なぜ読むか?
デジタルの時代です
私たちは スクリーンやスマホといった
つかの間の世界に生きています
なぜ座って紙の本を読むのか?
この レンブラントの母親を描いた有名な絵は
読書が 様々な意味で
吸収する行為だと示しています
読書の概念は
情報の吸収にとどまらず
身体的プロセスでもあるのです
今日の午後にみなさんにお伝えしたいのは
ここに150人いると伺いましたが
みなさん どこにいますか?
吸収するという意味での読書の概念は
読書することの魔法です
書物は 形あるモノであり
幼少期に読書習慣を身につけることで
身体的、視覚的、認知的な
想像力が形成されます
このトークの前の準備のために
「読む男」を検索してみました
すると出てきたのはこれです
出てきたのは
前屈みで本を読む男性です
前屈みになって読書することは
本に吸い込まれるということです
手の身体性がご覧になれます
ロダンの『考える人』のような
顎に置かれた手の動きをご覧ください
目を覆い 日光を遮る
帽子のツバをご覧ください
従来型の(紙の)本を読む行為は
吸収するという行為です
スクリーン上の文字を読む行為は
見物をするという行為であり
観劇のような行為です
これは 1980年代後半の画像です
はっきり覚えていますが
スクリーンが初めて出現した時
画面は 見下ろすものではなく
顔を上げて見るものでした
顎に手を当てたりはせず
画面を指差していました
ご覧のように
男性は 女性の背後から身を乗り出して
画面を指差しています
ご覧のように
読書という行為そのものが
これほどまで 読者と文章の
位置関係を変えました
ごく私的な
吸収し関与する関係から
公的なもの 観劇なものを
見物する関係へと変わりました
スクリーンで 私的な読書行為を
することはできません
したがって 21世紀初頭に
電子書籍が出現したのは
私が思うに —
私的な読書という体験を
デジタルで復活させる方策でした
でも 電子書籍は 紙の本ではありません
電子書籍は 似て非なる本です
電子書籍は 紙の本を
電子的なものに置き換えます
電子書籍と 紙の本の関係は
電子タバコと 本物のタバコのようなものです
あれが好きですか?
すごく変だと思いませんか?
次回は 皆さんにも一緒にきてもらって
最前列に座って
他の人と一緒に大笑いしてもらいますよ
(笑)
この客席に 成人の方は
何人おられるでしょうか?
私の人生でずっと
デジタル文化について講義しています
私の年代で
デジタル(指を使った)という言葉に続くのは
「診察」だけです
(笑)
成人向けのジョークです
皆さんの中で 何人が
電子タバコを吸われますか?
皆さんの中で 何人が
本物のタバコを吸われますか?
皆さんの中で 私の話を
気にも留めない人は何人いますか?
電子タバコは
電子書籍に似ています
両方とも 技術的 機械的な手段で
元は 紙媒体でだった楽しみを
与えるものです
両者とも 似て非なる体験です
私が強く思うに
タブレットで読むにせよ
スクリーンで読むにせよ
紙の本に立ち返る必要があるということです
皆さんは気づかなければなりません
読み書きの能力が有る限り
紙の本や 挿絵つきの本は
子供や人間性の形成の
要だということです
こちらは 3世紀の
パピルスの手稿です
描かれているのは
『ヘラクレスの12の功業』です
これは 現存する最も初期の
挿絵つきの児童書です
なぜ『ヘラクレスの12の功業』が
児童書として読まれるのか?
それは 学校では全ての子供が
ヘラクレスのような思いをするからです
「どうしたら 試験に受かるだろう?
ネメアの獅子退治に行くような挑戦だ」
「どうしたら 宿題を
終えることができるだろう?
アウゲイアスの家畜小屋掃除を
するような苦行だ」
「どうしたら 朝9時半に
授業に出られるだろうか?
ヒュドラの頭を切り落としに
行くような冒険だ」
ライオンと戦うヘラクレスのイメージは
英雄的な苦役としての
読書や学習の象徴となります
それは 献身的な行為でもあります
この美しい挿絵のついた
アングロサクソン時代の写本は
旧約聖書の『詩篇』の研究において
いかに 書籍の目的が 子供の
注意を引くことだったかを示しています
アルフレッド大王は 西暦890年代の
アングロサクソン時代の王でしたが
彼は 子供の時に 母君より
美しい挿絵の描かれた本を
見せてもらったと書き伝えています
そして彼の使う言葉は —
因みに 王がラテン語で
話し書き物をした 古い時代です —
彼は それを 「pulchritude」
すなわち「花のかんばせ」と言いました
彼は 選ばれし人であり
「pulchritude」や女性的な美しさに
惹かれ 誘惑されます
読書は 誘惑の一形式でしょうか?
確かに読書は この
テレンティウスの劇作では
誘惑の一形式であり
男子修道院の教養のために
考案されたものです
そこでは 子供たちが
役者たちの上演を目にし
子供たちが視覚的に捉えたのは
自分たちの読む物語が
心象に映る様でした
ヨーロッパに印刷技術がもたらされた時
真っ先に印刷された中に
『イソップ寓話』がありました
言葉を話す動物の出てくる
子供向けの物語集で
うさぎ、狐、狼、山羊たちは
全て 1つの道徳的な資質を纏っています
ご覧いただいているのは
イソップの肖像と
動物たちです
皆さんは誘惑されますか?
魅力を感じますか?
書物の中のビジュアルな画像に
ワクワクしますか?
私が子供の時に
夢中になった本は
挿絵のついた子供向けの本
ロバート・マックロスキーによる
絵と本文です
『海べのあさ』
『サリーのこけももつみ』
『かもさんおとおり』
『すばらしいとき』などです
これらの本が 子供達に示したのは
想像上のものだけではなく
美しい命の可能性でした
生命は美しいものでした
読書の役目は
作家やイラストレーターが
表現するままに
作品世界に描かれた
美しさを体験することでした
『すばらしいとき』という物語は
1957年 私が2才の時に出版されました
この本を家族で読み始め
1950年代と60年代を過ごしました
本書の中で メイン州の海岸に
一家が住んでいるということに
私たちは すっかり魅せられました
ブルックリンに住む子供の私にとって
メイン州は 異国のような存在でした
エキゾティックでした
見たこともない海岸線から —
私たちが見るのは
詩的で 情熱的で 魔法的で 奇跡的なものが
海の嵐に運ばれてくるのを
見ることができるのです
美しいイラストと
そこに添えられた詩的な文章が
描き出すのは
荒れる波間を逃れる機会を伺いながら
漁船が 大波にもまれながら
避難場所を探す様です
頭韻を踏んだ文章に —
その中のリズムの中に —
聞こえてくるのは
海岸に打ち寄せる水の詩です
そして 本の途中で
嵐がやってきます
嵐が吹きすさび
応接間を吹き抜け
リビングルームを破壊します
ボードゲームが床中に転がり
書籍が飛ばされてしまいます
お母さんが子供達を引き寄せます
ランプの火が消え
家中が大きな痛手を
受けたかのようなありさまです
嵐がやむと
すべてが静かです
この絵を見てください
そこで お母さんと子供達は
自分たちの喜びを讃美歌に乗せて歌い
書籍は 再び テーブルの上に
開いたり閉じたりした状態で置かれます
そして父親
思い出してください
時は 1950年代です
1950年代の父親は何でもできました
私は50年代に育ち
90年代に父親になった時
父親は何もできないと気づきました
でも 50年代 父親は何でもしました
この絵を見てください
父親が ふきんを手にとって
割れた窓ガラスの最後の1つに
覆いをかけています
窓枠の中でガラスが壊れ
まるで あたり一面が
開いて散らかった本のようになっています
一つひとつの窓枠や 窓が
本の側面のように見え
その気になれば
まるで テーブルに開いて置かれた本とが
視覚的な韻を踏んだように
対をなしているかのように見えます
私が子供だった1950年代
想像の世界は
書物の世界でした
でも メイン州の夕立は
ブルックリンにはありません
想像の 詩はありませんでした
あったのは 核攻撃への恐怖でした
違いを比べてください —
この絵の一家と
この絵の一家を
これもまた 1950年代のもので
核シェルターの絵で
母親と父親と子供達が
文章の周りに座っています
でもそれは 想像の物語ではなく
取扱説明書です
この絵の中で見えるただ一つの言葉は
「缶詰食料」です
黙示録的なこの瞬間に
想像力を働かせられる言葉は
私たちに残されてはいません
ですから 私が成長し 親になった時
自分の息子に授けたいと考えたのは
私が体験した魔法の感覚 —
書物は 読者を別世界に
連れて行けるという発想 —
読書は 一種の魔法だという発想でした
そして 私にとって幸運なことに
そしておそらく皆さんの
多くにとっても幸運なことに
『ハリー・ポッター』が登場しました
皆さんの多くはこう考えます
『ハリー・ポッター』は
魔法と魔法使いと想像力ための物語だと
私は 『ハリー・ポッター』は
読書についての本だと言いたい —
『ハリー・ポッター』に出てくる魔法は
至高の文学形態以上の
何ものでもありません
『ハリー・ポッター』における
読書は 本当の意味の魔法です
魔法の薬、呪文、本物の冒険が
物語の中で次々と出てきます
それは クィディッチ場ではなく
魔法の森の中ではなく
書物庫の中で起こります
ハーマイオニー、ロン、ハリーの3人は
シリーズ映画のうちの1つに出てくる
1枚の画像に見られるように
魔法とミステリーに満ちた本の中の住人です
『ハリー・ポッターと謎のプリンス』では
ハリーは 古びた薬草学の本に
行きあたります
余白に書かれてあったのは
本の 修正です
その本は「催眠豆」を
ナイフの背の部分で潰して
中の汁を出す方法が書いてあります
この本から ハリーは効果的に
課題を完遂する方法を学びます
『薬草学』の本の余白部分に
ハリーは 本当の意味での
読書の魔法を見出します
ハリーはまだ知りませんが
すぐ後になって私たちが知ることになるのは
「謎のプリンス」の正体が
スネイプ本人だということです
ハリーがその本を図書館に持ち込むと
図書館の司書は ハリーが
その本を強奪し冒涜したといって
恐れおののきます
皆さんの中で 図書館司書に
会ったことのある人は?
図書館司書の仕事は
ものを清潔に保ち
ものを整頓しておくことです
図書館は 規則の場であり
想像の場ではありません
図書館司書の仕事は
利用者の手を清潔に保ち
利用者を静かにさせ
返却遅延者に対して
確実に罰金を課すことです
これらは 社会と市民生活の仕組みです
ハリー・ポッターにとって
幅広の余白は
ほぼ「躁状態の」余白の書き込みは —
ああ これ面白い表現 —
ほぼ「躁状態の」余白の書き込みは —
皆さん ノートしました?
ほぼ「躁状態の」余白の書き込みは —
皆さん この言葉使い
書きとめますか?よろしい —
余白の書き込みが
私たちに与えてくれる感覚は
本当の想像とは 書かれた行の中ではなく
行間や行外で見つかるのだということです
「レビコーパス 身体浮上」
これは 謎のプリンスが書いた
余白の書き込みで
ハリー・ポッターが学ぶ
呪文の一つです
ハリーは この呪文を覚えて
寮の部屋に戻ります
そこで ハリーは
部屋の屋根から吊り下げたヒモで
吊るすようにロンを宙づりにします
レビコーパス 身体浮上
西洋のキリスト文化の中で育てば
「レビコーパス 身体浮上」が
キリスト教信仰の中核をなす
イデオムだとわかるはずです
復活は 身体の復活であり
レビコーパスは 身体の浮上でもあるのです
私が今日皆さんに
示唆しようとしているのは
デジタルの想像に満ちた
仮想現実に満ちた
職業的専門分野に満ちた
説明書と 成功と前進に満ちた
今日という日の終わりに言いたいのは
本当の意味での読書の魔法は
レビコーパスの中にあるのだということです
なぜなら 本物の書物の為せる技は
我々の身体を浮上させること
すなわち 読者を虚構の幻想の中に
宙づりにすることだからです
本の魔法とは
デジタルの読み書きにせよ
伝統的な読み書きにせよ
読み書きによる
想像の為せる魔法です
そして今日私が示唆しようとしてきたのは
書物の歴史について
思いを馳せることで
自分自身の体験について
思いを馳せることで
皆さんはこう自問するかもしれないということ
「私はロンか?」
「私はハーマイオニーか?」
「私はヘラクレスか?」
今 ヘラクレス的想像力の学び舎で
自分自身に思いを馳せてみてください
そして 次に 教室やTEDトークに
出会った時に
自問してください「レビコーパス
あの先生は私の身体を浮上させたか?
この本の中で
私は 想像によって
宙吊り(サスペンス)されているか?」と
どうもありがとうございました
(拍手)