18歳の年
私は3回入院しました
自殺願望があったからです
不公平で暴力に満ちたこの世界に
生きていたくなかった
3回目に入院したとき
私は理解しました
自殺しなくても
革命を起こせば良いのだと―
だから革命を起こすこと 愛することに
自らの人生を捧げようと決意しました
最初に抱いた欲求はこうでした
どうしたら 一瞬たりとも無駄にせず
自分は平和、正義、ケアを
実現する道具になれるだろうか?
そして決意しました
極めて容易な決意でした
この人生に於いて 常にうんざりするほど
楽しくいようというものでした
これには6つの気質が必要なのだと
すぐに気づきました
ハッピーで、 愉快で、 愛に満ち
協力的で、創造的、思慮深いという―
母が授けてくれた自尊心のお陰で
それを実践する決意をしました
後は行動するのみだったのです
桁外れに外向的な私は
町に出かけ
にこやかで 楽しげにしていると
気づいたのです
6つの気質のうち
最も人に近寄りにくいのは愛なのだと―
愛に関しては
とても疑い深い世の中ですから
以前から おどけ者だった私は
面白おかしいことをするのが
愛を引き寄せる秘訣だと
気づいたのです
だから この49年
ふざけたことばかりしています
優れた人道主義者である
エラスムスを引用すると
「人間というものは
お互いに対して
いろいろな接し方をするが
無垢な者 つまり愚か者には
皆 同じ態度をとる
皆 彼らを求め 暖をとらせてやり
ご馳走し 困った時には
手を差し伸べ
愚か者が 好きなことを言い
好きなように振る舞っても咎めずに許すのだ
確かに 誰も彼らを
傷つけようとはしないし
野獣ですら 無垢な自然の本能で察して
愚か者には危害を加えない
愚か者は神々に
また 特に私によって聖別されている
だから誰もが 愚か者には
聖なる者への敬意を払うのだ」
これは あなたの国の賢者のことばです
それから私が何をしたかというと…
私の出身地は 極めて暴力的な所です
絶対的平和主義者として思いました
「公然の暴動をどうやって止めるのか?」
たとえば駐車場で 大声でどなり合う
カップルの言葉による暴力や
スーパーでケンカする親子など
言葉や拳を使って殴ったり
打ちのめすことが 容認されています
私は思いました
「人生ずっと道化師を演じてきたんだから
『けったいなスーパーヒーロー』
になれるかも」
スーパーで
そういった出来事を目にすると
いったん我に返り
普段の地味な恰好から
あるものに変身するのです
通常この段階で
ポケットに手を突っ込むと
そこには 30個位おもちゃが入っており
鼻を取り出すところですが
私は4年前
歯科診療を始めまして
みんなテクノロジーは大好きですから
こんな風に話しかけます
(笑)
これで あたりの雰囲気が
がらっと変わるんです
(笑)
もちろん テクノロジーは
増え続けますから
こそっと隠れて「三段階攻撃」
というのをやります
これが1つめ
三段階なので3つあります
この見栄えの良い入れ歯をつけて
そして青っぱな
(笑)
もう お分かりでしょう
角を曲がると ケンカしている人も
私を見ると
(笑)
ケンカを止めます
(笑)
30年やってきましたが
止まないケンカはひとつもありませんでした
4~5千回くらい止めたでしょうか
これが私の欲求と実現方法です
さて 私は2つの決意をしました
1つは個人的な決意で
常に道具になること
2つめは医療で人類に
奉仕するということです
私には理系の適性がありました
そして世界でも
最も豊かな国の出身でありながら
国民の面倒をみないというのは
恥ずべきことだと思っていました
政府は国民への
医療の提供を怠っています
それで私は18歳のとき無償で
医療業務を行う医師になると決めました
私はこれまで多くの書籍を読み
研究を重ね 人と話をして来ましたが
1967年に 医科大学に
入学するころまでには
無料の病院を設立しようと
決めていました
医科大学にいましたので
医療の提供に関する
さまざまな問題を目にしました
その経験により2つ目の欲求を
持つにいたったのです
それは医療の提供における
すべての問題を 1つのモデルで解決する
そんな病院を設立することでした
問題が何であれ
自分だけの力で解決できなくても
解決は可能だと
身をもって示すことは出来るのです
そしてゲズントハイト・インスティテュートを
1971年に創設しました
大人20名 うち医師3名が 12年かけて
パイロットプロジェクトを行いました
寝室が6つある大きな建物で
24時間受診可能な病院であると
宣言しました
月に500~1,000人が訪れ
毎晩50人ほどが泊まっていました
すべて無料で提供しました
医療を行う上で
「借り」という概念を
取り除きたかったのです
皆にお金の負い目を
感じることなく
「共同体」と呼ばれるものに
属することに
ワクワクしてもらいたかった
従って医療保険は
一切受け付けませんでした
アメリカの金持ちは医療サービスを受けるために
医療保険に加入しますが
その受付を始めると 書類を書いたり
様々な管理が必要となります
医療保険に加入しさえすれば
良いのではありません
我々の資金調達が
むずかしかったのは
誤った医療保険制度を拒絶する
唯一の病院だったからです
医療において誤ちを犯すという
罪悪をばらまくのは間違っていると思います
無論より多くのケア
より多くの時間を医療に求める
切実な叫びが世界中にあります
120カ国から聞こえる
最も大きな叫び声です
私は医学生たちと文通していますから
さて患者の初診では私は4時間を費やします
とてつもなく濃密な時間です
私にとって理想的な患者とは
一生続く深い友情を
私と築くことを望む人たちです
私はかかりつけ医であり
患者が苦しんでいるとき
医師と患者の関係が
最も強い支えになると思っています
従って私は 患者の家に
お邪魔させてくれと言い張り
往診すると 引き出しを全部開け
クローゼットを
全部 覗きます
シャーロックホームズ級の
のぞき魔が 家に来たようなものです
それは患者について可能な限り
多くのことを知りたいからです
そういう情報を得ることによって
我が国の人口の3%未満しか
自尊心を持ちあわせていないことや
5%未満しか
日々を送る気力を
持っていないことに気づきました
普通の大人は 自分自身も
自分の結婚生活も
仕事も好きではありません
でも それが医者に行く理由ではありません
私は精神科の薬を
処方しないと決めました
精神科の薬は好きではないのです
薬が精神の健康問題を
解決することはないからです
だから 私たちは環境を作りたかった
だから 病院の文化は
自らの決意に
従うものにしたのです
ハッピーで楽しく 愛に満ち
協力的で創造的かつ 思慮深いものに
さてヒエラルキーは大きな問題です
世界のどこにいっても
医者は無礼で
楽しい病院などありません
だからヒエラルキーを
なくすことにしました
「掃除係と外科医の給料を
同じにしよう」
そう 月給を300ドルにしました
とても低賃金ですが
これで私たちは医療における
不均衡を示したかったのです―
外科医に
年間200万ドルを支払う強欲さと
年間3,600ドルを支払う
愛情との間の不均衡です
この給料でも 毎年
何千人もの応募があります
実際に わたしたちは自らの設計により
極めて現代的なハイテク医療にかかる
コストの90%を削減し
常勤のスタッフは皆
病院に住み込みで
共同のエコヴィレッジに暮らしています
これは核家族というものが
歴史においてなされた社会的に最悪の決断であり
失敗に終わっていて 如何なる所でも
上手くいかないからです
私たちは8千万年ものあいだ
共同体で暮らしてきた霊長類であり
核家族が消費する
生態系資源量を考えると
そうやって生きていくのは不可能です
共同体として暮らすことで
アメリカで最もお金のかかるものを
無償で提供したり 従来のコストの
1割で提供できると示したかった
又 さまざまな療法を取り入れ
人々を「人類の文化」という
大学に入れるための仕掛けとして
病気を使ったのです
20世紀の世界文学を読めば
人は孤独なんだと分かるはずです
孤独で人生の意味が
よく分からないでいるのです
アメリカの大学では
40%の新入生が 精神科の薬を
処方されているところもあります
鬱は病気ではなく
製薬会社がつけた病名であり
孤独の症状が 鬱なのです
しかし孤独に効く薬を売ることは
誰にもできないでしょう
友達のことを思うと同時に
鬱にはなれません
それで人は友達がいると知るのです
私は信心深い人間ではなく
信仰をもったこともありませんが
生命力に満ちあふれた人は
すぐ分かります
そうレッテルを貼る訳ではないのですが
生命力が宿っていれば 苦しむことはないのです
私がご説明したかった
3つめの分野は―
家族と共同体の健康という分野です
次に世界の健康です
12年の病院経営において
助成金や寄付金を受け取ったことは
一度たりともありません
病院を続けるために 職員は
別の仕事をしなければなりませんでした
私自身もこの42年そうしてきました
そしてこのモデルの素晴らしさを
実感しています
この12年病院に住み続け
こういう形で 医師の仕事をするのは
うっとりする ロマンチックなことでした
そして気づいたのです
決まりを1つ 破る必要がある
つまり「社会に出る」ことです
私たちはメディアを
全く尊敬しませんが
メディアを使えば
稼げることも 知っていました
どうしても
有名になる必要がありました
そこで公に出ましたが
すぐにやめました
次の目標は現代的な病院作りだと
気づいたからです
この28年というもの
1年の内 250~300日は飛び回っています
この28年間は 2週間続けて
家にいたことはないと思います
70カ国で講演をしたり
パフォーマンスをしたりしています
でも私には望みがありました
「自分が共同体の一員なら
講演をしてお金を集めるだけではだめだ
さて共同体として
何ができるだろう?」
私たちは平和活動家なので
「世界に愛を広めに行こう」と決めました
自給自足の貧乏だったので
「基本的な平和活動をしよう
敵に愛を広めるのだ」と
レーガン政権のころ
ソ連は「赤禍」と見なされていたので
「ロシア人に愛を広めに行こう」
と決めました
そうして1985年に
「道化師ツアー」が始まったのです
それ以降 毎年ツアーを行い
今年で29年目になります
40名を連れて行きますが
道化師になる訓練は一切必要ないと
知ってもらう必要がありました
衣装を着たら
道化師のできあがりです
メンバーは3歳から88歳までで
選考は一切行いません
延べ6千人を連れて行きました
22年前 私たちは
ロシアでの孤児の扱いに
とても腹を立てていました
彼らはとても悪評が高かったのです
まずは孤児を保護することから
始めました
モスクワとサンクトペテルブルクで
400人の子供を世話しました
次に「ええい! 道化師を戦争に
連れて行こう!」と言ったのです
映像が上手くうつらない?
まあいいか…
ここで映したかったのは
アフガニスタンの戦地に道化師を
連れて行った時の映像です
そして「ええい! 難民キャンプに
行こうぜ!」となったわけです
映画化されたとたん
資金はずっと増えましたが
自分たちの病院を建てるには不十分でした
一回講演をやると
貧しい国に診療所や学校を
1軒建てることができ
治療ができます
映画化以来 年9回
道化師旅行をしています
去年はグァテマラ、エクアドル
シシリー、ペルーのアマゾン、コスタリカ
(笑)
星雲が見えるね
(笑)
宇宙だ
(笑)
パレスチナ、ブラジル
そしてロシアに行きました
地震直後のハイチにも行きました
津波の直後にスリランカへも―
「孤児院の時代」の幕開け直後の
ルーマニアにも行きました
道化師として
約1万人の死に立ち会い
飢えで亡くなった
何千人もの子供を抱いてきました
36歳と25歳になる2人の息子と
私の兄も共に活動しています
私は66歳 兄は68歳です
少し横道にそれますが
1日1時間半の運動と
楽しく暮らすことで 私はこの50年間
病気をしたことがありません
元気になりたいならば
くよくよせずに 運動すれば良いのです
それが特効薬です
7年前—
アマゾンで淋病に罹っている
5歳児を見つけたので
パオロ・フェラーリの作品を使い
生涯をかけたプロジェクトを立ち上げました
そこで7年間活動してきて
毎年8月に
135人を連れて行くのですが
謂わば 医療ナンバーワンのアメリカは
世界の殺戮者集団なのです
すみません お恥ずかしい限りです
のちに我が身に返ってきますね
退役軍人は昨年1年で
6千名自殺しています
これは戦闘で亡くなった人数の
3倍になります
だから退役軍人を道化師の旅に
同行させたいと軍に申し出ています
愛情深い自分と
再びつながるために
許可が得られるまで あと一息です
さて 詩を聞きたくありませんか?
アメリカの詩人メアリー・オリバーの
『死が訪れたら』です
「死が 腹を空かせた
秋の熊のように 訪れたら
死がやって来て 私を買い取ろうと
財布からピカピカの硬貨を
全部取り出し
財布をパチンと閉じたら
死が はしかの発疹が出るように
訪れたら
死が まるで肩甲骨の間の
氷山のように訪れたら
私はワクワクしながら
扉を開けて外に出たい
あの真っ暗なコテージは
いったいどんな風だろうと考えながら
だから 私はすべてが
兄弟であり姉妹であると考える
時間とは単なるものの見方
永遠とはもうひとつの
可能性だと考える
そして人間ひとりひとりが
ヒナギクのようにありふれた花で
ひとりひとりが唯一の存在で
ひとりひとりの名前は
口にすると心地よい音楽—
どんな音楽でも そうだけれど
静寂に向かう音楽で
ひとりひとりの身体は 勇気あるライオンで
大地にとってかけがえのない存在だと 私は思う
この命が尽きるとき 私は言いたい
私は生涯 不思議さに嫁いだ花嫁で
両腕に世界を抱えた花婿であったと
この命が尽きるとき
特別な 本物の人生を送れたかどうかで
悩みたくはない
気がつけば ため息をつき
怖がり 口論している自分は見たくない
この世界を ただ訪問しただけのような
人生で終わりたくない」
時間がなくなりましたが
お便りにはすべてお返事します
パソコンや携帯電話は
使ったことがありませんので
メールしてもだめですが
Webサイトは見ることができます
私は見たことはありませんし
どうやって見るかわかりませんが
patchadams.orgに
私書箱が載っています
毎月 手書きで400から600通
手紙を書いています
40年間続け 夢中で
すべてのお便りに答えます
返信先の住所を
英語ではっきりと書くのをお忘れなく
(笑)
私は様々な人から
許可を受けてきました
なぜなら50年間活動を続け
膨大な経験を重ねているので
特にここにいる若者たちは
皆さんと関われるように5時から6時頃まで
この場を与えてくれています
お役に立てればと思っています
傷ついたり友達が必要なら
手紙を下さい
いいアイデアを思いついたのに
聞いてくれる人がいなかったら
又は何かにつまづいていたら
手紙を下さい
私の話が気に入らず
私を罵りたいなら それも 歓迎します
毎年9回道化師ツアーを行っていますが
どなたでも大歓迎です
メールの登録をすれば…
私たちに構わず
何をしたって結構です
新人の道化師を戦場には連れて行きません
それは 以前連れて行ったとき...
ローマ市がアフガニスタンへの
ツアー費用を支払ってくれたのですが
人が爆破されている中ですから
道化師のうち7人が
演じるのに苦労したのです
もし戦場で道化を演じるならば
まわりで人が爆破されていても
動揺してはならないのです
ごめんなさい はい
(司会)有り難うございました
(拍手)
(パッチ・アダムス)有り難う
(拍手)
(笑)
有り難う
(司会)さて
皆さんそうお思いでしょうが
あなたのお話は
とても感動的です
特に心を打つと思うのは
楽観的でいることは
難しいことだからです
ある有名なアメリカの哲学者が
こう言いました
「楽観主義に対する義務がある」
あなたを見ていると
その象徴であるように思えますが
どうやって楽観的で
あり続けるのですか?
(パッチ)お伝えしたいのは
難しいことは何もしたことがないということです
悩みも 緊張もありません
なんというか 私が表現しているのは...
例えば あなた自身がデザイナーとして
自分らしさを形成して
その自分らしさを 自ら決めたように
使うのは難しいことでしょうか?
悪いけど 食べていけて友達がいるなら
文句なんてないでしょう?
つまり 私は18歳のとき
感謝の海に飛び込んでみたら
岸は見つからなかった なぜだかわかりますか?
感謝を信じられないからです
私の仕事のほとんどは
人生を愛する結果です
私の母は素晴らしい人で
皆さんが私を好きになってくれるなら
それは母のおかげです
あなたが女性について
話しているのを聞きましたが
歴史のすべての問題の原因は男性にある
女性には全く問題がなく
女性にとって安全な国はどこにもない
サッチャーを槍玉に
あげてもいいでしょうが
彼女が世界の問題の
原因ではありません
私たち男性は
行動をただす必要があります
だから とても誇りに思います
私はこの35年
テレビ番組を一切見ていません
歴史上の名著を
毎年100~150冊読んでいて
息子たちも一緒に働いてくれています
私は革命のまっただ中にいて
それを感じられるのは…
ここにいる医学生が
私に提案してくれたのです
私たちの仕事ぶりが
彼らに影響を与えると
そして幸運なことに
かなりの数の手紙を頂戴しており
そこにはこうあります
「あなたの仕事のお陰で
私たちはこれをしています」
元々それは目的ではありませんでした
目的は自分たちの病院を持つことでしたが
資金調達に失敗しました
私の資金調達は
アメリカ史上最悪です
去年の7月 活動を初めて41年目に
建設に4年かかると思った
プロジェクトですが
我々にとって初の
大きな建築を開始しました
だから払いのけたいのです
自分らしくないことを
やろうとすると難しい
嫌いな仕事をすることも
最低な夫婦関係を続けるのも難しい
鏡を見て「オー ベイビー!」
と言えなければ
(笑)
来週になったら
鏡の前を通る度に「まあ!私ってなんて
ステキなの!」とやってみて下さい
それは ひとたび自分自身を愛せれば
他の人が何と言おうと
全く関係ないからです
自分を愛しているから
そんなこと頭にのぼりもしないのです
それをどう使おうかと
考えているということです
(拍手)
有り難うございました!
(司会)有り難うございました
(拍手)