
-
もちろん いつも違った理解や考え方をする人々はいます しかしこれは一般的な見方です
-
話しておきたいのはこのビデオや他のこれから作るものは高解像度なのです
-
ですので高解像度の質に合わせることも出来ます
-
そうするとこの紙に書いたテキストをよく見ることが出来ます
-
教会とは何か?あなたが行く場所とか物ではないのです それはあなたご自身なのです
-
教会?教会とはなにか?多くの人々にとって教会は宮なのです!
-
宗教的な行動や礼拝、賛美などなどをする場所です
-
教会、と人に言うと、これが一般的な考え方です
-
最初に彼の脳裏に浮かぶことは
-
宗教的な活動をするために行く建物です
-
しかし初代教会の弟子たちが理解していたものとはかなり外れています
-
教会とは 聖なる場所とは全く関係なく、イエス様はその考えを壊しに来られたのです
-
それを破壊しに来られたのは、彼は”体”を建てることを望んでいたからです
-
彼は”体”を建てたかったのです
-
宮は、そこに今は無いですが 宮はここにあるのです 私達が神の宮だからです
-
宗教的な行事をしている間 私達はそれが教会だとと思い込まされてきました
-
私達は別の思い込みを作り出したのです。なぜなら人は聞くことからしか学ぶのではなく
-
見ることからによっても学ぶのです。だから貴方方は教会に何年も行けるのです
-
そして 教会は場所ではなくて 教会はあなただと聞くことが出来るのです
-
でも私達の生活で私達がこれを理解していないことを見せてきていました
-
例えば、 多くの人達が友達と家で一緒に過ごしていて
-
イエス様について話したり 証を共有したりします
-
しかし 彼らはその行いを教会だとは 言わないのです
-
彼らはただ一緒に居ただけだと言い
-
集いをしていただけで、 それは教会ではないと言うのです
-
でもそれが本当の教会であって 他の教会と同じように教会だったのです
-
というのは教会とは行く場所ではなく、あなたがそのものなのです
-
祭司というと、ほとんどの人はそれは 教育を受けた
-
特別な召しがあり、洗礼をすることが出来て
-
餐式が出来る人達だと思い、そして彼らは
-
神と私達の間に立っている人なのだと思うのです
-
その考え方はイエス様の教えとはまさに反対のものなのです
-
今日私達は イエス様の御言葉とかなり反対の基礎を作り上げています
-
聖書では 大祭司は居てて それがイエスキリストなのだと解ります
-
”祭司”という言葉を使う時には キリストの身体を指すものなのです
-
キリストの祭司職の意味は 我々はみな彼の内にある祭司なのだということです。
-
カトリック教会では 神と人の間に立つ人だということになってしまい
-
どういうわけか 選ばれた人だけだが際司で彼らは特別な
-
油注ぎがあり、彼らだけが洗礼をすることが出来
-
又 聖餐式を行うことが出来、 神様と人々の間に立ったのです
-
改革の期間にルターは 全ての信者の祭司職を持ってきました
-
それは人と神の間に祭司が立つ必要がないことを意味します
-
私達にはイエスキリストがいます 彼が神と我々の間に祭司を必要としないように変えました
-
しかしルターは 我々は祭司を必要としないという方法には変えなかったのです
-
神と我々との間に立つ祭司は必要でないこと、 私達は直接神様と関係を持つことが出来るのです
-
私達は皆 祭司なのだというように変えなかったのです。我々皆は洗礼をする事が出来るのです 古い考え方がまだ多くの人々の中に
-
うめこまれています それほど前ではないのですが ある女性が電話してきました。
-
「私には息子がいて」私はその息子をとてもよく知っていますが 「彼はとても素晴らしく 彼は我々の ある会合で神に会ったのです
-
彼は19歳ですが 今完全に燃えています 洗礼を受けたがっています 私は彼を洗礼してもいいですか?」
-
「勿論できます、洗礼出来ますか?」と聞かれると、「はい できますよ と言いました
-
神は あなたに 弟子を作るため、外に出て行き、洗礼を授けよ、と命令されています
-
「はい でも トーべん、あなたも知っているように、 私は祭司ではないですよ」。 「いいえ 我々は皆祭司です だからあなた
-
にもできます」 。と私は言いました。 でも彼女はしませんでした どうして? それは彼女の宗教的な色眼鏡を
-
外せなくて そのような思いを作り上げていたのです 彼女は、油注ぎのある特別な人がするべきで、
-
特別な召命のある人達がそれをしても良い、私達、無知な人はしてはいけないと思っていたのです
-
イエス様はその様な教えを大嫌いでした。彼はそれに敵対されていたのではと私は思います。彼は弟子達の足を洗い、そのことで
-
私たち皆は兄弟であり、皆祭司で大祭司であるキリストイエスとともにいるのだと見せたかったのです
-
誰でも洗礼をする事が出来ます 誰でもミニストリーをする事が出来ます 何も
-
神の王国には特別なミニストリーをする人とか、そうでない人とかはありません
-
その考え方が成長を妨げ、今日の成長は教会や集会や祭司によって制限されているのです
-
ですので、今日、人々はイエス様を受け入れたい時は、私達は弟子を創って訓練していないから
-
「さ~、この人達を特別にそのことが出来る人に連れて行こう」と、なるのです。私もかつてはそのような考え方だったのです
-
私が初めて悪霊追い出した時の事を覚えています
-
イエス様は私達の毎日の生活の一部になりたいのです ある日家で集まっていました
-
突然ある女性が倒れて声を上げて揺れ始めて
-
英語で男性のような大きな声を上げたのです それまで悪祓いをしたことがありませんでしたので
-
「わー悪霊だ~、悪霊だ~」と思った、彼女が叫んでいたのは
-
「地獄に行け!」と。 彼女が叫んでいた時に私に最初に来た考えは、「牧師が要る」。でもどうしてそう考え
-
たのでしょうか?聖霊は私の中に居たし私は祭司だったのに。 しかし私はそのように教育は受けて
-
いなかったが、神が私を祭司になるよう召命を受けていた 私は神に命じられていたのです システムからではなく、神からです
-
というのは 私は救われた時召命を受けていました 私は命じられて祭司になりました
-
聖霊を受けた時にです 私には全ての物が整っていたのですが、事が起きたときに
-
私の固定観念が「祭司が必要だ」と感じさせたのです。いいえ、祭司は要りませんでした、私はただ必要したのは 行いながら学ぶことだったのです
-
そこには祭司はいませんでしたので、私は彼女に近づき、今日はそのことで嬉しいです
-
私しかいなかったので それをせざるを得ない立場に立ちました そして祭司はどこ?
-
と思っていたけど私しかいない 「あなたはだれ?」と聞くと、彼女は 「地獄へ行け」と言った。そして「あなたは誰?」と聞くと
-
彼女は「地獄へ行け」と。 私は怒りだし言いました「違う、 お前が地獄に行くのだ!」
-
そして彼女はイエスの御名により自由になりました 。そうなんです!わたしには出来たんだ
-
これこそが教会だ しかし今日の多くの教会はミニストリーを命じられる必要がありますが
-
徒の働きでは彼らは命じられてはいませんでした ええ、私は召には信じますが
-
しかし 特別な少ない選ばられた人々だけとか組織にだけではないのです
-
いいえ、私達は神様ご自身から 一人一人にミニストリーをするための召しを全員がもっているのに
-
多くの人は今日、ミニストリーをするには建てなくてはいけない、正しい教育も 受けてそして
-
その育を終えると 彼らはミニストリーを”箱の中で行い” 宗教的色眼鏡をかけるよう
-
になります。しかしイエス様は”箱”を持って来ていません。彼は私達の 日常生活の一部になりたいのです
-
彼は我々tの人生の一部となりたいのです 次に話す事は
-
礼拝と言う行事についてです 礼拝を ”箱” に例えていうと、特別な場所に日曜日で
-
特別な時間に特別な人々と特別なことをし 一般の人には許可されない、 なんて 間違っている
-
あなたや私や他の人々がこのようなことが出来ないと言うのは間違っている
-
しかし、頭の中では 神様が働かれるのを期待して集会に行く、それは
-
良い事なのですが、じゃ、 月曜日は?火曜日は?水曜日は?
-
イエス様と毎日の生活はどうなるの? 我々は一緒に居る時はそれを
-
神様に期待しないのです 一緒にいるのにそれを期待しないのです
-
昨日ある本を郵送していました いくつかの本を郵送していたところ
-
郵便局で私の前に男の子が立っていました アッ!彼のこと知っているよ、2か月前に
-
その子をストリートに何日か連れ出し 訓練を受け 人々に洗礼を
-
したり 救いに導いた 彼はその全てを見た 彼は 他の町の教会でクリスチャンになり
-
こちらに引っ越ししていた 他の教会に行っていた でも昨日彼に会ったので
-
「やあ、コーヒーでもどう」と言って 座ってコーヒーを飲んだ そこで何があったかというと、 教会なのです
-
イエス様について話したり 弟子訓練をしたり 証言を分け合ったり 彼も
-
私に何かを与えてくれた 彼と一時間位話して僕は興奮してた この1か月で私と出会って
-
一緒にしたことで 彼の人生が完全に変わったことが解った 僕に感謝し全てが変わった
-
と言い、私が弟子訓練をしていることを感謝した 「あなたが僕にくれたことに感謝をする」
-
「長年 弟子を訓練することが出来なかった、というのも私の頭の中では弟子訓練とは
-
何かちゃんと教会から命じられてのことだと思っていた。
-
祭司である必要があるとか 日曜日に教会の集会でなければいけないとか思っていた
-
神様を制限した考え方においてしまっています そして今悟ったのは
-
弟子訓練とは人生の一部でありイエス様について集まって話しているのならば
-
弟子訓練は可能 この人は僕の教会にでなく他の教会に行っています
-
しかし、彼の人生に起こったことは今 その協会の仲間に影響を与えている それが起こっている
-
私達は弟子を訓練する召はあるのですが、弟子つくりよりも教会に ばかり集中しているのです
-
しかし、これが日常生活なのです。教会の歴史を見ると、何か違ったものになってしまい
-
礼拝は違ったものになってしまった 私は聖霊の油注ぎを与えることが出来ますが
-
多くの人はそれは特別な選ばれた人が特別な時にするものであって、一般人は時々にしかしない
-
旧約聖書では 宮があり 祭司と預言者が登場して 旧約聖書では彼らは神様からの
-
油注ぎ又預言者からの油注ぎがありました 今日宗派によってはたくさんの集会があり
-
人々は油注ぎを受けに集まってくるのです それが私の教会の背景でした
-
私が救われた後、次から次へと集会や次から次へとコンフェレンスに行った
-
どうしてでしょうか?神の使い人が私に手を置いて、神の油注ぎを受け取りたかったからのです
-
その考え方によって教会を、教会の教えが打ち壊されていたのが分かります
-
今は多くの人々があるカンフェランスから別のカンフェランスへ行きます 集会から集会へと
-
もう既に持っている物を受け取るために 既に救われていて 聖霊に満たされているのだから
-
聖霊による洗礼を受けているのならば 油注ぎを頂いているのです 新約聖書では
-
油注ぎに関して語ると聖霊を指しているのです 聖霊を受け取る時と
-
貴方はイエス様が死から蘇られたのと同じ力を得るのです ですのであなたには
-
新しい油注ぎは必要ないのです というのも新しい油注ぎというのはないのです
-
使徒の働きや手紙などで読むと、人々のに手をかざすと言われていますね 私は人々に手をかざし
-
祈ると聖霊を受け取れると信じています これは一度だけすれば頂けるのです
-
聖霊に満たされるにはら外から受け取るものではなくて、自分の内側にあるのです
-
身の内から引っ張り出してそれを浮き上がらせるのです 既にあるものを
-
出すのです。” 与えなさいそうすればあなたにも与えられるであろう”
-
お金ではないのです それは命です 分かりますね?我々にはなぜか考え方があって
-
教会とは建物で、祭司は特別な選ばれた人で、礼拝をしなければならず
-
日曜集会は特別な順序を追って行うべき。聖霊は特別な少数人たちのもので決して僕のではない
-
だから人々は 彼らの宗教的な活動を続けていく事になるのです
-
人々は教会に行って宗教的活動をして、日曜集会に出て そして
-
祭司が聖霊のことや全ての事を行う。そうです。我々は毎週日曜日ごとに教会に行って自分のために
-
誰かに祈ってもらい、いつの日にか聖霊を受け取れると望み続けるのです
-
我々は外に出て行って神に仕えるのです 我々が人々を訓練していて沢山の実を見ています
-
一緒に働きをしている人々から沢山の証言もあり、救われ 癒され悪霊から解放されている
-
日常生活の中でです 我々は決して油注ぎについては話しません その言葉を使いません
-
決して賜物について話しません、行うのみです 生きるのみです 既にイエスキリストによって
-
全ての賜物を持っているのです すべて既に持っているのです しかし誰かが言うかも知れません
-
皆が病人を癒す賜物を持っていないかもしれない」 何?救われるには賜物は必要ないのです
-
説明させてください 全ての人が伝道者でしょうか?いいえ では誰でも伝道は出来ますか?はい 誰でも
-
全ての人は予言者でしょうか?いいえ では誰でも予言はできるのでしょうか? はい すべての人は癒しの賜物を持っていますか?
-
いいえ。しかし誰でも病を癒せるのでしょうか? はい! それはどのように働いているのかな?
-
エペソ4:11 を読むと神は教会に置いた賜物について話しています 聖者たちがミニストリーをするための道具だと
-
だから癒すために癒す賜物は要らないのです その印は信じる者に従う 新生しているのなら
-
信じて出て行き神の御言葉の言うように働きをしなさい その行いを多くし続け、そして他の
-
人々に広め備えると、それが賜物になっていくのでそれは賜物です 病気を癒す事が出来る
-
から、賜物があるわけではないのです 違います 誰でも出来るのです 神から賜物を頂いたのは
-
どのようにでしょうか?それは人々を訓練し備えさせることによってです
-
これは私が言葉を使てしています 私が行動をして「さ~、私についてきなさい」と言い、どのようにすればいいのかを見せ
-
彼ら真似をして続けるのみです 私の手をかざすと彼らが既に持っている物を私から受け取るのではありません
-
人々は連絡してきて「トム あなたの持っている物を受け取りたいよ 聖霊を受け取りたい」
-
「私は祈って聖霊を受け取ることはできるよ 悪霊から自由になることが出来る 祈って癒すことも出来るけれど
-
聖霊を既に持っているならそれ以上の事は何もないのです だたそれを生きればいいのです
-
私の友達の様に反対の考え方の人もいます アメリカのラストリフォーメーションのドンが
-
僕のビデオを見たと言って連絡してきて あちらに行くよう 招待してくれて 最初から
-
こういっていたのを覚えています「トム、ここに来て私をキックスタートして君に訓練されたい
-
外に連れ出して欲しいんだよ 」と 「わかったよ、でも君は自分でできると」と伝えると
-
数日後、「トム、あなたを 待ちたいんだよ、訓練してくれるのをビデをに撮りたいんだよ、
-
だから待っているよ」 しかし数日後また彼が書いてくれて「トム!もう待てなかったので、
-
だから出かけて 人々は癒された。別の人を訓練すると、その彼女も同じことをしている」
-
彼はもう待てなかった、待つ必要もなかった なぜならあちらに行った時
-
彼に手をかざし新しい油注ぎをしたわけではない いいえ あちらに行って彼を手伝い
-
彼を弟子訓練をし彼にやり方を教えました 私達が既に持っていることを見せました
-
ですので、このビデをを見て考えると「あ~私は新しい油注ぎを待っているのだ、何か新しい
-
ものを待っているのだ」と考えているなら 違います そんなことをする必要はないのです
-
病気の 癒しの教えが来るまで待つ必要はないのです
-
使徒の働きを読み イエス様の言葉を読んで出て行って行うだけです
-
簡単です 読んで行動するのです これが考え方をしばしば変えます
-
宗教的な考え方が変わると 日常生活で生き始められるのです はい、教会に日曜日に
-
行くのはいいでしょう そこに祭司は居ててもいいでしょう そこで行事が行われてもいいです
-
そのようなことをしても良いのですが、これらに限定されないで下さい
-
1人だけの祭司に限定しないで下さい なぜなら使徒の働きを読むとそこでは教会の会合で
-
どのくらいのことが起こっていますか?一つもないですね
-
そこには日常生活を見ます イエス様と毎日過ごしていたことを見ます
-
多くの人々はそのような人生を経験しないのは 教会と場所であり、祭司は少数人だけなのだ
-
ほんの少しの礼拝集会がそこで行われ 聖霊は十分に無いと思っている その考え方をしている
-
そのようなことを僕は”宗教”と呼びます それは宗教なのです イエス様は宗教で来られたのではありません
-
イエス様の御言葉ではないのです イエス様は地上に新しい宗教を創りに来られたのではないのです
-
王国を建てに来たのです 王国は全ての宗教とは全く違うのです でも我々は教会で
-
キリストの身体として行っていることをみれ ばしばしば教会の集会とモスクとの
-
違いはありません 彼らは集って大きな建物を建てたり色々しますが
-
イエス様が全く違ったもので来られました 彼は身体の頭になりたいのです彼は働きをする
-
身体が欲しいのです ただのメンバーシップであるのではなく生きた身体を それは愛であり
-
家族であありただのメンバーではないのです ではイエス様が来た理由で教会について
-
言えば 彼は新しい教会を建てに来たのです 聖書の第一コリントの3章にパウロが
-
「貴方方は神の宮であることを知らないのか?そして聖霊があなたに宿っているのを?」
-
これはパウロが「あなた方は神の宮で、聖霊があなた方の中にいるのを知らないのか?」と
-
言っているのです 後に同じ書簡の第6章では彼は
-
「あなた方の身体が聖霊の宮であることを知りなさい」と彼は同じことをまた言っています
-
繰り返し 繰り返し 「あなたの身体は神の宮だと知らないのか?」「あなたが聖霊の宮だと」
-
私は宮である 私が神の宮で 私が教会 それがイエス様が持ってこられたものです
-
私が宮で 私が教会 なのです イエス様が祭司について話しているとこ もし今日人々に OK,では
-
聖書に祭司についてどこに書かれていますか?と尋ねると 多くはエペソ4章11に
-
「預言者 伝道者、牧師、師匠を与えられた」そしてこ牧師という言葉が
-
ミニスター(牧師)となっている 今日日、どの教会にも牧師がいます 聖書の中で唯一
-
牧師という言葉が見つけられるのは、エペソ4章11節にです 唯一のカ所です
-
いいえ、その他に3か所で使われていますが、それはイエス様を指しています
-
彼こそが羊飼いです。イエス様以外で羊飼いという言葉を見つけられるのは
-
エペソ4章11節だけで、そしてその小さな言葉から今日の教会の教義が建てられています
-
一つの言葉からです!物事を脈絡に合わせないで読んで事がどのように働くかを知らないのです
-
前にも言いましたが、伝道師、多くの教会では伝道師とは外に出て行って宣べ伝える人達だと
-
違いますね 伝道師は弟子で伝道師とはエペソ4章11で読むように誰か
-
聖徒を整えて伝道に出す人達です が我々の考え方のなかでその言葉と聞くと
-
即座に宗教的色眼鏡をかけて読み始め 「羊飼いとは祭司で教会を持っていて命令を受け
-
教育を受けていて 特別な召しがありそのような事をする人たちの事だと」
-
違います 聖書を読むと我々は皆羊飼いで皆祭司なのです。聖書にも指導者がいます
-
例えば司教とか監督者 同意味の言葉ですがその時は全く違う意味を持っていました しかし
-
再びですが、当時はとても違っていたのです 私の本の中でもっと詳しく説明していきます
-
ただ言っておきたいのは 我々は考え方を変える必要があるのです 全信者が祭司だという
-
所に戻る必要があります というのは全ての人が仕えるために召され 又実を見たいのなら
-
教会の成長を見たいならば全ての人が祭司だということを悟る必要があります
-
誰でも洗礼を授けられるし 聖餐式も出来るし みんながこれらの事が出来るのです。聖書には
-
素人だと牧師職などと言った違いはありません 指導者はもちろん居て、尊敬しなければ
-
なりませんが 我々の上に立っているのはなく神の御国において栄誉を我々以上に持っても
-
いません 違います 我々と共に立って我々を助けて、その方法を見せるのです
-
イエス様はこのために来られました 私は祭司で召され 洗礼をしたり、聖書に書かれ
-
ている事全てが出来るのですイエス様はこの為に来られたのです 聖霊とは何でしょうか
-
聖霊はイエス様が死から蘇られたのと同じ力を持っていて私の中に住んでいて
-
皆同じ聖霊を持っていて同じ油注ぎがあります ポーランドでの会合の時を覚えています
-
この話をポーランドで一生懸命話そうとしていました 彼らの考え方が教会を殺していました
-
そして彼らは世界中に居ますね ポーランドで集会をした時に
-
ある若い女の子が救われて聖霊による洗礼を受けて
-
そしてそこで私がある男性の為に祈ったら 倒れて悪霊の現れがあったのです そして彼は
-
悪霊から解放されようとしたので救われたばかりの女の子を連れてきて僕と一緒に来なさい
-
そしてこれが悪霊だよ 君は今聖霊が中に住んでいるそして
-
ただ悪霊に話しかけて、出て行けと命令するんだ、出来るかい?私はそれを言い
-
引き続き他の人々の為に祈りつづけました 教会の長老の一人に会い 彼が彼女
-
に何かを言って彼女はやめて立ち上がり、再び座ったのでそれをみて私は怒りを覚えたので
-
”一緒にいるよね これは私の集会です 行って続けてくれないか!”と言った
-
彼女は再びやり始めてもう一度この男性が来て又彼女は座ったのです
-
私は彼の所に行って、”ここで何が起こっているの?”と言いました・そして彼は言いました
-
「これは悪霊です」私は「そうです」と言った 「 彼女は新しいので前に経験がないのだ」と彼は言い
-
私は「”そうですが 彼女は私やあなたが持っている同じ聖霊を持っています
-
そしてもし我々が彼女に始めさせないなら絶対に試すことは無いから 今はじめると良い」
-
「それにこれは私の集会です」と言った。 彼は彼女が新しいことを学び成長する事を妨げよう
-
と彼の伝統的な考え方故に怒りを覚えました そして言いました 「これは私の集会ですから
-
この後 牧師と話をする」と言いました そして彼女を再度連れてきて「今、祈って悪霊に出て
-
行けと命令するんだ」 次に来たのはある女性が祈ってくれと言ってやってきたのです
-
「何年も前に20年間も何かを失ったのです 救われた時私は 燃えていて
-
いつも神様の事を話して 人々の為に祈っていましたが 教会のリーダーが
-
私の所にやってきて 」「これはしてはいけない あなたは女性だから」 彼の言葉が
-
私を殺したの それ以来 火が消えてしまいました! その様な状況に何度も出会いました
-
我々は指導者たちをおくべきではない台座に置き続けてきました
-
そして彼らの言う少ない言葉が火を消してしまう事があるのです。我々はそんな事をしてはいけない
-
もちろん指導者を尊敬すべきだけど、我々はみんな神に仕えていてみんな祭司だから
-
彼女の為に祈って彼女は自由になり、火がまた戻ってきました。そういうことも何度も何度もありました
-
その後 その教会の牧師でポーランド全体のペンテコストのリーダーの1人に会いました
-
私達は カフェで会って話し 「あなた方はここで問題があるよね」言いました
-
「あなた方は弟子を作っていないし 他の人に洗礼をさせない
-
どうして、例えば、新しい人には洗礼を指せないの?」
-
その牧師は良い友達で尊敬しています。友達としてきましたが、私は彼の考え方には賛同して
-
はいませんでした 「そうだねト―ベン、でも彼らは前に一度もしたことがない」と言いました
-
「でも、もしやらせないなら一生経験することは無い」と僕は言った 「でも僕らには強い
-
信者がいないんだよ 失敗したりする人は多いし 彼らは準備されていないんだ」 と彼は
-
言いました 「あなたが訓練しない限り 彼らは何時まで経っても準備されはしない 彼らに
-
道具を与え 行動する事によって学び成長させるんだ」とそうしたら彼は言いました それに
-
対してかなりショックを受けました どれだけ宗教的メガネをかけているのかと知ったからです
-
「トーベン、誰がイエス様に洗礼をした?女性じゃないよね 誰でもよかったわけじゃなくて
-
洗礼者はヨハネでしかありえなかったよね 預言者だった イエス様は30年待って洗礼を受けた
-
だから 我々はすぐに洗礼をすべきではない」 私は驚きを隠せませんでした どうして
-
大きな教会を運営していて僕よりもはるかに賢くて何年も聖書を読んできている人が
-
こんなことを言うのだろうか?今日イエス様の例を出して洗礼について言う事は出来ません
-
人々は即座に洗礼を受けるべきではないとかを言う事は出来ないのです
-
同時にヨハネの例も使えません 特別だったからです 聖書にも書かれているように
-
国において最も小さい者もヨハネよりも大きい「しかしここであなたが見るのはこの様な
-
考え方が教会に入り混んでいる事です この人は燃え尽きているのです 彼はイラついていて
-
なぜ人々が成長しない事 物事がこの教会で起こらないのか 彼が燃え尽きているか
-
何故牧師でいるのは大変なのか?教会にいる人々に彼の様に牧師になり彼の様な事をしたいか?
-
と聞くと、”いいえ、教会を始めたくはない 私には難しい事だから”と皆が言います
-
難しい理由は間違った基礎の上に建てているから、焦点が間違っているから
-
はい 教会には指導者がいます 牧師と呼ばれる人もいます
-
それは勤めにすぎないのです 役職ではありません 牧師は勤めであり役職では
-
ないのです 預言者も役職ではありません彼らは教会内の勤めなのであり 人の上に
-
立つのではなく人々の脇で人に仕える人々なのです 全ての人にミニストリー出来ます
-
イエス様は沢山この事に対して来られてました 救われて聖霊を受け入れた時次から次へと集会に
-
走り回る必要はありません 成長したいならば満たされたいなら エペソ5章に書かれてい
-
いる様に 聖霊に満たされなければいけないのです 聖霊に満たされるために集会に行っているだけ
-
ではいけません 与える事によって満たされるのです ”与えなさいそうすれば与えられる”
-
”無償で受けたのだから無償で与えなさい” 祈り始めると聖霊を与え始めると
-
人生が始まります そうです そして ワクワクしはじめるのです
-
例えば ここデンマークで バイブルキャンプがあります 大きい教会は皆自身のバイブル
-
キャンプがあります 人々は来て一週間ずっと集会で人の話を聞くのです カンフェランス
-
集会 、集会と 勿論沢山良いことも起こります 人々がそこに行って後で
-
Facebookに書いているのを見たことがあります 「凄い週だった、とてつもない!」
-
とか しかし僕らもかンフェランスに行きます クリスチャンではない音楽キャンプに行き
-
イエス様の事を知らない1万人の若者達がお酒を飲んで神について何も知らないのですが
-
私達はそこへイエス様を愛する新しい人古い人と一緒に行き、皆にイエス様の事を話します
-
誰でも私達と一緒に居た人は家に帰って今週は凄かった、素晴らしかったとFACEBOOK
-
に書き込むのです”人生で最高、人生が変わって満たされた”人々が興奮している事が
-
毎回見えるのです 正直言って 集会に行って沢山の人が去る時にそれほど感動や興奮して
-
いるのを見たことがありません でも僕らが彼らに与えた時には彼らは仕え初めると
-
興奮するのです これに我々は召されているからです そして考え方が変わる時には
-
これをあなたも経験する事になります 最後にいわゆる賛美集会
-
賛美集会とは神に自分自身を捧げる為に生きた捧げ物として持って来ることでイエス様の
-
手足になると言う事です。これは 月 火 水木 そして金曜そして
-
賛美集会とはあなたも出来ますが これだけが賛美集会ではないのです 神への賛美というのは
-
神様に自分自身を向けて賛美し、出かけ、皆とコーヒーテーブルを囲って人々と話す事も
-
あなた方は同じ教会なのです 外に出て行って通りで人々に
-
神様について話す事 これも賛美になります 神への奉仕だからです 分かりますか?
-
この事について最後に事項として言います 今の制度では宗教とは教会は特別な場所で
-
特別な物事をするところで 牧師や特別な人々が特別な時に特別に集まり
-
教育があって選ばれた人、彼らだけがなぜか洗礼を授け聖餐式を司る事が出来るのです
-
神と私達の間に何故か立てるのです この賛美集会はなぜか
-
日曜日でなければ成らず それも特別な場所で特別な事をしなければいけないのです 理由は
-
こういうことをしないとそれを賛美集会、礼拝と呼べないのです 聖霊や油注ぎは
-
特別な選ばれた何人かしかもらえないのです 私は長年そのような考え方をしてきていました
-
その様な考え方があったので私の人生は使徒の働きで読むものとは全く違ったものでした
-
しかし、今現在 自分自身が教会だと理解したので、私自身が宮だと理解し 聖霊は私自身の
-
内にあり 油注ぎと同じ力がイエス様を死から蘇らせた力と同じ物が
-
自分の中に宿っていることを知っています 沢山の賜物を得る事に集中する必要はないのです
-
賜物は私は既にイエス様と共にあるのです、私は祭司で、召がある、洗礼を授けられます
-
ドイツに行った時の事です 沢山の人が救われ洗礼を受けました つい最近、ドイツから牧師
-
が手紙を書いてきました ”ト―ベンあなたに誰があの人達を洗礼をする権威をくれましたか?」
-
彼は私に敵対していたのは そのことは教会で起きず彼らはその教会のメンバーにならなかったからです
-
彼らはイエス様の体になったのです 誰が僕に権威をくれたのか?イエス様がくれたのです イエス様は私を召したのです
-
あなたを召した同じ様にで 私は祭司であり教会であり、聖霊を持っています イエス様を持っています
-
賛美は生活の一部です、何か毎日日常的にすることです 来週次の教えを続けていく前に
-
貴方にして貰いたいことがあります 徒行伝を読む時に、そこにある真理を受け取って
-
自分自身に断言して下さい。あなたの洗脳をきれいにしてそして言うのです 「私は神の宮、
-
私は教会だ」と自分自身に言うのです 買い物をしている時も買い物で列に並んでいる時
-
にでも”私は教会 だ、私は祭司だ、 ここに居る人々の為に使わされている 彼らの祭司
-
なのだ、私は祭司 私は教会 これらの人々の為に呼び出されている そして賛美と奉仕を
-
神の生きる捧げ物として。そしてイエス様の手や足になる時
-
彼を賛美していることになり彼に栄光をたたえるのですそしてイエス様を蘇られたのと同じ霊
-
を持っている事を悟るのです これ今回私が皆さんに分け合いたかったことです
-
この単純な真理を受け取るならば 私は教会 私は宮 聖霊が私に宿っている
-
私は祭司で神によって建てられている そして神に指令され召命を受けている 待つ必要
-
はない 私には聖霊が宿っている 油注ぎがある 色々な集会を駆け回って何か新しい塗油を
-
受け取ろうとする必要もない もう既に持っているし イエス様は私に何をすればいいのか
-
指令されている 聖書を読み 出かけて行って病の人々に手をかざして祈って彼らは癒される
-
癒されたい人が癒される 私は祭司であり私は教会なのだ なぜなら神に私の身体を捧げる事
-
により礼拝している そうするならば不思議な出来事をたくさん見る事になる
-
OK!理解してくれていると望みます 次回を続けるのを楽しみにしています。今は何を
-
分け合うかは分かりませんが 神のされることを見てみましょう 私は 一つ一つのレッスン
-
毎をします 僕はこれは新しい何かの始まりだと信じています そして前にも言ったように
-
質問やもっと詳しく知りたいのであるならば 僕の本にもう少し深く書いてあります
-
(最後の改革:未翻訳)多くの人は皆注文してくれてたくさんの人に贈ってくれています
-
オランダにいるある人が5冊買って又5冊注文しました
-
彼はもっと他の人達に読んでほしかったからですその本が人の内側に何かを
-
起しているからです 彼らが長く望んていた自由になる事 又火が燃えて神に使われるるのを
-
経験したいからです 今あなたは教会の祭司です 少し恐れがあるでしょう
-
「私は建てられた 私は祭司である 何がここで起こってるの?」と思うかもしれませんが
-
言いたいのは「それこそが自由なのです 落ち着いて」
-
以前私は伝統的な方法で牧師をしていました でも幸せではありませんでした と言うのは
-
人々は成長をしていませんでした 私は戦っていて色々努力もしていたが考え方が間違っていて
-
変えたら、以前より今はもっとずっと実り豊かで、人々を失う事もありません まあ人を
-
持っている訳ではありませんので 人を失うことは無いのですが 失わないのです
-
私は彼らを自由にして準備をさせたいのだと解ったら私を尊敬しました 彼らはメンバーだった
-
からではなく 彼らに貸がある訳でもなく愛の故 尊敬の故なのです だから言っておきたいのは
-
あなたは祭司で 教会のリーダーであるならばこれはこの教えによってあなたを自由にします
-
再度言いますが 私は教会に敵対していません 教会を対してはいません これを自由なのです
-
ある牧師達が統計について話すのを聞いていました 今日80%の牧師が
-
教会内のストレスと戦っていると そしてそれが理由で多くの人が牧師リーダーになる前に
-
辞めてしまった、ストレスが原因で!ストレスが家族に入り混み家族や子供達と喧騒になる
-
伝統に縛られている牧師は常に働いていて全てのことをし感謝はされないから。
-
しかしイエス様は喜ばれない仕事の為に来られていない。彼は我々をリーダーに召命しだが
-
それは正しい方法でする必要があるのです そうすると私達は実を生んで我々の中で自由を
-
経験するのです 来週も続けます 神の祝福がありますように
-
神の祝福がありますように またお会いしましょう!