命の値段 前回 私たちは 船乗りの裁判について議論した 海で人を食べた事件だ 船長と航海士がしたことや それに対する批判を念頭に置きつつ ジェレミー・ベンサムの 功利主義の話に戻ろう ベンサムは1748年イギリス生まれ 12才でオックスフォード大学に進学し 19才で弁護士資格を得たが働かず 法学と道徳哲学に人生を捧げた ベンサムの功利主義は前回も触れたが その中心となる考えは単純だった 道徳の最高原理とは 個人的にも政治的にも 幸福を最大化することである 苦痛が快楽を上回るように 一言で言えば 効用の最大化だ ベンサムは次のように考えた 我々は皆 苦痛と快楽に支配されている だからどんな道徳もそれを考慮すべきだ その最も良い方法が最大化だ これが最大多数の最大幸福の原理となる 何を最大化すべきなのか? ベンサムは幸福だと言う より正確には効用だと 効用の最大化は個人のためだけでなく 共同体や立法者のための原理でもある 共同体とは何か? とベンサムは問う それは結局 個人の集まりだ だから より良い政策を求めたり 法律を定めようとしたりするとき 市民や立法者はこう問わねばならない その選択によるすべての利益から すべての代償を差し引いたとき 幸福が苦痛を上回る度合いが 最大化できているだろうか? これが効用の最大化だ さて 今日は君たちが これに賛成か反対かを聞きたい ところでこの功利主義の論理は 費用便益分析という名で企業や 政府によってよく使われてきた 関連するものを数値で表すもので たいていは効用をドルに換算し 様々な事業の費用と便益を数値化する このあいだチェコ共和国で タバコ消費税増税の提案がなされた タバコ会社のモリスは チェコで事業を展開しているのだが 彼らはチェコ共和国内における 喫煙についての費用便益分析を行った その分析の結果わかったのは 政府は国民の喫煙によって 得をするということだった どうして得をするのか? チェコ政府の財政に マイナス効果があるのは事実だ 喫煙による病気が増えて 医療費が増大するからだ 一方 プラス効果もあり それらは帳簿の便益欄に載った プラス効果として加えられたのは 大部分がタバコ販売による税収だ 早死にによる医療費の節約も加えられた 年金もそう長くは払わなくて済むし 高齢者用住宅費の節約にもなる すべての費用と便益が考慮され この会社の調査でわかったのは チェコ政府の税収は 1億4700万ドル増えるということだった 喫煙して国民が早く死んでくれれば 年金や医療費を払う必要がなくなるので 一人あたり1200ドル以上節約できる これが費用便益分析である 君たちの中で功利主義を擁護する人でも これはひどい調査だと思うかもしれない モリスはメディアに叩かれ この冷酷な計算について謝罪した ところで ここには功利主義者が 容易に含めそうな事柄が見当たらない 肺ガンで死んだその人自身の価値だ 命の価値はどうなったのか? 費用便益分析の中には 命の価値を組み込んでいるものもある 最も有名なものはフォードピント事件だ 1970年代のこの事件を知っている人は? ピントという車だ 知っているかな? 小型の車でとても人気があったが 一つ問題があった 燃料タンクが車の後方にあり 後ろから追突されると爆発した 何人もの人が死に 重傷を負った 被害者たちはフォード社を訴えた そしてその裁判で フォード社はその欠陥を認識しており 対策として保護装置をつけることに それを実行する価値があるかどうか 費用便益分析していたことがわかった その分析では費用について 車の安全性向上のために 1台あたり11ドルかかるとして計算した これが裁判で公開された費用便益分析だ 1台あたり11ドル 車は1250万台あるので 安全性改善のための費用は 全部で1億3700万ドルになる 安全性向上によって得られる 便益の方の計算はこうなる 死者は180人で 1人あたりの価値を20万ドルとした 負傷者も180人で 1人6万7000ドル 安全対策なしで壊れる車が2000台で 1台あたりの修理代 700ドル これらの便益を計算すると 4950万ドルにしかならなかったので 会社は装置を取り付けないことにした 言うまでもないが 裁判でこの 費用便益分析の資料が公開されると 陪審員は驚愕し 巨額の支払いを命じた これぞ功利主義的計算ではないだろうか 命の価値もちゃんと計算に入れている さて この費用便益分析を 擁護したい人はいるだろうか? 擁護できる人は? またはこれは功利主義ではないと思う人 この例もさっきの例と同様 間違いを犯しています 人の命に値段を付けたかもしれないけど 残される家族の苦しみは入れていません それは20万ドル程度じゃないと思います 待って 君の名前は? 20万ドルでは額が低すぎると言うんだね 死ぬ人の価値だけで 家族を考慮していない では適切な額はいくらだと思う? 数字で表せるものではないと思います 命の価値を数値化すべきではありません 数字が低すぎただけではなく どんな数字を付けたとしても間違いだと 他の人に聞こうか インフレを考慮すべき? じゃあ今だといくらだ? これは35年前の話だ 200万ドル? なるほど ボイテクは適正価格を提示してくれた それ自体間違いだとは思わないのかな? あいにく そうですね 何らかの数字が必要だと思います いくら付けるべきかはわかりませんが 命に値段を付けることは可能でしょう ボイテクはジュリアとは違う意見だ ジュリアは値段は付けられないと言うが ボイテクは決断のためには必要だと言う 他の人はどうだろう? 費用便益分析を弁護できる人は? 良いものだと思う人 車会社が費用便益分析を行わなかったら 利益が出せなくなり 潰れてしまいます そして大勢の人が車を使えなくなったら 仕事ができなくなり 死んでしまいます なので費用便益分析をやらなかったら より大きな善が犠牲になってしまいます 最近 運転中の携帯電話の使用について 禁止にすべきか議論が行われたのだが 調査によれば 毎年約2000人の人が 運転中の携帯電話の使用が原因で 事故死しているということだった ただハーバードのリスク分析センターが これの費用便益分析を行ってみたところ 携帯電話の使用でもたらされる便益は 失われる命の価値とほぼ同じだった 人々が時間を有効活用することで 大きな経済的利益が生まれるらしい 運転中でも仕事の取引ができるからね この話は 人の命に値段を付けることが 間違いであることを示してないだろうか もし大勢の人々が 携帯電話や関連のサービスを使い 効用を最大にしようとするなら その犠牲は必要なものだと思います 君は完全な功利主義者だ? では もう一つ質問だ ボイテクにも聞いたが この場合 命にいくらの値段を付けるべきかな? そうですね 今すぐ思いつきで 数字を挙げたくはないですが… じっくり考えたい? だいたいでいい 死者は2300人いる 携帯電話の使用を禁止するか決めるには 金額を設定しなければならない 直感でいい いくらだ? 100万?200万? ボイテクは200万だ じゃあ100万で わかった いいだろう 最近ではこのような 費用便益分析を巡って論争が起きている すべてのものに値段を付けるからだ ここからは反対意見を考えていこう 費用便益分析は 功利主義の実践の 一つに過ぎないので それだけに限らず 理論全体に対する反論を考えていこう 正しい行いとは 法律の正しい基盤とは 効用の最大化である この考えに反対の人はどれくらいだろう 法律や公益に関する功利主義的考えだ 賛成の人は? 反対より賛成の方が多いね では反対意見から聞こう 何か良くない感じがします 少数派だから価値がなく 多数派だから価値があるとは限りません 最大多数の最大幸福の問題点は 少数派にとって公平でなかったり 発言権がなかったりするところです 興味深い 君は少数派への影響が心配なんだね 誰か心配症のアナに反論がある人は? 少数派が軽んじられてると言いましたが 多数派にいる個人の価値は 少数派にいる個人の価値と変わりません ただ数が多いというだけです 何らかの決断をしなければならないなら 少数派の人には申し訳ないですが より大きな幸福のためです ヨンダには何て答える? ヨンダは 人々の好みを足すだけであり 少数派の好みも考慮されていると言う 君が心配する例を挙げてくれるかな 功利主義が少数派を無視していると 君が心配に感じるのはどんなとき? これまで出てきたすべての例がそうです 食べられてしまった少年にだって 生きる権利があったと思います その事例で彼は少数派だったし 生き残る望みが低かったですが だからといって 他の人の望みのために 彼が食べられていいことにはなりません 少数派の人にもある種の権利があり それは効用のためであっても 差し出されるべきではない? ではヨンダに聞こう 古代ローマでは キリスト教徒をライオンと戦わせていた ここで功利主義の計算をやってみよう 確かに ライオンと戦うキリスト教徒は ひどく苦しむだろう だがローマ人たちの興奮を考えると… それは昔は 現代とは価値観が違うし 昔はそれで楽しかったんでしょうが 今のまともな現代人であれば 一人の苦しみならいいとか そういうことは考えませんよ でも 熱狂的なローマ人が大勢いれば その幸福は 一握りのキリスト教徒の 耐え難い痛みより大きくなるはずだよ 功利主義に対する二つの反論が出た 一つは 功利主義が個人や少数派の 権利を尊重していない というもの そしてもう一つは 人々の好みや価値は 合計できない というもの すべての価値をお金で表すことは できないのではないか 1930年代 ある心理学者が この2つ目の疑問に答えようとした 彼は功利主義の前提を証明しようとした すべての価値は 一つの基準で表すことが可能であると この調査は 生活保護を受けている 若い人たちを対象に行われた 彼らに不愉快な行為のリストを渡し いくらもらえばそれをやるか と聞いてまわったのである 例えば いくらもらえば前歯を一本抜くか いくらもらえば片足の小指を切断するか 15センチのミミズを生きたまま食べる カンザスの農場で残りの人生を送る デブを橋から突き落とす 最も高かったものは何だろう? カンザス? カンザスだった 彼らは30万ドルもらわなければ カンザスでは暮らさないそうだ では 次に高かったのは? デブじゃないよ 歯でもない 小指でもない ミミズだ 10万ドル支払われなければ ミミズは食べないらしい では一番安かったのは何か デブじゃない 歯だ 大恐慌の時代 人々はたった4500ドルで 喜んで歯を抜かせた この調査結果から 心理学者はこう結論付けた どんな満足であれ それが一定量存在する限り 測定できる 犬や猫や鶏の生活は 食欲 願望 満足から成っているが それは人間の場合も同じであり 欲求や願望が多少複雑なだけだ この研究をどう捉えるべきだろう? これは すべての価値は 一つの基準で測ることができるという ベンサムの考えを裏付けるのだろうか それともこのおかしな調査の結果 正反対のことが示されたのだろうか 命であれ カンザスであれ ミミズであれ 人が重んじ 大切にしているものは 一つの基準で表すことはできない と もしできないのなら 功利主義の道徳理論はどうなるのか? 次回もこの問題を続けよう 前回 ベンサムの功利主義に対する 反対意見について考え始めた 議論では二つの反論が出た 一つ目の反論はこうだ 功利主義の 最大多数の最大幸福においては 個人の権利が無視されている 少し考えてみよう 拷問とテロリズムについて 9月10日 テロの容疑者を逮捕したとする 君は確信している その容疑者が差し迫ったテロの 決定的な情報を持っていると だが容疑者は容易にはしゃべらない 情報を得るために 容疑者を 拷問することは正しいか? それとも間違っているのか 個人の権利を尊重する義務はあるか ある意味では これは最初の 路面電車の話に通じる また費用便益分析の例では 多くの人が良しとしなかった 人の命に値段を付けることを これは二つ目の反論へとつながる すべての価値を一つの価値基準で 表すことは可能なのかという問題だ すべての価値は同一の基準に置けるのか もう一つ別の例を挙げてみたい これは実際にあった話で 私の個人的経験から来ている すべての価値を功利主義にあてはめても 失うものはないのか 考えてみてほしい 何年も前 私が大学院生だった頃 オックスフォード大学は共学ではなく 女子大学では男性の宿泊を禁止していた 1970年当時そのルールは全く守られず みんな平気で破っていた と私は聞いた 70年代後半 規則緩和の圧力が高まり 女子のセント・アン・カレッジでは 教職員の間で話し合いが持たれた 年配の女性教職員たちは保守的で 従来の規則を変えることに反対した しかし時代は変わっていた 本当の理由を言うのが恥ずかしかったか 彼女たちは功利主義の議論を持ち出した 「男性が泊まると費用が増える」 どうしてか 「男はお湯を余計に使うし シーツの交換回数も増える」 改革案は条件付きで大学に認められた 各女性が泊められる男性は 週に3人までとする 同じ男かは問われなかった 条件はもう一つあった 宿泊客は大学に50ペンス支払うこと 翌日 全国紙の見出しにこう書かれた "セント・アンの女子は一晩50ペンス" この話が示しているのは すべてを功利主義で説明するのは とても難しいということだ これらの例が描き出しているのは 功利主義に対する二つ目の反論だ 少なくともこの反論には 次のような疑問が含まれている 功利主義は すべての価値を 例えばお金などに置き換えて 同一基準で比較できると前提しているが それは正しいのだろうか 価値や好みの集計が懸念される もう一つの理由がある なぜ人々の好みを すべて集計しなければならないのか 良い好みか悪い好みかに関わらず 区別するべきではないか 高級な喜びと低級な喜びを 人の好みに優劣を付けない態度には ある程度の魅力がある 判断が不要で 平等主義的だからだ ベンサムは言う すべてを集計すべきだ 人々の望みが何であるか 何が人々の幸せであるかに関わらず ベンサムにとって重要なのは 快楽や苦痛の強度と持続性だ 高級な喜びや崇高な美徳とは ベンサムにとっては ただ単に より強く長い快楽を生みだすものだった このことを表した彼の有名な言葉がある 喜びの量が同じであるなら プッシュピンは詩と同じくらい良い プッシュピンとは子どもの遊びだが それは詩と同じくらい良いと言う ここにはこんな主張が込められている どんな喜びが崇高で価値があるかなど 誰にも決める権利はない 判断を拒むこの姿勢は魅力的だ モーツァルトが好きな人もいれば 初音ミクが好きな人もいる 好みは人それぞれだ ベンサムならこう言うだろう 誰かの喜びが他の人のより高級であると 誰が言うことができるだろうか と だがそれは正しいのか? 優劣を付けなくていいのか? 私たちは捨てていいのだろうか? ある種の喜びは 他のより崇高であるという考えを 古代ローマの例を思い出してほしい キリスト教徒の権利の侵害が 問題であるように思われたが 別の反論も考えることができる ローマ人が享受していた下劣な喜びも 高級な喜びと一緒にしていいのか 全体の幸福について考えるとき その喜びも評価するべきなのか これがベンサムに向けられた反論だ この反論に答えようとした 一人の人物がいた 哲学者のジョン・スチュアート・ミルだ ここからは 功利主義に対する反論に ミルが説得力のある回答をしているか 検討することにしよう ミルは1806年生まれ 父親のジェームズはベンサムの弟子で 息子のミルに模範的な教育を受けさせた ミルは神童だった 3才でギリシャ語を理解し 10才でローマ法の歴史について書いた そして20才で神経衰弱に陥った 5年間鬱状態であったが 25才の時 彼を救いだすことになる ハリエットという女性に出会う 後に二人は結婚し 彼女の影響の下 ミルは功利主義を人間的にしようとした ミルは功利主義の計算法が 人道的問題を考慮に入れて拡張し 修正できるか確かめようとした 個人の権利の尊重や 喜びの質の区別の導入だ 1859年 ミルは「自由論」を書き 個人や少数派の権利を 守ることの重要性を説いた そして晩年の1861年 この講義で読む「功利主義論」を書いた 効用は道徳性の唯一の基準だ と彼は言う つまりベンサムを支持しているのだ はっきりとこう述べている 望ましいことを示せる唯一の証拠は 実際に人が望むということである 私たちに実在する経験的願望こそ 道徳的判断の唯一の根拠である しかし 第二章の8ページでは 功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを 区別することは可能であると論じている ミルを読んできたよね 彼はどうやって区別するんだろう? 功利主義者はどうやって劣った喜びから 質の高い喜びを区別するのか 両方を経験した人が選ぶ方が高級なもの その通りだ 君の名前は? ジョンの通りにミルはこう言っている 人々の好みを除外することはできない 功利主義の前提を崩すことになるからだ 高級な喜びと低級な喜びを区別する ただ一つの方法は 両方を経験した人が 好むかどうかである そして第二章では ミルはこのように書いている 二つの喜びのうち両方を経験した者が 全員 またはほぼ全員 道徳的義務感と関係なく 迷わず選ぶものがあれば それがより好ましい喜びである 君たちに聞こう この議論は成功しているだろうか? 成功していると思う人は? これで喜びの質を区別できると思う人 成功していないと思う人は? 理由を聞きたいが その前にミルの主張を 確かめるために 一つ実験をしてみよう これから君たちに 3つの短い 人気番組の映像を見てもらう 一つ目はハムレットの独白 そのあとに別の2つの 何かが続く では始めよう 男って最高だよ 頭が良いし 力も強い 筋肉質の美しい身体 神は最初に男を創ったわけだ これほど素晴らしい生き物はない それに比べて女は… 最悪のゴミだ 男でよかった… 恐怖が現実になったら… 噛んでる! 6人の挑戦者が死闘を繰り広げる 過酷な試練が彼らを追い詰めていく 生き残れるのはただ一人 フィア・ファクター よぉ兄弟 ぶっ飛んでる? 誰だ君は 話掛けないでくれ まあまあ それより上物のヤクあるぜぇ こんな貧乏人には買えないわよ ちょっと うちの親がいるじゃない ハニー 僕たちの親だろう? どれが好きか聞くまでもないようだ シンプソンズが一番好きだという人は? シェイクスピアは? フィア・ファクターがよかった人は? 本当? 大多数の人が シェイクスピアより シンプソンズの方が好きなようだ では 少し質問を変えてみよう どれが最も高級な経験だっただろうか シェイクスピアだという人は? フィア・ファクターだという人 いやそんなわけない ほんとに? 理由をどうぞ 一番面白かったから どれが崇高な経験だったか聞いてるんだ 面白かったのは知ってるよ 面白いってだけで価値があるんだよ 他の奴が何と言おうが関係ないね 君は純粋なベンサム派に属するわけだ 人々の好みを集計するのはいいが その優劣を判断するのはおかしいと 君の職業は? NEET? OK では好みとは別に シンプソンズが 実際に高級な経験だったと思う人は? シェイクスピアの方が高級だと思う人は それはなぜかな? できれば誰か シェイクスピアが最も高級だと思うが シンプソンズが好きという人に聞きたい シンプソンズは観ているだけで楽しめる だが洗脳により人々はシェイクスピアを 良いと思うようになっているのだ シェイクスピアは良いと言われたから 皆それを受け入れているのかな シェイクスピアが良いと言うのは単に 社会や教師にそう教えられたからだと? 実際に良いからではない? 無知な人々はすぐに騙される レンブラントの絵は評価されているが 大抵がわかったふりをしているだけだ つまりある程度までは 文化からの圧力があると言うんだね 私たちはどれが良い作品か教わる 他に 僕はシンプソンズが一番楽しめました でももし残りの人生を 三つのうちどれかを観て過ごすとすれば アニメとか 娯楽番組は 選ぶことはないですね 男の良さについて深く考えることで 人生が有意義になり それが より多くの喜びになると思うからです 残りの人生をカンザスで過ごすとして シェイクスピアかシンプソンズのDVD どちらかしか持っていけないとしたら 君はシェイクスピアを選ぶんだね? ミルは高級な喜びと低級な喜びを 両方経験した人はみんな 高級な喜びの方を選ぶと言ったが それは今ここで証明されただろうか 関係ない話していいですか? 去年 生物学の講義を受けたんですが ネズミの脳を直接刺激して 強烈な快楽を与えるようにすると 寝食を忘れて 死ぬそうです それくらい気持ちいいらしいです でも長期的で高級な喜びと比べると それは次元の低い喜びだと思います 僕は一瞬超気持ちいいのも好きですが みんなもそうだろ 長い目で見れば ほとんどの人も 束の間の快楽に溺れるネズミであるより 高級な喜びを得る人間でありたいのでは 質問に答えて言うと おそらくですが ミルの理論通り 多くの人はどちらかと言われれば 高級な喜びの方を選ぶと思います つまりミルは正しかったと? ジョーに反対の人はいないかな 今回の実験によって ミルの理論が反証されたと思う人 功利主義の枠組みでは 喜びの質は区別できないと考える人は? 人はより良いものを選ぶと言っても そこに客観的な定義はありません アニメを評価する社会もあるでしょうし シンプソンズは楽しめますが シェイクスピアは難解です 高級な喜びを理解するには教育が必要だ ミルもそう指摘している 高級な喜びは前提に教育がある その点は争っていない しかし 一度教育を受ければ 人は喜びの質の違いがわかるだけでなく 実際に高級な方を好むようになると言う ミルの有名な一節がある 満足した豚であるより 不満足な人間である方がよい 満足した愚者であるより 不満足なソクラテスである方がよい 愚者が異を唱えたとしても それは 愚者が自分の側しか知らないからである ここからも高級な喜びと低級な喜びを 区別しようという姿勢が伺える 美術館に行くか 家でカウチポテトするか 時に私たちは後者の誘惑に負ける それはミルも承知している しかしそうやってダラダラしている時も 私たちは知っている 美術館でレンブラントを鑑賞する方が より高級な喜びが得られるということを どちらも経験しているからだ そしてレンブラントの鑑賞が高級なのは 人間の高度な能力に関わっているからだ 個人の権利にまつわる反論に ミルはどう答えたか ここで彼は同じような論拠を使っている 「功利主義論」第5章 私は効用に基づかない架空の基準を持つ どんな見せかけの理論にも異議を唱える 私は効用に基づいた正義こそが 比類なき神聖さと拘束力をもった すべての道徳性の主たる部分だと考える 正義はより重要であり 功利主義に基づくことによって 個人の権利は尊重されると言うのだ 正義とは 道徳的要請の名称であり 集合的に 社会的効用は何よりも大きい そしてそれゆえ正義は 他の何より 最高の義務なのである つまり正義は神聖で特別なものであり 他の何とも替えることはできないのだ そしてその理由は 究極的には 功利主義に基づいたものであり 私たちが考えてみるべきなのは 人類の長期的な利益と進歩である 私たちが正義を行い 権利を尊重すれば 長期的に見れば 社会全体が向上する この考えに説得力はあるか? それとも彼は権利について考えるうちに 功利主義から外れてしまったのだろうか 質の高い喜びや 神聖で特別な個人の権利を考えるうちに この問いにはまだ答えられない 権利や正義の問題に答えるためには 功利主義ではない別の方法によって 権利とは何かを説明し それが成立しているか見る必要がある ところでベンサムは 道徳と法哲学の考え方として 功利主義を生みだした 彼は1832年 85歳で亡くなったが ロンドンに行けば彼に会うことができる 彼は遺言を残していた 遺体を保存し 大学に飾ってほしいと 今彼はガラスケースの中で 自分の服を着て座っている 生前 彼はある問いに 自身の哲学でもって答えた 死者はどうしたら社会の役に立てるか? 彼はこう答えた 遺体を提供することで解剖学に役立つ しかし偉大な思想家の場合は 未来の思想家を刺激するために 遺体を保存しておく方が良い 剥製になったベンサムを見るかい? これだ よく見るとわかるが 頭部は防腐処理に失敗したので ろうで作ったもので代用している そして下の方を見てみると 皿の上に本物の頭が置いてある これだ この話の教訓は何だろう? 大学では遺体を会議の席に着かせ 議事録にこう書いているそうだ "出席すれども投票せず" これぞ哲学者だ 生きてるときも死んでからも 自分の哲学に忠実だった 次回は権利について続けよう