さて この話から始めましょう―2年前
ある企画の担当者が電話してきました
スピーチイベントに
出ることになっていたのです
彼女は電話口で言いました
「今 困っているのよ
案内にどうあなたの紹介文を書くかで」
「困るって何が?」
「あなたのスピーチから考えたら
研究者だけど―
もし研究者なんて紹介してしまったら
誰も来ないんじゃないかと思って
退屈で縁のない話と
思われたらね」
(笑)
「わかった それで?」
彼女はこう続けました
「だけど あなたの魅力は
話上手なところなの
だからストーリーテラーと
呼ぼうと思うんだけど」
研究者としての私は不安に思い
「なんですって?」
「ストーリーテラーよ」
「なんで魔法使いの妖精じゃないのよ?」
(笑)
私は「ちょっと考えさせて」と言って
自分の勇気を呼び出そうとしました
そしてこう思ったのです
私がストーリーテラー?
でも私は定性調査をしていて
物語を収集するのが仕事だし
魂のこもったデータを
物語と言うのだろうから
やっぱり私は
ストーリーテラーなんだと
「じゃあこういうのはどう?
研究者 兼 ストーリーテラー」
「そんなのありえないわ」と
一笑に付されました
(笑)
ですから私は
研究者 兼 ストーリーテラーです
今日は物の見方を
拡げることについてお話します
また研究にまつわる
いくつかの話をしたいと思います
研究を通して私の見方は
根本から拡がり
生き方 愛し方 仕事
子育てのやり方を
変えました
そもそもの始まりがこれでした
私がまだ若き研究者―
博士課程の1年生だったとき
指導教官の教授が
みんなにこう言いました
「つまりだね―
測定できないものは
存在しないのだ」
うまいこと言ってるだけだと
疑いましたが
彼は確信に満ちていました
ちなみに私はソーシャルワークで
学士号と修士号を取り
そのときは博士号を
取得しようとしていました
ですから在学中はずっと
人生は煩雑なものだと信じ
だからこそ素晴らしいと思う人たちに
囲まれてきたのです
私はその人たち以上です
人生は煩雑で
それを片付け整理し
弁当箱に詰めてしまいます
(笑)
それが自分の生きる道ですし
天職だと思います
ソーシャルワークの分野で
よく言われるのが
仕事の苦しみに身をあずけろ
というものですが
むしろ私は仕事の苦しみを振り払い
押しのけて全部片付けてきました
私はそういう主義でした
それで この言葉でわくわくしました
またこう思ってました―
これが私の天職なんだ
どうしようもない話に
興味があるし
それをどうにかしたいし
理解したいんだ と
こういった大事なことについて
どうにかして
誰もがわかるように
整理したかったのです
それで“関係性”から研究を着手しました
10年間ソーシャルワーカーの
仕事をしてみると
関係性が生きることの理由だと
気付くのです
関係性が生の目的や意味を
与えてくれるのです
関係性とはそういうものです
社会正義 メンタルヘルス
虐待や育児怠慢に関わる人なら誰でも
知っていることなのですが
関係性 つまり繋がっていると感じる能力は
神経生理学的にも認められた能力で
生きる理由なのです
そこで関係性から研究を
始めようと考えました
上司から評価を説明される状況を
想像できますね
上司はあなたの37の功績について
話したあとで
“成長の余地”について話します
(笑)
その“成長の余地”が
頭からはなれません
私の研究の過程でも
同じことが起こりました
というのも愛について尋ねると
相手は失恋について語ります
帰属意識について尋ねると
それではなくて
冷たくされた
ひどい経験について話し
関係性について尋ねると
語られるのは
関係性がうまくいかない場合の
話なのです
開始して6週間たったところで
この何と呼んでよいか
わからない状況に気付き
それまで理解も経験も
したことのない方法で
関係性が完全に解明できたのです
研究からいったん後退し
これが何かをはっきりさせる
必要があると考えました
結局それは“恥”であるとわかりました
恥というのは関係性喪失への怯えとして
容易に理解することができます
私も自分が
関係を持つに値しないと
思われることを想像すると
自分の中にも見いだせるものです
つまり
普遍的で誰もが持っているのです
逆に恥を経験しない人が
つながりや共感を
持ちえるはずがありません
恥について語りたい人はいませんが
話さないと余計に
大きいものとなります
この恥という感情
つまり 自分は十分じゃない と思う
誰もが知る感情のことですが
具体的には 完璧じゃない
スリムじゃない
金持ちじゃない 美しくない
偉くない とかそんなことです
こうした気持ちを芽生えさせるのは
耐えがたいような
心のもろさです
なぜなら
関係性を持つには
私たちは自分自身を
さらけ出さなければなりません
心のもろさについて私の考え―
私はそれが嫌でしたから
自分の心のもろさを
物差しで叩きなおす
よいチャンスだと思いました
私はこれを理解してやる
1年をかけて徹底的に解体してやる
どう働くのかを理解してやる
そしていつか
その裏をかいてやる
準備万端でしたし
本当に夢中でした
でも お察しのとおり
うまくはいきませんでした
(笑)
わかりますね
恥についてはもっと
お話ししたいのですが
時間が足りません
けれども結果的に この発見は
この10年ほどの
研究の中で学んだ
一番重要なことです
1年のはずが
6年となり
何千もの話があり
長いインタビューや
フォーカスグループ研究をいくつも行い
ある時は誰かが雑誌の記事や
自身の体験談を送ってきて
それは6年の間に
何千ものデータになったのです
それで理解の糸口を
得ることになりました
また恥が一体何であるか
どう作用するのかも
理解したと言えます
私は本を書きました
理論を公表しました
しかし何かが
不十分だったのです
それが何かというと
適当に私がインタビューする人を選び
ある人たちを自己価値感を持っている人と
区別すると
前者に欠けていたものとは
自分に価値があるという感覚でした
愛情とか帰属の感覚を
持つ人がいる一方で
それに苦しんだり
自分はこれでいいんだろうか と
悩んだりする人がいます
強く愛されているという感覚を持つ人と
愛や関係性に苦しむ人とは
あるひとつの点で
違っていました
それはこういうことです
深い愛情や関係性を感じている人は
自分が愛されるに値すると
信じているのです
それが違いなのです
自分には価値があると
信じているのです
人が関係性が断たれた
状況にいることに
耐えられないのは
自分が関係性を持つのに
値しないという恐れです
ですから個人的にも仕事上でも
このことを理解する必要があると思いました
それで自己価値感が見られる人や
それに従って生きている人への
インタビューを選び出し
これらをじっくりと眺めました
共通して見られることは何だろう?
私はちょっとした文房具中毒で―
でもそれはまた別の機会に話します
マニラフォルダーと
サインペンを手に
この研究をなんと呼べばいいのか考えました
そしてある言葉が
ふと浮かんだのです
それは“あるがまま”です
つまり自己価値感をもって
生きている人たちなのです
それでマニラフォルダーの
はじめにこう書き
データを見始めたのです
それが私が最初にしたことです
4日で集中的なデータ分析をし
過去のインタビューや体験談
出来事など振り返りました
何がテーマなんだろう?
パターンは何だろう?
主人は子どもたちを連れて
家出しました
というのも私は執筆中は
研究者モードで
ジャクソン・ポロックばりの
仕事ぶりですから
そこで発見したことをお話すると
その人たちが共通して
持っていたのは勇気でした
ここでは勇気と勇敢は
別なものとして考えます
勇気―そもそもはラテン語で
心を表わす“cor”という言葉が
英語に入ってきたものです
またもともとの定義は
自身のことをあるがままに話す
ということです
こうした人々は
不完全であってもよいとする
勇気こそを持っていたのです
また自分に対して思いやりがあって
他者への思いやりを持っています
人は自分自身に優しくなれないなら
他者にも思いやりを持てませんから
またこの人たちは
関係性を持っていました
ここからが難しいところなのですが
自分への忠実さの結果
自分のあるがままを
受け入れるために
あるべき姿については
あきらめていました
それは関係性を得るためには
絶対に必要なことなのです
その他の共通項は
こういうことでした
心のもろさを受け入れていたのです
その人たちはこう信じます
自分たちの心をもろくするものこそ
自分たちを美しくする と
心のもろさが快適であるとも
それが自分たちを
苦しめているとも言いません
恥のインタビューの時に
聞いたような発言は
ありませんでした
必要なことなのだ語ります
愛していると
告白するための思い切りや
うまくいく保証がなくても
何かをするという熱意について
また
マンモグラフィーの検査の後
医師からの告知に備えながら
なんとか生きる意志について
語ります
それがうまくいこうと
いくまいと
関係性に身を費やしたいのです
ただそれが不可欠なことだと
考えているのです
私にとってこれは
裏切られる結果でした
自分自身がかつて
研究をすることに
忠誠を誓ったなんて
もう信じられませんでした
研究とは
制御したり予測すること
また現象について詳しく調べることです
制御や予測という―
明確な目的があって
なされるものです
けれども制御や予測という使命に
従った結果 現れた答えは
心のもろさを受け入れた
生き方であり
制御と予測を放棄せよというのです
これはちょっとした挫折となりました
(笑)
こんな風に実際よりも
大きい挫折に見えたのです
(笑)
私は挫折と捉えましたが
私のセラピストは
それは開眼だと捉えました
開眼は挫折より
響きがよいものですが
やはりそれは私には挫折でした
研究を止め セラピストを
探すことにしました
余談ですが
こういう状況がわかりますよね
友達に電話して
「相談相手が必要なんだけど
誰かいい相手はいないかしら?」
と言う状況です
私の場合は5人の友達が
こう言ったのです
「えー?私だったらあなたの
セラピストにはちょっと…」と
(笑)
「それってどういうことよ?」
「今言った通りよ
わかるでしょ?
ものさしを持って
乗り込んでこないでね」
「はいはい」
それであるセラピストを
見つけたのです
セラピストのダイアナと
初対面のとき
あるがままの人たちの
リストを渡して座りました
彼女がまず「どうですか?」
「大丈夫です 元気です」
「どうかしたんですか?」―
彼女はセラピスト専門の
セラピストなのです
私たちにもセラピストが
必要なのです
彼らの嘘発見器は高性能ですから
(笑)
それで言いました
「手短に言うと私は苦しんでいます」
「その苦しみは何ですか?」
「心のもろさについての
課題を抱えていて
心のもろさが恥や恐れ
自己価値感についての苦しみの―
中核だということは
わかっているんですが
それはどうも
喜びや創造
帰属や愛情とか
そういったものの
根源でもあるようなのです
それが私の問題で
援助が必要なんです」
と答えました
そしてこう続けました
「でも―家庭の問題や
幼少時代のことは
関係ありませんから」
(笑)
「ただ攻略法が必要なだけなんです」
(笑)
(拍手)
ありがとうございます
彼女の反応はこうでした
(笑)
それで―「これって大変ですよね?」
「大変とか大変じゃないという
問題じゃありません」
(笑)
「ただそういうものなのです」
「これはきっと重症だわ」
(笑)
そうでもあり
そうでない面もありました
約1年かかりました
心のもろさや優しさが
重要なことに気付いた時に
人はどのように受け入れ
そこに踏み込むか
わかりますか?
A:「私は違う」それとも
B:「そんな人とは遊びたくもない」
(笑)
私にとっては
1年にわたる戦いでした
激しい戦いでした
心のもろさが私を押し
私はそれを押し返しました
戦いには負けました
それでも人生は取り返しました
それで研究を再開しました
次の2年を費やし
改めて理解しようと試みたのです
あるがままの人たちの選択や
私たちがどうやって
心のもろさとつきあっているか
といったことを
なぜ私たちは
こんなに苦しむのだろう?
心のもろさに苦しんでいるのは
私だけだろうか?
―違います
そう―それが私が学んだことです
例えば告知を待っているとき
私たちは心のもろさを
麻痺させています
面白いことに
ツイッターとフェイスブック上で
どのように心のもろさを
定義しますか?
何が心のもろさを
感じさせるのでしょう? と
疑問を投げかけると
1時間半で150の返信を得ました
どういう返信があるか
知りたかったのです
不調で夫に助けを
求めなければならず
しかも新婚だったとき
夫をセックスに誘うとき
妻をセックスに誘うとき
落ち込んでいるとき
デートに誘うとき
医者からの連絡を待っているとき
解雇されたとき
解雇を命じるとき
これが私たちの生きる世界なのです
私たちは心のもろさに
溢れる世界に生きているのです
また心のもろさを扱う一つの方法は
その感覚を麻痺させることです
その証拠に―
このことだけが
原因ではありませんが
これが大きな原因である
事象が存在します
私たちはアメリカ史上もっとも
借金漬けで 太っていて
依存症が多く
薬物治療に頼る集団です
実は研究から知ったのですが
人間は選択的に感情を
麻痺させることができません
というのも「これが悪の元凶」―
これが心のもろさ 悲しみ
恥 恐れ 失望
などと特定できないからです
こういう感情を避けたいので
ビール何杯かとバナナナッツマフィンを
食べることにします
(笑)
とにかくそういう感情を
避けたいのです
自分にも覚えがあるから
笑ってるんでしょう
皆さんの生活をハックするのが
私の仕事ですからね
でしょ?
(笑)
感情を麻痺させることなしに
こうしたつらい気持ちを
麻痺させられません
選択的には麻痺させられないのです
だからそうした気持ちを
麻痺させるとき
同時に喜びや
感謝の気持ちや
幸福も同時に
麻痺させてしまうのです
そうすると 惨めな気持ちになり
生の目的や意味を探すうちに
やがて心のもろさを感じてしまう
それでビールをかっくらって
バナナナッツマフィンを頬ばる
それは危険なサイクルになります
こういうことも
考えなければなりません
なぜ どうやって
麻痺させるかということです
何かの中毒にならなくても
麻痺します
他にもまた 本来は不確かなものを
全て確かなものにしようとします
宗教はもはや信仰や神秘への信奉から
確実性ということへ
移行してしまいました
私が正しくて あんたが間違っている
黙れ
以上
確かなものがすべて
恐れれば恐れるほど
心はもろくなります
それがまた恐れをよぶのです
これは今日の政治のようです
論議なんてもはや存在しません
対話も存在しません
あるのはただの非難です
研究の中で非難の捉え方は
痛みや不快の解放をする手段です
私たちは完璧を志向します
それを目指すと私みたいになって
うまくはいきません
完璧を目指すために
お尻から脂肪をとって
それを頬に移植しているのです
(笑)
百年後の人たちが
振り返ったときには
あきれてしまうことを願います
(笑)
そして私たちは危険なほど
子どもたちに完璧を求めています
子どもたちについて
お話をします
子どもは生まれたときから
苦しみを背負っています
赤ちゃんを抱いたときに
こんなことを言うのは間違いです
見て この子は完璧よ
私はこの子を完璧に保ち
5年生までにテニスチームに入れて
7年生までにエール大学へ入れるの
そんなこと言う必要ないんです
ただこう言えばいいのです
「あなたは完璧じゃないのよ
苦しみを背負っているの
でもあなたは愛情や帰属に
値する存在なのよ」
それが私たちがするべきことです
子どもたちがそのようにして
育てられるならば
今日の問題を解決できるはずです
私たちは自分たちのなすことが
人に影響を与えない
ふりをしています
個々の生活でも
そうしています
組織としても行っています
救済であろうと
石油流出であろうと
リコールであろうと
私たちは自分たちの行いが他者に
大きな影響を与えていない
ふりをしているのです
企業に言ったっていいでしょう
完璧でないのは承知ですから
本当のことを語って
謝罪します
もう繰り返しませんと—
言ってください
あるいは別の方法もあります
それで締めくくります―それは
自分自身を心の底から
さらけ出すこと
心のもろさも
さらけ出すのです
そしてあるがままで
愛すことです
たとえ成功への保証がないとしても
それがとても辛いものだとしても
特に親としては耐えがたいほどに
困難なことですが
そして感謝とよろこびを実践すること
恐怖の瞬間にも迷いのときにも―
それほどまで相手を愛せるだろうか
そんなに熱烈に信じることができるか
このことにそれほどまでに激しくなれるか―
と自問するときにでさえ
一大事と騒ぎ立てたりせず
ただ立ち止まって こう言うのです
なんて素晴らしいんだろう
この心のもろさを感じることが
生きていることだから と
そして最後に もっとも重要だと考えるのは
この自分で良いんだ と
信じることです
なぜなら この自分で良いんだと
言える場所から
働きかけることで
叫ぶのをやめて傾聴し
もっと優しく穏やかに周りに接し
自分自身にも優しく穏やかになれると
私は信じているからです
以上です ありがとうございました
(拍手)