はい みなさん… それでは… 始めましょう で 今晩は五感の欲望についての 仏教の立場を話したいと思います 五感の悦びです いつものように面白い事の一つに 仏教の教えは世の中の他の殆どのものとは いつも少々違う見かたをする事です 仏教の教えは世の中の他の殆どのものとは いつも少々違う見かたをする事です これは五感の欲望と 悦びにも当てはまります これらを理解する事は 仏教の道の中でも重要な点で それゆえ 少なくともそれが 如何に道に沿っているか また教えの実践にどうこれが融合されているかの 理解は興味深いものだと思います また教えの実践にどうこれが融合されているかの 理解は興味深いものだと思います でも最初に 仏教での 五感の悦びとは何でしょう? もちろんそれへの欲望ですよね 欲望を話す時 仏教で欲望といえば 五感に関する事全てです 世の中で見るもの 聞くもの 味わうもの 触るもの 匂いをかぐもの全てについてです 世の中で見るもの 聞くもの 味わうもの 触るもの 匂いをかぐもの全てについてです これが世の中の 五感の欲望 悦びです だから かなりすぐ 分かり始めますが これが世の中で感じるものなら ほとんど全てがそうで 私達の世界は一日中 五感攻めに遭っています いや毎週毎週 年がら年中 普通は生涯を通じてで ほんの時たま瞑想などを通して この世界から少々逃げられますが ほんの時たま瞑想などを通して この世界から少々逃げられますが 基本的にこれが私達の人生 五感の人生で 五感の対象に取り囲まれています もちろん欲望と嫌悪が それから起こります 夜でさえも 何かの夢をみるのは ある意味でまだ 五感の世界に絡まっているのです なぜですか? なぜなら夢やそれら全ても またよく五感に関する事だからです だから人生の非常に広い領域を 網羅しています 私達仏教徒はどう… いかに考えますか? ブッダはどう考えたか? 私はいつも彼の言葉に戻りたい ブッダは私達の態度は どうあるべきと言ったか それを今晩話したいと思います まず 仏教が世界のほかのものと 五感の悦びへの考え方を異にする事は 最初に仏教は清教徒的な抑圧は 実際にはないという事です 最初に仏教は清教徒的な抑圧は 実際にはないという事です 仏教は五感の悦びはそれ自体が 悪いからダメとは言いません 仏教は世の中で楽しむ事自体 人間関係を持ち娯楽を楽しみ 美味しいものを食べる事等全て それ自体が悪いとは仏教の観点からは言いません 仏教は社会の他のものに時に見られる この清教徒的な圧力に欠けます これはすでにかなり解放的ですね 楽しむのは構わない 面白い一節が… 先程 考えてたのですが パーリ経典に面白い一節があり 先程 考えてたのですが パーリ経典に面白い一節があり パーリ経典はブッダの言葉で ブッダは僧侶達に言います パーリ経典はブッダの言葉で ブッダは僧侶達に言います ある僧侶達はちゃんと 修行してなくて しっかり瞑想していなかったのかも… ブッダは彼らに言います “宗教者の生活の幸せを 逃して経験し損ねている! 僧侶達の幸福は何ですか? 瞑想して内側の安らぎを得る 瞑想から来る楽しさと 幸せを得ることです この幸せが得られないなら 宗教者の幸せを得ていない この幸せが得られないなら 宗教者の幸せを得ていない そして一般人の幸せも 逃していますね? まあ これが要点では ないと思いますが 要点は “お前たち 一般人に戻ったほうが いい”という事ではないと思います 要点は “お前たち 一般人に戻ったほうが いい”という事ではないと思います 要点は 人間は詳細に差はあるが 幸福感や悦びを欲望するもので 一般人の五感の悦びだろうと 瞑想からの心の悦びだろうと関係なく 一般人の五感の悦びだろうと 瞑想からの心の悦びだろうと関係なく 私達はいつもそれらを欲し 楽しさのない人生は意味がない これが最初の点で つまり仏教は 悦びや幸せや楽しみに反対ではない これは覚えておくべき 重要な点だと思います なぜなら時にブッダの教えがある特定の様式で 説かれた時に誤解することがあります これはコインの片方の面で しかしもう一方の面は ブッダが言うには 五感の悦びには一種の危険性があります どんな危険性でしょうか? 怖がるべきではないなら なぜ同時に危険なのか? もちろん危険性の一つは 仏教の教えの主要な点の一つは 道徳的な生活をする 親切で思いやりの ある人生を送る事です そしてもちろん 五感の悦びのせいで 道徳の一線を超えた途端 つまり不義をし始める時 例えば盗みや不倫等をし始める時 つまり不義をし始める時 例えば盗みや不倫等をし始める時 一度その道に入ったら 五感に溺れた行為が 少し行き過ぎましたね 五感に溺れる… 多分溺れるじゃなくて 道徳の範囲内で 五感の悦びを楽しみましょうね これが仏教の態度です 他人や他の生き物を傷つけない そうしない時が私達の周りの世界を 楽しむ好ましい方法です そうしない時が私達の周りの世界を 楽しむ好ましい方法です これが最初の点で かなり明確だと思います 今晩初めて来た人以外は すでにみなさんご承知でしょう これは仏教の基本ですからね でも五感の悦びが問題である別の理由は これはやや深い所に入っていきますが でも五感の悦びが問題である別の理由は これはやや深い所に入っていきますが 理由の一つは五感の悦びはある程度 瞑想実践の反対であるからです 理由の一つは五感の悦びはある程度 瞑想実践の反対であるからです もし真剣に瞑想を非常に深くしたいなら 単に金曜日の夜にここに来るだけでなく もし真剣に瞑想を非常に深くしたいなら 単に金曜日の夜にここに来るだけでなく あ 金曜夜に来るのは良い事です 少しくつろいて 良い友人関係を楽しみ いい時を過ごすのは すでにとても良い事です 良い友人関係を楽しみ いい時を過ごすのは すでにとても良い事です でも瞑想をそれより 少々深く考えるなら 例えばジャーナ・グローブの アジャン・ブラムの9日間の 瞑想合宿や他の瞑想センターで より深くしたいなら より深くしたければそれだけ 世の中の五感の悦びと 五感に浸る事は妨げとなります ある意味 両立しえない関係で より五感の世界を手放すと 瞑想がより深くなり より五感の世界に執着すると 瞑想がより浅いものになります より五感の世界に執着すると 瞑想がより浅いものになります 昔の大学時代の数学用語を使うと 殆ど反比例のような関係です 昔の大学時代の数学用語を使うと 殆ど反比例のような関係です 反比例の関係とは とても数学的ですね こんな数学的概念を物事がはっきり説明 出来るように仏教の本に使うべきですね こんな数学的概念を物事がはっきり説明 出来るように仏教の本に使うべきですね という訳でこれが問題である理由です どうしてこうなる必要があるのでしょうか かなりよく聞く意見はこうです “世の中も楽しみたいが “瞑想も楽しみたい 一方のために もう片方を放棄したくない “両方楽しみたい だから僧侶や尼僧に なるのは理解出来ない “本当におかしい 普通の生活を 楽しめないじゃないか!” でも要点は両方を満喫は 出来ないという事です 常にこの二つは代償関係にあり 思うに仏教界でも 多分特に西洋で多くの人が 仏教にまだあまり馴染みがないので 実際にこれらの概念をよく把握していません 仏教にまだあまり馴染みがないので 実際にこれらの概念をよく把握していません 理解するには実際にあなたが 実際にブッダの法話を 見聞きする必要があります これが事実であるのを 知るためにです そして考えてみると 実はかなり明らかです 滅茶明らかと言おうとしたが 悪い表現 でもとても明らかですね 滅茶明らかと言おうとしたが 悪い表現 でもとても明らかですね なぜそんなに明らかなのですか? なぜなら 例えば特に五感の悦びに溺れたら それを楽しみ過ぎたら 五感の悦びに執着するのです 執着は常に五感への無節制と 楽しさのすぐ後ろにあります とても楽しめば また欲しくなる それが執着です あそこに行きたくなる それを見れたら と欲する “わー きれいな場所が本当にたくさん!” 音楽がとても素敵なので 聞きたいと思う それらは事実だろうけど でもそれに執着する 人間関係や食べ物その他を 楽しみたいと思う その上にその楽しみに浸るから 執着するから 執着すると瞑想した時に 手放す事ができない 手放すのはまさに 五感に浸る事と正反対で 内側に行くのです より内側に行きたければそれだけ 五感とその世界を 手放さなければなりません そうですね?五感にしがみつくなら ある程度までしか内側に行けない 五感にしがみつかないなら それだけ内側へ深く行ける これが理由です ここに問題があります 五感の世界と深い瞑想は 同時には成立できません 五感の悦びは非道徳的ではない 悪くない 邪悪でもない もちろん倫理の常識範囲ならばです でも瞑想実践の妨げとなります もちろん倫理の常識範囲ならばです でも瞑想実践の妨げとなります だから問題なのです ここで話している事が 勿論分かりますね いつも外に行く事は内側へ行く反対だから 外側のものに執着すると 結果的にそれを手放して内側へ 行けない 片方は犠牲になる だから一旦これを理解したら なぜ 僧侶生活があるかを理解し始めますね? だから一旦これを理解したら なぜ 僧侶生活があるかを理解し始めますね? これがまさしく理由です なぜなら僧侶生活は 外側のものを手放す行為を 強化しようとし 同時に より内側に進もうと します これこそが これがまさしく 僧侶生活がある理由なのです 一般人の生活でこれらをするのは 非常に難しいので 我々は僧侶生活をするのです 我々は世の中を否定していないし また面白みのない人で 僧侶生活はひどいと森の中で 孤独に泣いている人達でもない 違う それが要点ではない 要は 実際は… 我々は自虐的でもなんでもなく 要は 実際は… 我々は自虐的でもなんでもなく 僧侶生活には まったく別の意義があるのです これが理由です 実はこれはとても大切な理由です もし瞑想を本当に楽しみたいのなら ある程度 手放す事は実際に必要です もし瞑想を本当に楽しみたいのなら ある程度 手放す事は実際に必要です 多少はおわかりでしょう? たとえ金曜夜にここに来るだけでも… 多少はおわかりでしょう? たとえ金曜夜にここに来るだけでも… でも五感の悦びが問題である 3つめの理由があります さて 仏教のかなり深い部分に やって来ました 深い意味で五感の悦び 欲求は 輪廻転生に私達を縛り付けます これが本当に問題である理由です 輪廻 パーリ語でサムサーラですが 存在の巡回という意味で あなたは続く ここで生まれ あそこで死んで 生まれ変わって死に変わる 死に変わりという言葉を聞いたことは? “死に変わり”は本当にいい言葉だ 死は一回だけではなく 何回も死んでいるのです 生まれ変わったら死に変わる 思うに 仏教の教えで“死に変わり”を 使い始めるべきですね これが何かという要点そのものに 到達しますからね また生まれ また死んで また生きて 全てを繰り返す これがここでの問題なのです だから“また”を望まないなら あ ただ“また”という表現は シンプルでいいね もしこの“また”が 常に存在していなかったら 輪廻への束縛が真の問題だと 認識し始める時がきます そして一番パワフルで強力な 束縛の縄は五感の悦びです そして一番パワフルで強力な 束縛の縄は五感の悦びです これが輪廻に束縛する なぜ? 五感の悦びはいつも未来についてで 渇望に関する事 どこか他へ移る事に関する いつも何かに向かって動いている 決して現在に心から満足していない いつも何かに向かって動いている 決して現在に心から満足していない 何かに向かって動くのは 未来に自分を投影するみたいです だから永遠に あ そうでないといいけど しかし長い間 何度も何度も 未来に私達を束縛します これらが理由です ここにも 仏教のバランスが見られますね これらが理由です ここにも 仏教のバランスが見られますね ある事に関する問題と 楽しみと問題とのバランスを見て ある中道を見つける だから仏教の教えの 多くの事が中道です 五感の悦びにもあてはまります だから自然な成り行きで 瞑想が深まれば 自然と自分に 大切ではない物事を手放します 五感の悦びは大切ではなくなり 瞑想がより大切になります 無理やりでもなく 強いる事なく 自然に起こります 素晴らしい道のりです そこに見られる素晴らしい道です 五感の悦びには問題があり あなたが本当に 精神的な道に熱心なら… ここにいる全員が たぶん度合いは違うがそうでしょう 100%熱心ではないからといって まだ帰らないで下さい 面白い事があるかも 次のことを見てから… 面白いと約束します 私には面白いが 他の人は何を面白いと 思うのかよく分かりません 私の限られた能力です でもこれらの幾つかは実際にそうです 人生観や世界観です だから面白いのです でもこれらの幾つかは実際にそうです 人生観や世界観です だから面白いのです それではどうやって五感の悦びから 少々離れてこれらに対応しましょうか? より精神的な幸せや瞑想に近くて 瞑想を深める方法は何ですか? より精神的な幸せや瞑想に近くて 瞑想を深める方法は何ですか? 実際にどうやって簡単に 自然に 強制等なしに出来るでしょうか? 最初に 私が経典の中でいつも とても面白いと思う一つは ブッダが心の汚れや問題の 克服について話す時です ブッダが心の汚れや問題の 克服について話す時です 心の汚れや問題は大抵2つの 主要なものに要約できます 一つは悪感情 怒りや苛立ち等 それらを全て含みます もう一つは欲望です これらが 私達がよく対処する二つの 主要な汚れです もちろん悪感情への対処が 実は一番重要です もし人生で一つだけ問題となる心の 事象に取り組む事を勧めるなら 悪感情 嫌悪感 これが第一です この道に真剣なら どうかこれに 悪感情 嫌悪感 これが第一です この道に真剣なら どうかこれに 何か出来るか見て下さい 後にここで悪感情への対処方を話すかも 仏教の道に非常に重要な部分で 驚くのは 悪感情の排除は困難と 思うかもしれないが 実はそれ程難しくはなく 特に 適正な動機や適切な根気があれば 実はそれ程難しくはなく 特に 適正な動機や適切な根気があれば 誰でも悪感情は取り除けます 少なくとも かなりは 多分100%でないけど大部分 だから悪感情に焦点をおいて下さい しかし五感の悦びも またちょっと問題なので 今はこれに焦点を起きたいです ではブッダはこれらをどう扱うべきだと 言っているでしょう? どんな方法でしょうか? よく人々は これらは瞑想時に 取り組むものと思っています 座って 安らぎ 落ち着く事でです それも確かに含まれますが 私が経典を読んで驚いた事の一つに ブッダが瞑想では二つの力が 存在すると言った事です 精神的成長の道の 二つの力の一つ目は 省察する力です 分かりますか? 省察する力は何をしますか? ブッダ曰く 省察する力がすることは 体 言葉 及び心による 悪い行いの克服です そしてそれは体 言葉及び心による 良い行いをさせます つまり 体や言葉による道徳の実践の能力 また悪感情や五感の欲求を含めた 瞑想の邪魔をしないような考え方の能力 また悪感情や五感の欲求を含めた 瞑想の邪魔をしないような考え方の能力 それは自分の世界を省みることです いかに物事を考えるか 単に座って安らぎを楽しむだけではない それも少し入りますが 主に私達がどのように考えるかです だから非常に面白い これはつまり もし正しい方法で考えるようにすれば これらの問題を実際に 克服できるのです これが今晩私がしたいことです したいのは もう少し これらを減らすような 考え方を見ていきたいです もう少し これらを減らすような 考え方を見ていきたいです それで 省察する力がある時 二つ目の力が出てきます バーワナー バラーです パーリ語は好きですか? 聞こえが良いですね なかなかですね 私はパーリ語が好きで それに戻るのはいつも良いと感じます ブッダの言葉である経典を 愛読しますから! バーワナー バラーの意味は 瞑想の力 発達の力です シンハラ語でバーワナは実際に 瞑想という意味に限定されて これは経典でも 多くの場所で同じです この瞑想が一度… 瞑想の力とは 八正道の非常に深い瞑想や 四つのジャーナ 七つの目覚めの要素等の 発達です だからとても深い瞑想についてで あまり心の汚れの克服に ついてではありません でも瞑想で本当に深く行くことです だから正しい考え方を学ぶ事を 覚えておいて下さい 正しく考えると 人生が変わり始めます あなたの人に対する考え方や 物事を省みる方法や あなたの周りの捉え方が 実際に違ってくる なぜなら正しい方法で 省察しているからです では どうすれば よいのでしょうか これは私が通常する五感の悦びに 関する話し方で あなた達の多くが 前に聞いた事があるでしょう でもそれが理由でまだ帰らないで これらは常に重要で 何度も聞く事は良いと思うし 私はここの誰よりもよく聞いたが 何度も聞く事は良いと思うし 私はここの誰よりもよく聞いたが 未だにこれらの教えの幾つかは 私に活気を与えてくれます という訳で 要点を はっきりさせると ブッダは 直接五感の悦びへの欲求に つながる多くの喩えをあげます その幾つかを話したいと思います 覚えておいて下さい 喩えやちょっとした話を ブッダは省みる道具として使います 世の中を考える時に使う道具で ある方向や別な方向に 強制させる道具ではなく 自然に省みて それらの 結果による心の成長のためです さて ブッダが使う最初の喩えは… 最初でなく ブッダが使う喩えの一つは さて ブッダが使う最初の喩えは… 最初でなく ブッダが使う喩えの一つは たいまつの喩え 燃えているたいまつです ブッダは言います 誰かが来ると想像して下さい 彼らはたいまつを持っている たいまつは燃えていて 向かい風に進む 風が一方向からきて たいまつは持つ人の前にある 何が起こるかというと たいまつは もちろん燃えかすが出ます 燃えるもの全てに燃えかすは出ます いつもです たいまつもそうで 向かい風だと 全てのもの 燃えかす全てが 持つ人にあたります 注意していないと 間もなく 持つ人にも着火する 着火する事は仏教では ドゥーカ 苦悩 と考えられています 着火を防ぎたいと思いますね これが喩えです どういう意味ですか? なぜこれが 世の中の五感の悦びの喩えなのですか? これが喩えになるのは たいまつを掴む事は 世の中の五感に関する物事と 悦びに執着する事ですね 恋愛関係を始めたり ある娯楽を始めたり 何にしても 恋愛関係を始めたり ある娯楽を始めたり 何にしても それを掴むと あなたの生活は それらを中心に展開します 世の中のこれらの物事に 執着すると これらに執着するから たいまつから少々光りが得られます たいまつから得られる光りは 五感の悦びから来る幸せのようなものです たいまつから得られる光りは 五感の悦びから来る幸せのようなものです でもすぐにたいまつの 光からくる幸せは苦悩に変わる あなたは向かい風にいるからです この苦悩とは何ですか? 苦悩ですが 世の中の物事に執着したとたん 実質的に苦悩を求めているのと同じです なぜ? なぜなら世の中全てのものは 世俗の物事は本質的に永続せず 常に変化する定めにあり 私達の制御外で あてにならず 基本的に確かなものではないからで 本質的に不確かで一時的なものを 掴んで執着しようとするなら どうなりますか? 苦しみます ごく基本的な仏教的考えです 物事は永遠に続かないのなら 苦悩がその結果として起こります 考えてみて下さい これは実に 本当に問題ですね 時に人は “良い仏教徒になりたかったら 単に何かへの執着を避けるべきだ” と言います 本当?やってみて生活上 それが可能か見て下さい 執着を避ける事を! 答えは全ての執着を避けるのは不可能です 完全に悟ってるなら可能かも… いつもこの時点で聞くのが この中で完全解脱者が何人いるかで 大抵 そんなに沢山はいませんね? この中で完全解脱者が何人いるかで 大抵 そんなに沢山はいませんね? この集まりにはあまりいない だから問題なのです 悟っていないから執着します なぜ? なぜならこれはすべて 自我から来るからです 恒久でいつもそこにある自分と いう認識が内側にある時は その自我が世の中のある物事を 取って所有しようとします “これらは私のもの 私の制御下にある”等と考えます 自我は世界を コントロールできると信じていて 物事の非永久性を忘れています 自我はこのような全ての物事に向きます 物事の非永久性を忘れています 自我はこのような全ての物事に向きます というのも制御できると思うからです 制御しようとするが出来ない 世界はいつも独自の原因や条件に 基づいて動いています 私達の制御できる能力は 実は非常に限られています で物事がだめになると悲しくなりますね 嘆いて 失望するのは 物事が計画どおりに 思うように行かなかったからで 仏教の無常 確実性の欠如を 本当には理解してなかったからです これを受け入れて下さい いいですか? 受け入れれば たいまつを それほど強く掴むことはなくなり たいまつは本質的に問題で 焼かれてしまうと認識します 着火すると焼かれてしまい 暫くすると死にます 焼けると死ぬので 本当に問題な訳です だからもう少し軽く握るようになります 世の中の幸せや満足感を 少し別な所で 探すようになります 強く掴んで執着する必要が あまりない場所です これがたいまつの喩えですよ 五感の世界の問題についての 一番基本的な喩えの一つです 内側に行けば少し違います 内側の心の状態をそれほど 強く掴みません もっと軽く それらのものには触れます 強く掴みません もっと軽く それらのものには触れます さて 2番目の喩えです この喩えは これはブッダが… 鳥について話します ある鳥が一切れの肉を得ました もちろん鳥が肉を得たなら とてもハッピーな鳥ですね 鳥は飛び立ちます 肉を小さな かぎ爪で持って飛び立つ でも もちろん 肉が欲しい鳥たちは 他にもたくさんいて 肉を持っている鳥は ほっておかれる事はなく 他の鳥たちも欲しいので その鳥が飛び立った途端 他の鳥たちも飛び立ち 後を負い その鳥を掴んで かぎ爪を使って 肉を奪おうとしますね ブッダは言います もし鳥が肉を早く手放さないと どうなりますか? と 苦しむか死ぬかですよね 他の鳥たちと戦わなければ ならないからですね これが肉切れを掴んだ結果なのです お分かりの通り 肉切れはもちろんここでは 世の中の五感の悦び 五感の対象の喩えですね これらの五感の対象を掴むからで 問題は 世の中では 他人もそれらの五感の対象が 欲しいわけですね 人生を共有したい素晴らしい人や 関係を築きたいと思えるような人を 見つけた途端 他人もその人に興味がありますね 問題だ! たとえ実際に 良い関係があるとしても 一緒に住む人を見つけても 勿論 永久に少しは 相手が去ったり他の誰かを 見つけるかもという不安がある いつも潜在的な懸念がある 将来は未知ですから これは殆ど肉切れをめぐって 争うのと同じですね 世の中で物事をめぐって戦っている 世界はそれで溢れている 私達の暮らしや世界の出来事の殆どがこの 限られた資源をめぐっての争いです みんながもっと欲しがる 誰も決して完全に満足せず 渇望にいわゆる終わりはなく 終わりがないのは 私達みんなに当てはまるので 限られた資源をめぐって争い いつももっと欲しがり どこか他へと行きたがる 素晴らしい話が… 経典で 「ラタパーラ経」というのがあり とても良い経典で もし機会が あれば読む事を勧めます とても裕福な家に育った青年の話で 彼はブッダの時代に出家します 人生で全てを持っていたが出家します 両親はとめようとします… 長いのでここで全ては話しませんが 両親はとめようとします… 長いのでここで全ては話しませんが とてもよい話で結構おかしくて 楽しませてくれます これがブッダの教えの良い所です 少々エンタメの要素があって 同時に奥が深い とても素晴らしい組み合わせです とにかく 両親の意に反して 彼は出家するのですね 両親は本当に反対しているが 彼は出家する そして完全に悟ります 悟った後 帰ってくると 両親は彼を一般人の生活へ 誘惑しようとする “さあこの金や品物を取りに来て”と 彼が来ます 彼は完全に悟っていて 金やその類いには もう興味がないので 誘いを断り 父親を“在家”と呼びます これはこの経典で忘れがたい一つです 父親を在家と呼んだ 私は一度も父をそう呼ぼうと したことはありません もしそうしたら 決して良くは 受け入れられませんから(笑) “在家”なんて…んー… しかし… で父親は理解し 両親は諦めます ラタパーラは森に行きます 彼が森に行くと 地元の君主が彼に会いに来ます 君主は来て 尋ねます この時 君主はすでに老齢で ラタパーラに尋ねます “人が欲しがるもの全てを 持っているのに! “教養があり良家の出身で 裕福で 友人もいて “人生 全てを持つのに 一体なぜ 出家したのですか? 気が狂った?” いや 君主はそう言わなかった 私が足した 経典に最後のはない 効果を出す為に補足した 高く尊敬していたので そう尋ねませんでしたが 君主は聞きました “なぜ出家したのですか?理由は… “何が理由ですか?” ラタパーラは言います “なぜなら これら四つの 世間の原理を理解しているからです”と これらの原理の一つは世界は 渇望の奴隷だという事です 世の中は満足することがない 渇望の奴隷である あなたは管轄者でない これが時に何かを欲しがる理由です 自分に管轄権があり 欲望は自分のだと思い 欲望を道具として 取得の為に使おうと思う でも違う 正反対で ブッダは また180度世界を回転させます 反対で あなたは奴隷で 渇望が管轄権を持つ あなたは“ご主人様 貴方の思う所に 導いて下さい”と言っている で主人の後を追う 渇望があなたのボス それが見えますか? 見えない訳は自我があるからで 自我はあなたが管轄者で これらの事をしている と言う でも実はそれは偽りで 真実は渇望がボスです 愚かなつながれた犬のように ついて行っていますね? あっちに行ったり こっちに行ったり “はい ご主人様 次はどちらへ?” とね! それが渇望なのです 考えると恐ろしい これをラタパーラは 君主に言いました 君主の返事は “何の事を 言っているのか分かりません” ラタパーラは答えます “陛下 ある男がいたとして “陛下はすでに裕福で 国家は非常に大きい “金銀は巨大な蔵に山積みされ 穀物も豊富にあり “陛下はこの大きな自分の 国家に全てを所有しています “でもある男が西から来て言うとします ‘陛下の国の西に ‘別の国があり 金銀や宝物が豊富で ‘象も馬もその類い全ても 豊富にあります’ と” 象 馬 牛などは当時 富を 表す代表的なものでしたね 象 馬 牛などは当時 富を 表す代表的なものでしたね “ ‘この西の国はこれらを 所有していますが ‘軍隊は陛下のより弱いです 望むならその国を征服できるでしょう’と “陛下 どうなされますか?” 君主は “もちろん征服するとも” と答えます あたかも出来るなら征服すると 決まっているかのごとくです ラタパーラは続けます “もし北から男がやって来て “同じ事を言います どうされますか?” “その国も征服するさ” “別の男が東から来たら?” “それも征服するさ” “別の男が南から 海外から来たら?” “それも征服するさ” “征服しない国はありますか?” 経典にない質問だが暗示されている “征服しない国はありますか?” 経典にない質問だが暗示されている “もちろんない! 私の国より 弱ければ全て征服する “征服するとも” さて 欲望はどこで終わるのですか? 終わりませんね? ただ拡大する 膨張する 地球をまるごと入手したらすぐに 火星や金星に目をつけるでしょう なぜなら満足していないからです そして隣の太陽系 銀河系へと向かう なぜなら満足していないからです そして隣の太陽系 銀河系へと向かう 思うに物理学者達が 多元的宇宙の考えを持つのは… あ 多元的宇宙を聞いたことが ありますか? 天文学で宇宙は一つだけでなく 複数あるという考えで 思うに 渇望が出てきた時 宇宙全体がすでに所有下なら 渇望の行き先がない “そうだ 創ろう “多元的宇宙を作り上げれば 我々の渇望を満たす見込みが高くなる” そこから多元的宇宙が来ていると思う 多分その類いの考え 秘密の意識下の渇望の動きが この多元的宇宙を持ち出した これはかなりの異説だから どの天文学者にも言わないで下さい 彼らは 私はバカ まぬけで 勿論 天文学や物理学を 理解していない と言うでしょう でも一理あるでしょう? なぜなら渇望は限界を知らない 上限がないから行き続けて 止まらない これが問題なのです これがここの要点ですね これがなぜ決してみんなを 満足させるのに十分でなく 私達が渇望 欲望を持つ理由です これが理由の一つで今 豪州では王立で銀行業務監査を 行っている 人はただ貪欲で不満足なので争う 職場は権力闘争であふれている 仕事場で争い 他人の位置を落とそうとし 自分をより素晴らしく見せて 昇進したり ボーナスをもらったりする これがこれらの問題です 何かを取り合い いつも先を争う もちろんその過程で 多くの惨事が起こります これが私には五感の悦びが とても問題な点です 五感の欲求は本質的に対立で満ちていて 暴力へとつながる 本質的に戦争や あらゆる問題へとつながりますね そして なぜそうなのかが見えます 決してみんなを満足させられないからです 渇望には限りがなく 私達は同じものを欲しがり 最後にはそれをめぐって争う 遺産をめぐって争い 仕事では昇進をめぐって競い 最後の1切れのケーキを 子供ならおもちゃを奪い合う 何であっても世の中の五感の欲求は 対立や暴力につながる傾向がある 何であっても世の中の五感の欲求は 対立や暴力につながる傾向がある これを考える事は ある意味 強い不快感がわきますね 真に平和な世界は五感の欲望が ある限りは得られない これが2つ目のブッダの喩えです 思うにとてもとてもパワフルです これが2つ目のブッダの喩えです 思うにとてもとてもパワフルです 3番目のブッダの喩えは… いや別に3番目ではないけど 喩えの一つ この法話の3つ目の喩えは 夢の喩えです ブッダは五感の悦びは 夢のようだと言います 私達は世界は真実でなく 時に幻想のようだと話します 心を映写していて 錯覚のようだと話します 五感の悦びはまさにそれと似ていて また考察してみると この事はかなり明らかです 私はこれらの喩えは とても簡単に分ると思います なぜ? どうして夢なのか? 夢である理由は 私達の物事の考え方は 所有物への考え方や 新居を得たら… この車を得たら… 所有物への考え方や 新居を得たら… この車を得たら… この関係が始まったら等ですが 心の中の像は現実とはかなり違いますね この関係が始まったら等ですが 心の中の像は現実とはかなり違いますね 特に人間関係についてはお馴染みです 恋に落ちた時 人生の完璧なパートナー像 みたいなものがありますね? そして相手の欠点は全く見えません 偏見があるからです パートナーの 一側面だけを見ているのです でも現実はもちろん より幅広くて 事実は空想とは 非常に違ったものになります これは人生の些細な 物事でも同じで 新車を得ると この車へのあらゆる夢があります 全員ではないが ある人達には このタイプの幻想があります でも真実は 数週間 運転すると 大した事はなくなり 幻想が再発し また膨らみます 覚えていますが 私が若い時 だいぶ昔です まだ若かった頃(笑) 例えば大学時代 それはかれこれ30年ほど前です 将来について考えたのを 覚えています すごくいい仕事を得て お金を沢山儲けて あらゆるかっこいい事をして こんな感じの妻をもって あの種の妻で これをして いい生活をして これを持って 万事うまく行き 良い友人達や あれらの事を持ち… 実際はまさにそのようではなく 少々作り上げたが 少しはあっている 将来についての夢だね 特に 分るでしょう 恋人や妻 そんな事です いい家を持ったり… 本当に 時間の無駄だったのがわかりますね? この姿を見たら 完全な間違いだった と! 夢が思いどうりに行かない話で 私の場合は最悪のタイプですね 全面的に失敗 でも現実はみんな一人残らず これと少々似たようなものです 何かを夢見る ある事の将来の姿を想像するが 現実はいつも違いますね? 人生は夢のよう 決して実際は 起こらない何かに向かって進み それらのものを得ると 夢のようには行かないことを 実感します そして新しい事を考える 夢を少々変えてみる でも夢は夢 決してそこへは行けない 私達は一つの物が 何かをもたらす世の中に 現実は決して同じ様には いかない夢の中に住んでいる 人生の殆どがこのようで これが マインドフルネスが難しい理由の一つです 夢や渇望や欲求の中に住むと 心はいつも何か別のものに向きます 夢や渇望や欲求の中に住むと 心はいつも何か別のものに向きます 決してこの今に 満足していないからです だからこれらを手放すと 心が 今現在に すんなり落ち着きます だからこれらを手放すと 心が 今現在に すんなり落ち着きます これが夢の喩えです もう一つ 経典にある喩えで 私がとても好きなのは 借り物の喩えです これについてブッダが話す時 “裕福な人を想像しなさい”と言います その時代 裕福な人とは 最近と比べたらかなり控えめです で 裕福な人が… あ 違う 裕福じゃない 何を話してるんだ 私は!普通の人で 裕福な人から物を借りた人 素敵な馬車に乗り 素敵なジュエリー 良いイヤリング等をしている それが当時の裕福な人だと されていました 素敵な馬車とイヤリング 彼は馬車に乗り 素敵なイヤリングをつけている 町中を走りまわる とても控えめ まあとにかく町で乗り回す 人々は彼を見て “わー あの金持ちを見てご覧 “本当に裕福だ これが裕福な者が 富を楽しむ姿だ” このように人々が彼について言いますが 勿論 人があなたを指差し “裕福ですね”と言うと 自我はすぐ膨らみ始めますね? “ああ 私は重要 そうだ 金持ちだ お前達は私以下だ “私はより裕福だから勝っている” 裕福だと自分がより 重要だと思い始めますね? これは単に富に不可欠な部分で 何でもない 残念ですが ただの人間の現実の姿 私達はこのようですね? ただの物事の事実です でも借り物なので 勿論 持ち主が戻って来て 馬車 イヤリングを取って行ったら 借り主はどう感じますか 裸のよう それらの物に 愛着がもう出来ていて 彼の自我がこれらの物に 属していたのに突然奪われた 彼の自我がこれらの物に 属していたのに突然奪われた 裸のよう 何かがなくなった感じです “何? 私は結局裕福ではない!” ショックを受けます それらは実際は借り物だった事を 忘れていた これが問題なのです そして事実は私達の生活は 借り物で満ちていますね? 何が人生で借り物ですか? 考え始めると 人生の殆ど全ての所有物が 実は借り物ですね 人生であなたが持つもの全て 世の中の人間関係 友人関係 自分の体も究極的には借り物です なぜ借り物なのですか? 自分の体も究極的には借り物です なぜ借り物なのですか? それは度々 自然の摂理 非永久性 不確実性が来て奪い返すからです それを制御したり持ち続けるための 手立てが全くありません 一番遅くとも 死ぬ時には 取られてしまいます 人生の殆ど全ての物 特に五感の世界のものは借り物です 掴んでおくことは出来ない 別れる定めです これはどういう意味ですか? 実はとても… んー 非常にパワフルですよね この人生を考えて 何かを借りたとしたら 例えばアパートを数カ月借りたら 何かを借りたとしたら 例えばアパートを数カ月借りたら どれだけのお金を他人から 借りたアパートに費やしますか どれだけのお金を他人から 借りたアパートに費やしますか 多額ではない その出資を あなたは満喫できないからです 持ち主には利益になりますがね もし人生の全てのものが借り物なら 持ち主には利益になりますがね もし人生の全てのものが借り物なら この世の借り物への 投資を少なくし始める その代わりに実際にこの人生を 超えるものに投資を始める それはより高尚で深い意味と 満足感を持っている それは何ですか? そして 違いは もちろん 違いは 単に今の短い存在のみに 焦点を置くこと 今ここにいるという ほんの一かけらの存在と 仏教の観点からみた あなたの存在 過去と未来の存在を考慮に 入れた果てしない期間の存在です この人生で今気付いている現実より 壮大で非常に広い これが 生まれ変わりの考えが 再び存在し死ぬ事 全ての“再び”が 非常に大切な理由です なにが大切なのか どう生きるかの 見積もりが変わるからです 自分の人生で何が大切なのか? この意味で 何が借り物でありませんか? 借り物でないのは心です なぜですか? あなたは心を現世の人生を超えて 未来へ持っていくからです あなたは心を現世の人生を超えて 未来へ持っていくからです この人生で素晴らしい心を築くと 軽く明るく功徳や幸福感や 良質に満ちた心を築くと それを未来へ持っていくのです 惑わされないで下さい これは可能です 変えられます あなたはより明るくなり 幸せになり得ます これは段階的な工程で 粘り強さと献身が必要ですが 可能です どうやってするのでしょうか? 方法はこの人生の結果やゴールに あまり注目しないで 方法はこの人生の結果やゴールに あまり注目しないで 焦点をゴール自体よりもいかにこれらに 到達するかという過程に置くことです 焦点をゴール自体よりもいかにこれらに 到達するかという過程に置くことです 思うに これがやはり 人生で重大なこと 重要な違いの一つです 私達は五感の世界や物に 興味があるので 殆どの人は いつも人生の五感の悦びを 増大させたがります これらのゴールにいかに到達するかに 焦点が置かれ それの問題は ゴール が手段を 終点が方法を 正当化しますね? 昔の格言の一つで仏教の観点からは 全く意味をなさないものがあり “それらのゴールに着きたいから “そこに着くための手段は 何であっても関係ない” もちろんこれの問題は この人生で沢山のものを 築き上げているかもしれないが この人生をとても素晴らしくして あらゆる物を持っているが これの主要な点として あらゆる種類の近道を取る事です 他人へ悪いことをする 自分の人生が終わりに来た時 どんな気持ちになるか想像して下さい 人生の終わりに来た これらのものを築き上げた 築き上げたこれら全ては この世界に属している 借り物で 今これら全てを 手放さないといけない 一方で心を引きずり 落とす多くの悪い事をして 心をより暗くし不快なもの より重たいものにした 死ぬ時にはこれのみが 残されています どう感じますか? 機会を見逃したと感じる 何も残っていない 空虚感と戸惑いを感じます “チャンスを無駄にした この世界に属したものだけに “焦点を置いて生きてきて 持っていけるのは “その間にした悪事を 除いては何もない” “それらは私を下落させた 未来は今非常に暗い” これがこれらのものに 焦点を置いた時の問題です だからゴールに 終点に 着目するより 仏教の考え方は過程に注目します どうやって いかにゴールに到達するか そこにどう行くかです それなら もしゴールに着かなくても 人生で達成したい事を 成就しなくてもあまり重要ではない なぜなら過程に注目することで 自分自身を上にあげた 自分自身により明るい心を作った 人生の最期に来た時にこう思える 自分自身により明るい心を作った 人生の最期に来た時にこう思える “まあ この人生であまり 達成する事はなかったが関係ない “最後には全て離れて行く定めだから… 唯一達成したのは “自分の為により明るく幸せな心を作る事だ” 驚く事に この時点で これが唯一の大事な事なのです 他の全ては無関係です だから見積もりを変えます 借り物の喩えは 人生を全く違ったふうに 見るようにさせます これは非常にパワフルで 素晴らしい事です あの人達全て ほら 近道を取った人達は すでに王立の銀行業務監査やその類いで 明らかになった幾つかの事例を なぜしたのですか? ゴールに焦点を置き過程に注目しなかった そしてそうする事で自分自身をだまして ゴールに焦点を置き過程に注目しなかった そしてそうする事で自分自身をだまして 過ちを犯し 自分の中に 悪を作ってしまった 同時に 世俗の物は本質的に一時的で 問題があるが それらを求めた 同時に 世俗の物は本質的に一時的で 問題があるが それらを求めた という事で さあ これが借り物の喩えです 次の喩え これはジャングル 又は 森の喩えです ブッダは 村か町に住む二人を 想像するように言います 彼らは森へ行きます 森へ行く時に 最初の一人が森へ歩いて入り 見回します 森はとても暗く 茂って密集している 彼はどの方角も殆ど遠くまで見えないが 森はとても暗く 茂って密集している 彼はどの方角も殆ど遠くまで見えないが でも森を歩き回り 何か幸福に させてくれるものを探します そしてマンゴーの木にやって来ます “わー!” 木には熟れたマンゴーが実り 彼は木に登ります マンゴーの木の上に行き 座ってマンゴーを食べます マンゴーを食べている間 マンゴーは本当においしいから ここにマンゴーが 嫌いな人はいますか? みんなよく熟れたマンゴーが 好きですね とても良い… 多分全員ではない いつも少し違う人はいますから でも殆どは 熟れたマンゴーが好きです 彼は木の上に行き 熟れたマンゴーに 夢中になっているので 注意深さを失い 周りに気付いていない “あー マンゴーはほんと美味しい!” そこに座り ただマンゴーに陶酔 マンゴーに酔っている そこでもう一人が来る お酒は悪いと思うが マンゴーは ある点ではそれよりも悪いかも とにかく もう一人がやって来るが 木の登り方を知らないので考える とにかく もう一人がやって来るが 木の登り方を知らないので考える “あー あれらの良いマンゴーを どうやって得られるか… んー そうだ” 彼は斧を取り出し 木を根元から切り出した ブッダは言います “もしマンゴーの木の上にいる男が “彼が早く降りてこないと どうなりますか?”と 彼は木から落ちますね 手足の骨折 或いは 高ければ死ぬ可能性もあります それが起こりますね だからこれは問題なのです これの要点は何ですか? 要点はこれら二人の男性 ジャングルに 森に行った二人 ジャングルはここでは 私が読むに 五感の世界の比喩ですね? 私達は五感の世界にいる 多分 都市にいて 都市では あらゆる五感の悦びを得られます カフェがあり エンタメ 娯楽の場があり そこが いわゆる人生のパートナーや その他諸々を見つけます 都市は五感の悦びの場です 都市を歩き回り 五感の悦びを 得られそうなものを見る これがジャングルを 歩き回るの喩えです でも 勿論 都市と同じ様に ジャングルは遠くまで見えない場所 そうですね? 五感の悦びの世界にいる時は 心は限られていて 瞑想時にあり得るほど 心が広く 開放的ではない 限りがあり 縮んでいる 遠くまで見えない 見通しがきかず 全景が分からない 何が起こっているか認識できない それがジャングルでの問題点です 唯一しているのは 次の五感の悦び探しですね? 人生は少々そのようです 次の悦びを 幸せを 次に出来ることを探している 休みにはどこに行こうか? 今晩はどのレストランに行こうか? 何をしようか? いつも未来のある悦びを考えていて それらの悦びにふけると 五感の幸せに浸ると それに夢中になっているので 酔っているので 注意深さを失っています そして知らぬ間に 死ぬ時がやってきますね 気づく前に ほら 75 80 85… 近頃は何歳で死ぬのか知りませんが 差はありますが ああ 終わりだ 人生おわり 死んでいきます 途中で酔っていたため 途中で欲望に溺れすぎたため 注意深さをなくした 人生で何が本当に重要かを 明確に考える能力をなくした そして死があなたを驚かせる 勿論その時 死ぬ準備が出来ていない そして死があなたを驚かせる 勿論その時 死ぬ準備が出来ていない 酔っていた 酔っていたので 道徳的に暮らすのが 大切という事を忘れていた 親切や思いやり 人生での安らぎを忘れた これらは深い意味で 私達を真に幸せにするために また 精神的な道を進むのに 非常に重要で それら全てを忘れたら 死ぬ時 何をしたのかと考えながら 悪い状態で死にます さて 代わりは何ですか 代わりはこれです それはまた経典に あるちょっとした良い喩えで 喩えは二人の友人が ジャングルの中を歩いていて 茂った五感のジャングルの中を歩いていて どの方向もよく先が見えないが 高い丘 殆ど山のような丘に着いた 一人がもう片方に言います “丘の頂上に行こう” “山頂に行こう” もう片方は “いや いや 興味がない “ここ ふもとにいるよ” 友人は言います “わかった 私は一人で行くよ” と彼は山頂に行きます 彼が山頂に着いた時 言います と彼は山頂に行きます 彼が山頂に着いた時 言います “わー これは見るべきだよ 山頂に立ったら “田畑が見え 村々が見え 道路が見える “湖も庭も林も これら全てが見える ありとあらゆるものが!” そして友人に叫びます “おーい この頂上から “あらゆるものが見えるよ” でも友人は “そんな事ない 絶対に無理だ 山頂からそれらが見えるなんて” 頂上の友人は少々イライラします これら全てが見えますからね 頂上の友人は少々イライラします これら全てが見えますからね 彼は山の麓まで降り 友人の腕をつかんで あまり強くではありません 仏教徒ですから でも少し “よし 一緒に来なよ” と友人を 山頂まで引っ張り上げます 大切なものを見せる時 超人的な力が出ますね 山頂まで友人を引っ張り上げ 言います “見なよ! さあ 何が見える?” “わあ うん 田畑 庭 林 村々 道路 これら全てが見える” “じゃあ なぜ山麓で ‘それらは 見えない’と言ったんだい?” 友人は答えます “ふもとにいた時はこの山自体に “それらのものを見ることを はばまれていた” ここで要点は五感を 味わっている最中には 世の中の五感の対象が 周りにある時は 総体的な見解がない 全景が分からない 水中の魚のようで 知っているのは水のみで 他のものは何も知らない 五感の悦びや欲望の理解は不可能です 精神的な道を実践する時 自分を上に上げる時 徐々に 五感の悦びから自分を持ち上げて いつか深い瞑想に到達するまで そして初めて深い瞑想に 到達する時 五感の世界から初めて 自分を取り出して 鋭く全景 概観がつかめて 実際に 何が起こっているかが分かります 鋭く全景 概観がつかめて 実際に 何が起こっているかが分かります そして五感の悦びや欲求を理解し それらの問題点が分かります これはジャングルに 森にいるのと逆です そして問題がわかる 何が起こっているのかわかる 殆どいつも 私達は酔っていて 後を追うだけ このため 時にはブッダの教えに対する 信用や確信は多少は必要です 瞑想が実際に 出来る事についての約束 約束は何ですか? それは この最後の喩えにあります 実はもっと喩えがあって… どうなるかな あと数分しかないね 終了時間を超えてしまう 今晩話したい一番最後の喩えは これは犬の喩えです 今晩話したい一番最後の喩えは これは犬の喩えです 犬の喩えの犬は空腹です インドで犬を見たことがあれば 犬の喩えの犬は空腹です インドで犬を見たことがあれば 彼らはいつも空腹で 常時食べ物を探している 西洋の甘やかされた犬とは違う 私達は面倒見るから 彼らは本当に幸せですが インドでは犬達は実に 痩せこけ痛ましい 人間を恐れている 蹴る等 あらゆる事をされるのでね インドではこれらの犬達は 肉屋から肉屋へと走り回っています いつ肉屋に来ても 肉屋は肉を全く与えません 価値のある肉をたまに来る変で痩せこけた 危なそうな犬には与えません 価値のある肉をたまに来る変で痩せこけた 危なそうな犬には与えません でも肉屋も少々哀れに思うので 肉全てを取った後の骨を でも肉屋も少々哀れに思うので 肉全てを取った後の骨を 犬になげてやります もちろんこの骨には 肉はなく 血が少々ついているだけ 犬はこの骨は無視して 得るのは血の味だけ それは真の肉 真の食べ物への 渇望を増やすのみですね? より大きい渇望です 犬が骨の血を舐め終わるとすぐ 次の肉屋へと走ります まだ渇望している まだ欲しがっている 何か別なものを得ようとする 次の肉屋に行くがまた同じ事が起こる 肉はない 栄養はない 内側を満足させるものがない また同じ種の渇望 血をなめて それ以外は あまり得られない そしてそれが続く 肉屋から肉屋へ 人家から人家へ ある人生から次の人生へ 万代から 万代へ これは人間の喩えです いつも五感の悦びを追っている喩え 決して真の満足感を与えない いつも五感の悦びを追っている喩え 決して真の満足感を与えない どんな達成 完了の感をも 決して与えない 決して真のゴール 真の人生の目的でない 実際に決してどこにも到達しない いつもただ同じ事を繰り返し 何回もやり続けるだけ これがまさに五感の悦びへの 渇望の問題です 完結しない ゴールがない どこにも到着しない ただ同じ事を何回も 繰り返している これが犬の喩えです それではこの代わりは何ですか? ここで仏教の道の登場です ブッダは言います “別の幸せがあります” 真の満足感 成就につながり 実際にそれ自体で本当に 完結する幸せがあります その幸せは何ですか? それは親切さ 寛大さ 思いやりを この世界で実践することで始まります そうすると… 私は本当にあなた達一人一人が これを慎重に考える事を勧めます 親切な行動 寛大な行動をとる時 自分自身をどのように感じますか? 確実に言える事は 親切な行動をとり それに本当に心がこもっている時 自分に満足すると気づく事です どんな気持ちですか? またそれは渇望を満たした時の満足感とは 大変違うものだと気付くでしょう またそれは渇望を満たした時の満足感とは 大変違うものだと気付くでしょう 渇望して得られる満足感は 中身がない むなしい 満足感を得ている間も渇望し 渇望はまたすぐに起こる 得られる満足感は 非常に空虚な類いのものです でも道徳的な生活 正しい事から得る幸福感は 渇望は伴わない満足感 幸せです 渇望はなく 今この時に感じる幸せです そのため 安らかで 素晴らしい類いの幸福感です これは単に道徳的で 親切さ 思いやり 正直さをもって 生活し 世の中で 正しい事をするだけでいい これを続けていくと 瞑想に興味を持ち ダンマロカ・センターに金曜に来て 土曜の瞑想会にも来るかも ジャーナ・グローブでの 瞑想合宿に来始めるかもしれない こうして 瞑想を徐々に 時間をかけ深めて 瞑想が深まるにつれ 親切な生き方をし始めるだけで 得られ始める幸せは どんどん自分に内在していき 瞑想時にただ自分の内側を見て それに気づくでしょう 座るだけで 自分の内側にいるだけで 真の避難所を内側に 見つける事によってです 幸せ 喜びはより一層強くなり 益々この瞬間に存在し 更に統合し ついにはある日 完全な深い瞑想状態に 到達する 絶頂 非常に深い瞑想です ある日 こうなったら 完璧な満足感を見つけたと 完全な達成感を実感したと認識します 完璧な満足感を見つけたと 完全な達成感を実感したと認識します これ以上 先にゴールはなく 他に行く場所はありません それまでは渇望 欲望に いつも振り回されていた いつも渇望が満足感を約束して ましたね 考えてみると 人間関係や世の中の どんな五感の対象でも いつも必ずそこに満足感を 約束されたが長続きしない 満足しても渇望がまだそこにあり あまり面白くはない でも人生で初めて 絶対的な満足感を見つけた 渇望は完全に消えた 欲望はもはやない どこかに行こうという意欲はない どういう事ですか? それは… これがとても 奥が深い理由なのですが 見つけたのは あなたが発見したのは まさに人生の意味とは何かの答えです 見つけたのは あなたが発見したのは まさに人生の意味とは何かの答えです もはや活動の動因が なくなった瞬間から意志はない 渇望はない どこにも行かない 完全な充実感 満足感を 見つけられるものを発見した 内側全部が満たされて 衝動はもはやない 全てが消えた 完全な満足感のみ これが “人生の意味は?”の答え まさに人生の意味そのものを 発見したのです これが仏教の道が約束する事です これが なぜ極めて驚くほど 格別で奥が深い理由です 本当に人生の意味の答えを 与えてくれます 思うに ただそれを把握して 分かると そこから仏教の道を 行く揺るぎない献身と忍耐がくる なぜなら他に探すものはないと 理解しているから これなのです これが実に 人生が何であるかです もちろん深い瞑想状態に入って その後またその状態を 失うかもしれません そこに識見の概念が当てはまります 最終的な分析が 得られる識見 理解で 過程全体を解体して 渇望を残すことなく止めます そこで最終的に人生の意味を 仏教実践から見出します まさにこれが私達を真の意味での 人生の意義の発見に向けてくれます そうなるように 徐々に 全ての五感の対象を放棄します そうなるように 徐々に 全ての五感の対象を放棄します この世の全ての 五感の欲望を捨てます ある日 実際にここに 到達するまで徐々に放棄します そして人生が一体 何なのかを理解します これら全ての目的を理解し 仏教の道でこれらの物事を 放棄する必要性を理解します でも家に帰って 一度に全部の 五感の悦びを捨てるぞ と 思わないで下さい 人生で素敵なもの全てを 投げ捨てないで下さいよ ただこれらを考えてみて下さい 考察して下さい うなずけるかどうか考えて 取り入れて下さい ブッダや他人の英知でなく 自分の英知となるようにね これらを内在化すると 徐々に 人生は自ずと違う経路をたどり出して これらを内在化すると 徐々に 人生は自ずと違う経路をたどり出して より満足感を感じ 人生がもっと意義あるもので 結果的に 全てがはるかに 奥深いものと感じ始めるでしょう じゃあ 今晩はこれで終わりです (聴衆)サードゥ サードゥ サードゥ (良い法話でした) オッケー 誰か… ありがとう 誰か質問やコメント その類いをしたい人はいますか? (質問者)“アジャン 涅槃への流れに 入った人が五感の悦びを楽しむ事に “ついての経典ですが ほら… 私達の (悟る)チャンスは?と 思って”(笑) (アジャン) ええと 道は長いから 真実への完全な識見があっても 涅槃への流れに入っても 特に一般人なら 現実は瞑想を実践する時間が 全くない事がよくあり 時間がある時には どこか他に幸せを探します 五感の対象に幸せを探す これは普通です でも涅槃への流れに 入った人の心は瞑想に傾き いつもそこに戻りたいと思い 悦びに浸る手段は非常に基本的で 大半の人々と比べたら 程度は低いです だから自分のチャンスは心配しないで下さい 実際 そのあるなしではなく 要は正しい方向に 向かっているかどうかで 自分が正しい方向に 向かっている限りは 自分の人生で変化が見られる限り 続けていけば 最終的にそこに着きます 変化が続く限りは 最後にはあなたが志したどんな ゴールにでも到達する定めです はい では他には? 恥ずかしがらないで下さい 以前に質問をしたことがなければ チャンスです 初めてするのはいつも良い みんなハッピー? 誰も質問したくないかな? オッケー よし これはみんなすっかり納得したのか 完全に疑っているのか わからないが どちらでも構いません それでは海外からの質問に行こう 海外からは三つ 最初はドイツのヴォルフラムからで 彼の質問は “執着しない限りは 何を楽しむのも自由ですか? “ただ欲望を手放したら 楽しみを拒否又は抑圧する事なく “自然に徐々に興味がなくなりますか?” んー あなたは人生を楽しむべきで それは重要な事だと思います 楽しみなしで人生を送るのが 可能という考えは… その… 喜びなしで 仏教の道での全ての幸せに 入るのは不可能だと思うから 人生の普通の幸せを楽しむようにして ゆっくり進んで下さい 徐々に五感からの幸せを減らして そして徐々に仏教の道の実践で 得られる幸せを増やして下さい それが本当に理想の方法です それなら人生の幸せや喜びを 奪われているとは感じません 同時にあなたが執着せずに 何かを楽しむ事ですが それは本当は不可能ですね? 執着 愛着するものです 選べない それは本当は不可能ですね? 執着 愛着するものです 選べない 執着は自我の自然な表現です 自我があるなら 涅槃の流れに入った人や 完全に悟った人は別として 普通は物事に執着します 自我はそうするもので 自我の一側面なので 執着しても あまり気にしないで 少しの執着はあるものです より執着する価値があるものに 執着するようにしましょう 戒律に 親切さに 思いやりに 全てのこれら肯定的なものに 少々執着しましょう 肯定的なものにもっと執着したら 悪いものへの執着を 少々手放せますね? “悪い”ものとはあまり高尚や 高潔でないもので 徐々にそうすると まあ はしごを登っていくようなもの より上の段に到達する より高い段に執着して 低い段を手放す またより高い段に執着する そうすると はしごを上に登るほど 執着自体が実は軽いものとなる 五感の悦びへの執着は 堅固で厄介だが 登れば登るほどそれは軽くなり 最終的に執着がなくなります だから 大丈夫 多少執着はあまり気にしないで より高貴な執着に向かうようにして 低いものは手放したらいい でも仏教の道を強制しないように この道で非常に大切な事の 一つは思うに 楽しむ事 間違いなく愉快で 楽しいものとする事 そうすれば仏教の道に 長くいる事が出来るでしょう でも自分にとって惨めで苦しすぎ 難しすぎにしてしまうと 長期間それを持続するなんて 不可能です お願いですからそうして下さい それで 長い間いるでしょう そう期待します とにかく質問をありがとう ヴォルフラム 質問2 これはイスラエルの ハディールから “恋愛の相手への身体的な渇望を どうすれば乗り越えられますか?” んー 多分できませんね? これが問題なのです 多分 おそらく出来ない だからあまり気にせずに それらは克服しようとせず 仏教の 道を出来る限り実践して下さい 恋愛関係にあるのなら まあ それが理由です それは理由の一部で でなければ 恋愛関係にはないでしょう それは理由の一部で でなければ 恋愛関係にはないでしょう 恋愛関係にある時の一部だから ただこれらの喩えを考え 仏教の道を 実践し どこに着くか見て下さい 将来どこに導かれるかは 誰にも分かりません でも恋愛関係にある間は その渇望の真の克服は不可能です だからただ実践して 結果を見て下さい もしかすると 進む過程で将来 何かが起こり 物事が変化するかも でも今の所は まあそれは 何かが起こり 物事が変化するかも でも今の所は まあそれは そんな関係にいるなら つきものだと考えて下さい 問3はアメリカのエヴィーから “心の訓練のような有益なものへの執着も “接し方を間違えると五感の悦びの 一つとなる可能性はありますか?” “接し方を間違えると五感の悦びの 一つとなる可能性はありますか?” うーん それは決して 五感の悦びとはなりません 精神的な訓練への執着は 五感のものではないですから 違う種類の執着で さっき言ったように 精神的な訓練への 多少の執着はとても良い事です もし戒律への執着がないと どうなりますか? 守らないでしょう 基本的にそれが執着の役目です 戒律より優先したい欲望が いつもあるのだから だから執着がなければ 肩をすくめて “まあ何でもいいや” と 好き放題をします だから少々の執着は 少々の献身のほうがよい表現かも これらの戒律に少々自分を 捧げるのは実はとても大切で そうでないと決して 真に戒律を守らない だから一般的に 仏教の道への 少々の執着は良いですね? つまり 私は仏教徒であることを 誇りに思っていて 確かにこの道に執着しています でなければ もはや僧侶でなく 代わりに 様々な他の事をしているでしょう だから少々の執着はいい でも強すぎる執着や 間違った種類の執着 例えば 大勢と多くの論争に 導くような執着ではないもの “生まれ変わりを私は信じてる” “えっ?馬鹿! 生まれ変わりを信じてるとは” “いいや 生まれ変わりは真実!” 等ね? この類い これらのものに 関わったら問題です また執着がどこにあるかにも 注意して下さい 個人にあまり執着しないように これが思うに 精神的な道での 一番危険なものの一つです スピリチュアル関係で世界中 あちこちで見かけます 人々はグル(指導者)や 先生に執着し それは多くの問題や 虐待に至ります また 例えばその人が一般人に戻ると 決めたら多くの苦悩をもたらしますね また 例えばその人が一般人に戻ると 決めたら多くの苦悩をもたらしますね 人が誰かに執着し “うん あの人は解脱者だ”と思う これを何回も見ました 一般人が解脱者を見抜くのは 困難ですね? 執着人物に投影して 一般人が解脱者を見抜くのは 困難ですね? 執着人物に投影して “うん 彼らは確かに 悟ってる” と思う そして翌日彼らは結婚したりしますね? “ちょっと待って! 何が起こったの?” だからよく注意して下さい 時にとても難しいです ある人はカリズマがあって 話上手で 彼らは人を惹き付ける等の 特徴を全て持ちえます だから引き込まれる 丁度引き込まれた時に… バン! だから引き込まれる 丁度引き込まれた時に… バン! 彼らはあらゆる如何わしい事をしている それはいつも悪事です だから正しく執着 注意を持って執着しましょう いつもしっかり調べてからすると 執着は悪いものではない 実際 執着は自我とは 切っても切れない部分です 完全に悟らない 解脱しない限りは 本当に避ける事は出来ない さあ これらが私の答えです 誰か他に何か言いたいですか? みんなハッピーかな みなさんどう思ってるのか分からないが まあ質問がないことだし それではブッダ 教え 僧侶の一団に敬意を払いましょう (アジャン 仏像に体を向ける) 完全に悟りを得た尊い方… (残りのお経 聞き取り不可) (残りのお経 聞き取り不可) (法話 終わり)