皆さんこんにちは
今日はセルフィーについてのお話です
セルフィーは人々が自分の画像を
人に見せるための最も現代的な方法です
しかし私たちは何千年もの間
自分の画像を人に見せてきました
ですから 今日のお話では
私たちが現在していることと
過去にしてきたこととの関係を
見ていきたいと思います
セルフィーを知らない方や
Instagram のアカウントをもつ
10歳前後のお子さんが
おられない方などのために
お教えしましょう
セルフィーはモバイル機器で撮る
自分の顔写真のことです
腕を伸ばしてシャッターを押します
全て自分です
そこにはプロのフォトグラファーや
編集者
キュレーターはいません
それをすぐにインターネットにアップロードし
世界中の人が見られるようにできます
ですからプライベートな生活が
それを見た全ての人にさらされます
セルフィー作成者になるということは
自分がクリエイターでもあり
被写体でもあり
セルフィーでの自分の見せ方を
振付けたりもします―仕草や
カメラへの近さ
どこから写すか
何を着るか
環境 それからとても重要な顔の表情も
自分で決めます
この手段そのものは
非常に特徴的な美学をもっています
第1に 大半のセルフィーは正方形で
通常近距離で見られます
おそらく携帯電話やモバイル機器上でね
セルフィーの画像は
非常に特殊な形で歪みます
それは腕の長さの距離という
カメラレンズから近い位置で
撮るからです
そのため顔や背景の一部が
歪むことがあります
さらに腕の長さ分という
距離の近さのために
写真自体が非常に
奥行きのないものになります
多くのセルフィーは
上手いかどうかによるのかもしれませんが
画像自体にぼやけた箇所があります
最後に 多くのセルフィーはかなりソフトで
彩度の低いセピア色です
これは非常にノスタルジックな
雰囲気を与えます
多くの人はセルフィーを自己愛的だと否定しますし
多くの場合実際そのとおりです
一方 大半の人々は
自分を見ずにいられません
つまり 皆さんが鏡の前を通ったら
ほとんど全員がちらっと見てしまうでしょう
どんなふうかなと
(笑)
しかしセルフィーを美術史との関連で
考えてみましょう
セルフィーは伝統的なものなのか
それとも革命的なのか
伝統的には 人が肖像画を描かせる時
それは画家の手によるものでした
人は画家の目を通して把握されました
ここに「太陽王」 ルイ14世の
肖像画があります
ルイ14世の望むとおりの世界観を
画家は優れた腕前で表現しました
時には
たとえあなたが
世界で最も権力のある人物で
最も優れた画家を雇ったとしても
できあがった肖像画がいつも
あなたを良く見せてくれる訳ではありません
しかし今や私たちは間をつなぐパイプ役
仲介役としての画家を排除したのです
そして皆がアーティストです
ですから自分をどうブランディングするか
自分で決められます
画像ごとに ブランディングの仕方や
イメージを変えて 世界に向けて
自分を宣伝できるのです
ですからルイ14世の肖像画の場合と違い
自己は非常に流動的な概念で
常に変化し発展し続けることが
できるのです
ルイ14世の場合だと何百年後でも
彼のメッセージが何だったか分かります
自画像について考えてみましょう
伝統的に自画像は―
自画像として思いつくのは
このデューラーの作品です
彼は思いどおりに自分の考えや信念を
絵画に取り入れました
ここでの彼は
自身の芸術的才能を
創造主としてのキリストと
ほぼ同等なものと捉えています
そして現代のセルフィーでは
全て知り尽くしているかのような表情で
彼は自分の優越性を示しています
セルフィーを他の伝統的カテゴリーから
考えてみましょう
ボディーランゲージを取り上げましょう
これはローマの元老院議員です
観客:うわ!
真正面からの顔の表情です
何にも屈しないようなこの表情で
カメラをまっすぐに見ています
今日 人々が画像の中で
自分の権力を示したい時は
これとまったく同じ
ボディーランゲージを使います
このヘレニズム様式の
アフロディーテについて考えてみましょう
頭を恥じらいながら傾けて
隣にいるサテュロスと
仲睦まじく過ごしているところです
また繰り返しになりますが
現代のセルフィーでは
全く同じボディーランゲージが
見られます
何度も―
(笑)
これはヘラクレスです
彼の頭は垂れ
腕は身体から離れています
引き締まり筋肉質でパワフルな
胴の形がよく見えるようにです
彼がどういう人間であるか
これで明らかに示すことができるからです
何度も言いますが 現代のセルフィーでも
同じ発想を見ることができます
この現代的な作品においてでさえ
被写体の頭はカメラのレンズによって
歪み 背景と化し ぼやけてもいますが
それは彼の焦点が
鍛えぬかれた肉体にあるからです
その肉体は 彼がどういう人間かを
表現するものになっているのです
これは若き日の 画家レンブラントです
彼の目は落ちくぼみ 暗く 深く
ふさぎ込んでいます
口を固く結び
金色に輝く髪をしています
そしてこの現代のセルフィーでも
それと全く同じように
若い才能あふれる人物の
詩的苦悩と苦悶の表現が
試みられています
私たちは美術史だけではなく
ハリウッドの世界も参考にできます
ハリウッドの世界も参考にできます
これはメアリー・ピックフォードです
ある種の純情さが
黄金の巻き毛や くりくりした瞳
「成せば成る」精神と共に示されています
そしてこれは彼女を模倣した
現代のセルフィーです
ほぼ全く同じ発想で撮られています
セルフィーはあなた自身を
かたどっただけのものでなく
あなたがどういう人で
どこに行ったことがあるかをも示します
あなたがどんな人であれ
人は自分の暮らしぶりをあなたに知らせて
嫉妬させたいのかもしれません
僕の生活だけでなく
僕が何を持っているかも見てよ (笑)
私の持ちものに価値を感じる?
持ちもので私を判断するの?
私が持っているもの見せてあげる
私が誰といるか見てね
あなたがどういう人で
どんなに権力を持った人であろうと
重要な誰かと一緒にいると示すことで
自分が有意義に時間を過ごしていることを
示したいと思うでしょう
常に記録され 記録し続ける世界で
私たちは暮らしています
このために私たちは写真を撮る過程で
非常に自意識過剰になっています
その反応として
私たちがセルフィーを撮る時
多くの人々は大げさな表情を作ります
一旦静止し それから写真を撮ります
彼らは
瞬間的な表現を「演じている」ことを
あなたに確実に知らせたいからです
確かに彼らは実際のところ
瞬間的で印象の良くない 現実的な姿を
写真に収められたいとは
思っていません
ハリウッド映画の影響で私たちは
写真でどうポーズをとり
どう微笑めばいいか知っています
しかし常に記録されていることに対する認識は
セルフィーに独特の
全く新しい表現を作り出しました
それが「アヒル口」です
セルフィーは 見ることと
見られることについての
長い歴史の一部です
あらゆるセルフィーは
自分自身をディスプレイする行為です
あらゆるセルフィーは
自分を覗き見て快感を得る行為です
ではこれらの写真における
視線について考えてみましょう
これはマネの『オランピア』です
その一糸まとわぬ姿を見る私たちに
彼女は挑んでいます
彼女を見る私たちを
彼女が見ているのです
そしてこれが現代のセルフィーです
全く同じポーズで
全く同じ視線で
全てのことが慎重に計画され
意図的に行われています
視線に関する別の観点は
被写体が目を逸らしている時に関してです
そうなると彼らは風景の一部
静物画の一部
鑑賞される対象です
彼らは見られていることを
見る人に知らせようとはしません
では結局のところ
セルフィーの消費者は誰なのでしょうか?
そして私たちは内容や文脈なしに
どうやって画像を理解すれば
いいのでしょうか?
ある人はある読み取り方をし
別の人はまた別の理解を
するかもしれません
私たちは 画像を見る時
個人的な認識や経験
また個人的な見方を用いているのです
それらによって何重もの読み取り方
何重もの物語が生み出されます
究極的にはセルフィーは
人々が誰かに気づかれることを
渇望している事実を示す重要な例であり
人々は誰かの記憶に残りたがり
それでいいと言われたがります
これはそのための試みです
しかしこの手法は
非常に多くの画像を一度に見て
比較・対照したり 批判したり
並置したりするのを可能にします
そして全ての被写体兼クリエイターは
撮影する画像に
常にオリジナリティを追求しています
このような作品を見る時
セルフィーを見る時 撮影する時
それがどう歴史的文脈に位置づくのか
私たちは考えなければなりません
ありがとう!
(拍手)