人々は絶えず宗教について語ります (笑) 今は亡き 偉大なるC・ヒッチンスの著書 『神は偉大ではない』の副題は 「宗教がすべてを毒す」です (笑) しかし 先月のタイム誌で 「アメリカのラビ」と呼ばれているという デビッド・ウォルピ師が その否定的なイメージと バランスをとるために こう述べています 「組織化された宗教以外に 社会的に大きな変革は成し得ない」 こういった善し悪しに関する説明は かなり昔からあります ここに1つ持ってきました 紀元前1世紀 『物の本質について』の著者 ルクレティウスは こう言いました "Tantum religio potuit suadere malorum ..." (ラテン語) 暗記できていないのですが 要は 宗教が人々を促して どれほど邪悪なことをさせるかを説明し その例として アガメムノンが 自軍の進軍を続けられるように 娘のイーピゲネイアを 生贄の祭壇に捧げようと 決意したことをあげました つまり 宗教に対する議論は 数世紀 あるいは 千年紀をまたいで続いています 人々は たびたび宗教について― 「良い」「悪い」 あるいは 「どうでもよい」といった事を話します 私が今日 主張したいことは とても単純な事で この様な議論は ある意味で 不合理なものです なぜなら そもそも そんな主張の対象である 宗教など存在しないのです 宗教がなければ 良いも悪いもありません 「無関心」になる事すらできません 「物事が存在しない」ということを 主張しようとする場合 存在するとされる物事が 存在しないことを 立証する明確な方法とは そのものの定義を示し その定義を満たすものがあるか 調べることです まず この方法から 始めようと思います 辞書を引いたり 自分で考えたりした場合 宗教の自然な定義とは 神や神聖なものへの信仰に関するものです この定義は多くの辞書に載っていますが オックスフォード初の人類学教授で 現代の人類学者の草分けである エドワード・タイラー卿の 著書にも書いてあります 原始文化に関する本の中で 彼は宗教の核心とは 「アニミズム」 すなわち 霊的な力や 霊的存在に対する信仰だと言うのです この定義の1つ目の問題は ポール・ビーティの 最近の小説『タフ』に見られます ある男がラビと話しています そのラビは 神を信じないと言います 男は言います 「神を信じないラビなんているのか?」 ラビが答えます 「そこが ユダヤ人のすごいところなんだ 神自体を信じる必要はなく ただユダヤ人であることを信じればいい」 (笑) さて もしこの男がラビ しかもユダヤ人ラビであり もし敬虔であるには 神を信じなければならないとしたら 常識的には理解しにくい結論に達します すなわち 神を信じなくても ユダヤ教のラビになれるのなら ユダヤ教は宗教でないということです これは直感に反する考え方だと思います この見方に反対する議論が もう1つあります 私のインド人の友達が まだ幼い子どもの頃 祖父に言いました 「宗教のことを話したいんだよ」 すると祖父は「まだ幼すぎる 10代になったら またおいで」と言いました そこで 10代になると 祖父のところへ行って言いました 「もう手遅れかもしれないよ ぼくは神を信じていないって わかったんだ」 すると賢明な彼の祖父はこう言いました 「じゃあ お前はヒンドゥーの中でも 無神論派だな」(笑) 最後にもう一人 神を信じないことで有名な人がいます 彼の名前はダライ・ラマです 彼はよく冗談で 自分は世界で トップクラスの無神論者だと言いますが それは本当です 彼の宗教には 神への信仰を含まないからです さて皆さんは こう考えるかもしれません 私が単に誤った定義をしているだけなので 別の定義を考えて これらの例に当てはめて検証し 無神論的なユダヤ教や ヒンドゥー教や 仏教を 宗教の形態として 説明できるようにすべきではないかと ただ これはだめな考え方だと思います なぜ だめかというと 宗教の概念は そんな風に 成り立っているとは思えないからです 宗教の概念が成立するということは 私たちが典型的な宗教と その分派のリストを 持っているということです そして 何か宗教のような 新しいものに遭遇したら リストの中で どれかに似ているかを考えます そうでしょう? でも私たちの宗教に対する考えは これだけではないと思います それはいわば 私たちの視点からすれば そのリストにあるものは宗教であるべきなんです だから 仏教やユダヤ教を除いて 宗教を説明したとしても 有効な手がかりになるとは思えません 仏教もユダヤ教も リストに載っているのですから でもなぜ こんなリストがあるのでしょう? いったいどうなっているのでしょう? なぜ このリストを 持つことになったのでしょう? その答えはとても単純で だからこそ大雑把で異議を呼ぶと思います 賛成しない人も多いでしょうが 私の考えは こうです 正しいかどうかは別として リストが現れるまでの 雰囲気がわかるので リストが どう役に立つのか 考える手がかりになるでしょう その答えは ヨーロッパの探検家たちが コロンブスの時代あたりから 世界中を航海し始めたことにあります 彼らはキリスト教文化出身なので 新たな土地に着いた時 キリスト教の信仰を持たない人々が いることに気づいて こんな疑問を持ちました 彼らはキリスト教の代わりに 何を持っているのだろう? それで あのリストを作り出したのです リストには非西欧人がキリスト教の代わりに 持っていたものが載っているのです ただ この方法に従い続けるのは 問題があります リストの中でも キリスト教は 極端に独特な伝統だからです キリスト教の特殊性は ありとあらゆる面に渡っていて それは キリスト教の歴史に 特有なものの結果です そして その中心にあるもの キリスト教を理解する時 中心にあって キリスト教 特有の歴史の 結果であるものとは この宗教が極めて 信条主義的だということです つまり 人が正しいことを信じているかを とても気にする宗教なのです キリスト教内部の歴史とは 主に殺し合いの歴史ですが その理由は 彼らが間違ったことを信じたからです それは他宗教との争いにも 関係します 争いが始まったのは 言うまでもなく中世からですが イスラムとの争いでも 不信心 つまりイスラム教徒が 正しいことを信じていないという点が キリスト教世界にとって 不快だったようです これはキリスト教の 独特で特殊な歴史です それに これまで このようなリストに載ったものが全部 どこにでも あるわけではありません さらに 別の問題があると思います 非常に特殊なことが起こったのです 以前には回避されていましたが 主に現在 アメリカの 私たちの身近にある キリスト教の歴史の中で とても特別なことが起こったのです 19世紀後半のことです そして この時に起こった 特別なこととは 知的権威を組織する 科学という新たな方法と 宗教との間の ある種の取決めのようなものでした ある種の取決めのようなものでした たとえば18世紀について考えてみましょう 19世紀後半より前の 知的生活について考えてみると 人の振る舞いも考えることも それが物理的な世界だろうと 人間世界だろうと 人間を除いた自然界のことだろうと 道徳のことだろうと あらゆることが 宗教的 あるいは キリスト教的な一連の前提に 沿ったものであったでしょう たとえば自然界について 説明しようとするなら キリスト教 ユダヤ教 イスラム教の 伝統における創世神話 ― すなわち モーセ五書の創世記の 内容との関係を 説明する必要がありました すべては このように 形作られていました ところが19世紀後半の この変化により 人は初めて ダーウィンのように 博物学者という知的職業の道に 本格的に進めるようになったのです ダーウィンは自分の主張と 宗教における真理との関係を 気にかけてはいましたが 宗教が主張することとの 関係について述べることなく 自分のテーマについて 研究を続け 本を書くことが 可能になったのです また地質学者も次第に 議論ができるようになりました 19世紀前半の地質学者が 地球の歴史について説を唱える場合 創世記の記述に示された歴史と 一致しているか あるいは 一致する点と矛盾する点を 説明する必要がありました 19世紀末には 単に地球の歴史を論じる 地質学の本を書くことができました つまり大きな変化が起こり 私が述べるような 知的な分業が生じたのでしょう それが ある意味で確立していって ヨーロッパでは19世紀末には 本格的な知的分業が存在し さまざまな研究が本格的に 哲学さえ巻き込みながら 可能になっていきました そして このような研究は 「宗教的伝統が示す深遠な真理と 一致する主張をすべき」という 考えに縛られなくなったのです 想像してみてください 19世紀後半の世界の住人が 20世紀末 私の故郷ガーナの アサンテの社会に 姿を現したとしましょう その人は 例のリストを生んだ 疑問を持っています 「そこにはキリスト教の代わりに 何があるのか?」という疑問です その人は あることに気づくでしょう 実際に 気づいた人がいました 名前はキャプテン・ラトレイ イギリス政府が派遣した人類学者で アサンテの宗教について書きました これはソウルディスクです 大英博物館には これがたくさんあります 私の社会にあったものが 大英博物館に大量にある理由について 面白い歴史の話も 本当はできたのですが その時間はありませんね とにかく これがソウルディスクです ソウルディスクとは何か? アサンテの王の魂を洗う人が これを首につけます 彼らの仕事はなんでしょう? 王の魂を洗うことです いったいどうやったら 魂が洗えるかを説明するには 時間がかかるでしょうが ラトレイには これが宗教だとわかりました 魂が関係していたからです さらに似たようなことや 似たような慣習が たくさんあります たとえば 多かれ少なかれ 酒を飲むたびに 誰もが「献酒」として 酒を地面に注ぎ 先祖への分け前にしました 父はやっていました ウイスキーを開けるたび ― これが よく開けていたんですが いつも蓋を取って少し地面にかけていました そして父は 家の家系の始祖であるアクロマ=アンピムや 大叔父のヤオ・アントニーに 話しかけながら 酒を捧げていたものです そして最後に 大規模な公の儀式があります これは19世紀初頭のスケッチで あるイギリスの陸軍士官が そんな儀式を描いたものです 儀式には王が参加しました 王の仕事の中でも とりわけ重要なことは 戦争を率いる類のことを除けば 先祖の墓を守ることでした そして王が死んだら 彼の座っていた腰掛けは黒くされ 王家代々の寺院に入れられます そして40日ごとに アサンテ族の王はそこに行って 先祖のために 儀式をしなければなりません これは大切な仕事で 民衆は 王がこの仕事を怠れば すべてが崩壊すると信じています つまり 王は政治的存在であるだけでなく ラトレイ風に言えば 宗教的存在であったのです ラトレイにとって これらはすべて 宗教に見えたでしょう ただ私が強調したいのは 彼らの生活を調べてみると 何をする時にも 常に 先祖を意識しているということです 毎朝 朝食を食べる時 家の前に出て 外にあるニヤミデュア すなわち神の木に捧げ物をします 外にあるニヤミデュア すなわち神の木に捧げ物をします そして天の神々や地の神々や そして天の神々や地の神々や 先祖などにも話しかけます このような世界では 宗教と科学が まだ分離していません 宗教は 生活の他の領域から 切り離されていません そして特に この世界を理解するために 不可欠なことがあります 私たちの社会で 科学が果たしている役割を ラトレイなら 宗教と呼ぶであろうものが 果たしているという点です 彼らが何かについて説明が必要な時 作物の出来が悪い理由や 雨が降る理由や 降らない理由が知りたい時 また 雨が必要な時 自分の祖父が死んだ理由を 知りたいと思った時 そんな時 彼らは いつも同じ存在 同じ言葉を使って そんな時 彼らは いつも同じ存在 同じ言葉を使って いつも同じ神々に話しかけるのです 大きな分離 すなわち宗教と科学の分離は まだ起こっていないのです これは歴史的に 珍しい例なのかもしれません ただ 世界中のほとんどの場所では 今でも これが真実なのです 私は先日 ナミビア北部 アンゴラとの国境から30キロほど離れた 住民200人の村の結婚式に 行く機会がありました みんな現代人です ウーナ・チャップリンも一緒でした ご存知の方もいるでしょう 村人が彼女のところに来て言いました 「『ゲーム・オブ・スローンズ』で あなたを見たよ」 彼らは 私たちの世界から 隔離された人々ではありません ただそれでも 彼らにとって 神と霊は今でも重要です 私たちが 儀式の間じゅう バスで行ったり来たりしている時に みんな ただの一般的な祈り方ではなく 本気で旅の安全を 祈るのです また 花婿の祖母に当たる 私の母が その場所にいると みんな言うのですが それは たとえ話などでは ありませんでした 母が亡くなっているとしても 近くにいると 本気で考えていました このように 現在の世界でも 多くの場所で 科学と宗教の分離は 起こっていないのです そして 私が言う通り・・・ この男性はチェースと 世界銀行で働いていました 彼らは皆さんと 同じ世界の住人ですが 彼らの住む所では 宗教が まったく違う役割を果たしています ですから 宗教を 一括りにする人がいたら こう考えてください 宗教は1種類ではないかもしれない 宗教など存在しないかもしれない だから そんな人たちが言うことは 正しいはずがないのだ と (拍手)