今日は聖霊について話します。聖霊によって導かれるとはどういうことなのか。
私がとても話したいトピックです、またすごくワクワクします。
それは言うまでもなく聖霊の働きについてです。使徒の働きでは
初代教会において、聖霊は教会の一部として大いに働いていました。
聖霊が初代の使徒達に働いていたからです。聖霊が初代使徒たちを導き、また
今日においても聖霊は私たちの生活の中また教会の一部としてありたいのです。
私は誰かがこういうのを聞いたことがあります。 「聖霊が、今日の教会を去っても、
教会内の90%の活動は何もなかったかのように運営されていく」
私はそういわれるのにはそれなりの意味があると信じます。
今回はみなさんに多くの素晴らしい証しと共に,どうやって聖霊に導かれることができるか、
またどのようにして神は聖霊によって働かれれるかを皆さんとシェアしていきたいと思います
またあなたの生活の中で使うことができる実用的なツールをも差し上げます。
それによって、あなたの人生が聖霊によって導かれるようになりますように。
まさしく、使徒行伝に書いてあるような人生になるように。
主の祝福がありますように
最後の改革
使徒行伝
違いを生む20のレッスン
新しい始まり
あなたの人生に
パイオニアスクールにようこそ
パイオニアスクールにようこそ。今回は20のレッスンの内の12です。
今回は聖霊に導かれることについてお話します。どうやって聖霊によって歩んでいくのか、
またどのようにして聖霊に聞き、聖霊に従っていくのかを話していきます。
聖霊について教えることが大好きです。それは数年前に、私と家族は
聖霊に導かれるということに関して、神が私たちのために用意したものを、味わう機会がありました。
私たちはそれを味わった時、互いに見合って言いました。「これが私達が欲しいものだ。こんな生き方をしたい」
聖霊に導かれる事、これが全てなのです。
それは、ただ日曜日に教会へいく、それよりはるかに大事なことなのです。
多くの人達がこんな風に考えていると思います。聖書は、あなたは肉によって歩むことができると言い、
また聖霊によって歩むことができると言います。
肉によって歩むことは罪の生活をすることです。私たちはそれに同意します。
でも聖霊によって歩むとなると私たちは
罪の中を生きるの真逆と考えがちです。でもこれはただ罪を犯さないということです。
もう私は善人、罪を犯さないし罪の中にいない、そして日曜礼拝に行く。日々において
多くのことをせかせか行わず、日曜日には教会へ行く。
聖霊に導かれるというのはただじっと立っていて、罪を犯さず、日曜礼拝に出るという以上のことです
聖霊に導かれるという事はスーパナチュラルな人生を送ることで、聖霊によって歩むことです
一か所から他のところへ行くことです。ただじっと立っている、罪を犯さないことではありません。
わくわくするような人生を送ることです。毎日の生活の中で聖霊に導かれて。
あなたは今日そのことを味わうでしょう。
なぜなら、わたしは多くの驚くべき証しをします。
また終わりに、
あなたが使える実用的なツールを差し上げます。
それによってあなたが聖霊によって歩む人生を送ることができるように。
始める前に祈ります。
そして前回のパイオニアスクール11からの質問に答えたいと思います。
その後、聖霊に導かれるとは何かという事を学んでいきたいと思います
神よ、このティーチングを感謝します。このみ言葉を私がシェアできるように助けてください。
これを見るすべての人に啓示となりますように祈ります。彼らの目を開けて、
使徒行伝にある命に入いれるように助けてください。
彼らが毎日聖霊に導かれる人生を歩むことができますように。
神よ、感謝します。これはあなたが私たちの誰もが持つようにとされたものです。
私がこのみ言葉をシェアするのを助けてください。あなたの霊と共に来てください。
そして私たちの目を開いてください。イエスの名前によって。アーメン。
OK 今まで悔い改め、水のバプテスマ、聖霊のバプテスマについて語ってきました。
これは、救いの一部です。すべてが救われることの一部です。
ペテロが立ち上がって言いました。「悔い改めて、水のバプテスマを受けなさい、罪の赦しのために、そうすれば、
あなたは聖霊を受けるでしょう」それから彼は言いました。
「その約束はあなたとあなたの子供たちそしてすべて神が招いている人たちのためです。」
何の約束でしょうか? 新しい契約の約束です。
預言者ヨエルによって語られた約束です。
預言者エゼキエルによって語られた約束です。エレミヤによる約束、旧約の預言者達からの約束です。
ある日、神はご自分の民と新しい契約を作るでしょう。その契約には、
神は私たちの内に新しいこころを置くでしょう、新しい霊を与えます。そうして、私達は神の法令の内に歩みます。
神と共に歩みます。その約束が、神は言いました、全てこれらの事と関係していると。
聖霊はその最後に来ます。その約束を成就するもの、新しい霊です。
あなたは救われて、悔い改めて、
水のバプテスマを受けて、あなたは救われました。
もし聖霊が欲しいのであれば、なにかおまけのように、あなたは、ハイ、とそれに言える、
いいえ、全てが救いの一部です。それについて先のティーチングで話しました。
沢山の応答がありました。聖霊のバプテスマについてのティーチングから。
とても良い応答です。Eメールの一つには、こうありました。
「ハロー、トーベン、
パイオニアスクールの中でもこのトピックについて待っていました。
神がご自身をペンテコステの教会で、私に現れて以来、
私は聖霊のバプテスマを受けたかった。
でも私たちの時代では、聖霊のバプテスマはそれほど頻繁には起こらないように見える。なぜですか?
バイブルスクールにいた間、神が私の目を開けました。
それでもまだ質問があります。使徒行伝の中では、聖霊のバプテスマを受けるのがとても簡単なのに、
現在は、とても複雑になっている。使徒行伝と比較して。
10年以上も神に仕えている兄弟たちを知っています。彼らは、聖霊のバプテスマを求めていますが、
受け取っていません。
彼らは教会のメンバーで、水のバプテスマを受けています。私は個人的にこの神の力を持っていません。
神の祝福があるように」
これはほんとによい質問です。 なぜこのようなことに?
使徒行伝ではとても簡単なのに、今日では、何故そんなに難しいのでしょう?
答えは、パイオニアスクール全体で取り扱っていますが、私たちの宗教眼鏡です
たくさんの教えが神のみ言葉の上にではなく、伝統の上に建てられています。
多くの間違った教義があり、私たちには恐れがいっぱいあります。同時に、私達は
み言葉が語っていることの代わりに私たちの経験の上に教義を作ります。
癒しや、パイオニアスクールで見てきた他のすべての事に関して。
私たちは使徒行伝に見られるシンプルな生き方に戻る必要があります。
沢山の神学があります。たくさんの知識があります。しかしそれほどいのちはありません。なぜでしょうか?
なぜなら、知識は物事を複雑にするからです。一つの例をここに読みます。
これらの人々は10年間も神に祈っていました、しかし受け取っていません。
前回、私は妻が、10歳か11歳の時に、単純な祈りをしたことを話しました。「神よ、私に聖霊をください」と。
すると即座に、聖霊のバプテスマを受けました。
彼女は異言を語り始めました。一つの祈りを、信仰を持って、子供のように。
私たちは子どもの様でなければなりません。10年間、祈ること、祈ること、祈ることではありません。
単純な信仰です。それを得るために、10年間祈る必要はありません。
この人たちが必要なのは、祈って、祈って、祈る代わりに、
弟子訓練と、目が開かれて、彼らの人生から間違った教義を取り除くことが必要だと思います。
もし私が彼らに会うなら、10年間祈りなさいとは言いません。むしろ、
「さあ、座って、み言葉が何と言っているのか一緒に見て行きましょう。悔い改めましたか」と言うでしょう。
「あなたは水のバプテスマを受けましたか?」彼らが水のバプテスマを受けているならば、聖霊のバプテスマについて語ります。
彼らと一緒に座って、それが何であるかを説明します。
これが私たちが必要としていることです。弟子訓練です。
私は教会に行って、ミーテイングに行くことができます。
講壇から語ることができます。10人が私のところに来て、
私が祈ると、その内の5人が聖霊のバプテスマを瞬間に受けます。
私はそこに行くことができます。そして5人の人が聖霊のバプテスマを受けます。
なぜ、他の5人は聖霊のバプテスマを受けなかったのでしょう?
それは全て弟子訓練に関係します。
人々を今いるところから次のステップに行くのを助けることです。
ある人達は悔い改めていないかもしれません。他の人は水のバプテスマを受けていないかもしれない。
またほかの人はそれを受け取る前に、何かしなければいけないかもしれません。
ある人たちは彼らの人生から恐れを取り除く必要があります。これが私が欲することです。
私たちは弟子訓練にフォーカスしたいのです。
ミーテイングを持って、講壇から語り、全てが起こることを期待する代わりに。
彼らがいるところから人々を連れ出して、一緒に座り、み言葉を共に学び、
彼らと話をする必要があります。
もう一人の婦人が書いてきました。「聖霊を受けるのが難しかった、でも、解放される必要があったのです」
誰かが彼女に話をして、彼女は持っていた、古い本とニューエイジに関係するたくさんのものを焼却しました。
ふたりの人達が祈ると、彼女は解放されました。
約15分後、彼女は書きました。「私は車に乗って、家に向かって運転していました。英語で神を賛美し始めました。
すると、異言が私の中を流れて、私は車を止めて、その経験全体を楽しみました。」
この婦人は聖霊を受けませんでした。
しかし誰かが彼女に弟子訓練をしました。誰かが彼女と一緒に座って、話をして、彼女が理解をしました。
彼女はまだ本を持っていました。何かから彼女は離れていませんでした。
彼女がそこから離れた時、同時に彼女は悪霊から解放されました。
それが起こった時に、聖霊はすぐに来て、彼女から流れ出しました。
私の妻の場合は、自由にならなければならないことがあまりなかったので、彼女は少女だったので、
簡単な祈りをしただけでした。
この女性は悔い改める必要のあることを持っていて、悔い改めると、車の中で神を礼拝し、こんな風になりました。
もしあなたがそれを持っていないならば、私達が必要なのは、もちろん、信仰を持って神に祈ることですが、
私達が本当に必要なのは弟子訓練です。
私達が必要なのは、ステップ1,2,3と戻ることです。
別な人が書いてきました。聖霊のバプテスマのために金曜日から祈ってきました。
でもそれを体験できていません。残念なことに、私の町には誰もこのことについて教えてくれる人がいません。
あなたが助けてくれることを望みます」 時々私達は尋常でないことをする必要があります。
使徒行伝の8章で、サマリヤの人々は聖霊を未だ受けていませんでした。エルサレムの人達がこれを聞くと、
彼らはそこまで行って、彼らの上に手を置き、それを受けることができるようにしました。
これがしばしば今日も必要なことです。
車に飛び乗って、今まで会ったことのない人のところに行くことです。
他の教会に行って、他の人達を見つけ、それを持っている人たちを探してください。
それについて知っている人たちに祈ってもらってください。
この約束はあなたのため、あなたの子供たちのため、神が召している誰にでも与えられています。
OK 、聖霊に導かれることについて語ります。
聖霊に導かれることについて、その全体が私は大好きです。聖霊に導かれることについてたくさんの証があります。
次回のパイオニアスクールのレッスンは、クリスマスの後、1か月後になります。
一か月の間に、次のティーチングをします。
一か月待ってもらうことになります。次の日曜日に私と家族は南アフリカに行きます。他の事と同様に、
このことも聖霊に導かれることに関係しています。
私達がするすべての事が聖霊に導かれることに関係しています。
これが私たちの人生です。車を買うと、一つの場所から別な場所に動く時、
全ての事が、神がその中に働いていることを見ます。神が聖霊によって導いていることを。
南アフリカに私たちが行くことになったのは、その理由は、
数か月前に、ポーランドに伝道に行きました。
私は車の中に座っていて、ポーランドに向かって運転していました。
私の妻は隣に座っていて、私を見て言いました。「トーベン、
神に語っていることがあるんだけれど。でもあなたには言ってない」私は彼女を見て、
言いました。「何について神と話しているんだ? 私には言わないで」
私は興味を惹かれました。いったい何?
彼女は言いました。「私はクリスマスにはどこかに行きたいと神に言っていました。今年は家にいたくない。
クリスマスのドレス、プレゼント、クリスマスに関係あるすべての事。
そこから離れたい。家族で休暇を取りたい。同時に、
神に仕えたい。何か意味のあること、目的のあることをしたい。」
私は彼女を見て、「ええ、自分も欲しい、いいね」と言いました。
それはとても大きな驚きでした。
彼女はクリスマスについて、そのようなことを言い、外に出てみたいと言ったのは初めての事だったからです。
私はそれについてどちらでもよかったのです。
しかし私は言いました。「でも誰が私たちをクリスマスに招待してくれるのだろう?
なぜなら私が知っているどの教会、誰もが、クリスマスには休んでいます。
全てがクリスマス、プレゼントの事ばかりで、誰もミーティングを持ちません。
誰が私たちを招待するでしょうか。
そう私は彼女に言いました。でも私はそれについてはオープンであり、神に委ねて、祈りました。
2時間後に、ポーランドにいましたが、メールをチェックすると、南アフリカからメールが来ていました。
ある人が書いてきました。「ハロー、トーベン、
あなたとあなたの家族を南アフリカ、ケープタウンに招待したい。12月の2週間。
来てください、リラックスして、休暇を取り、私たちのプールで泳いで、ミーティングを持ってください。
そして私たちを訓練してください。どうですか?」
私は、「わ~、ヤー、はい、私はそれが欲しい」私たちはハイと言いました。
それから長い期間、彼から連絡がありませんでした。
後になって、彼はお金を送ってきました。彼はただこう書いてきました。「お金を送ります。全てOKです。
彼はたくさんのお金を送ってきました。
5人が飛行機でデンマークから南アフリカのケープタウンに行くにはお金がたくさん必要です。
彼は全ての支払いを済ませました。
次の日曜日には、南アフリカ、ケープタウンに行くことになります。
私はそれが気に入っています、そこに行くのは、妻が祈ったからではなく、
彼が招待してくれたからではなく、そこに行くために彼がお金の支払いをしてくれたからではなく、
神が私たちをそこに送るからです。
妻は祈りました、聖霊が彼女を祈るように導いたからです。
神の御心に沿って祈るならば、私たちは祈ったものを既に受け取っていると知っているからです。
レーンに神が何かを置いて下さり、彼女は祈り、神が彼女の内に働き、彼女は祈りました。
同時に、神は南アフリカの男性の内に働きました。
彼に会ったことがありません。しかし、神は彼に私たちを招待するように言い、
彼はお金を私達にくれました。そして私たちはそこに行くことができます。
そこに行くと、他の多くの事のように、私たちはそこが丁度呼び出されたところであることを知ります。
神が私たちにいて欲しいというところです。
偶然にそこに居るわけではありません。
私たちの自由意思で選んだので、そこにいるわけではありません。
神がそこに導いたのでそこに居ます。聖霊が私たちをそこに送りました。
このような話はたくさんあります。たくさんの証があります。
聖霊が如何に導くか、聖霊がどのように働くかを聞くことができます。
今日私たちがすることは全て、大きなことすべては、
何か食料を買いに店に行くとか、朝何時に起きなければならないとか、言うことをいっているのではありません。
大きなことすべて、例えば、神よ、
私たちはこのことについてどうすべきでしょうか? どのように私たちのお金を使いましょうか?
パイオニアスクールはどうしましょう?ティーチングはどうしましょう?この招待はどうしましょう?
この本達は?あなたは私達に何をして欲しいのか?神は聖霊によって私たちを導いていると、言いたいのです。
聖霊に導かれるということについて私はとてもわくわくしています。
沢山の証しを話していきます。短時間ですが。
私たちは神学と教えに関しては私たちがいつもすることをし続けなければなりません。イエスを見なければなりません。
聖霊に関しても、イエスを見ることから始めて行きましょう。
もちろん、聖霊は最初からイエスの人生の一部分でした
彼は聖霊によってみごもられました。最初から聖霊がそこに居ました。
しかし同時に、イエスは聖霊によってバプテスマを受ける必要がありました。
ヨハネが彼にバプテスマを授けた時、聖霊が彼の上に来ました。ルカの3章にそれを読むことができます。
聖霊によってバプテスマを受けた後、ルカの4章にこうあります。
「イエスは、聖霊に満たされて、ヨルダンから戻り、聖霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔によって試された」
ここでは、
イエスは、聖霊のバプテスマを受けた後、聖霊に満たされた。
聖霊に満たされた時に、彼は聖霊に導かれたとあります。
彼は荒野に導かれて、そこで、試みに会いました。
あなたが聖霊のバプテスマを受けると、聖霊に満たされたという経験をします。
聖霊のバプテスマは、あなたの人生の中で一回起こるものです。
あなたが聖霊を受け取る時です。しかし聖書はこうも言います。
アルコールや他の物に酔ってはならない
しかし、聖霊によって満たされなさいと。エペソ5:18にあります。聖霊を受け取ったら、
私たちはその状態で生きるように何かをする必要があります。神と近く生きるということに関係します。
神tと時間を共に過ごす時、異言でたくさん祈る時、神に仕える時、
そこで生きる時、私たちは聖霊に満たされるという経験をするでしょう。
ここで取り上げたいことは、イエスは聖霊によって満たされていたということと、
また、聖霊によって導かれたということです。最初に聖霊によって導かれたのは、荒野でした。
そこで、彼はサタンに試されました。そこから出てきたときに、聖書にはこう書いてあります。
「イエスは、聖霊の力に満たされてガリラヤに戻られた そして、彼のうわさが
近隣の地域に知れ渡った。」イエスが聖霊に導かれて、サタンに試されて、40日後
そこから出て、聖霊の力の内に戻りました。
この三つの言葉に
何か意味があると私は信じます。
これは私の個人的な経験でもあります。
聖霊によってバプテスマを受けること、聖霊に満たされた経験ができること、
神に近く生きることができること
私たちは聖霊に満たされて、私達が聖霊に満たされる時、私たちは聖霊に導かれます。
聖霊に導かれる時、その結果は、聖霊の力の内に私たちは歩くのです。
聖霊の力の内に歩みたいなら、
あなたが必要なのは聖霊のバプテスマです。または、既に聖霊のバプテスマを受けているなら、
神に近くなって、時間を過ごし、聖霊にあなたの奥底から満たされるようにしてください。
そうすればそれは生けるいのちの水として流れ出すでしょう。
あなたが神と時間を過ごせば、聖霊と共に時間を過ごすと、聖霊に導かれることを学ぶと、
あなたは、聖霊の力をあなたの人生の中で見て行くでしょう。
なぜなら、あなたが聖霊によって導かれる時、
あなたは、そこで、まさしく、今、まさにこの時、ここにいるのは偶然ではないことを知るのです
なぜなら聖霊があなたをここに送ったからです。
あなたが歩くようにと、神が用意したものの内をあなたが歩く時、あなたは信仰を持ちます。なによりも強い信仰を。
今あなたは神のみ言葉によって行動しています。
もちろん、私達が外に出る時は、私たちは神のみ言葉によって行動しています。
イエスが私たちに言っているのは、イエスが私達に命じたように、私達が外に行く度に、
また私たちは聖霊が導いているのを聞きます。
神のみ言葉に従うときに、彼は私たちと共にいます。
なぜなら、神の言葉は真理だからです。
同時に、私たちは人生の中に多くの恐れがあります。
しかし聖霊がそこに特別に介入することをあなたが体験する時、その瞬間、恐れはあっても、前と同じではありません。
なぜなら、あなたは、神があなたをそこに遣わし、神がそこに居るのを知っているからです。
それについていくつかの証をお話します。
イエスは、聖霊のバプテスマを受けました、しかし、神と共にいる時間を取りました。
イエスの人生にそのことを見ます。ある時、12弟子を選ぶ必要があった時、
その直前に、「その頃、山に祈りに行った」と聖書にあります。
「夜通し、彼は神に祈り続けました」
彼は、12人の弟子を選ぶ前にそうしました。
他のところでは、イエスは朝早く出て行った とあります。
日が暮れた後に寝床につきました。朝日が昇る前に起きて、外に行き祈りました。
その夜には、彼は何時間眠ったのか私は知りません。
そしてこの夜、彼は夜通し祈り続けました。眠らなかったのです。
イエス、神の御子は、神との時間を取る必要がありました。
彼は祈る時間を取り、断食をする必要がありました。それは私たちも同じです。
聖霊のバプテスマを経験したいだけではなく、聖霊に導かれたいならば、
また、聖霊の力の内に歩みたいのならば、
私たちは時間を取って、祈り、断食する必要があります。イエスのように。またほかの人達のように
聖書の中にでてくる、また教会の歴史の中に出てくる人たちのように。秘密は、
断食については次の週に話します。私にとって、断食とは、、
誰かがこう尋ねるなら、「トーベン、あなたが経験したことの秘訣は何ですか?」
秘訣はありません。それはイエスに関するものです。
しかし同時に、断食は私にとっては特別ですと言いたい。
断食をするたびに、40日、20日、他の時に、それぞれ私の内に何か起きました。
何か新しいことの始まりとなりました。イエスは断食の時を持ちました。
そして聖霊の力の内に戻りました。
聖霊を受け取ると、最初に起きることは、聖霊があなたを神に近くするということです。
神と一緒に歩きます。 聖霊があなたの人生の中の他の物を断ち切り始めます。
そして神以外は何も残らないようにします。このように神は働きます。
OK イエスを見ました。最初の弟子たちを見て行きます。
最初の弟子達か、あなたと私のように今日生きている弟子たちかは、問題ではありません。
なぜなら、イエスはいつも同じだからです。使徒行伝を見て行きます。
聖霊についての箇所を読みます。
誰かが今日の教会についていうのを聞いたことがあります。
もし、聖霊が今日教会を去っても、全ての活動の90%は何も起こらなかったかのように続けられる。
教会の中のすべての活動の、90%、プログラム、ミーティング、礼拝、説教
それらが何もなかったかのように続けられる。
正直なところ、
悲しいことに、それはそうなのです。
なぜなら、今日私たちがやっていることは、私たちのプログラムに関係しているからです。
私たちはそうします。
なぜならそうプログラムにあるからです。お金があって、それができます。
私たちは本当に聖霊に頼っていません。しかし使徒行伝に行くと、
聖霊がどのようにそこにいるかいうと、聖霊は全ての中に働いています。
聖霊こそが教会の中で働いている方でした。
しかし、カトリック教会の期間には、多くの事が変えられました。
その内のひとつの事は、聖霊は出て行った、ということです。
私たちは大きなシステムを持ちました。私たちはいろいろなことをしています。
同時に、今日、その上に私たちは建てています。
しかしこれから見て行くように、使徒行伝では、聖霊が、その一部でした
使徒行伝、私たちはここから始めます。
使徒行伝5章に、「私たちはこれらの事の彼の証人です。
そして聖霊も証人です。神に従う者達、に神は聖霊を与えました。」
神が聖霊を、彼に従うものたちに与えました。
私たちは彼の証人です。
聖霊も証人です。証人だった人たちだけでなく、聖霊も
そこに居ました。彼らは、彼ら自身そこに居たことと、聖霊もそこに居たことを認めていました。
「聖霊はピリポに言いました」と聖書の他の箇所にあります。
「聖霊はペテロに語った」
他の箇所で、「彼らは主に仕えて、断食をしていた」
彼らもそうしました。聖霊は言いました
「今、わたしのためにバルナバとサウロを任命しなさい。わたしが召した仕事をするために」
彼らは一緒にいて祈っていました。
断食をして、聖霊が、この人たちを選びなさいと語りました。わたしが召した仕事をするために。」
誰が彼らを呼び出したのですか?
聖霊が彼らを呼び出したのです。
他の箇所では、「聖霊にも私たちにも良いと見えたので」
誰かがこのように言ったミーティングに参加したのはいつでしょうか?
「聖霊と私達にっとってよいことのように見える」とか、「聖霊と私達たちはこのことの証人です」とか、
「聖霊が言いました。私たちは彼と彼を選んで、
聖霊が彼らを召した仕事につかせなさい」
わかりますか? この人たちにとって良いだけではなく、
彼らと聖霊にとって良いと思われたのです。
聖霊は人格です。神の位格です。
彼はそこに居て、ただのパワーではありません。
聖霊は「それ」ではありません。誰かが指摘してくれました。
わたしが、聖霊を「それ」と言ったことを。それは私の英語の訳が悪かったのです。
聖霊は「それ」ではなく、人格です。最初の教会は、聖霊と私達にとって良いと思われると言ったのです。
彼らはまた言いました。「 、、彼らは聖霊によって説教するのを止められた」
そして彼らは「聖霊によって導かれたのです」
パウロは言いました。「私はエルサレムに行きます、聖霊によってしばられている」
ある時は、彼らは聖霊によって導かれ、
他の時に、彼らは聖霊によって、説教することを禁じられて、他の時には
聖霊と私達にとって良いと見られ、聖霊と私たちは、これとこれについての証人です。
使徒行伝を読み通すと、これらは、ただある個所だけであって、
聖霊は、教会で起こっていることの大きな、大きな部分であったことがわかります。
ただのプログラムではなく、教会のリーダーはイエスキリストであり、この地上で聖霊を通して働いていました。
神の右に坐して、イエスは天におり、聖霊は地上にいます。
彼はただのパワーではありません。町で癒しをするただのパワーではありません。
いいえ、物事を導き、組織し、どこに行きなさいと言い、誰を指名し、
どこそこには行かないように、ここに止まるように、あそこに行くように、
彼らを選び、これとあれをしなさいと言ったのは聖霊でした。
ただ座って、何をしようかというような指導者ではありませんでした。
私たちはこうするべきだと思う。なぜならこれはいいアイデアだから。
神はどうなのでしょう? 私たちは今日聖霊を体験することができます。聖霊が私たちを導くのを
もう一点だけ言っておきたい。
6章では、彼らはある人達を選ぶことになっていました。食卓やその他の事を助ける人たちを。
そうすることによって、使徒たちが、み言葉と祈りに専念することができるように。
「評判の良い7人の人達を選びなさい、聖霊と知恵とに満たされた人たちを。
彼らをその任務につかせましょう。彼らはステパノを選びました。
信仰と聖霊に満たされた人でした。そしてその他の人達も選びました。彼らは彼らの上に手を置いて祈りました。
彼らが必要なことは、そこで聖霊に満たされた7人を選ぶことでした。
なぜなら、今日、神が用いたいのは、聖霊に満たされた人たちです。
なぜなら、私たちの力では、なすべきことをすることができないからです。
私たちは、聖霊に満たされて、なすべきことをすることができます。私はたくさんの本を書きました。
私は書くのが上手なので本を書くのではありません。学校を出た時、
私は読むことができませんでした。また書くことができませんでした。
私は生涯で一冊の本を書くことも考えてもみませんでした。
クリスチャンになる前は、一冊の本、小さな本を読みました。私は読むことができませんでした。
しかし神は私を選び、そうさせました(本を書く) なぜ? なぜなら私は神と時間をとり、聖霊に満たされたからです。
今日、私が何かするのは、神が私を導いているからそれをするということを認識しています。
自分の力ではできません。私たちの誰も自分の力で神に仕えることはできません。
彼らは聖霊に満たされた人たちを選ぶところでした。
彼らが聖霊のバプテスマを受けたからではありません。
彼らは聖霊に満たされた満たしの内に生きていた人たちでした。
使徒行伝に読むことができます。彼らは祈り、聖霊が来て、彼らを再び満たしました。
彼らは神と時間を共にし、聖霊に満たされました。
彼らは聖霊に満たされた人たちを選びました。
彼らはその人たちを選んで、手を置きました。
彼らは、聖霊を受けるために手を置いたのではありません。彼らは聖霊を既に持っていました。
彼らが手を置いたのは、神が彼らに既に与えたものを認知するためでした。
聖霊のバプテスマに関して、手を置くことを私は信じます
誰かが、あなたに手を置く時、聖霊のバプテスマを受けます。聖霊を受けることができます。
しかし、ミーティングからミーティングへ、ミーティングからミーティングへ、大会から大会へと、走り回って、
一度聖霊を受けた後に、神の人、神の男性、女性によって手を置いてもらう必要はないと信じます。
いいえ、私はそう信じません。なぜならみ言葉に書いてないからです。
聖霊をあなたが受けた時に、聖霊によって歩まなければならないと信じます。
聖霊に導かれなければなりません。荒野の中で。
聖霊に導かれることです。そうすれば神と時間を取ることができます。
そして聖霊によって歩みます。聖霊に満たされる時、神があなたを召して用いるでしょう。
神は聖霊で満たされた人たちを用いたいからです。
聖霊で満たされることは、ミーティングからミーティングに行っても得られません。
犠牲を払うことによって得られます。神を求める時間を持つことによって得られます。
これからいくつかの証をします。聖霊に導かれることに関しての私の証は、
それは瞬間的に、2秒で、来るのではありません。「ええ、私はそれが欲しい」
私が大会に行ったからといって、それは来ませんでした。
誰かが私のために祈ったから、特別な油注ぎをもらったのではありません。
いいえ、私はあなたや他の誰でも聖霊を持っている人たちと同じように聖霊を受けました。
それ(油注ぎ)は来ます。時間を取って神を求め、神から聞き、
小さなことで聖霊に導かれることをしていると、神が私たちの上に、
もっともっと注いでくれます。
OK 彼らは聖霊に導かれていました。聖霊が働いていました。私の人生では。
何年か前に、私はキャンプをしていました。他の事と同じように、私は祈りました。
祈りは、神よ! だけではありません。祈りはいのちであって、フェローシップ(交わり)、
神とのフェローシップです。多くの人にとって、祈りとは、これから私が言うことの様です。
私は妻と結婚しています。想像してみてください。
私は小さい部屋をもっていて、私は妻をその部屋に入れます。毎日20分間、部屋を開けてそこに入り、
ドアを閉めて、妻と一緒に座り、そして、20分間話します。全て起こったことを、20分間で。
そして、ありがとう! と言って部屋を出て、ドアを閉めます。
その翌日、再び妻のところに行って、ドアを閉めて、20分間話す、、、そして外に出ます。
ある日、彼女はドアを叩いて、私がそのドアを開けると、彼女は言います。
「私は言いたいことがあるのだけれど、」「いまではなくて、明日」そして私はドアを閉めます。
その翌日、座って、20分間話します。「ありがとう」と言って、外に出ます。
彼女は言います。「話したいことがあるのだけれど」「いまではなく、今ではなく」
結婚してそんな関係があるでしょうか。それは結婚ではありません。
いいえ、私は妻を部屋に入れることはできません。
自分の都合の良い時間、毎日彼女と共に、20分間だけ使うことはできません。
いいえ、私の妻は私にも話す必要があります。私だけが話す必要があるのではありません。
彼女も、私に話したいことが心の中にあるのです。
それを彼女が私に話す必要がある時、私には聞く用意ができていなければなりません。
同時に、私が妻に何か言う必要がある時があります。彼女はそれを聞く用意があります。神にとっても同じです。
多くの人が神を部屋に入れて、毎日、5分10分間取って、
そして話、話、話します。決して神に話す時間を与えません。
祈りは一方通行ではなく、双方向です。
私達だけが神に話すのではなく、神が私達に話します。
祈りは、部屋に入ってドアを閉めるだけではありません。それは一部です。祈りはいのちです。毎日の生活です。
私がどう祈るかお見せします。数年前キャンプをしていました。
私が祈った時は、こんな風でした。「ハロー、神よ、おー、昨日は良かった、本当に良かった。
そのミーティングについてどう思いますか? OK はい、今日は、Eメールをもらいました。
私は何と、何と書いていいのかわかりません。確信がありません、どう思いますか?
私はどうすべきだと思いますか? はい、もう一つ、ん~、これはどう? 自分はよく理解できていない
私は神に祈ります。助けてください、これを説明してください」
このようにして私は祈ります。神と話をします。神を私の人生の中に招待します。
Eメールについて語り、旅について語り、
困っていることについて語り、神のみ言葉について語り、理解できないことについて語ります。
神よ、もしこれが真理なら、これはどう? このようにして私は祈ります。
しばしば、神は私の祈りの中で働くのを経験します。丁度神が私の妻のレーンの内に働くように。
神は、聖霊は私の妻の内に祈るための何かを入れました。
神は、南アフリカへのドアを開けてくれました。ドアを開けてくれて、クリスマスの間、外に行くことができました。
それは妻の内の聖霊でした。数年前、私が祈っている時、歩きながら祈っていました。聖霊が私の心に語りかけました。
とても明らかに来ました。「トーベン、テレビにドアが開かれるように祈りなさい。
進化論とダーウィンに反対できるように。」
私は、「何?」と思いました。「テレビのドアが開かれるように」 それは、何もないところから来ました。
それはただ来たのです。聖霊が私の内に入れました。私は言いました「OK」 そして祈りました。
「神よ、テレビへのドアを開けてください、神よ、! テレビへのドアをあなたが開けてくださるように祈ります。
そうしたら進化論とダーウィンに対して反対することができるように」
神よ、ダーウィンの嘘が私たちの国で、崩れていくようにしてください」
をれが私の祈りでした。そう祈りました。次の日、外を歩いていて、同じように祈りました。
「神よ、感謝します。あなたがテレビへのドアを開けてくれることを。
神よ、あなたがテレビへのドアを開けてくれるように祈ります。
そうして私が進化論とダーウィンに反対することができますように。
歩いて、祈っている時に、ひとりの男性を見ました。
私達がキャンプをしていたところです。私が彼を見た時、「これが、、これがその人です」
有名なスタンダップ・コメディアンでした。テレビのプログラムやコマーシャルで見たことのある人でした。
このスタンダップ・コメディアンは、他のスタンダップ・コメディアン達と同じように、聖い言葉使いをしません
彼も聖い言葉使いをしませんでした。
クリスチャン達を馬鹿にしていました。いつも呪っていました。私はその人がそこにいるのを見ました。
私の心拍数は上がり、感じました。 これは神だ。私は彼のところに行き、
彼に話すために行きました。1メートルの距離に近づいた時、
彼は振り向いたので、私は彼の顔を見ました。彼はその人ではありませんでした。
彼の顔を見て、その人ではなかったとわかりました。「彼ではない、彼に似ている人だ
神はそこで私に語りました。「この人のために祈りなさい、彼の名はシモン・ユーです。」
「何ですって?」「シモン・ユーのために祈りなさい」
「テレビに出る人ですか?」「そう、シモン・ユーのために祈りなさい」
「しかし神よ、私は彼がどこに住んでいるか知りません。
彼がコペンハーゲンに住んでいるのか他の場所に住んでいるのか知りません。
神よ、私は彼を他の人と同じように、テレビで見ただけです」「シモン・ユーのために祈りなさい」
「OK」そして私は祈り続けました。
「神よ、あなたがテレビへのドアを開けてくれることを感謝します。
私が進化論とダーウィンに反対することできるように。神よ、シモン・ユーのために祈ります。
シモン・ユーのために祈るのは奇妙に思いました。その人を私は知らなかったからです。
彼をテレビで見ただけでした。そして私は歩いていました。
「神よ、誰かを彼に送ってください。神よ、彼に語ってください。
あなたのみ言葉を彼は聞く必要があります。福音を聞く必要があります。
彼は悔い改める必要があります。神よ、誰かを彼に送ってください。
テレビへのドアを開けてください」その日そのように私は祈りました。
祈りから家に帰ると、家から2メートルのところで、電話が来ました。
電話をとると、誰かが言いました。
ハロー、トーベン、デンマークテレビです。進化論とダーウィンについてのプログラムを作成しています。
そこに参加してくださるか、知りたいのですが。
あなたに質問する人はシモン・ユーです。丁度私が祈っていた人でした。
デンマークの人口は約600万人です。神はその日、二つの祈りの課題を私の心に与えました。
テレビに対してドアが開かれるように、そうして進化論とダーウィンに対して反対できるように、
テレビで見た人の名前はシモン・ユーです。これらの二つの事を祈りました。
すると電話が鳴りました。
2週間後、私はコペンハーゲンで、シモン・ユーと彼のテレビの撮影班の人達の隣に座っていました。
私はカフェで座っていました。私たちは座って話していました。
私は、シモン、あなたのゆえに私はここにいます、と言いました。
その日あなたのために祈っていました。丁度あなたの秘書が私に電話をくれて
神があなたに悔い改めて欲しいと願っています。彼は私を見て、誰もが私を見て、彼らにはショックでした。
私一人だけが食べていました。
私はその話をして、誰もが驚き、ショックを受けました。
コペンハーゲンの街中に出て行き、人々を止めて、神と進化論について話しました。
私達が人々と話している時に、
私は若い男性が杖をついてくるのを見ました。聖霊が言いました「彼、彼、彼、彼!」
私が彼を見た時、それは神からだとわかりました。聖霊が導いたからです。神であるとわかりました。
そして言いました。「シモン、私と一緒に来てください」
私たちは彼のところに行って、杖を持ったその男性のために祈りました。
彼は完全に癒されました。杖無しで歩くことができました。そこで私は、杖を持ってこのように立ちました。
シモンは背が高くなかったので、、彼はこんな風に立って言いました。
「トム、これは何?」私は見て、「どういう意味ですか?」 シモンは言いました。「これ、トム、これは何?」
私は言いました。「聖書を読んだことがないのですか? これは聖書に書いてあることです。」
後で私たちはデンマークの大きな博物館に行きました。大きな博物館で、ダーウィンに関してたくさんの物があり、
また、失われているリンクについても、まだ見つかっていないリンクについてもたくさんの物があります。
その博物館で、私は椅子に座り、私に二つのスポットライトがあてられていました。
シモン・ユーは、私の正面の椅子に座っていました。
私たちは少し高いところに座っていました。スーツケースの上に座っていました。
私の後ろに失われたリンクがありました。彼らは私をフィルムに収める時にそれも見せたかったのです。
シモンは私の正面に座りました。私はそこに1時間半座っていました。
彼は神について、質問してきました。何でも、進化論に関して。
あなたはノアの箱舟を信じますか? あなたは神が天と地を6日間で創造したと信じますか?
これをほんとに信じますか? DNAについてはどうですか? これについてはどうですか。
神があなたの妻を殺しなさいと言ったら、あなたはそうしますか?
神と進化論について、一時間半の間、彼はたくさんの質問をしました。
ここに写真があります。 私が座っているのを見ることができます。
そこに私の上に二つのスポットライトが当たっているのが見えます。私はスーツケースの上の椅子に座っています。
シモン・ユーが紙を持ってそこに居ます。彼は1時間半の間、そこに座って質問をしています。
私が座って話しているところの後ろに失われたリンクの一つを見ることができます。
そこに座って私が信じるところの答えを出しています。
それを説明する最上の方法は、天国にいるようなものでした。
というのは1時間半の間、私はすべてを理解していたからです。
それは特別なものでした。その1時間半の間に、全ての質問に私は答えました。
私は思いました。「どこ、どこからそれ(答え)は来たのか?」しかし私はそれがどこから来たかを知っていました。
聖霊です。イエスはマルコの13章で何と言いましたか?
彼は言いました、彼らがあなたを裁判に連れて行く時、
または、他の事でもあり得ます。「あなたが何を言うのか前もって心配しないように、
その時にあなたに与えられることを言いなさい、あなたが話すのではなく、聖霊が話すからです。マルコ13:11
これが、その日、私が経験したことでした。
誰かが後で私に言いました。
また前もって。「トーベン、なぜそのプログラムに出るのですか?」
スタンダップ・コメディのプログラムだと知っているでしょう。
彼らはスタンダップ・コメディアン達です。彼らはあなたを笑いものにしたいのです」
私は彼らに言いました。「私がそこに行くのではありません、
彼らが私を招待してくれたのです。私はそこに行くのです、なぜなら神が私をそこに送ったからです。
他の誰もが私の周りで、どんなことを言ったとしても、
私はそこに行かなければならないことを知っていました。なぜなら神がそこに私を送ったからです。
そのプログラムを見に行った時、面白いことになりました。
彼らはひとつの事を忘れていました。ダーウィンの事を忘れてしまったのです。
ほんの少しダーウィンが出てきます。しかし私の証は、プログラムのほとんどを満たしていました。
神が私をどうやって導いたかを語りました。杖をもった若い男性が癒されるのを見ました。
数万人の人達がそれを見ました。後で私たちはプログラムから私を知った人達に会いました。
彼らは祈りや他の事を求めて私のところに来ました。
これが聖霊が私たちをいかにして導くかという話の一つです。
イエスは昨日も今日も永遠に同じです。聖霊は昨日も今日も永遠に同じです。
彼は私達に語ることができます。また私たちを今日も、使徒行伝に読むのと同じように導くことができます。
聖霊に導かれるほど素晴らしいことはありません。
私はミニストリーの話だけをしているのではなく、毎日の生活の話をしているのです。
数年前に、私の娘が10歳だった時の事を憶えています。彼女は自転車に乗って学校に行くところでした。
1.5キロ行くところでした。私は、行ってらっしゃい、ステファニー、と言い、
彼女は、その朝、行ってきますと言って、自転車に乗って出て行きました。
彼女はこちらの方に行き、私は反対の方に祈りに行きました。
私が歩いていると、聖霊が私に語りました。「止まりなさい、あなたの娘があなたを必要としている」
私は思いました。「何だって? あなたの娘があなたを必要としている」
「いえ、いえ、彼女は、、私は彼女に行ってらっしゃいと言ったばかりだ」
「あなたの娘があなたを必要としている」私は言いました。「おー、私の娘が私を必要としている」
私はあちらに向かっていましたが、聖霊が言いました「止まりなさい、
あなたの娘があなたを必要としている」私は向きを変えて、走り始めました。
学校までは、1.5キロでした。
しかし、約1キロのところで、私は娘を見ました。小さな橋がありました。
彼女はその橋の上で立っていました。私はそこに行くと、彼女は自転車の脇に立って泣いていました。
「ハロー、ステファニー」彼女は私を見ました。彼女が最初に言ったのは、「お父さん、ここで何をしてるの?」
私は言いました「神が、お前が私を必要としているというので、今ここにいるんだよ」
それは彼女にとってほんとに強烈なものでした。
なぜなら、彼女は私が反対方向に向かうのを見たのに、突然、彼女の脇にいるからです。
私は言いました。「神が、聖霊が私に、お前が私を必要としている、だから私はここにいる」
自転車に問題があって、彼女が戻るのを助けることができました。
もう一つの証です。ある時、
私が郵便受けを開けようとしている時に、カギを入れる前に、聖霊が言いました。
あなたの好きではないものがそこにある、でも問題ではない、私がすべてをコントロールしている」
郵便受けを開けた時、そこに私の気に入らないものがありました。ある時、
請求書がありました。私達が持っていた家から、デンマークで国からあるお金をもらったからです。
請求書があり、たくさんのお金を支払わなければなりませんでしたが、お金がありませんでした。
私は思いました。「おー、いいえ、、、ハイ、神がコントロールしている」聖霊が前もって注意してくれました。
私は彼らに連絡をして、もう一度確認してもらえますか?」彼らは「確認してから、また連絡します」
これは6年前のことです。それ以来、彼らから連絡はなく、
お金を払いませんでした。
聖霊は私たちの日常生活の中で私たちを導きます。
これが、私達が召されている人生です。
私たちの一人一人が。もう一つの話があります。どのようなものかを示すためにもう一つ証をシェアさせてください。
数年前、私が伝道に出ている時ですが、3,4人の若い人達に立って話をしていました。
そこに若い男性が来て、私が福音をシェアしている時にそばに来て立ちました。
彼が来た時に、聖霊が私に語りました。「あなたは彼の父になる」
私は「何?」と思いました。私にはまったくの驚きでした。私は彼を見ましたが、彼は去って行きました。
私は話を続けました、すると彼はまた戻ってきました。話し終わった時に、私は言いました。
「誰か病気の人はいますか?」その若い男性が、ハイ、と言いました。
彼はズボンのすそをまくりあげると、その膝にたくさんの包帯が巻いてありました。
「昨日、スクーターから落ちたんだ。
痛みがとてもひどい。足を曲げることができませんでした。歩くことができませんでした」
私は言いました「ここを見てください」 この人のために私は祈り、彼は包帯を取り外しました。そして驚きました。
彼はギブスを外しました。彼は立って、涙が流れ出しました。彼は言いました。
「もう痛みはない」 私は言いました「私と一緒に来なさい」私は彼を連れて、彼を知りませんでしたが、
最初に私が言ったのは、「あなたの両親について話してください」でした。彼はとても驚きました。
「OK、私の父は亡くなっています。母は重病です。もうすぐ死にます」
私は言いました。「私はあなたを前に見たことがないけれど、あなたが来た時、
神が私に語りました。「私があなたの父になる」と、
私はあなたを助けます。
彼はとても驚きました。私も驚きました。私は彼の電話番号をもらい、お互いにやり取りをしていました。
彼は私に会ったばかりで、その体験はとても強烈で、私に会うのを少し恐れていました。
2週間後、ある人達が私のところに来ました。彼らはジャーナリストになろうとする人たちでした。
彼らは学んでいるところで、私に会いに来て、インタビューをしたかったのです。
私たちは、バーガーキングで座っていました。話をして、私にインタビューをしました。
彼らの内の一人が、言いました。
「ハイ、私はカメラを持っているので、あなたと一緒に行って、あなたが通りで何をするのか見たい。今できますか?」
「今?」私はしたくありませんでした。
正直なところ、そうしたくなかったのです。
家に帰ってリラックスしたかった、疲れていたからです。
しかし、彼がそう言ったので、私は「OK 行きましょうか? OK 行きましょう。
町に行きましょう。」私は車に乗って、町に行きました。車に座っている間、祈りました。
聖霊が私に語っているように感じました。感じて、、
私の手を見ました。 私は言いました「神よ、今祈ります。手、、はい、包帯をした手、、
神よ、誰かを送ってください。
今通りに誰かを送ってください。その手が包帯で巻かれている人、
癒される人。神よ、感謝します。この人たちのために証となるので。
イエスの名前によって。」そう私は祈りました。通りに来て、私はそこを歩きました。
そこでは私達に話したいという人はいませんでした。すると私は
若い男性、2週間前にあった男性を見ました。神が私に彼の父になると言った男性です。
私は彼を見て、言いました。「ハイ、調子はどう?」「ハイ。元気です」私は彼の手に包帯をしているのを見ました。
そして言いました。「どうしたの?」「よくわからないけど、昨日、
痛みがひどくて、痛みます」「ハイ、数人のジャーナリストになるために勉強している人たちがいる、
彼らは信じないけれど、あなたのために祈ることができますか?」
「ええ、そうできますよ」
彼らが撮影して、あなたは、2週間前に起こったことを話すことができますか?
ええ。通りの真ん中で彼らは彼の撮影をしました。彼はどうやって2週間前に、私に会ったのかを話しました。
ひざがどうやって癒されたのかを話しました。
そして彼のために祈りました。今度は、包帯。もう一回今度はひざではなく手で、
彼の目に涙が溢れました。
彼は言いました。「痛みがなくなった」 それは彼らにとって目を開くできごとでした。
それは彼にとってとても強烈でした。彼は私に会う気になり、私たちは話をして、後で会いましょうと言いました。
そして私は翌日誰か、クリスチャンに会いました。私は、神が何をして、
神がどのようにしてこの少年に導いたかという話をしました。
彼は私のところに来て言いました。「トム、なんだか聖霊が私に語って、
あなたに200ドルあげるように語っていると感じます。
あなたとあなたの息子のために。」 彼は200ドル私にくれました。私は、「ありがとう、ありがとう」
私はこの少年を呼んで言いました。「私はあなたを外で食事に招待したい」彼は「OK、行きましょう」と言いました。
彼と会って、外で食事をしました。彼は言いました。「トム、私はあなたに言いたいことがある。
特別なこと、通りで私に会って、私のために祈ってくれた日を憶えていますか?
私の手のために祈ってくれた。私は町には出ないのです。
学校が終わってから町に行ったのは初めてでした。
帰宅中でしたが、自分の内の何かが私に言うのを感じました。私は町に行かなければならない、と
そこで私はあなたに出会った。
わかりますか。私は車の中で、神に誰かを、手に包帯をしている人を送ってください、と祈りました。
神はこの人を知っていたので、私に祈るように導いた。この少年は手に包帯をしていた。
神は彼に語り、言いました。「通りに行きなさい」 私たちは出会い、彼は癒されました。
私は彼と連絡をして、その二日後に電話してきました。
「トム、スクーターが壊れた。新しい仕事を得たのだけれど、仕事に行けない、スクーターがないので」
でも私にはお金があったので、支払いました。その金額は私が持っていたお金と全く同じ額でした。
彼のスクーターのために支払いをし、彼は仕事に行きました。すべての事に神が働いています。
これが聖霊に導かれるということに関して私が好きなことです。
私は多くの人達に会います。彼らは、神に関することになると極めて懐疑的です。私達が癒しの話をすると、
彼らは懐疑的です。「いいえ、いいえ、いいえ、、、それは何か心の中のことだ、、」
彼らは癒しを信じません。彼らは、それは何か心の中の事だと考えます。
しかし、私が話し始め、聖霊に導かれることについて証しをすると、
誰もが口を閉ざし、驚きます。なぜなら、それは、私の思いの中で想像することができるようなものではないからです。
神は私に話すことができます。しかしことが起こる前に、
神は、この人、この人、この人に語らなければなりませんでした。
そうしてすべてがこのようにいかなければなりません。
これが私の好きなところです。私は懐疑論者、未信者が彼らの口を閉ざすのを見ています。私が
聖霊と共に暮らす毎日の話をし始めると。
この人生は私だけのものではありません。
あなたのためです。イエスは私たちは聖霊によって生まれなければならないと言ったのです。
水によって生まれるだけではなく。
水と霊です。
彼は、悔い改めと、水のバプテスマと聖霊のバプテスマについて語っているのです。
ヨハネの3章には、彼はそれを語っています。彼はこう言います。
私がこういっても驚いてはいけません。「あなたは新しく生まれなければならない」 そして彼は続けて言います。
風は好きなところに吹きます。あなたはその音を聞くが、どこから来てどこへ行くかをあなたは知りません。
聖霊によって生まれる誰もがそのようです。
彼は風について語っています。それを説明させてください。「霊によって生まれた者誰もがそのようです。」
イエスは言いました。私たちは霊によって再び生まれなければならないと。
霊によって生まれるとは風の様です。風がどこから来るかあなたは知りません。
風がどこへ行くのかあなたは知りません。霊によって生まれた者誰もがそのようです。
または、聖霊によって導かれて、歩いている者 ということができます。
ロマ書8章は言います。私たちは肉によって歩んでいません。肉によって導かれないで、霊によって導かれる。
私達が罪から離れていること以上のもので、私が丁度話したような人生をおくるためのものです。
聖霊によって導かれる、風、、風はこちらに吹き、または、こちらに吹き、またこちらに向かう、
風はここ、あそこから来て、
そこからほんとに早くやって来ます。
そこではゆっくり吹きます。
聖霊に導かれるのも同じです。
神は言いました。「シモン・ユーのために祈りなさい」コペンハーゲンに行きなさい。
神は言いました、「あなたの娘があなたを必要としている。戻りなさい。」
神は言いました、「手がこうなっている、この人のために祈りなさい」
神は私の妻に12月の何かのために、外に出るように、祈るように、と言いました。
神は南アフリカの誰かに語りました。そして今私たちはそこに行くところです。
「わかりますか?」 それは風の様です。毎日私たちはどこに行くのか知りません。
聖霊が私たちを導いていることを知っています。ある日彼はこの道と言い、また、この道と言い、
そして彼は言います、この道と。
私が今日あなたに語っているこれらの証は、なにか
「おー、これはパワフルだ、トム、あなたはパワフルだ。あなたは
沢山の事を経験している。」いいえ、これは普通です。これは、霊によって生まれた者誰にでもあることなのです。
使徒行伝に戻ってください。パウロについて読んでください。ペテロについて、アナニヤについて、
このバイブルスクールで私が話している人々について。
聖霊に導かれるのは少数の人々のためではなく、全ての人のためです。
今日も同じです。
アドバイスを上げたいと思います。
終りに当たって、実践的なアドバイスをさし上げたいと思います。
このような人生に入ることを助けることのできる何かを。
聖霊に関して私たちは間違った理解をしています。
あなたにも言いたい。私は聖霊によって生まれました。
18年前生まれ変わりました。しかし、最初の何年かは、今経験しているようなことを経験しませんでした。
神が語っていなかったわけではありません。神は
私が救われた時から語っていました。
霊によって生まれたものはすべての人が神の子供です。私たちは耳があります。しかし、耳を使わなければなりません。
神が何と言っているのかを聞くために。新しく生まれた最初の日から、聖霊が
私に語っていました。聖霊が私を導いていました。しかし、私は聞いていなかったのです。
私はどのようにして聞くのかを知りませんでした。
私は聞いていなかったので、
沢山の事を私はしませんでした。沢山のことを見逃してきました。
振り返ってみると、それはとても悲しいことです。
おー、見逃してきたすべての事、
なぜなら私は聞かなかったからです。自分の力で歩んでいました。自分が思ったことをやっていました。
聖霊が語っていることを聞く代わりに。私達が見逃していることがあまりにたくさんあります。
私達がどのようにして神が働いているのかを知らないからです。
使徒行伝に書いてあるような人生を私たちは生きていません。
弟子を作りません。お互いに訓練をしたり、建て上げたりしません。
私はたくさんの事を見逃してきました。しかし、数年前に、聖霊に導かれるということを味わいました。
私は妻を見て、彼女は私を見て、これが私たちが欲しいことだと言いました。
私たちは上下逆さになるように自分たちの生き方を変えました。
私たちは多くの事を変えました。そして神を求め、神に聞く時間を持つようになりました。
私の本、最後の改革、の中に、私の話の一部を読むことができます。
私達が如何にして家を持って、またそれを全て手放して、単純な生活をしたか、
なぜなら私たちは神を求める時間が必要だったからです。
他の誰もと同じように、私はいつも声を聞いているわけではありません。
いいえ、聞くのは難しいのです。私は他の人に比べてよく聞こえるのではありません。
しかし私は、訓練をしました。これが違いです。
祈りについて一言言っておきたい。神が大きな声で私に語るのを聞いたことがありません。
神が私に語る時は、私の心に語ります。あなたに話している全ての話、
神が語っていたこと、シモン・ユーのために祈りなさい、ドアが開かれるように祈りなさい、このために祈りなさい、
あのためにいのりなさい。こちらに行きなさい、全ての事は私の心に来たのです。
何ですって? ヤー、私たちはここでしばしば誤解します。使徒行伝を読む時、
旧約聖書や他の箇所を読む時、聖霊が導いた時、私たちは考えます、ヤー、、
その当時はそういう生き方をするのは簡単だった、と考えます。
そうするのは簡単だ、なぜなら彼らは疑わなかったから。彼らはそれが神であると知っていた。
しかし私はあなたが聞いていることが神からであることを100% 間違いないと思うとは信じません。
なぜなら、そうであれば、それは信仰によるものではないからです。
神は全てが信仰であることを願っています。
神が私に語った、聖霊がそれを話したという話をした時は、いつも信仰によるものでした。
私に思いが来ます、それが神からかどうかを選択しなければなりません。そして行動に移さなければなりません。
そうやって私は始めました。
数年前に、歩いていた時、神と話すために時間を持ち始めました。
私は神を求める必要がありました。中に入って、神の声を聞くことを学ぶ必要がありました。
私は歩いていて、そこに森を見ました。森を出ると、野原があり、野原の終わる所に、
数人の人達が働いていました。私にある思いが来ました。「彼らのところに行って話をしなさい」
「いいえ、いいえ、いいえ」「行って、彼らと話をしなさいって?」「いいえ、これは自分だ」
他の時に聞いた時もそうでした。
最初に私が言うことは、「それは私だ、しかし、、、たぶん、神かも?、いいえ、自分だ、神か?」
そこで私は何ができたでしょうか?
私がやってみることができたのはたった一つでした。
私は言うことができませんでした。「神よ、もしそれがあなたなら、どうぞ、、、」いいえ、そのようには働きません。
神が話した時、それが神か、そうでないか、私は自分で確かめなければなりませんでした。
試さなければならないと決めて、そこに行って、とても緊張して、言いました。
「すみません、すみません、10分間、あなたと話ができますか?」
そこに数人の人達がいました。座って、食べていました。森で働いていた人たちです。
私はそこで証をしました。そしてありがとうと言って、立ち去りました。私はとても恐れていました。
私をそこを去る時、言いました「おー、それは自分だった」
何も超自然的なことが起こらなかったからです。私は、それは自分だったと思いました。
しかし何が起こったかと言うと、一週間後、ひとりの少女が来て、言いました。
「ハイ、ありがとう、って言いたいのですが、ありがとう!」
「何に、ありがとうなんですか?」
「私の兄は、道を外れたクリスチャンでした
彼は森で働いていて、ある日、あなたが来て、彼に話しました。
今、彼は神に戻ってきました」
私は思いました。「ワー、、素晴らしい」私は自分の考えだと思っていたのに、彼女の言うことを聞いて、それが
神からだったということが突然わかりました。後になって、私は同じような経験をしました。
あの経験があったので、私は波長を合わせて、
その思いが自分からか、神からかを認識することができるようになりました。
例えば、もし妻がいつもと違う電話から私に電話をしてきたとします、私は電話を取って、
彼女は言います、「ハロー」私は、「ハイ、レーン、なぜあなたはこの番号から電話してるの? 誰の電話番号?」
私はその番号が誰のものかわかりません。
なぜなら私は妻と多くの時間を取って、彼女の声を知っているからです。
もし他の人が電話してきて、「ハロー、私です」と言っても、
私は、「あなたは誰ですか?」と言います。なぜなら私は彼らの声を聞いても、誰だかわからないからです。
神の声を聞き分けることができるようになりたいなら、同じように
私たちは静かにして、聞かなければなりません。
やってみてください。
あなたに思いがきたら、あなたは試してみなければなりません。
「神よ、これはあなたですか? それとも、私ですか?」
神は、私にとっては、このように大きな声では語りません。神はこのように大声では語りません。
神は私の頭に語ります。とても小さい思いを。
私がそれを認識するのは、「ハイ、それはどこから来たのだろう?」
それは座って、フォーカスして、考えて、、これは間違いです。
私たちの知性を使ってそれを得る必要がありません。
いいえ、私たちは神を礼拝しなければなりません。神にフォーカスしなければなりません。
すると突然、思いがやって来ます。
「ハイ、神よ、これはあなたですね」 私たちは実践しなければなりません。これは弟子訓練です。何度も何度も。
それは弟子訓練です。あなたがいるところから始めます。そして実践します。
あなたは、神を聞くこと、他の事をするのに、よりよく、よりよく、よりよくなっていきます。
しかし同時に、いつも信仰が必要です。あなたはいつも信じなければなりません、そして信仰の一歩を取ります。
へブル書の5章に新しい信徒について語っているところがあります。
長い間クリスチャンだった人、成熟した信徒は言います。「経験を通して、善悪の区別がつくようになる」
経験を通して感覚が訓練されます。繰り返し使います。
私たちは感覚を訓練する必要があります。そうして何が神からか、何が神からではないのかを見分けることができます。
とても単純です。イエスがマタイの6章で述べている祈りについてのようです。
彼は言いました。「あなたがたが祈る時、あなたの部屋に入って、ドアを閉め、
隠れたところにいる、あなたの父に祈りなさい。
するとあなたがたの父は隠れたところにいてあなたがたに報いてくれるでしょう。」
隠れたところにいる父に祈りなさい。
神はこの様ではありません。
神を取って、椅子の上に座らせて、彼と共に座って、言います。「神よ、これについてはどうですか? OK
ではこれについては? これについては?
私たちは一人の人がもう一人の人に話すように神に話すのではありません。
そのようではありません。聖霊によってです。私達は、
神が私達にくれたものを使用する、活用することによって学びます。
私には、小さい思いが与えられました。これは神だろうか、それとも神ではないのだろうか。
それから私は、試してみて、神から来たのではないことを知ります。他の時には、
神からでした。それは神からでした。そうやって私は学びました。その後時間が経つと、
より簡単になります。何が神であり、何が神でないのか認識するのが簡単になります。
神は私たちの心に話します。同時に、サタンも私たちの心に語ることができます。
それゆえに私たちは全てを神のみ言葉によって試す必要があるのです。
神が言うとします。「行って彼のために祈りなさい。行って何か良いことをしなさい」 問題なくあなたはできます。
やってみてください。もちろん、何か悪いことを聞くならば、やってはいけません。
神のみ言葉に行って、神のみ言葉によって、いつも物事を確かめてください。
またあなたの内にいる聖霊によって。平安によって。
OK それは良いことですか、良いことではないですか。すべて良いものは神から来ます。
何か私たちは、、しなければいけない、というようなものではありません。
私は、こんな風に言わなければならないとは思いません。
「OK 話してください、神よ語ってください、神よ語ってください、これらをしてください」
そうすると、あなたの思いがぐるぐる回ってしまいます。
いいえ、ただ時間を取って、神との時間を過ごしてください。神に語ってください。彼と一緒にいてください。
彼にフォーカスしてください、イエスに感謝してください。良いことは、もしあなたが本当に聖霊に導かれたいならば、
神が語ることを知りたいならば、あなたのテレビを投げ捨てます。
私には助けになりました。ほんとうに、正直なところ。もしあなたが毎日1-2時間テレビを見ているならば、
テレビを捨ててください。毎日ラジオを一日中聞いているならば、ラジオを捨ててください。
一日中音楽を聴いているならば、それを捨ててください。なぜ?
あなたがテレビ、音楽、ラジオを聞いているならば、それを止めても、その後
最後に聞いたものがあなたの思いの中で回転しているからです。
最後の歌が聞こえます。彼らがしゃべっていたことが聞こえます。
沢山の声とたくさんの活動があなたの思いの中で聞こえます。
たくさんの事があなたの思いの中にあるので、「それは何ですか、神よ」
「残りは何ですか」というのは簡単ではありません
私たちはこれらの多くの事を取り除かなければなりません。そして私たちが好まないことを学ぶ必要があります。
西洋では静かにしていません。ただ聞くことを学んでください。
時間を取って、神と共に静まってください。彼と語ってください。いつも多くの事をやってはいけません。
時間を取ってください。時間を取ってください。それは全て時間を取ることに尽きます。
イエスは聖霊に導かれて、荒野に40日間いました。そしてそこから出た時、聖霊の力に満たされていました。
40日間、エー、しかし、私はその時間がありません。
私達誰もが一日24時間持っています。私たちの時間の選び方です。
数年前、私たちは家を持っていました。車を持っていました。
私はたくさん働いていました。色々なことをやっていました。
しかし、聖霊に導かれるのがどういうものかを味わいました。一つの経験をし、
これが私が欲しているものだと言いました。私はこの人生が欲しい。
その人生が欲しかったので、とても欲しかったので、
自分の周りの物理的なことの多くを変えました。そうして時間の余裕ができました。
ある時、私たちは大きな家に住んでいました。沢山のお金を得なければなりませんでした。
後になって、小さい地下室に住んでいました。三人の子供たちと一緒に。
しかし私たちは全てを変えたので、時間の余裕ができました。
静まる時、神を求める時、私が経験した全てのことは、無料で得たものではありません。
それはこんな風にやって来ません。
他の誰とでも同じような生き方をして、たくさんの強烈な(神の)体験をする、ことはありません。
いいえ、あなたは支払った分を受け取ります。私たちは欲しいものを選びます。私は40日間断食しました。何度も。
私は神と共に時間を取りました。たくさん歩きました。ただ祈るために。
他の誰もと同じように、私にとっても、神が語るのを聞くのは簡単なことではありません。
しかし、何が善く、何が悪いのかについて練習する時間をとったので、
それは今とても分かりやすくなりました。まだ学ぶ必要があります。
毎日学んでいます。ここで私がティーチングしていることは、
聖霊によってバプテスマを受けて、私たちは聖霊に満たされなければならないということです。
その満たしの中で生きる必要があります。神と時間を取って、聖霊に導かれる必要があります。
時間を取って、聖霊に導かれる必要があります。聞くことです。そして動かなければなりません。
リスクを取る必要があります。用いることによって、練習することによって学ぶ必要があります。
そうすると、聖霊の力の中で生きるのです。
聖霊は初代教会の中の一部でした。聖霊は今日も教会の一部です。なぜなら彼は同じだからです。
これは全ての人のためです。。あなたのためです。
私のためであり、全ての人のためです。
このティーチングによって、何かを学んだことを望みます
あなたに励ましを送ります。時間を取ってください。神と共にいる時を持ってください。あなたを妨害しているもの、
あなたの頭の中のすべての音を取って、捨ててください。
断食をしてください。あなたと神と一緒に、み言葉を読んで、祈ってください。み言葉と祈り。あなたと彼(神)
そうするとあなたは神があなたにはっきりと語ってくるでしょう。
あなたは信仰のステップを踏んで、神が語る時にそれを認識するでしょう。
次は、次は、次は、フェローシップに生きることを始めることができます。
神が私たちの心に何かを入れます。私たちは祈り、そしてそれが起こります。そこに神が何かを置きます。
私たちは祈り、それは起こります。それは全て神の意志によるものです。
私たちは、南アフリカに行きます。神がこれらの事を祈るようにと妻の心に入れたからです。
それは、オー、私たちは祈る、なぜなら私の肉がそれを欲しているから、とか、休暇に行きたいから、
私は新しい車が欲しいとか、あれが欲しいとか、いうのではありません。いいえ、私はそう信じません。
私達が神の意志に従って祈るならば、私たちは既に祈ったものを受け取ると知っているのです。
しかし私たちは神の意志が何であるかを知らなければなりません。それは神と共に生きることによって得られます。
次は、私達が南アフリカに行った後です。断食について語ります。
これは重要なメッセージです。断食について語ります。断食のための実践的な道具を差し上げます。
このティーチングについて質問があれば、送ってください。
次の時には、その質問から始めます。断食の後に、
ルカ10章と聖書の他の箇所へと続けます。神の祝福があるように! レーンが彼女の歌の一つを謳います。
あなたは前にも聞いたことがあります。しかし、言葉があなたに話しかけるようにしてください。
このメッセージの中から。なぜなら、
それはあなたの人生であり、多くの事です。ラディカルですが、しかし昨年どのくらい神があなたに語ったでしょうか。
しかしあなたは聞くことができませんでした。
あなたが聞いていないので、神があなたのために用意したものを受け取らなかったのです。
あなたは証を失いました。
経験を得ませんでした。私たち一人一人のためにとてもたくさん神は与えようとしているのに。
私がクリスチャンになってから最初の数年間は、この人生を見ませんでした。
それから少しだけ味わうと、私はそれが欲しいと言いました。今は、それをもっともっと見るようになりました。
神がもっともっと話しているわけではなく、私が聞くのが上手になっているからです。
神が与えることに基づいて行動をするのが、上手になっているのです。
あなたが信仰にあって行動するなら、神はこうは言いません。「あなたは何をしたのか?話したのは私ではない!」
いいえ、彼は言うでしょう。この男性を見なさい、この少女を見なさい、この婦人を見なさい、と言うでしょう。
そして彼はあなたを助けるでしょう。あなたは神の声を認識することができます。
恐れないでください。何かし始めてください。
神に毎朝、「神よ、今日私を助けてください、何か私にください、
私に話してください、私はオープンでいたいのです」と言ってください。
そして信仰のステップを踏んでください。
同時に、神を求めてください。OK 妻が歌います。次を楽しみにしています。断食について語ります。さようなら、
あなたはまだ私が話したことを憶えていますか? Do you remember the word I spoke to you ?
あなたに与えた夢を憶えていますか? Do you remember the dream I gave to you?
時は過ぎて行きカレンダーは一杯になります。Time passes and the calender is filled up.
しかし一つの事が必要です。私と一緒の時を過ごしなさい。But one is necessary. Spend time with me.
私の民を起こしなさい。すぐに私は帰ってきます。Wake up my people. Soon I am coming back.
ひとつが必要です。私と時間を過ごしなさい。
私はあなたを導いています。
あなたが私の弟子になりたいなら、あなた自身を否定して
あなたの意思を置いて、
私についてきなさい、どんな犠牲を払ってでも。そうすればあなたは永遠の命を得ます。
私の民よ、起きなさい。私はすぐに帰ってきます。
ひとつが必要です。
私と時間を取りなさい。私があなたを導いています。
王国の救いの福音がすべての世界に延べ伝えられます。
毎日の雑用に飲み込まれないでください。神があなたに委ねたものに忠実でいてください。
起きなさい私の民よ。私は帰ってきます。
ひとつが必要です。私と時間を取りなさい。
私があなたを導いています。
起きなさい、私の民よ。すぐに私は帰ってきます。
ひとつが必要です。私と時間を取りなさい。
私はあなたを導いています。
私はあなたを呼んでいます。今日、呼んでいます。
あなたを呼んでいます。
私についてきますか。たとえどんな代償を払っても。
あなたの弓を置いて私のために。私はあなたを呼んでいます。
出て行って、私の言葉を説きますか。病人に手を置きますか?
私の自由を人々に持っていきますか。私はあなたを呼んでいます。
私はあなたを呼んでいます。
あなたは私についてきますか。代償がどんなに大きくても。
あなたは全てを私に捧げますか。私はあなたを呼んでいます。
私の顔を求めなさい。私はあなたに語ります。ステップを取ってあなたを導いています。私の顔を求めなさい
あなたを一人にしておくことはありません。あなたは私を信頼できます。何があっても、わが子よ。
あなたを導きましょう、あなたを導きましょう、ステップを取って。わが子よ。
その時に一ステップ。私を信頼しなさい。
あなたを一人にはしません。あなたにすべてを与えます。あなたの必要なものすべてを。
わが子よ、私を信頼しなさい。あなたは一人ではない。
私はあなたを呼んでいる。
すぐ私は帰って来ます。私はあなたを呼んでいます。