正しい殺人
これから「正義」の話をしよう
君は路面電車の運転手だとする
今 時速100キロで走っていると
前方に5人の労働者がいるのが見えた
止まろうとしたが ブレーキが利かない
君は絶望した
このままそこに突っ込めば 全員が死ぬ
これは確実なことだとしよう
君が諦めかけた その時
脇にそれる待避線があるのに気づく
そしてその先には1人の労働者がいる
望むなら ハンドルを回し
その待避線に入ることができる
1人は殺すが 5人は助かる
最初の質問だ
正しい行いはどちらか?
君ならどうする? 挙手してほしい
待避線に曲がるという人は?
曲がらず 直進するという人は?
遠慮せずに手を挙げて
少ないね 大多数は曲がる
ではその理由を聞いてみよう
なぜそうするのが正しいと思うのか
待避線に曲がるという
多数派から始めよう
なぜそうするのか? その理由は?
誰か理由を説明してほしい
1人殺せば済むところを
5人も殺すのは正しくないからです
1人殺せば済むところを
5人も殺すのは正しくない?
良い理由だ
他には? みんなこの理由に賛成かな?
9.11の時と同じだと思います
墜落した飛行機の乗客たちが英雄なのは
彼らが自らが死ぬことを選び
ビルの大勢の人を殺さなかったからです
9.11での原理と同じだと言うんだね
悲劇的な状況だが
5人が助かるなら1人を殺す方がいい
これが曲がるという人たちの理由かな?
では次は
曲がらないという少数派に聞こう
これは全体主義を正当化する論理です
そうやって他の人種を排除するんです
つまりこの場合 君はどうするのかな?
君は恐ろしい大虐殺を避けるために
5人の方に突っ込んで彼らを殺す?
ええ そうです
他には? 今のは勇気ある答えだね
では路面電車の別の例を考えてみよう
そして見てみよう
君たちの多数派が
5人が助かるなら1人死ぬ方が良い
という原理にこだわるかどうか
今度は君は運転手ではなく 傍観者だ
君は線路の上に架かる橋にいる
今 真下へと路面電車が来ていて
線路の先には5人の労働者がいる
ブレーキは掛かっていない
路面電車は5人に突っ込み 殺しそうだ
君が何もできないと諦めかけた その時
隣にいる
橋から身を乗り出した
とても太った男に気づく
君が彼を ちょいと押せば
彼は橋から線路の上に落ちる
ちょうど路面電車の前に
彼は死ぬだろうが 5人は助かる
男を橋から突き落とすという人は?
押さない人は? ほとんどが押さないね
質問だ さっきの原理はどうなったのか
1人を犠牲にしても5人助ける方が良い
最初の例で多くの人が支持した原理だ
両方とも多数派だった人に聞きたい
二つの違いをどう説明する?
二つ目では多分 人を落とすという
能動的な選択をしています
多分 最初その人自身は
その状況とは関係なかったでしょうし
その選択が 多分
無関係の彼を関わらせることになります
多分 最初の例では
運転手と二組の労働者という三者が
この状況では多分 既にいた
でも待避線にいた人だって
自分が犠牲になることは選んでないよね
そうですが 彼は線路の上にいた
男は橋の上にいた
出直して来なさい
これは難しい質問だ 君はまだまだだね
誰か他に
二つの例での多数派の矛盾した選択を
うまく説明できる人はいないかな?
一つ目の例では 1人か 5人か
どちらかを選ばなければなりませんが
彼らが死ぬのは路面電車が原因であって
自分の直接の行為のせいではありません
しかも一瞬で決めなきゃいけない
でも自分がデブを押すのは殺人行為です
自分自身はコントロールできますが
路面電車はコントロールできません
状況が違うと思います
反論はあるかな? 今のは良い意見だね
誰か反論は? これが正しいのだろうか
それは完全に間違っていると思います
どちらも死ぬ人を選ぶことになるんです
曲がって人を轢くのも意図的な行為だし
デブを突き落とすのも意図的な行為です
だからどちらも選択をしているんです
反論する?
間違ってるのはあなたの方だと思います
実際に人を突き落として殺すのは別です
自分自身が実際に彼を殺しているんです
自分の手で彼を押しているからね
運転してたら人が死んだってのとは違う
良い言い方じゃないかもしれないけど
質問してもいいかな
橋の上で隣に男がいるのは同じだが
男は扉型の罠の上に立っていて
君がハンドルを回せば開くとしよう
君は回す?
それはもっと悪いことな気がします
手が滑っちゃった とかならいいけど
それか落ちるのが死刑囚とかなら
認められるかもしれませんが
結構 それでも間違いだと思うんだね?
最初の状況で回すのは問題ないが
最初の状況では自分は当事者ですが
二つ目では傍観者です
デブを押すか 関わらないか選べます
この話は一旦やめて 次にいこう
今度は君は 緊急治療室の医者だとする
今 君の所に6人の患者が運ばれてきた
ひどい路面電車事故に遭ったのだ
5人は中程度のけが 1人は重傷だ
重傷の1人の治療には丸1日が必要で
そうした場合 5人は死ぬ
5人を治療すれば5人とも助かるが
その場合は重傷の1人が死んでしまう
5人を助けるという人は?
1人を助けるという人は?
とても少ないね 一握りだ
同じ理由かな? 1人より5人?
では次は 別の医者の例を考えよう
今度は君は 移植医だ
君は5人の患者を抱えていて
助かるためには臓器移植が必要だ
それぞれ心臓 肺 腎臓 肝臓
そして膵臓を必要としている
ドナーは見つからなかった
彼らの死を見届けるしかないのか
君が諦めかけた その時
1人の健康な男が健康診断にやってきた
ウケてるね
彼は今昼寝をしている
こっそり臓器を取り出せば
その男は死ぬだろうが
5人を助けることができる
そうする という人は?
いない?
さあ遠慮せずに手を挙げて
バルコニーは?
いた? 気を付けて 身を乗り出すと…
そうしないという人
臓器を抜き取るという君 なぜだい
俺頭良いから思いついちゃったんだけど
5人の中で最初に死んだ1人から
他の4人に臓器を分ければいいんじゃね
それはいいアイデアだ
そのアイデアは素晴らしい
しかし君は
哲学には向いてないようだ
たとえ話はこのくらいにしよう
これらの議論の展開の仕方から
いくつかのことが明らかになった
今私たちがした議論から既に
いくつかの道徳原理が現れている
その原理とはどんなものであるのか
議論から現れた一つ目の原理は
正しい行いや道徳的な行いは
その行為の帰結で決まる というものだ
1人が死んでも 5人助かる方が良い
これが帰結主義的道徳論法の例だ
帰結主義者は行為の帰結に道徳性を置く
行為の結果生じる世界の状態に置くのだ
しかしもう一歩進み 別の例を考えると
多くの人は信頼しなかった
帰結主義的道徳論法を
多くの人がためらった
男を橋から突き落としたり
無実の人から臓器を抜き取るのを
ためらった理由は
行為それ自体の
質と関係があるようだ
帰結とは関係なく
多くの人が間違いだと考えた
それは無条件に間違っている
5人を助けるためであっても
無実の人を殺すのは
先程の話のそれぞれ二つ目の型で
少なくともそう考えたのだ
これは二つ目の
道徳について考える上での
定言的な方法を示している
この定言的道徳論法では 道徳性を
ある種の絶対的な道徳的要請に置き
帰結を考慮することはない
これからの講義で見ていくのは
帰結主義的道徳原理と
定言的道徳原理の対比だ
帰結主義的道徳論法で最も強力なのは
功利主義だ 発明したのは18世紀
イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサム
定言的道徳論法で最も重要な哲学者は
18世紀ドイツのイマヌエル・カントだ
これら二つの道徳論法の違いを見て
評価し そして他の論法も見ていく
この講義では数多くの名著を読んでいく
アリストテレス ジョン・ロック
イマヌエル・カント ミルらの著作だ
本を読むだけでなく
哲学的問題を提起する現代の問題や
政治的 法律的な論争も取り上げる
平等と不平等
格差是正措置 言論の自由
同性結婚 徴兵制など
現実的な問題を取り上げる なぜか?
過去の抽象的著作を蘇らせるだけでなく
私たちの日常生活や政治的生活において
何が哲学的に問題となるのか
明らかにするためだ
そして本を読み 問題を議論し
それらが互いにどう作用するか見ていく
楽しそうに聞こえるかもしれないが
ここで一つ警告しなければならない
警告とはこうだ
自己認識を鍛えるものとして
これらの本を読むことは
ある種のリスクを伴う
個人的 政治的なリスクがある
政治哲学を学ぶ者なら知っているだろう
これらのリスクが生じるのは
哲学が 私たちを
既に知っていることに直面させることで
私たちを教え 動揺させる学問だからだ
ここに皮肉がある
この講義の難しさは 君たちが
既に知っていることを教えることにある
それは慣れ親しんでいたものを
見知らぬものに変えてしまう
私たちが始めた 仮定の話がそうだ
遊び心と真面目さを交えた良い話だった
哲学の本もそうだ
哲学は私たちを親しいものから引き離す
新しい事を教えることによってではなく
新しい物の見方を
喚起することによって
しかし ここにはリスクがある
一度親しいものが不慣れなものになると
それは二度と同じものにはならない
自己認識とは純真さを失うようなものだ
不安に思うだろうが いつかわかる
哲学することからは逃がれられないのだ
この取り組みを難しく
しかし面白くしているのは
政治哲学は物語であるという事実だ
物語がどうなるのかはわからないが
これは君自身についての物語である
これが個人的なリスク
では政治的なリスクとは何か
君たちにこう約束することもできる
本を読み 問題を議論することで
責任感のある より良い市民になれると
君たちは公共政策の前提を検討し
自らの政治的判断に磨きをかけ
公的事項に効果的に参加できるだろう
しかしこれは誤解を招くような約束だ
政治哲学はそのように働いてこなかった
政治哲学は人を悪い市民するという
可能性を知っておく必要がある
たとえ良い市民になるとしても
その前に一度 悪い市民になる可能性だ
なぜなら哲学は 人を社会から遠ざけ
衰弱させるような活動だからだ
ソクラテスの時代もそうだった
「ゴルギアス」というの著作の中で
ソクラテスの友人カリクレスは
ソクラテスに哲学をやめさせようとする
カリクレスはこう言った
人生の適切な時期に適度に遊ぶなら
哲学は楽しいおもちゃだ
しかし節度を超えて追求すれば破滅する
私の忠告を聞け
議論を捨て 行動的人生の成果に学べ
下らぬ屁理屈に時間を費やす人でなく
多くの実りと共に暮らす人を手本にせよ
つまりカリクレスはこう言っているのだ
哲学なんてやめて 現実を見ろ
ビジネススクールに通え
カリクレスの言うことももっともだ
哲学は常識や約束事や信条から
私たちを引き離す活動だからだ
これは個人的 政治的にリスクである
このリスクに直面した時特有の言い訳
その言い訳の名は 懐疑主義だ
それはこういう考えだ
私たちは様々な事例や原理を議論したが
何も解決できていない
アリストテレスやロックやカントでさえ
長年かけても答えを出せていないのなら
誰がそう思えるのか
この講義で何かが解決できると
だからおそらくは各自が
自分なりの原理を持っていれば良く
それ以上はない 論じても無駄だ
これが懐疑主義の言い訳だ
これに対し 私はこう答えよう
確かに 議論は長年に渡り続いてきた
だがまさにその事実が示しているのは
不可能だが 不可避でもあるということだ
そしてそれが不可避である理由は
私たちがそれに答え 生きているからだ
だから道徳の熟考を諦めることは
解決にはならない
カントは懐疑主義についてこう書いた
懐疑主義は理性の休憩所である
そこは独善的な彷徨いを熟慮できる所だ
しかし永久に留まる場所ではない
単に懐疑主義を受け入れたとしても
理性の不安は決して克服できない
私は対話や議論を通じて
ある種の可能性を示そうと思う
最後にこう述べて終わろう
この講義の目的は
理性の不安を目覚めさせ
それがどこへ導くかを見ることである
前回の講義はいくつかの話で始まった
道徳的ジレンマの話だ
路面電車や医者
臓器移植の犠牲にされそうな
健康な男の話だった
そしてその議論から
二つのことがわかった
一つは議論の進み方と関係している
私たちはまず個別の事例に判断を下し
次に その判断の背後にある
理由や原理を明らかにしようとした
そして新たな事例に直面したとき
私たちはそれらの原理を再検討し
他と照らして修正した
そして 個別の事例での判断や
私たちが熟考して支持した原理を
一致させようとする圧力に気づいた
また 討論から浮かび上がってきた
議論の趣旨にも気がついた
時に 私たちは行為の道徳性を
帰結や結果や
もたらされる世界の状態に求めた
これを帰結主義者の道徳論法と呼んだ
しかしいくつかの事例では
私たちは単に結果には影響されなかった
時に 私たちの多くは
帰結だけではなく
行為の本質や性格も
道徳的に重要だと感じた
無条件に間違いだ と言った人もいた
たとえ良い結果をもたらすのでも
たとえ1人を犠牲に5人を助けるのでも
そうして帰結主義的道徳原理と
定言的道徳原理を比べた
今日とこれからの何回か
帰結主義的道徳理論でも
最も影響力のあるものを検討する
それは「功利主義」だ
ジェレミー・ベンサムは
18世紀イギリスの政治哲学者で
功利主義的な道徳理論に
最初に明快で系統だった説明を与えた
ベンサムの考え
彼の基本的な考えはとても単純だ
そして直感に訴える力がある
ベンサムの考えとはこうだ
正しい行いとは
正しい行いとは
効用を最大化することである
効用とは何か?
効用とはバランスのことだ
苦痛より快楽 苦難より幸福
彼は次のようにしてその原理に到達した
彼はまず 人間観察から始めた
人間は二人の主人に支配されている
苦痛と快楽だ
私たち人間は
快楽を好み 苦痛を嫌う
だから道徳性の基礎はそこに置くべきだ
人生で何をするか考えるとき
法律がどうあるべきか考えるときに
正しい行いとは 個人的にも全体的にも
全体の幸福を最大化するように
行動することである
彼の功利主義は次の標語に集約される
"最大多数の最大幸福"だ
この効用の基本原理を念頭に置きつつ
ある話について考えてみることで
これを検討していこう
今回は仮定の話ではない 本当の話だ
二人の船乗りに対する裁判となった
19世紀イギリスのこの事件は
ロースクールでもよく議論される
どんな事件だったのか
要約して話すので
陪審員になったつもりで聞いてほしい
当時の新聞に事件の背景が書かれている
悲劇的な海難事故は
生存者ほどに語られることはなかった
船は喜望峰から2000キロの地点で沈んだ
乗組員は4人
船長のダドリー
航海士のスティーブンズ
船員のブルックス
全員人格者だった と新聞は伝えている
4人目の乗組員は雑用係の
リチャード・パーカー 17才
彼は孤児で 家族はおらず
長い航海はこれが初めてであった
新聞によると 彼は友人の忠告を無視し
若者らしい希望を持って船に乗った
この旅が自分を漢にしてくれる と
残念だがそうはならなかった
強い波が打ち付け 船は沈没した
4人の乗組員は救命ボートで避難した
彼らが持っていた唯一の食糧は
カブの缶詰が二つだけ
水はなかった
最初の3日間は何も食べず
4日目にカブの缶を一つ開けて食べた
次の日 彼らは亀を捕まえた
カブの缶詰一個と亀で
数日間何とか凌いだが
その後8日間 彼らは何も食べなかった
その状況にいたら君ならどうする?
彼らはこうした
パーカーはボートの隅に横たわっていた
他の者の忠告を無視し 海水を飲んだのだ
具合を悪くし 死にそうになっていた
遭難19日目 船長のダドリーは
皆でくじ引きをしようと提案した
他の者のために 誰が死ぬか決めようと
ブルックスは断った
彼はくじ引きを嫌がった
彼がなぜくじを拒否したかはわからない
定言的に間違いだと思ったのか
いずれにせよくじ引きは行われなかった
翌日 助けの船はまだ現れなかったため
船長はブルックスに見ないように言い
スティーブンズに少年を殺すと合図した
船長は祈り 食事の時間が来たと告げ
ナイフでパーカーの首を刺した
ブルックスも良心の呵責を克服し
身の毛もよだつ恵みを共有した
それから4日間 彼らは少年の肉を食べた
本当の話だ
そして救助が来た
ダドリーは救助された時のことを
驚くべき婉曲表現で日記に書いている
"24日目 皆で朝食を取っていると"
"ついに船が現れた"
3人の生存者はドイツの船に拾われ
イギリスに戻ると逮捕され 裁判になった
ブルックスは国側の証人となり
ダドリーとスティーブンズは訴えられた
彼らは事実については争わず
必要に迫られた行為だったと主張した
実質的にはこういう主張だ
3人が生き残れるなら1人死ぬ方が良い
検察官はその議論には触れなかった
彼は殺人は殺人だと言い 判決となった
さあ君たちは陪審員だと思ってほしい
議論を単純にするために
法律的な問題は脇に置いて
君たちは陪審員として
彼らの行為が道徳的に許されるか否かを
判断しなければならないとしよう
無罪にする
道徳的に許される という人は?
有罪の人は? 道徳的に間違いだと思う人
かなり多いね
ではその理由を聞こう
少数派から始めたい
まずはダドリーとスティーブンズを
弁護する人から聞こう
なぜ彼らは道徳的に無罪なのか?
俺は道徳的には有罪だと思う
でも道徳的に有罪だというのと
法的に有罪だというのは違うし
道徳的でも法に違反することはある
必要性が違法行為を
正当化するとは思わないけど
必要性の度合いによっては
有罪が免れることはあると思う
そうか 他は?
ちゃんと私の話を聞いていた人で
彼らの行為が正当化できるという人
ここはやるべきことをやるべきです
やるべきことをやるべき?
そうです
食べ物なしで19日も過ごしたんです
一人の犠牲で他の人が生き残れます
で 彼らが生き残るだけじゃなく
国に帰って社会の生産者になって
慈善活動を始めるとか 色々
そうなれば結局は全員の利益になります
その後彼らがどうしたかは知りませんが
もし彼らが暗殺者になったら?
もし彼らが暗殺者になったら? んー?
誰を暗殺したかが問題だ
確かに そうですね
私たちは実質一つの弁護を聞いた
次は検察側から聞こう
大多数が彼らの行為は間違いだと言う
なぜ?
私が最初に思ったのは
長い間何も食べなければ
精神への影響が大きいので
それで弁護ができるということです
彼らは正常な精神状態ではなかった と
でももしそう主張するなら
本当は彼らの行為は間違いだと
思っていることになると思います
どういうことかな
弁護しているが 有罪派だよね?
彼らの行為が正しいとは思いません
それはなぜ? 君はマーカスに何て言う?
話を聞いていたよね?
やるべきことをやるべきだ
マーカスに何と言う?
それはわかりませんが
他人の運命を決めたら大変です
人にその権限はありません
よろしい 君の名前は?
おじさん二人が少年に同意を得ていれば
死ぬことの
それで殺人罪が免れるなら
道徳的に正当化されますか?
面白い 同意か 待って 君の名前は?
もしそういう話だったらどうなるかな
ダドリーがナイフを片手に
祈る代わりに または祈る前に
こう言う 「パーカー いいかな?」
腹ペコなんだ
マーカス流に言うと
死ぬほど腹ペコだ
どっちみち君は長くない
殉教者になれるぞ
殉教者になれるぞ どうかな? パーカー
それなら
それなら道徳的に正当化されるかな?
パーカーが食べていいよと言ったら?
私は正当化されるとは思いません
それでも正当化されない?
同意があっても正当化されないんだね
今キャサリンが言った同意によって
行為が正当化されると思う人は?
すると思う人は手を挙げて
これは興味深い
なぜ同意が道徳的違いを生むんだろう?
もし彼が自分から死ぬと言い出したなら
それなら何の問題もないと思います
状況的には
プレッシャーがあったかもしれないので
自分から進んで犠牲になったなら
私はカッコイイなって思います
ただし イケメンに限るけど
つまり彼自身がそう思い立てば
それは道徳的に問題ないと言える
唯一の種類の同意だと言うんだね
そうでなければ
状況の下で強制された同意になる
たとえパーカーの同意があったとしても
彼を殺すのは正しくないという人は?
誰かそう思う人 君 理由を言ってくれ
パーカーが殺されるのは
他の人の助かる望みのためですが
いつ助けが来るかはわからないのだから
彼を殺すべき明確な理由はありません
助けが来るまで殺し続けるんですか?
この状況の論理ではそうなるね
1人ずつ弱い者から殺していく
助けが来るまで この事件では幸運にも
3人がまだ生きているときに救助された
それで パーカーが同意したなら
君は問題ないと考えるのかな?
いえ 間違ってます
なぜ正しくないんだろう?
食人は道徳的に間違っています
人を食べるべきではありません
食人は道徳的にダメか
じゃあたとえ
誰かが死ぬのを待つのでもダメだ
はい 個人的にはそう感じます
すべて個人の道徳観次第であって
正解はありません
これは私の意見だし 反対の人もいる
じゃあ反対意見を見てみようか
君が納得するほどの理由があるかどうか
では誰か説明できる人はいないかな?
同意があれば良いという人で
なぜ同意が道徳的な違いを生むのか
くじ引きは同意とみなせないだろうか
最初 船長はくじ引きを提案した
彼らがくじ引きに同意したとしよう
それなら問題ない
という人は?
くじ引きをして 少年が負けた
それなら道徳的に許されるという人
くじ引きを加えたら人数が増えたね
くじ引きが違いを生むという人に聞こう
なぜ?
これが犯罪となる決定的な要素は
奴らがある時点で自分の命を
小僧よりも重要だと考えたことにある
どんな犯罪もそれが根本にある
自分の欲望を他人より優先しているのだ
だが奴らが死のくじ引きに同意したなら
誰もが犠牲になる可能性がある
その場合問題ない?
グロテスクだが
道徳的には許される?
マ 君にとって
問題は 人を食べることではなく
手続きの不足?
ま そうだな
マに賛成の人で
もう少し詳しく
なぜくじ引きをすれば許されるのか
説明できる人は?
私から見て 問題だと思うのは
少年が相談されなかったことです
くじ引きにしても何が決まるのかとか
それに参加するかどうかとか
勝手に彼が死ぬことに決められたんです
そうだ それが実際に起きたことだ
だがもし全員がくじ引きに同意したら?
それなら問題ない?
同意したなら問題はないでしょう
でも少年は何も知らされず
自分が死ぬという警告もなかった
では全員がくじ引きに同意したとして
少年が負けたが 彼の気が変わったら?
これは口頭の契約だから撤回は無理です
理由を理解した上で自分で決めたのです
自分が死ぬのは他の人が生きるためだと
他の人が死んだら自分だってその人を…
でもこう言うかも「くじは間違ってる」
道徳的問題のすべては
少年が相談されなかったことにあります
何も知らなかったことが恐ろしいんです
彼が知らされていたら理解できますけど
よろしい では聞きたい
彼らの行為が許されると思う人もいるが
たったの20%だ
マーカスを筆頭に
真の問題は同意の欠如だと言う人もいた
くじ引きや公正な手続きの欠如や
キャサリンが言った 死への同意の欠如だ
そして同意があったと仮定した場合
犠牲が正当化されると考える人は増えた
最後に こう考える人に聞きたい
たとえ同意があっても くじを引いても
たとえ今にも死にそうなパーカーが
かすかに同意をつぶやいたとしても
それでも間違っている
なぜ間違っているのか? それを聞きたい
私はずっと定言的道徳論法の立場です
くじ引きすれば問題ないと思います
負けたらその人が自分の手で自殺する
それなら殺人ではありませんから
強制かもしれませんけど
そもそも良心の呵責が感じられません
"朝食を取っていると"なんて書くのは
人の命を何とも思ってないからです
だから私は定言的に考えざるを得ません
罰したいんだね
自責の念が欠けているから
よろしい 他に弁護できる人で
同意に関係なく間違いだという人は?
私たちの社会では 殺人は殺人です
社会はいかなる殺人も区別しません
どんな場合でも何の違いもないんです
一つ質問だ ここでは3対1の命だが
1人は孤児で 家族もいない
3人には国に帰れば家族がいて
扶養すべき妻や子どもがいた
ベンサムに戻って考えてみよう
彼は全員の幸福を考えろと言った
すべてを合計しなければならない
だからこれは3対1ではない
故郷の人々もいる
当時の新聞や大衆は同情的だった
新聞にはこう書いてある
愛する人や家族への心配がなかったら
彼らもこんなことはしなかっただろう
でも社会の隅に追いやられた人だって
家族を養いたいという気持ちは同じです
人を殺せば殺人です
同じ犯罪は同じ様に扱うべきです
同じ犯罪でもある種の殺人は
より暴力的ですが
全部同じものは全部同じです
動機は関係ありません
仮にこれが3人ではなく30人 300人
300人を救うための1人の命だとしよう
さらに3000人とか もっと大勢なら?
もっと大勢でも同じことです
正義とは全体の幸福を増やすことだ
と言うベンサムは間違っている?
そうは思いませんが 殺人は殺人です
君が正しいならベンサムが間違っている
わかりました 彼が間違ってます
よく言った
さて 議論はこのくらいにして
どんな反論が出たか考えてみよう
彼らがしたことへの弁護も聞いた
それは必要性や状況と関係していて
暗黙には 数が重要だという考えだ
数だけではなく広がる影響も重要だ
彼らには扶養すべき家族がいたが
少年は孤児で 誰も気にしない
だからそれらを足し合わせ
幸福と苦難を計算したならば
この件についてはこう言えるだろう
彼らのしたことは正しかったと
ここで少なくとも三種類の反論があった
彼らのしたことは無条件に間違いだ
最後に聞いたように 定言的に間違いだ
殺人は殺人で常に間違っている
たとえ社会全体の幸福を増やすとしても
定言的反対意見だ
だがさらに検討する必要がある
なぜ殺人は定言的に間違っているのか
その理由は
人はある種の基本的権利を持つからか?
とすれば その権利はどこからくるのか
幸福の増大という考えからでないなら
これが質問その1だ
また
くじ引きをすれば変わるという人もいた
それに賛同する人もいたが
これは正確には定言的反対意見ではない
全体のため 誰かが犠牲になるとしても
皆平等に扱われるべきだという意見だ
これは検討すべき別の問題を提起する
なぜある公正な手続きに同意することは
その運用から生じるどんな結果をも
正当化するのか?
これが質問その2 そして質問その3は
同意の基本概念だ 提案はキャサリン
もし少年が死ぬことに同意したのなら
付け足されたように 強制でないのなら
その場合 彼の命を奪うことは問題ない
この考えに賛同した人は多かった
これは3つ目の哲学的問題を提起する
同意の道徳的な働きとは何か?
なぜ同意はそのような違いを生むのか?
同意がなければ間違いとされる行為が
同意があれば許されるというように
これら3つの問いを検討するために
次回から功利主義の哲学者
ベンサムとミルを読んでいこう