人間として生まれるのは、巨大な忘れ物をすること。
条件付けられた精神は、私たちの真我を覆い隠し、
私たちを分離、制限、疑惑の世界に陥れます。
本当のあなたは誰?幸せを求め苦しみを避けながら
人生を歩む、単に肉体に宿る精神なのでしょうか。
それとも全く別な、もっと深くて永久的なものなのか。
言葉では説明できない、発見すれば真の幸せと充実感を
つかめる存在でしょうか。ここでは、精神のベールや、
思考や、感覚を超越した、
本当の自分を発見していきます。
精神とは何か?古代より数えきれないほど
何度も問われてきた質問です。人類の最も初期の
精神的、科学的探究以来、人間の精神は様々な
文化により概念化され、理解されてきました。
人々は哲学や心理学、科学理論や直接的な調査方法
で精神の秘密、つまり肉体や精神を超越した存在
の謎を解こうとしました。精神は普通、脳など頭の
中にある思考力や理解力だと考えますが、
これより全然深く、二元性を持っています。
「マーヤ」や幻影、エゴ(自我)とも呼ばれます。
ラテン語でエゴは単に「私」を意味します。
「私」という物体に自分を限定するのがマーヤで、
限定しなければ、すべての現象が現れては消える
意識自体に目覚め、別の「私」を認識しなくなります。
「私」の本当の意味は、無限な認識や意識のことで、
それがただひとつ存在する「私」です。ところが、
私たちの自己意識が思考、イメージ、感情などの経験
と深く絡み合っているため、自分自身を本質的に、
本来あるがままに認識しません。経験を取り入れた、
修正された形で認識します。無限の認識・意識
である真我と、経験内容を合わせたものが自我や
個別の自分という、幻影の自分を作り上げます。
自我とは、自分は人間だという、非常に持続的で、
非常に強く、非常に堅固な考えです。肉体と精神内
の存在、あるいはただの肉体と精神だと考えます。
自我は幼い頃から精神が形成した個別の自分です。
自我は作り上げた存在で、現実ではなく、体と認識
する部分、自分は個別だと思う精神の一部です。
自我は個人的な私ですが、真我ではありません。
頭の中で構成した私です。本来の私ではありません。
本来の私はより深く、常にいる、根底にある存在です。
二元性の精神は、目撃者と目撃されるものの2つの
根本要素を持ちます。感覚、知覚、自我の好みで
構成された世の現象があり、それとは別の「私」が
目撃している感覚があります。覚醒とは、目撃者と
目撃されるものの二元性に目覚め、主体と客体の間に
存在する原始的な意識を自覚することです。
幼い子供たちを観察しますと、自我がなく、常に
参加者として生きています。世界から切り離されて
いないために、爽快に生きています。
私たちは生まれたときは依存的で、まだ概念的な思考を
持っていません。成長するにつれ、概念と自己認識つまり
自立するために自分の行動を振り返る能力を身につけます。
この思考プロセスが内的アイデンティティになります。
自我の形成は、誕生後すぐに始まります。私たちは、
いずれ「私」と呼べるアイデンティティを築きます。
人間の発達における鏡像段階とは、生後 6~18か月
頃で、子供が鏡に映った自分を認識する段階です。
これは自我形成の一段階にすぎません。鏡に映った人物を
認識して自我を得るのではなく、周囲の人々が自分を
別の人間、別の「私」として扱う社会化プロセスです。
体に生じる感覚、知覚と概念化を通じて「私」という
感覚を覚えるようになります。精神は物事を分類して
区別し、それらに対して好みを持つようになります。
好きなものや、嫌いなものがあります。この「私」が、
人生を歩む中で、個別で独自のアイデンティティになります。
それは、私たちが自分だと思い込んでいる人物の物語です。
私たちの意識はとても若いうちから、子供のうちからそれを
信じ始め、それが私たちとともに成長し、自分が一人の人間
であると確信するまで成長します。人間が成長し、思春期
から成人になるにつれ、分離感つまり頭の中に住む「私」
の感覚を覚えます。そして各々が物足りなさや不完全さに
かられた個別の自我となり、その不完全さを埋め合わせる
ために、物品を蓄積する欲望に支配される人生を送ります。
あらゆる問題の原因は、精神です。精神には、
すべてが別々であるという錯覚を作る力があります。
自分が世に住む一人の人間であるという錯覚です。
経験から立証できますが、心理的苦痛を経験するのは
自分は別の人間、別の存在であるという信念から
必ず生じます。例外は一つも、一つもありません。
肉体的な苦痛は別ですが、精神的な苦痛を感じる必要
は全くなく、自分が個別の精神や体だと信じ込むこと
から生じます。なぜなら、私たちは分かれて散らばった
パズルのピースのように、全体から切り離された断片
に相当するからです。それで「何かが足りない」「何かが
おかしい」と思います。精神は克服できない障害に見えます。
どうすれば克服できるか。終わりなきものに思えます。
精神を使って精神を克服するのは、自分のブートストラップ
で自分を持ち上げようとする如く、終わりなき戦いです。
自我の構造は打撃を受け、迷い、困惑し、人生に意味がない
と感じます。そして、その探求心がもがくとき、十字架の
聖ヨハネが「魂の暗夜」と名付けた状態を経験します。
これは目覚める過程で必要なことです。探求をやめ、自分を
探求者だと信じ込むのをやめれば、生命と一体化できます。
私は良い人生を過ごしていました。精神的探求は何となく
諦めていました。諦めたというか、これ以上探すものが
なかったのです。悟りや覚醒を求めていた訳ではありません。
平和と幸福を求めていたら、現状に身を委ねることが唯一の
道であり、人生が私の師であることに気付きました。長年の
探求の末、すべてが崩れました。自分と思っていた自我の
構造が崩れました。居間に座っていたら、荒廃のような
ものが私の中に生じ、それが数週間続きました。予想外
の内的暗闇。見捨てられたような...生命そのものに
見捨てられたような感覚でした。そして精神が、この
内的暗闇から脱出したがっていることに気付きました。
自分に質問しました。「なぜ苦しむの?苦しみの本質は?
どうすれば苦しみが終わるの?それとも終わらないの?」
その末、たとえ自分が滅びても、今の状況や暗闇
から逃げず、身を委ねる意志が湧きました。
私が滅びることの意味は分かりませんでしたが、
まだ意識にない認識というか、その瞬間全く予想
なく、自分の構造が崩れました。「私」が死に、
私と生命を区別するそのものと結合しました。
それ以来、私と生命は別でなく一つだと知りました。
分別感を作るのは精神の動きです。それ以来、
自分を被害者だと思う「アモダ」の構造が、自分
を状況だけでなく感情や思考の被害者と感じ、
思考や感情をもっとポジティブで希望溢れるものに
変えて行こうという努力が終わりました。
被害者がいなくなり、生まれ変わったようでした。
死んでそのように生まれ変わりました。「アモダ」
というアイデンティティの感覚のベールが、彼女
の歴史や思考や信念や経験が剝がれたようでした。
その瞬間から私は裸になり、今も変わりません。
仏教の四諦の一つ目は、苦が存在することです。
条件づけられた精神は本質的な不満を持ちます。
ドゥッカ、つまり精神の不満は、肉体や精神の
苦痛以外に、万物の無常性や世俗的な追求で
満足を得られないという微妙な不満も含みます。
真の幸せや満足感は物質的追求から得られません。
全てが計画通りに行っているようでも、善良な人間
になれても、人間関係や仕事がうまく行っても、
まだ心の底で何か物足りなさをよく感じます。
何かを見逃しているか、うまく認識していないと
感じ、それを追究することでより明確になります。
覚醒の第一歩は、苦痛を認めることだと、私は
よく言います。人生がうまく機能しないあるいは
自分がうまく人生で機能できないと感じることです。
不快ですが、その不快感のおかげで追究を決意し、
想像を絶する世界に導かれるかもしれません。
人はなぜ苦しむのでしょう?肉体的な苦痛の場合、
それは遺伝的に受け継いだ保護装置だと言えます。
痛みを経験しなければ、常に物にぶつかったり、
硫酸を飲んだり、体は長持ちしないでしょう。
心理的苦痛の意味は違います。「あなたは間違って
いますよ」というものです。心理的苦痛は問題
ではなく、解決の始まりです。心理的苦痛は、
私たちが個別の人間だと信じ込む間違いを指摘
しています。それは根本的な間違いで、原罪です。
私たちをエデンの園から追放した、原罪です。
「罪」は元々、「的を外す」という意味です。
自我意識は、常に的を外す病的な心理状態です。
これが「堕落」の意味です。私たちは善悪の
知識の木の実、つまり思考に焦点を合わせます。
二元的な精神は、物質界を形作る現象から成り、
感覚、知覚、自我の好み、そして別の「私」が
目撃している感覚から成ります。この「私」と
いう思考が、自分を自我だと思い込む根源です。
いかなる経験も、経験者は私です。悲しみや、
不安や、孤独感を感じるのは私です。あなたと
話していれば、話すのは私です。世界を見て
いれば、見るのは私です。すべて「私」を中心に
経験します。「私」が中心人物であれば、本質的な
調査、つまり覚醒の前提条件は、「私」の本質、
つまり自己を探求し、認識することです。
仏教で最も崇拝される経典の一つ、般若心経では、
解脱するには、二元的な精神が空であることに
気付く必要があると説いています。「私」が消えれば
二元性自体が崩壊します。『色即是空、空即是色』。
サマーディ状態では空虚が充足感として踊り、
静寂は動きに、そして沈黙は音に内在します。
人生を精神のフィルターなく直接体験します。善悪
の知識の木の実を追い求めず、古い方法で世と接しなく
なったとき、それは解脱であり苦しみの終わりです。
自分の精神や無知や自我を持っていると信じるのは
別の観点から見ているからで、最初はそう見えても
仕方ありませんが、それが現実ではありません。
現実は生命だけ、行動する純粋な生命しかありません。
苦しみとは生命への抵抗で、あるものやないものに
対する抵抗、現れるものすべてに対する抵抗です。
自分が分離していると感じるからで、覚醒とは
分離しているという考えから回復することです。
宇宙のエネルギーがどう動くか観察することで、
自我の抵抗を理解することができます。ひとつ
の方法はリヒテンベルク図を見ることです。
リヒテンベルク図は、高電圧の放電が物質を通過
するときに発生するパターンです。枝分かれした
模様が発生します。ここでは板に電流が流れています。
次は500 万ボルトの粒子加速器を使いアクリルブロック
に数兆個の電子を注入しました。このブロックを含め、
すべての物質はエネルギーに抵抗し、減速させます。
雷雨では、空気抵抗が導電路の形成と電流の流れに
影響します。エネルギーが作る木のような模様は、
時間をかけて媒体をたどった経路です。この枝分かれ
したパターンは、自然内でミクロからマクロのレベル
まで存在します。宇宙の構造自体が形や抵抗の遊びで、
巨大な精神が一人で鬼ごっこをするかのようです。
サムスカーラ、つまり無意識のパターンは経験の電荷が
高いときに生じます。エネルギーが合併し、「私」の思考、
抵抗が発生します。抵抗がなければエネルギーは通過し
生命が流れますが、抵抗があり「私」が現れると分岐し、
無意識の精神に新しい経路を作ります。
これらのパターンは陰で成長し、再び明かされ、
意識的に統合されるまで自律的に実行されます。
私の最初の記憶は、凄く怖かったけれどなぜ怖いのか
分からず、今にも悪いことが起きる予感がしました。
その思いは生涯続き、20代で更に強くなりました。
子供を4人産んだ後も、深いうつ状態に陥りました。
そして3~4年間、何を探しているのかわからない
まま必死に探しました。覚醒について聞いたことも、
何なのかも知りませんでした。探していたものが外界
では見つからないことが次第に明らかになりました。
当時、誰もが望むような良い家庭やビジネスに恵まれ
ながらも心の中は空虚で、うつ病を癒すために瞑想を
発見し、それに没頭してある種の平和、深い満足感を
感じました。そしてほんの一瞬でしたが、生まれて
初めて不安や恐れが消えました。何が起き、何が変わり、
なぜ恐怖感が戻ったか、完全に調査することに
しました。様々な霊的修養法について調べ、
覚醒や悟りのことを知り、何なのか理解しよう
としました。そして15~20年後にやっと、
思考を信じないことだと知りました。思考はまだ
続きますが、恐怖感はそれを信じ、自分を人生を
歩む一人の人間と思うことから来ており、自分は
それ以上だと知りました。5年かけて、自分は不滅
だという考えが根付きました。それに反する全て
の、例えば私は駄目な親だとか、不十分だという
心底の感情を見つめ、調査し、熟考する必要が
ありました。そのうちに平和感が安定し、楽になり、
喜びや愛情、時には至福さえ感じました。すべてが
大丈夫いう深い思い、安らぎ、安全さ、今まで感じた
ことのない、自分を愛せる、好きだという思いです。
多くの人が覚醒の兆しを感じたあとに失います。
得たが手放した、目覚めたが精神が戻ってきたと
いうゲームです。これは覚醒を完全に認識しない
時に起こります。サマーディの際に、エネルギー、
至福、精神意識や知覚の変化、安らぎや解放感など
心地よい状態を経験し、それを真我と勘違いします。
覚醒の兆しを経験してから、既存の意識を認識し
それを真の充足感の源だと認識できず、状態や経験
を追い始めます。真我は臨時的な状態や経験では
ありません。現象は現れては消えますが、残った
原初の意識は常に存在します。状態や経験を追い
続ければ、求道者がますます強調され、真実から
更に遠ざかります。求道者が臨時的なものを
追うのは、中毒者が一時的な高揚感を追うのと
同じで、常に的を外し、偽の求道者は中毒者
のように、常に危機や失敗に終わります。
人生は中毒性の行動パターンのお祭りのようで、
アルコールやニコチンだけでなく、社会で優勢な
行動すべてが中毒性パターンになり得ます。例えば
リアリティ番組、芸能人の生活、靴を買う事に対する
依存症などです。なぜならば、極めて無意味で不自然
な生き方から逃れる方法を探しているからです。
しかし逃れ方を知らないため、依存症に陥ることで
補おうとします。真実の知識は人生をより自然にし、
自然のリズムや流れ、方向によりよく合わせる特徴
があります。そうすれば依存症は必要なくなり、
あなたの人生はあなたのもので、私の人生は私のもの
という歪んだ、最も不自然な考え方をせず、より充実
した、より健康的な生活を送ることができます。
僕のリンゴの木の花が、人生は私のもので、永遠に
生きたいと思うようなものです。花の期待通りに
なれば、リンゴも、リンゴの木もなくなります。
真実を理解すれば、自己中心的な人生、つまり
欲望と嫌悪のパターンを絶えず養う人生から、
より自然で流れに沿った人生へと移行します。
ある時点でこの考えが危機に陥り、霊的
あるいはその前に心理的探求を始めるでしょう。
そして分離しているという幻想を超えて見る準備が
でき、意識的な探求が始まります。この霊的探求は
自分が気付く前に始まるかもしれませんから。
それが意識的になれば、人生の展開を戦いでなく、
目覚めることへの勧誘として見ることができ、
人生に対してよりオープンになり始めます。
また、苦難は洞察力をあおる最良のツールです。
人は苦しまなければ深い質問をしません。苦しく
なければ、人生の波に快楽主義的な軽薄な気持ち
で乗るだけで、何が起きているのか考えません。
私は誰?これら全ての目的は?いや、意味は何?
苦しまない限り、このような質問はしません。
なので苦しみは洞察力を促す、すごいツールです。
人は必要以上に状況を悪化させ、不要な苦しみを作ります。
僕はメタ苦と呼んでいます。メタ苦は、苦しいが苦しむ
べきでないという、頭の中の小さな声から生じ、苦しみを
倍増させます。なぜなら、今度は避けられない自然な
苦しみに加え、自然と戦ったり本来の苦しみと戦って
いることに対するメタ苦があるからです。目的は洞察
につながる自然プロセスを排除することではなく、
それと戦うことで不必要に悪化させないことです。
苦に抵抗するのをやめればそれは苦でなくなり、
有益なものに変化します。「ありのままを愛せ」と
精神界でよく聞きます。自我の好みを放棄し、生命
との絆を深めるための激しい現象だと理解する
ことで、沸き上がる痛みを愛することができます。
ありのままに平静を保つことで、自我構造内の抵抗
パターンを浄化し始めます。次は降伏パラドックス
で、抵抗するものは持続するということに気付く
ことです。抵抗は自我を強化します。自我は抵抗
そのものです。修行をする際に、感情を経験すべき
でない、憎しみや怒りを感じたら退行していると
思いますが、感情は全て経験する必要があります。
逆説的なのは、感情を完全に受け入れ抵抗を捨てる
ことで、それが信念、判断、好みに満ちた感情から
評価する精神を超越した、純粋で生き生きとした
感覚に変化することです。
これを説明する有名な禅の話があります。ある生徒が
賢く平静な禅僧天神に尋ねました。「師匠、奥様
が死んだとき悲しみましたか?」「もちろんです。」
と天神が答えたら、生徒は驚き、「禅僧は感情を
感じないはずですよね。」と言った。天神は優しく
微笑み答えた。「それは違います。悲しみを十分感じ、
深く体験しました。その瞬間の真実を尊重しました。
そして空を渡る雲のように、悲しみは通り過ぎました。
でも空は、私の広大な存在は不変でした。」
私の覚醒は大学院時代に始まりました。
一連の経験が人生の目的や意味について考える
きっかけを与えてくれました。やること全て
に何の意味があるのか。その経験は何もせずに
ただ気付くというものでした。強い圧力が解かれた
ような大きな解放感があり、リラックスや爽快さ
があり、ただ存在したことだけ覚えています。
何でもいいから、ただ存在したい。私にとって
大きな変化でした。まるで裏返しになったような、
物事を見たり経験したり、人を見たり、人と
接したり・・・。何をしても、何を言っても
それは単に意識の表現でした。私が表現
されている実感、いつ何を言っても、何を
しても意識が存在するだけで、それは今も
変わりません。その後も本質を明かし続け、
まるで思考が流れるのが見え、必要な行動が
あれば、体がその行動を演じるだけでした。
以前のように何かを考え、「これをやらなければ」
と思い、「私」がそれを実行するのとは違いました。
それとは違い、ただ存在するようになりました。動き
が生じ、体が道具であり、私がそれをリアルタイム
で観察したのです。体は単に意識内に生じた行動をし、
私は参加者であり観察者です。それが一番いい所です。
意識は選択せず、真我は選択を超越しています。
それを聞いて、「じゃあすべてを捨て、何も選ばずに
洞窟にこもります」と言う人もいるでしょう。実際に
そうした人もいます。でもそれも結局は、条件付け
られた精神が、選択や欲望を抑制するチョイスです。
選ぶも選ばないも、条件付けされた精神のチョイス
ですが、その精神を意識するのは誰か、または何か?
目覚めた後も、条件付けられた自分は好みのお茶
を選んだり、体に良い食べ物を選んだりします。
選ぶことをやめるのでなく、常に選び続けますが、
それに「私」がからんでいない点が違います。
「私」という思考がなくなっただけです。「私」が
選ぶのでもなく、選ぶのをやめるのでもありません。
覚醒とは自我の透明な壁、よろいを破壊し、万物との
同一性に気付くことです。それは素晴らしく、自分が
怒りや痛み、悲しみに苦しんでいたのでなく、生命を
拒絶することで苦しんでいたことを発見し、解放的
になることであるがままの生命と一つになれます。
苦しむよりは心地よくいたいと思うのは人間として
当然で、人類みな苦しみよりは心地よさを選びます。
そして意識することが心地よいと察したとき、
それが一般の人間の脳に記録されます。「これは
いい、可能なんだ。」という思考が強化されます。
段階的に徐々に覚醒することもあれば、夢から覚める
ように、突然自分が誰だか悟る場合もあります。
夢の中の役者として一生眠ってきたかのように。
目覚めたままでいるには自我構造を常に浄化する
必要があります。完全に覚醒しても警戒が必要で、
無意識の思考が生じても平静でいることです。
でないと無意識の精神が真実を隠すかもしれません。
無意識が透明になる必要があります。無意識内の
ものに直面しなければ、スピリチュアルバイパス
を経験します。これは困難な感情、未解決の心理的
問題や生活苦を避けるため、自分は覚醒していると
主張することです。自我的な精神は目覚めの兆し
を占有し、その真実に生きることを妨害します。
ベッドに座りながら翌日に受けるマンモグラム
のことを考えていました。毎年、極端な不安が
生じるので、怖がること、死を怖がるのがもう
嫌でした。そうしたら突然、「明日は怖がらずに
やれないの?」という考え、単なる考えが生じ、
突然、「できる」という認識が沸き上がりました。
なぜかわかりません。何が変わったのかわかり
ませんが、明らかに何かが変わりました。
驚いて、今まで何年間も感じてきた恐怖が
変わるのを認識しました。マンモグラムが
正常で、乳がんが発見されない安心感では
ありません。とても奇妙でした。起き上がって
パソコンを打っていたパートナーのドアの前で
立っていたら私の存在に気付き、「何?」と聞く
ので、「今、何かが起きた」と言い、説明しました。
次第に分かったのは、恐怖に動揺しなくなっただけ
でなく、平和になり継続的なストレスも消えました。
精神が制止しました。外面は以前と基本的には
同じで、覚醒だと知るのに何か月もかかりました。
長かったです。苦しみが消えた事だけ覚えています。
精神が静かになり、それ以来ずっとそのままです。
覚醒自体の記憶はあり得ず、経験と現象の記憶
だけです。記憶があれば、精神に抵抗の痕跡が
残ります。この痕跡が最初の繰り返しで、「私」
の始まりです。覚醒自体は経験ではないので、精神
に痕跡を残しません。原初の意識は記憶や精神の
フィルターなく今に目覚めます。何らかの状態や
経験を追い、そこで生きようとすれば逃します。
現れては消え、今ないものは本質とは言えません。
精神を介さずに、直接本質を探ってみましょう。
精神を超えたものは精神を介して認識できません。
内側に意識を向け今を意識してください。意識
自体を意識します。ここで起きる思考、感覚、
感情だけでなくその広大さも感じてください。
思考、記憶、感情、エネルギーの現象が無意識
から湧き上がることがあり、これは自然な浄化
過程です。沸き上がるものに心を開いてください。
概念的な詳細による制限から解放された、
精神の自然な状態にとどまってください。
僕の覚醒は2つの違った行動から生じました。
最初の変化は苦しみ、深い苦しみから生じ、
思考から来ているのがわかりました。
僕の考え方、世界や自分自身のとらえ方
から来ていました。それから思考の本質や
最も重要な思考者を直接的に調査しました。
思考に縛られている者の本質です。
その調査により、思考者という感覚が溶け、それ
と共に僕のすべての思考が無意味になりました。
知らなかったのは、それが起きると、純粋な、
無限な意識を経験することです。非常に平和で
苦しみを癒すものでした。それが目覚めの最初の
部分です。その時に経験した明晰さや平安よりも
更に深い経験があるとは想像もつきませんでした。
最初の兆候から数日間、その深い解放的で驚く
べき経験が、人間の次元を超えた、自分や世界と
信じ込んでいたいかなる形式の限界をも超えた、
何かへと開かれました。
それらがすべて解体され、残されたものは
言葉で表現するのは非常に難しいですが、
心の準備ができ自分で調査することに興味が
ある人なら、この本や、他の興味ある人との
直接的な交流により、明かすことができます。
精神や、マトリックスや、あなたが誰なのかは
誰も教えられません。計り知れず、言葉で表現でき
ないものを知るには、極めて静かで動きのない精神
が必要です。深い静寂と沈黙から、時を超え永遠で
計り知れないものに遭遇する可能性があります。
隠喩を使うと、覚醒は頭が、自我の頭が生命から
切断された状態です。自分が精神や体でないこと
が明確になりました。精神や体の中には存在
しませんが、生命から切断された頭は坂を転がり
落ちます。気を配らなくなった古いパターンや
計画や視点を乗せて転がり落ちます。それらが
展開されるのをしっかりと目撃します。
それらに参加しませんが、まだ続いています。
転がる頭は、そのうちに止まります。古い
カルマはもう作動せず、もはや解決すべき
パターンも残っていません。全部消えました。
これがモクシャです。解脱です。
最近よく見るのは、生命を肉体に宿る人として
でなく、時には行為だけあるが行う者がいない、
平和で静かな観察過程という漸進的な解放です。
犬が吠えたら、それは静けさの中の吠える音。
誰かや私の体が歩くのは、誰々なしで歩くこと。
それに伴い、今まで時々経験した内的対話が
静まりました。人間だという感覚から脱出する
ことが次第に頻繁になりました。
そんな中、今まで信じてきたこと、やってきた
ことの意味が変わってきました。人生は不公平
だ、困難だと思ったり、変化を祈る代わりに、
より高い目的を果たし、より心を開き、より生命
に参加させるものとして見るようになりました。
事故や失敗、嫌いと思っていたものは悪くはなく、
自分を苦しめるものでもなく、触れたことのない
深い真実を明かすものと考えるようになりました。
全ての祈りが「アーメン、為せば成る」になり、
全ての願いが、何か拒否している点や、生命の展開
を否定することで生じる苦しみが見えますように
という願いでした。解放があり、より生命に解放的
になるにつれ、意識的な目撃が増えました。
覚醒は解放のほんの始まりで、終わりがありません。
解放されればされるほど、まだ困難や、収縮や、
恐怖だと思うことが、より高次の愛や、平和や、
思いやりへのトランポリンであるのを実感します。
みな、まさかと思う人も含めみな、その中にいます。
意識が存在することは明らかに認識できます。
それ以外はすべて推測です。よい推測であって
も推測です。意識は理論以前の、自然界唯一の
事実です。それ以外は全て意識内に生じる理論的
抽象概念です。意識だけが自然の公理であり、
唯一確実なものです。推測や、物理学・意識の
神経学の経験的証拠に基づけば、意識が基本で
ないことは、私は極めてあり得ないと主張します。
意識を二次的または付随現象と考えると、様々な
解決不可能な問題が生じます。従って意識を自然界
の基本構成要素の少なくとも 1 つとして見るのは
大変合理的かつ経験的な理由があります。物理学は
基本的に知覚の科学です。世のパターンや規則性を
説明するもので、知覚を超越するものではありません。
物理学者が望遠鏡、顕微鏡、オシロスコープや他の
機器を使ったとしても、出力を知覚する必要があり
ます。つまり物理学におけるすべてのものは知覚と
いう枠組みにフィルターされます。物理学は知覚の
科学です。物質や物質性は単に私たちが知覚する
世界の別の呼び名で、知覚の中身にすぎず、根本的
に物質を超えたものを見ようとしません。生命は
それ自体を知るための機器です。理解したいもの
から自分を切り離すのでなく注意深く観察します。
ニュアンスを捉えようとします。「これは何?
なぜ起きるの?意味は何?」などと自問します。
人生は本を読み解釈するようなものです。ただ、
苦しみを減らすことに夢中になり、解釈の鍵と
なる本を読むことや集中することを忘れます。
人生の本を解釈すれば自動的に苦しまずに済む
のに、目を開けて集中しなければ解釈できません。
生命はそれ自体を知るための機器です。
偉大な宗教や精神的な伝統はみな、万人の中に
輝く無限で分割不可能な現実があり、それが「私」
の経験や世界として現れる理解に基づいています。
いわば万物の裏に存在の海があり、いかなるものも
そこから発生し、生き、そこに消え去って行きます。
これがまさにすべての偉大な宗教的伝統の
根本原理であり、存在の統一性の認識です。
ヘルメスの第一原理は、「すべては精神であり、
宇宙は精神的である」ことです。どこを見てもその
一つの精神がある。ルーミー曰く、「どこを見ても
神の顔がある。」ミクロの世界もマクロの大宇宙も
精神は一つ。これは人間のニューロンの画像で、
これは宇宙の暗黒物質の分布を想定した画像です。
ミレニアムランはマックスプランク研究所が作成した
宇宙の暗黒物質の分布や進化のシミュレーション
です。暗黒物質は、相互接続された繊維や節の広大
な巣を形成し、人間の脳のニューロンや神経経路に
そっくりです。同じ模様が自然界全体に偏在します。
これをワンマインド、神、全てと呼ぶことができます。
神は世界を超え、世界に先立つ外的存在では
ありません。私たち一人一人の中に輝く「私」
の知識であり、世界として現れる存在です。
宗教的な言い方をすると、世界は神の言葉ロゴスの
現れであり、私たちは神の精神内の局部的精神です。
では主観的で普遍的なフィールド、普遍的な意識が
なぜ多数あるように見えるのか。私はあなたの考えを
読めませんし、あなたも恐らく私の考えを読めません。
アンドロメダ銀河や中国の状況さえわからず、自然全体
を経験しないのに、一つの精神がなぜ多数に見えるのか。
精神医学では解離と呼ばれる自然過程があります。
1 つの精神が複数の意識に分裂するように見える現象
です。神経画像で人間がこれを経験する決定的な
証拠があり、現在意識の神経科学における主要理論
である、統合情報理論に基づく解離の明確な概念的
説明が成立しつつあると思います。
解離境界が形成されると、その境界の向こう側の
ものは知覚を通してしか見ることができません。
知覚するのは物質・物質性です。言い換えれば、
物質・物質性は、解離境界の向こう側で起きる
意識的な過程の意識的な出現です。これらの過程
を現代理論で説明するか五蘊のような形で説明する
かは大切でなく、大切なのは通常無意識の過程に
意識を向けることです。それにより自己構造内の
抵抗が消え、「私」の無意識的な動作が消えます。
自分は肉体だと知覚したり、体感を知覚したり、
物体や物事を概念化したり、それらを認識したり
好みを持ったり、すべてを見ている目撃者がいる
と感じたり、これらすべての精神プロセスは自己
のいない空虚なものだと気付くことです。現象から
自分を切り離してあるがままに受け入れることです。
生命に背を向けるのでなく、生命と親密になることです。
意識が根本的で物質性に先立つという僕の理解は、
長年にわたり、この世に生きる人間としての意味を
根本的に変えてきました。僕の変化はゆっくりでした。
最初は頭の中での概念的な理解だけでしたが、
それが体に染み込んで感情や気持ちを調整し、
すべてが変わりました。充実した人生の意味、
目指すべき目標、自己認識、他の生物との関係など
すべてが変わります。地位、権力、お金といった
個人的な目標は消え去りました。僕の人生は今まで
もこれからも、自分でなく自然のためのものであり、
自分は自然の単なる一つの地域的顕現にすぎない
という認識は、個人的目標を達成しようとして
生じる不安や、その目標を達成できなかったとき
に生じる失望感から大きく解放してくれます。
それらはすべて消えました。今は自然界に奉仕して
生きています。自然界が僕を通してしたいことに心を
開くので、奴隷の如く奉仕に縛られるように聞こえる
かもしれませんが、そうではなく、自分を個人的に幸せ
にしようという抑圧的で圧倒的な責任から逃れた気分
です。自分の人生なら幸せになる責任は自分にある
というのは、人間の最も抑圧的な考えです。失敗を
すれば自分の責任だと後悔し始めます。それはもう
消えました。僕の人生で一つ変わったことです。真実
を深く理解するのは共感、相互尊重、非利己的な目標
や、中毒性の低い行動パターンに直接繋がります。
人類の理解がもっと深くなり、それがもっと広まれば、
生命がよくなることは間違いありません。
世の諸問題の解決策は、自己利益のみのために行動
する自我が問題の根元だと認知することです。自我が
政治、宗教、経済、教育など、何に参加しようが、
「自分」という別個の存在があるという間違った
前提で行動する限り、苦しみと分離は永続します。
人類にとって今唯一の解決策は目覚めることです。
仏教では、自己がもう別個のものでもなく、かつ
自己以外の何者でもなくなることが涅槃であり、
それが自己中心的な活動、妄想、夢の停止であり
人生という夢の中の役者からの目覚めです。聖書
には「言は肉体となり、私たちのうちに宿った」と
記されており、言はよく、「永遠」「真実」「直接の
啓示」など深い意味を持つ古代の言葉ロゴスと訳され
ます。ロゴス、キリスト意識、または仏性を通して、
神の精神が明かされると言えるでしょう。