(ロック) 目覚めは 人の発達で次にやってくる自然なステップです (ルパート)目覚めとは 自分の内にある根本的な性質を素直に認めることです (リサ)一部の人だけができる 風変りで神秘的な 宗教体験ではありません 誰でも体験できます (ルパート)私たちの根本的な人となりは 既に完全に目覚めていて 完全に自覚できます (リサ)限界など全くありません (ダン)あなたの本当の自然体は 思ったより身近にあります (ルパート) 意識とは究極の宇宙の本質です (ドナルド)科学の次のステップは 意識が根本だと認めることです (ニール) 目覚めとはそもそも何でしょう? 誰か説明してください (ナレーター) 目覚めとは何でしょう? 真実の自分 生まれようとしている自分、「無我」 釈迦、自然、道理、キリスト意識 どんな呼び方をしようと あまり問題ではありません このビデオでは 自覚と呼ぶことにします 自覚は どんな宗教にも属しません 目覚め もしくは自覚することは 夢から覚めるようなものです 人生の劇における あなたの役という夢から 覚めるのです 私たちは自分の役を通して 美しいことも醜いことも この世の全てを体験します この生と死の体験を 二面性と呼ぶことができます 堂々巡りの中で 私たちは自分の役に執着します 考えに感覚に 善と悪 戦争と平和 光と闇 誕生と死に執着します それも目が覚めて 私たちはその役柄でないのが 分かるまでのことです このビデオでは 皆さんをお誘いします 自分の本当の自然体を そのまま経験してください そのまま見つけて下さい 知的にではなく... あなたは誰でしょう? 私たちは このお誘いを 違った形で繰り返していきます 自分が誰なのか問いかける時 全てのことを あるがままにしておきましょう マインドを他にそらして 何かをしようとしたり マインドのレベルで 答えを見つけようとしないでください でもマインドを 追い払わないようにしましょう あるがままを ただ体験することを 目指してください 思考を「分からないマインド」のままに 放っておきましょう (ダン)目覚めは あらゆるレベルで 世界中の問題に対する答となります 世界中の問題はすべて 妄想から派生します マインドの根本的な迷走から 派生するのです その妄想というのは 自分がある限られた役柄だということ (ロック)私たちは 小さな自分の分身として生きていると 絶えることのない不満が いつもあります トラウマのような 大きなものかも知れないし 単なる心の奥の もやもやかも知れません 「何かおかしい」 「何か間違ってる 何かが足りない」 たとえ嬉しい時でも この世で何かを達成した時でも 人間関係がいい時でも ちょっとした時間ができると 隔離されているような 何かから切り離されているような 不満があります 大抵の人がこういう感じを 持っているようですが これが動機付けになって あの小さな自分の分身から 目覚めることができます この分身には分離不安のような性質があります (ダン)この限られた役柄には 欲しいものを掴もうとする傾向があります それは単に 条件付けられたパターンの集合です 欲しいものを渇望したり 欲しくないものを避けようとしたり そういう果てしのないプロセスで 快楽原則というか 快楽を追いかけ 苦痛を避けてるんです もし自分がこういう役だ こういう条件付けられたパターンだと 信じ込むと 自分が苦しみ 世の中も苦しませてしまうのです 世界はその利己的な意識を反映します 目覚めの恩恵は 自分の苦しみが減り 回りの人の苦しみも減ることです (ニール)私にとって 初めて神を理解したことが 人生の目覚めだったのは 疑う余地がありません かつて経験した中で 最大の目覚めでした 本当に50年間 ほぼ眠っていたかのようで ロボットのように歩き回って 若いころから教えられたことを ただこなしていました 型は分かってました ガールフレンドを見つけて 車を買い 仕事に就き 家を買って 結婚する その型に従って働くものだと 思ってたんです 53くらいになるまでは そういう事は殆どやってきて 仕事でも ある程度成功したんですが それから悟ったんです 53才にもなれば誰でも こんな事はどうでもいいって 目が覚めるだろうと 悟ったんです こんな事には意味がありません それが文字通り何を意味するか分かって ショックを受けました 全てが無意味でした (ナレーター) 自分の役のために書かれた台本に 従うのをやめる時… 親から譲り受けた台本 社会に また生理的に条件付けられた台本 それらを捨てると 新しい次元が人生のゲームに開けます 道が開けます でも何かの目標に至る道ではありません 道なき道です それは錯覚を脱ぎ捨て まさしく今の自分に至る道です (ルパート) 私の名前は ルパート・スパイラで 私が話すのは 根本的で二面性のない洞察です これは偉大な宗教や精神的な伝統すべての 根底にあります 私は執筆をしたり瞑想の指導をしたり この洞察を 経験を通して認識できるよう 導くという目的で 人と会話をします 誰もが 何よりも切に望む 平安と幸福は 定義によれば 物質的な経験では見つからないことを 理解してください 平安と幸福は 物や活動や人間関係によって 提供できるものではありません それをしっかり理解して 見つかるはずのない所で 満足を探して 残りの人生を過ごさないよう お薦めします このビデオを見ている人は 望んでいる平安と幸福が 物質的な経験では 見つからないことを理解したか 少なくとも直感で察したからこそ 行動を起こし 自分の真の本質を 探求し始めたのでしょう それは人ができる最も重要な探求です 幸福がかかっている 探求なのです (ニール)私の人生で最大の疑問は もちろん たいていの人が遅かれ早かれ 直面すると思いますが 「実際どんな意義があるのか?」 「人生の意義とは何なのか?」 以外に思ったんですが 人生の意義は 私がやってた事と 何も関わりがないと言われました 仕事でもなく キャリアでもなく 物質的な生活と ほとんど関わりがなかったのです そういうのは人生の側面であって 人生の意義ではなかったのです 私が理解するに至った 人生の意義とは 自分の真のアイデンティティー 自分の本当の人となりを 体験し、表現し、行動で示し 全うすることだったのです ほとんどの人が直面する 最大の疑問は あまり誰も自問しないし 答えようともしない疑問だと思います 人生最大の疑問は 私の知る限りでは「自分は誰なのか?」です 私は誰なのか? 空の鳥や海の魚のように ただの物質的な存在でしょうか? 鳥や魚より高尚かも知れませんが それでもただの物質的な存在で 生まれて生きて死ぬ それが始まりで終わり それともひょっとしたら 自分はそれ以上のもの ということは あり得るでしょうか? 自分が霊的な存在で ただ物質的な体験をしている ということはあり得るでしょうか? (ナレーター) 人生の経験はすべて あなたをこの一つの普遍的な質問へと 導いてきました あなたは誰でしょう? マインドで答えを探さないでください すべてをあるがままに放っておきましょう マインドを自覚しているのは誰でしょう? 浮かんでくるものは すべて感じ取ってください そういう感覚を自覚しているのは誰でしょう? 問いかけた結果 浮かんでくるものは全て しっかり体験してください (ドナルド) 私はドナルド・ホフマンです カリフォルニア大学アーバイン校で 認知科学の名誉教授をしています 私の仕事は学生を教えることでしたが 今は名誉教授で教鞭は取らず リサーチをしています 現在 意識の数学的なモデルを研究し また 全く数学的に正確な 意識の理論から 物理と時空がいかに生まれるかを研究しています 私自身の人生は 霊的な面と科学の面と両方あります 父は 原理主義キリスト教の牧師で 日曜日にその面を教わり 学校で科学を教わり 二つは矛盾しますよね? 私の教えられた話は相反するので 十代の頃に 自分で解決する必要があると知ったんです 答を出したい質問を決めました 我々は機械か? 人はただの機械なのか そうでないのか? 物理的な視点からは 我々はただの機械です 霊的な視点からは 機械ではありません 我々が何なのか断言できるほど 的確でなかったので 科学的に質問することにしました 我々はただの機械か? その最善策は 人工知能を勉強することだと思ったので MIT に行って 人工知能のラボで AI を研究し また 今では脳認知科学部となった所で 人間にまつわることを研究しました 両方やりたかったので 機械に何ができるか見たかったし 人と人体神経科学で何か特別な事があるなら それを見たかったんです 他でもない その質問に答えるために- 精神的な伝統は正しいのか? 我々はただの機械以上なのか? それとも物理的な科学的な視点が正しいのか? 私たちはただの機械で 意識は 脳内活動の 産物にすぎないのか? (ナレーター)科学的な 唯物論者のパラダイムが過去一世紀では優勢で 物質を超越するものは何であれ その存在を否定します 科学的な方法で実証できないものは 何であれ否定するのです 科学は袋小路です 量子科学の基礎となるパラドックスを 越えられず パラドックスを観察者に突きつけ 意識そのものに突きつけました 同様に宗教も たいていの場合 信念のレベルでしか機能しておらず 私たちが誰で何なのかという真実を 直接体験できるように導くという 本来の目的を 宗教は見失っています 科学と精神性の分裂は 両方を貧弱にしてしまいました 宗教や精神的な思想体系は 目覚めを起こす環境を作れると 世に示せるような 厳格な方法を切実に必要としています そして科学は 物質を越えた何かがあるという可能性に 門戸を開く必要が切実にあります 宗教か科学かを捨てるというのではなく さらに深く掘り下げ 探求に よりふさわしい道具となれるよう 自分を変える意思を持つということです 私たちが実験を行う者であり 実験そのものなのです (ロック)宗教は こういう瞑想や精神性の伝統を 伝える言語として また器として続いてきました その瞑想や精神性は書きとめられ 何世代ものあいだ 引き継がれてきました 確かに原語の中には 文字通りのものもあり 額面どおりに解釈すると 宗教を分裂させ 文化を分裂させます しかし宗教の精神を感じ取れれば その糸をたどって本物の目覚めへと たどり着くことができます 誰にでも 信仰があろうとなかろうと 目覚めの可能性があります なぜなら 目覚めは 誕生の時から 人の意識の中に備わっているからです ですから何と呼ぼうと 言語が何であろうと 異なる宗教や精神性や 瞑想の伝統の中に ある原則が共通しているようです。 (ルパート)私が若かったころ こういう考え方は 主に東洋の精神的な伝統でしか 得られませんでした 西洋の伝統にもありましたが ゆがめられ そういう伝統のうちに体系化されて ほとんど理解できませんでした この考え方を見つけるために たくさん 同世代の人が 実際に東洋へ行くか または 少なくとも知的に東洋へ行きました 東洋の文化は西洋文化と比べて エキゾチックでした そしてこの考え方が伝えられていた 文化の影響で 異国情緒が加わりました その結果 たくさんの人が 私も含めて 二面性のない考え方には エキゾチックな何かがあって この世を越えた生き方が求められ 家族生活を放棄したり 髪を伸ばしたり 特別な名前を授けられたり ある種の師や伝統に従ったり 変わった修行をしないといけないと考えました そんなことは全部 核心の考え方と無関係で その考え方が表現されてい’た ある時代の文化と関係していただけです 今では その考え方は 我々の多くが最初に聞いた時の 伝統的な文化の包みを完全にほどいて 根本的な理解だけが得られるようになって 私たちの生活を そのまま続けられるような形になりました 家族生活であろうと 仕事であろうと 生活に外的な変化を 加える必要はないのです この地球上で私たちが抱える問題は 本質が一つ以上あると 考えることです 私たちは 私が二元性と呼ぶ世界に住んでいます 男性と女性 黒と白 大と小 早い遅い 上と下 ここかしこ 前と後 でも実際あるものは一つだけです 全ては一つのものなのです 一つあるだけです それで すべてを深く観察すると こことかしこ 大と小 早い遅い 上と下 右と左 男性と女性はみな同じです 異なる特徴を表現しているだけで 決してお互いから切り離されていないことが 分かります 私は信じています 私たちはみな 神が個体化したものです 私は信じています 神は一人一人の人間の内に 人間として また人間を通して存在し さらに言えば 宇宙の中で 一つ一つ知覚できる 存在の内におられるのです ですから私と神との関係は 波と海のようなものと 私は見ています 波は海と何ら違いはありません ただ個別の形で海が湧き上がるのです そして固体化が完了すると 波はもと来た海へと引き上げていき また別の日に湧き上がるのです ですから 私たちはみな 神性の個体化したものと私は信じます すべてを神聖と見なすとき 私たちはすべてのものとの 関係を変えます そしてすべてが 私たちの経験において 違ったものになるのです そうやって世界が変わっていきます (ルパート)意識は究極的な 宇宙の現実です ではもし意識が究極的な宇宙の現実なら そして 何でも誰でも 明らかに意識なら なぜ 世界は多種多様で 物質と呼ばれるものでできたー 人々や動物や物が別々に独立して 存在するように見えるのかと 問うべきかもしれません 意識は究極的な宇宙の現実だという意見は 世界が多種多様な物質でできているように見える時 どのように折り合うことができるのでしょうか (ドナルド)意識が根本であるとする 私の根拠には さまざまな側面があります 一つには 物理学そのものが 時空は根本ではないと言い 進化論も 時空や物体は 根本的な現実ではないという点で 一致します この両理論は 時空は根本ではないとだけ 言っています 時空の向こうに何があるか 教えてくれません 私の主張では 物理学者が時空を超えて発見するのは 数学的な構造です でもそれがどういうものかは はっきりしません 時空を超えた領域とは どんなものでしょう? そこで私は 時空を超えた領域は 意識に関するものだと提唱しているのです (ルパート) 無限の意識は 自己を 数かぎりない別個の経験の主体として 局在化する能力を持っていると私は提唱します それは知覚できる存在、人々、動物の すべてです 私たち一人一人は 無限の意識が局在化したもので 無限の意識だけで作られた 無限の意識の中にあり その無限の視点から 自身の活動を外界として見ています。 ですから 私たちの局所化された視点からは 物質でできた世界のように見えるものも 現実の視点からは ただ一つの無限の意識の活動に過ぎないのです つまり 究極的に分析すると 分離または独立して存在する物や人は 存在しないのです あるのは 無限で 分かつことのできない一体なのです その一体が 限られたマインドの洞察力を通して 自身の活動を見るとき 一貫した存在が 見かけは多種多様な事物のように 屈折して映っているだけなのです (ダン)もし私たちが目覚めれば 地球上のさまざまな存在に 姿を変えている一つの意識 みんなの目を通して輝いている 一つの意識があることに気づきます そして文字通り 他人の内に自分自身を見ます そして自我で行動し 自我を自分として捉える傾向は 真実をじかに悟ることで消え去ります 真実とは 私たちがみな 一つの意識であるということです (ニール) 霊的な自分自身を体験するのが 物質の領域でしかできなかったのには もっともな理由があります 物質の領域でのみ 逆の体験ができるからです つまり 簡単な例で言えば もし私が 喩えとしてですが 自分自身を光として体験したかったら 光のただ中にいて 周りに光しかないとしたら 自分が光になる体験はできないでしょう これは霊的な領域の完壁な定義です それで 物質の領域と私が呼ぶ 光以外のものがある領域に来るのです 自分を光として体験したいからです ただ自分を光として知るだけでなく 体験したいから そのためには光と反対のもの この場合は闇のある所でしか できなかったからです だから私はこの機会を 光と闇が共存する物質の領域に もってきて 光としての自分を外に表現することで 本当の自分になることができたのです (ルパート) そしてこの考え方は 個人差の裏では 私たちはすべて同じ存在で 似たような存在ではなく 文字通り 一つの同じ存在だと示唆しています そして愛は この一体感や共有された存在を 実感する体験です (ドナルド)最終的に意識は一つである というのが私たちの理論の定理です 意識のある無数の人々が 動きまわっていますが 理論がいうところでは 究極的には意識のある人々はすべて 唯一の意識の投影に過ぎないのです 現在の科学のパラダイムは... 何世紀もそうでしたが 空間と時間が 現実の根本的な本質であるというものです 時間と空間は変換できないもので すべての基礎です アインシュタイン以前は 空間と時間は別のものと見られていました 今では時間と空間は時空に統一され 現実の根本的な本質と見なされています それから科学は 時空とその中にある物体とは 基本的な現実であると想定しました たとえば 私たちが 意識について話すとき 意識そのものがどうにかして 時間と空間の中の物体から生まれたはずです その物理主義の枠組みでは 意識のない空間と時間と物体が 根本的な現実です そして意識は後から 宇宙の進化と共にやってきますね? ビッグバンでは 意識はなく 時空とエネルギーがあるだけでした そのエネルギーが融合して巨大な粒子となり 何百万年、何億年、何十億年後かわかりませんが 結果的に生命が誕生しました それから もっと後になって意識が来ました その視点では 人が死ぬと 意識を生んだ物理的な複雑さは消滅し 人の意識も消滅します ですから物理主義者の枠組みは 根本的なものとしての意識を ことごとく排除し 肉体が死ねば意識も一緒に無くなると 言っています 別の観点から 私が同僚と行ったことは 進化論を使って 時間や空間は根本的なものでないというのが 進化論の含意であり だから物質主義者の進化論の解釈は 間違いだと指摘したのです 空間と時間と素粒子が 人体のせいでどうにかして進化した というのは 間違った枠組みです 時空そのものは根本じゃありませんから 私たちは時空を超えた もっと意味深長な原動力を掲示しています 意識の原動力です 私たちは 古い理論を捨てはしません 物理主義者が 時空は行き詰ると言っても アインシュタインにもう注意を払わないと いうことではありません とんでもない アインシュタインに注意を払います 物理主義者が 時空を超える新しい理論を提唱するなら それは時空へと導くもので 量子論や アインシュタインを返してくれるのでなければ 間違っています 古い理論はみな 素晴らしい 素晴らしい友人で 奥深い理論の特別なケースとして 残しておくのです ですから私たちの意識の理論でも 同じことをしなければなりません 何でも好き勝手に提案はできません 意識の理論は 時空へと導き 時空を返してくれて 量子論も特殊相対性理論も一般相対性理論も 自然選択による進化もすべて 返してくれるものでないといけません それを詳細まで正確に数学でできなければ 科学者が私たちの意識の理論を 真に受ける理由がありません (ルパート)まるで無限の意識が 仮想現実のヘッドセットをつけるようなもので 無限の意識が 思考と知覚でできた VRヘッドセットを装着するのです そうすることで VRヘッドセットを装着したとたん 自分の活動の中に 自身を局地化させるのです そのヘッドセットを通してー 見る 聞く 触れる 味わう 嗅ぐといった 限られたマインドの知覚能力を通して 外を眺めるのです それが自分自身という存在の 統一性を断片化し 10,000個のものに見えるようにします 私が言いたいのは 宇宙には限られたマインドよりも はるかに多くのものがあるということです 宇宙が我々の限られたマインドだけに表れると言うのではありません 宇宙は私たちの限られたマインドの外にあり しかし意識の中に存在します でも私たちの限られたマインドに制限されて 宇宙にその外観を与えているのです ですから宇宙を眺めるときは 認識される前に存在していた現実を 見ているのです しかし私たちの知覚能力という レンズを通して見ているため そのように見えてしまうのです 多くの精神的な伝統における 目覚めの概念では 空間や時間の中にある物体や肉体など 私たちが現実として受け止めるものは 最終的な現実ではなく さらに奥深い現実があって 空間や時間や物体を超越した 意識の現実があり 私たちはその現実から 切り離されていないのです その現実は ある意味で 私たちの本質なのです ですから目覚めとは 幻想から覚めることです 自分は空間や時間の中の ただのちっぽけな肉体だという幻想から 実は空間と時間の中にある あらゆるものの創造者で 見るもの認識するものをその都度 創造しているのだと目覚めることです (ルパート) 人が目覚めるのは 認識によって起こります 自分の本質が既にすっかり目覚めていて すっかり自覚しており 完成し 欠けたところがなく 平安に満ちていると認識することで起こります 太陽がどうやって輝くようになったのか 尋ねるようなものです 太陽の本質は光です 既に完全に輝いています 私たちの本質的な存在には 既に 平安と幸福という自然な性質があります それは 全員に明確ではありません 私たちの本質は 体験する物事とすっかり混ざり合っていますから 生来の平安と幸福は 体験によって薄らいでしまいます そのため 私たちは本質的な存在が 悟りを開く必要があると考えます いいえ 私たちの本質的な存在は 太陽が早朝に光り輝く以上に 悟りを開く必要はありません 太陽はいつも同じ明るさで輝いています 私たちの本質も常に 同じ平安と喜びで輝いているのです でも 私たちの考えや感情にありがちな いらだちや不足によって その平安と喜びは 薄められてしまいます (ダン) 目覚めるのは人物ではありません ですから 目覚めた自分というのは とあるダンという構造から 瞑想センターで目覚めたのです 禅センターでした 私たちは禅の接心をしていて それは長時間の集中的な修行です 禅は驚くべきもので 逃避できない状態をつくる器にぴったりです 瞑想を学んだダンというキャラクターがいて 瞑想を続けてきた 瞑想修行者のダンというキャラクターは 目覚められないと悟りました 瞑想のいろいろなコツも 学んできた練習もすべて 役に立たなかったのです 目覚めようともがいていたキャラクターは 目覚めに失敗し 挫折せざるを得ない所へ 到達したのです 人生を通して生きてきた役柄 私が演じてきた役柄は 捨てるか死ぬかしないといけなくなり 何が残ったか? 修行者がいなくなって 残ったものは 瞑想 または瞑想と呼ばれることをする 瞑想者がいなくなって 残ったものは 私の本当の自然体でした というか私...ただの私でした (ロック) あの小さな自分の分身から目覚めるとき 自我を殺すのではなく 自我と戦うのでもなく 実際は 自我というアイデンティティーの仕事から なかば引退して リラックスして チームの一員に 私たちの意識の一部になるのを許すのです そうすれば もう世界を小さなレンズで見るのではなく 心を開き偏見を捨てて 自分を広げ 同時に もっと親密につながるという 解放感をすぐ与えてくれます 悟りは目覚めることではありません 誰も目覚めたり悟ったりしません それは光を認識することです 本質が平安と幸福から成る 純粋な知識の光を認識することです 私たちはいつも そして既に 平安と幸福なのです (リサ)私の名前はリサ・ナトリです 霊的な教師として知られており 癒し 目覚め 自分の変容について教えています 目覚めは 自分の本質を認識することです 自分が本当は何なのか悟ること つまり意識であることを悟るのです そして「意識」は 人々が 自覚や 命や 愛や 神や 光を 表すのに使う たくさんの言葉の一つにすぎません 私というこの肉体は 自分ではないという 認識に目覚めるのは 死にもしないし生まれもしない自分に 目覚めるのは 私にはとても難しい概念でした 私は霊的な道を 1992年からたどってきました 「奇跡講座」のAコースから始めて いつも熱心に勉強しました 私は 自己を知り 神を知り 目覚めることに献身的な人間だったのですが .....でも分かりませんでした 思い込みがあったからですー 目覚めとは神秘的なもので 何かが起こって 出来事があって イエスや 釈迦や その他の 悟りを開いたマスターのようになると 思い込んでいたからです 私には悟りが起こらず 何故だか理解できませんでした こんなに熱心で 深い平安と幸福と喜びを感じる瞬間があるのに ...どうしてまだもがいているのだろう? 私たちの本質 つまり自覚のシンプルさに 私は気付くようになりました 私の話をいま聞いている人には この声を聴いているという自覚が 私たちの正体なのです 場所もなければ 性別もなく 色も肉体もなく まったく無限です ですから目覚めとは 自分の本質に目覚めることなのです 今ここにいて この体験をしている自覚が私なのだと 実感に目覚めることなのです 当たり前すぎて 見過ごしてしまいます そんな単純なはずはないと 思ってしまいます 自分の本質を認識しても 幸福には至りません それが幸福なのです 存在の本質が 幸福そのものなのです 私たちの本質を認めることは幸福の体験です 誰がこの瞬間を自覚しているでしょう? マインドは 何かを探すか 複雑にしようとします あなたは既に マインドが探しているものなのです マインドはいつも見落とします だからマインドに答えを求めないでください 考えを押しやらず 考えに捕われないでください ただ興味を手放し 考えや概念や信念への執着を 手放すだけでいいのです 自分というものを じかに体験することを意図してください マインドを否定したり ある状態を達成しようとしないでください 全ての行動 すべての操作 すべての動きは マインドによるコントロールなのです マインドはあるがままに任せましょう (ダン)時に人は日常の中で 目覚めることがあります 必ずしも練習は必要ありません あなたのパターンを中断するようなことが 人生では時々起こり 偶然 目覚めが起こることもあります でも誰かの人生がロボットのように 繰り返しのパターンを続けていたら ある種の介入が必要です もし人が目覚めに導かれていて それが自分のパターンを中断するなら サダナとか精神修行とか呼んだりします こういう修行にはいつも 条件がつきます 条件づけられたマインドで 学ぶことがいくつかあります 言わば 自己構造のつながりを 緩めることで 修業は目覚めを起こりやすくしてくれます 目覚めは偶然起こると 言われることもありますが 修行をすると偶然に行き当たりやすくなります テクニックや修行は 偶然に出くわす可能性を上げるのに とても役立ちます でもある時点で それを手放さなければなりません というのも もしマインドが継続的に 修行や何かをやっていると マインドが手綱を握り マインドが運転席に座ることになります 修行は役に立ちます 自己構造を組み立てるのに とても便利な足がかりになります 修行は きつい自己構造を緩めたり または啓発したりして 私たちの本質にもっと浸み込みやすくするとも言えるでしょう 修行のパラドックスは やっと目覚めると それまでの修行は 偽の自分がやっていたのだと気付くことです