先日 友人が空港へ行くのに タクシーに乗車した際 道中 運転手と喋っていたら 大真面目な顔で こう言われたそうです 「君が本当にいい人なのが伝わってくるよ」 彼女は この話をしてくれた時に その言葉で信じられないほど いい気分になったし 本当に嬉しかったと言いました さて 赤の他人からの言葉に対する 反応にしては ずいぶん大袈裟に思えるかもしれませんが 彼女だけの話ではありません 私は社会科学者で 「いい人」の心理を研究しています この分野の研究によると 私たちの多くにとって 自分がいい人であると感じることや そう見られることは とても重要なんです じゃあ この人にとっての「いい人」の定義と あの人にとっての「いい人」の定義 あのタクシー運転手にとっての 「いい人」の定義が同じかというと 皆の定義が同じだとは限りません しかし定義が何にせよ その範囲内で 道徳的アイデンティティーを 多くの人が重要視します さて そのアイデンティティーを否定される— 例えば冗談に抗議されたり 従業員に多様性が足りないと言われたり 不正な経費を疑われたりした時 人は通常 危険領域級の守りに入ります 時には あの手この手を使って 社会的に取り残された集団に協力したり 慈善団体に寄付したり 非営利団体に対して何時間も ボランティア活動をしたりします 「いい人」というアイデンティティーを 守るために人は努力するものです 重要なことだからです でも こういう考え方はどうでしょう? 「いい人」でいることへの執着が 「もっといい人」になる妨げになる 私たちが持つ「いい人」の定義が限定的すぎて 科学的に満たすのが不可能である そして 「もっといい人」になるための道は 単純に「いい人」でいるのを やめることから始まると言ったら? では 説明のために 人の心理がどう働くかに関する研究について 少しお話ししましょう 脳は多くの機能を果たすために 「近道」に依存しています たいていの場合 人の精神機能は自分の認知の外で 起きているということです 意識の裏側にある低バッテリーや 低電力モードのような感じです これが実は限定合理性の前提なんです 限定合理性はノーベル賞を受賞した考え方で 人間の心が持つ記憶装置と 処理能力は限られており 結果的に脳が多機能を果たすために 「近道」を使うという概念です だから例えば 一部の科学者が推定するのは どの瞬間でも― もっと速く― (指パッチン)ほら (笑) どの瞬間も常に 人の頭の中には1100万の情報が 入ってきているということです 1100万です しかも そのうち40しか 意識的に処理されません 1100万のうち40です こんな体験をしたことありませんか? 職場で散々多忙な一日を過ごして 家まで運転して 帰宅すると 車を運転してきたことすら 覚えてないってことありませんか? 青信号だったか 赤信号だったかとか 全然覚えてなくて 体が勝手に動いていたこと あるいは 冷蔵庫を開けて バターを探していて どこにもないと思ったのに 実はずっと目の前にあったことに 気付くようなことありませんか? これらは笑える「ドジな」瞬間であり 脳内で起こっている― 1100万の情報を操りながら 40の情報だけを 意識的に処理している瞬間なんです これが限定合理性の「限定」部分です 限定合理性における この研究からヒントを得て 私は共同研究者である― マックス・ベイザーマンと マーザリン・バナジとともに 限定倫理性というものの研究を行いました それは限定合理性と同様に 人の心は何らかの方法で限定されており 近道に依存していて この近道が 時々人を惑わせるのです 限定合理性では おそらくスーパーで手に取るシリアルや 会議室で立ち上げる製品が影響を受けます 限定倫理性では人の心理が 同じ人の心理が 判断を下していますが ここでいう判断とは 次に誰を雇うかや どんなジョークを言うかや 仕事上の危うい意思決定のことです 限定倫理性がどのように働くか 例を挙げましょう 無意識の偏見は 限定倫理性が及ぼす影響を 露わにするものの一つです 無意識の偏見とは 頭の中にある連想のことで 脳が情報を整理するために使う近道です 無意識に働く可能性が非常に高く 自分が意識している信念と 必ずしも一致するわけではありません 研究者ノセック、バナジ、グリーンワルドが 何百万人ものデータを分析し 分かったのは 例えば 白人アメリカ人の大半が 素早く容易に関連付けることができるのは 「黒人」と「良いこと」よりも 「白人」と「良いこと」であるということや 男女の大半が素早く容易に 関連付けることができるのは 「女性」と「科学」よりも 「男性」と「科学」であるということです この関連付けは意識的に考えることと 必ずしも一致するわけではないんです とても平等主義的な考え方の人だという 可能性だってありますから その1100万と40が 時々一致しないだけなんです 他の例として 利益相反が挙げられます 人がよく軽視しがちなのは ちょっとした贈り物が― ボールペンや食事を思い浮かべてください そういった些細な贈り物が 人の意思決定に影響するということです 贈り主の見方を支持するための証拠を 自分の心理が無意識に集めていることに 私たちは気付きません 客観的で専門家らしくしよう と どんなに意識しようが同じなのです 限定倫理性も― 「いい人」でいることに 価値を見出すにもかかわらず 人は間違いを犯します その間違いにより 時に他人を傷つけたり 不公平を助長したりします どんなに気をつけていてもです そして人は間違いから学ぶよりも 言い逃れをするんです 例えば 私の場合 私の授業を取っている女子学生からのメールで 私が指定した読み物― 何年も指定図書として 扱ってきた読み物が 性差別的だと言われた時です あるいは私のクラスの学生2名を 混同してしまった時です 2人とも同じ人種ですが 全然似ていないのに 繰り返し 皆の前で 混同してしまった時です こういった間違いを起こした時 私たちは― 私は 危険領域級の 守りに入ってしまいます 「いい人」というアイデンティティーを 保つために奮闘するハメになるんです でも私がメアリー・カーンと行っている 限定倫理性の最新研究で主張しているのは 人は間違いを犯しやすい ということだけではなく 自分と危険領域との距離が 間違いの傾向を左右するということです 「いい人」というアイデンティティーを 疑う人は通常いません このため 自分の決断に伴う 倫理性の意味をあまり気にしておらず 大抵は次第に倫理行動が 失われていくということが 私たちの研究で明らかになっています 一方で自分のアイデンティティーが 否定される可能性もあります もしくは 振り返って 自分で 否定してしまうこともあるかもしれません つまり自分の決断に伴う倫理性が 非常にあからさまになってきて この場合 ますます 「いい人」らしい行動をとるようになります もっと正確に言うと 自分を「いい人」のように 「感じさせる」行動をとるのですが もちろん この2つは いつも同じとは限りません 限定倫理性という考え方が示すのは おそらく人は 倫理的決断における 自己指針の果たす重要性を 過大評価しているのだろうということ そして 利己心がどれだけ自分の決断を 操作しているかということが 過大評価されているのかもしれないということ さらに「いい人」という自己像が どれだけ 自らの行動に影響しているかに 気付いてないかもしれない ということ それどころか「いい人」という アイデンティティーを守り 危険領域を避けるために必死すぎて 間違いから学び もっといい人になる余裕を 作っていないということに 気付いていないということです いい人であることが簡単なはずだと 思ってるからなのでしょう 私たちが持つ「いい人」の定義は二者択一です いい人か そうでないか 誠実か そうでないか 人種差別的か 性差別的か 同性愛恐怖症か または そうでないか この二者択一の定義では 成長の余地がないんです ちなみに私たちは 大抵の物事に対し こんな姿勢では臨みません 例えば 経理を学ぶ必要があれば 会計学の授業を取るでしょうし 親になったら 本を読んで勉強するでしょう 専門家に相談したり 間違いから学んだり 知識を更新していったりします そうやってひたすら改善を続けます でも「いい人」であることに関しては 努力や成長の恩恵なしに 当然やり方を知っていて 当然そうあるべきだと 思っているんです そこで 私がずっと考えているのは 「いい人」でいるのを諦めたら どうなるだろうということです ただ やめるだけです 代わりに もっと高い基準を― 「ややいい人」の基準を もっと高く定めるのです 「ややいい人」も もちろん間違いを犯します 「ややいい人」として私自身も いつも間違ってばかりです でも「ややいい人」として 私は 間違いを認め そこから学ぼうとしています 間違うことを前提とし 自分の間違いを探します こういう間違いに代価が伴う ということは分かってます 倫理、偏見、多様性 包含性に関する問題となると 実在する人々が 紛れもない犠牲を受けることになります それは認めます 「ややいい人」として むしろ 私は自分の間違いに よく気付けるようになります 人から指摘されるのを待ったりせず 間違いを見つける練習をします その結果 確かに 時々恥ずかしい思いをしたり 気まずい思いをしたりします 時に 自分自身を弱い立場へ 追いやることになります しかし こういった無防備さを通して 他のことにおいて 上達しようとするのと全く同様に 私たちは進歩を確かめ 成長を確かめます より良い自分になる許可を自分に与えるのです そういった成長の余地を 作ればいいんじゃないでしょうか? 「いい人」であろうとする時以外では 私たちは自らに成長の余地を与えます 「いい人」であろうとする時だけ 最も肝心なこの部分が抜けるんです ありがとうございました (拍手)