古代から現代まで、世界の偉大な精神的指導者
らは、私たちの存在の最も深い真実は1つの宗教
や精神的伝統が所有するのではなく、各人の心の
内にあるという見解を共有してきました。
詩人ルミ曰く、「昇りも沈みもしない月はどこか。
我々と共にいていない魂はどこか。ここやあそこと
言うなかれ。万物は見える目以外のそれである。」
バベルの塔の話では人類が無数の言語、信仰、文化、
関心に分裂しました。バベルは「神の門」を意味し、
門は私たちの考える精神、条件付けされた構造です。
名前や形を超えた本質、真我に目覚めた者は
門の向こう側の偉大な神秘に足を踏み入れます。
象を使った古代の寓話は、様々な伝統が同一の
偉大な真実を差すのを説明するのに使われます。
盲人のグループがそれぞれ象の一部分に触れて、
その印象を受けます。足元に立つ人は象は木のようだ
と言い、尻尾に立つ人はロープのようだと言います。
牙の前に立つ人は槍のようだと言い、耳に触れた人
は扇子のようだと言います。お腹に触れる人は
壁のようだと言い張ります。私たちが象の一部に
触れ、自分の経験が唯一の真実だと信じることが
問題です。各人の経験が同じ動物の異なる側面で
あることを認めたり、それを尊重したりしません。
永遠の哲学とは、すべての精神的や宗教的な
伝統が、知識や教義の元となっている神秘的
または超越的な1つの普遍な真実を共有している
という理解です。
スワミ・ヴィヴェカナンダは、「全宗教の目的は神に
目覚めること。それが普遍的な宗教だ」と、永遠の教えを
まとめました。この映画で「神」は超越したもの、限られた
自我を越えた偉大な神秘を指します。真我や内在の自己
に気付くのは己の神聖さに気付くことです。全ての魂
に、高次の意識を顕現し、自分を眠りや形と同一視
することから目覚める可能性があります。
「すばらしい新世界」の作家で先見の明あるオルダス・
ハクスリーは、「永遠の哲学」と題した本で、歴史上
多数の文化に組み込まれ何度も繰り返されてきた1つ
の教えについて、「永遠の哲学はサンスクリット語
の『Tat Tvam Asi(汝はそれなり)』に最も簡潔に
表現されている」と書いています。内在する永遠の
自己アートマンが、全存在の絶対原理ブラフマンと
一体で、全人類の最終目的はその真実を発見する
こと、自分が誰かを知ることです。
各伝統は同じ真実の独自の視点を反響し、互いに
照らし合う宝石の面のようです。言語や概念的枠組み
を問わず、永遠の教えを反映する全宗教には、自分より
も偉大で超越したものと結合する概念があります。
1つや複数の情報源から学び、それらと自己を
同一視せずに統合することが可能です。真の霊的
教えはすべて超越的な真実を指すと言われています。
教義や教えに安らぎを求めて固執すれば、霊的進化
は妨げられます。すべての概念を超えた真実を知る
のは依存心、執着、宗教的概念を手放すことです。
自我の観点からすると、サマーディを指す指は
奈落の底を指しています。
十字架の聖ヨハネ曰く、「確実な道を歩むには、
目を閉じて暗闇を歩く必要がある。」
サマーディは未知への飛躍に始まります。
古代の伝統で、サマーディを悟るには意識を全ての
既知の対象、つまり現象、条件付けされた思考や感覚
から切断し、意識自体・内なる源・存在の心や本質
に向けるべきだと言われてきました。この映画で
サマーディは超越的なものを指し、最高とされる
ニルヴィカルパ・サマーディを意味します。
ここでは自己活動、全探求、全行動が停止します。
語れるのは近づくと消え去るものと、戻ると再び
現れるものだけです。知覚も非知覚もなく、「物」も
「無物」もなく、意識も無意識もなく、絶対的で、
計り知れず、精神には不可解です。
自己が行動に戻れば未知の状態になります。一種の
再生で、すべてが新しくなり、神聖な香りが残り、
進歩するにつれて香りがより長持ちします。
古代の伝統では多数のサマーディが説明されており、
言葉が長年、多くの混乱を引き起こしてきました。
ここでは超越的な結合を指すのにサマーディという
単語を使いますが、他の伝統からの言葉も使えました。
サマーディはインドのヴェーダ、ヨガ、サーンキヤ
の伝統に共通する古代梵語の単語で、他の伝統にも
浸透しています。パタンジャリ・ヨガの8番目の
支則で、ブッダの八正道の8番目です。ブッダは
自己活動の停止を「涅槃」と呼びました。パタンジャリ
はヨガやサマーディを梵語で「チッタ・ヴリッティ
・ニローダ」(精神の渦や螺旋の停止)と説きました。
意識を精神の基盤や創造主から放すという意味です。
サマーディに概念はありません。
概念的な精神を捨てることで実現するからです。
さまざまな宗教が神との結合を意味する単語を
使ってきました。英語のreligionはラテン語の"religare"
(再接続する) から来ています。ヨガの「くびきを
掛ける(世のものと超越的なものを結ぶ)」という
意味に似ています。イスラム教のイスラムという
言葉自体、古代アラビア語で神への服従、つまり
自己構造の完全な降伏を意味します。
アッシジの聖フランチェスコ、アビラの聖テレサ、
十字架の聖ヨハネなどキリスト教神秘主義者は、神と
の神聖な結合、内なる神の王国を描きます。 トマスの
福音書でキリストは「父の王国はここにもそこにも
なく地上に広がるが、人々にはそれが見えない」と言
いました。 ギリシャの哲学者プラトン、プロティノス、
パルメニデス、ヘラクレイトスの作品を永遠の教えの
観点から見ると同じ知恵を指します。プロティノスは
人間の最大の努めは魂の完成と結合だと教えました。
ラコタ族の呪医・聖者ブラックエルクは言いました。
「最初の平和で最も重要な平和は、人間が宇宙やその
力との関連性・一体性に気付き、宇宙の中心に大霊
が存在し、それが私たち一人一人の中を含め、至る
所に存在するのを認識するときに生じる平和です。
悟りへの道には、サマーディに達していない限り、
常に2つの極性、2つの入り口、2つの次元があります。
1つは純粋意識、もう1つは現象の世界です。上昇流は
真理へ、下降流はマーヤと目に見える・見えないものも
含め、顕現する万物への扉です。相対的なものと絶対的な
ものの関係は、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジの
次の言葉で表現できます。「知恵は私が無だと知ること、
愛は私がすべてだと知ることで、私の人生はこの2つ
の間に動きます。」この結合から神意識が生まれます。
これらの二極性の結婚・結合や二元性の崩壊で何か
が生まれますが、それは物でもなく生まれたことも
ありません。意識が花を咲かせ、新しいものを創造し、
永遠の三位一体と呼べるものを創造します。
超越的で、不可知で、不変な父なる神は変化するもの
全ての神聖な女性性と一体化することで、錬金術的な
変化、つまり一種の死と再生をもたらします。
ヴェーダでは、神の結合はシヴァとシャクティの2つ
の基本力で表現します。さまざまな神の名前や顔は
時代とともに変わりますが、基本的属性は変わりません。
この結合から新しい神意識や存在方法が生まれます。
切り離すことのできない、1つの二極性。中心や制限が
ない純愛なる普遍的エネルギー・・・空であると同時
に充満しているため、得るものも失うものもありません。
メソポタミアの神秘学派、バビロニアとアッシリアの
精神的伝統、古代エジプトの宗教、古代アフリカの
ヌビアとケメット文化、世界中のシャーマニズムと土着
の伝統、古代ギリシャの神秘主義、グノーシス派、
二元論者、仏教徒、道教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター
教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の共通点
は、最高の精神的洞察でサマーディを実現できることです。
サマーディは、万物との同一性・一体性を実現すると
いう意味です。統合です。自分自身のすべての側面を
統合することです。ただし知的な理解をサマーディの
実現と誤解しないでください。あなたの静寂さや
空虚さが、生命の螺旋の全レベルを統合します。
人類は古代のサマーディの教えを通して、すべて
の宗教の源を理解し始め、生命の螺旋、つまり
大霊、ダルマや道と再び調和することができます。
この螺旋は、小宇宙から大宇宙まで、あなたのDNA
からチャクラを通して広がるエネルギーの内的
蓮華まで、天の川銀河の腕まで伸びる橋です。
魂の各段階は、生きて探検しながら進化を続ける枝
として螺旋状に表現されます。真のサマーディは
各段階の自分、魂のすべての鞘の空虚さを悟ること
です。螺旋は二元性と生死サイクルの無限の遊びです。
時に私たちは源とのつながりを忘れます。
私たちが世を見るレンズは非常に小さく、
自分を地球上を這う限られた生物と自覚し、
そのうちに再び旅を終えて、その源、
あらゆる場所にある中心へと戻ります。
荘子は「これとあれの間に分離がなくなるとき、
それは道の静止点で、螺旋の中心の静止点から
万物に無限を見ることができる」と言いました。
古代のマントラ「オーム・マニ・パドメ・フム」には、
詩的な意味があります。蓮の花の宝に目覚めるのは、
魂の本質や、世界の中の世界に目覚めることです。
「上の如く、下も然り。下の如く、上も然り。」と
いうヘルメスの原理に基づき、精神と静寂、相対と
絶対の関係を、類推を使い理解することができます。
サマーディの非概念的な性質を把握するために、
ブラックホールの類推を使います。
ブラックホールは伝統的に、光も物質も逃れられない
ほど強力な重力を持つ空間領域とされてきました。
新理論では、極小の微粒子から銀河のような大宇宙
の形成物まで、全物体の中心にブラックホールや
神秘的な特異点があると仮定しており、この類推では
「あらゆるところにある中心」という定義を使います。
禅には、門のない門と直面するための詩や公案が多数
あります。サマーディに達するには、門のない門を
通過する必要があります。事象の地平線とは時空の
境界で、それを超えると事象は外部の観察者に影響が
ないため、その向こうで何が起きても認知できません。
ブラックホールの事象の地平線は、門のない門に
似ており、自己と無自己の境界です。ここを通過
する「私」はいません。ブラックホールの中心には
想像を絶するほど小さな空間に数十億個の太陽の
質量を含む、 実質的には無限の質量の、1 次元の
特異点があります。砂粒よりも極小の宇宙です。
時間や空間を超えた計り知れないもので、物理学
によれば活動も、物の存在もあり得ません。それが
何であれ、知覚の世界には属しませんが、ただの
静止とも呼べません。静止や動きを超越しています。
どこにもありどこにもない中心を認識すれば
二元性が崩壊します。形式と空虚。時間と永久。
それを暗闇の中心にある躍動的な静寂や含蓄ある
空虚とも言えます。道教の師、老子は「暗闇の中の
暗闇は完全な理解への入り口だ」と言いました。
作家で比較神話学者のジョゼフ・キャンベルは、
「世界軸」と名付けた永遠の哲学の一部で繰り返し
現れるシンボルを、中心点や最も高い山と呼び、
この極の周りをすべてが回転すると説明します。
静寂と動きが共存する点で、そこから力強い花咲く
木が現われます。全世界を結ぶ菩提樹です。
太陽がブラックホールに吸い込まれるように、偉大な現実
に近づくと人生がその周りを回転し自分は消え始めます。
内在の自分に近づくのを、自己構造が恐ろしく感じる
ことがあります。門番は、旅人らを試すためにいます。
最大の恐怖に立ち向かう勇気と、自分本来の能力を
認める必要があります。無意識の恐怖と内的美を明るみ
に出します。精神が動かず自我が反応しなければ、
無意識から来た全現象は、生じては消えます。
これが精神の旅で最も信念が必要となる地点です。信念
とは何でしょうか。信仰とは違います。信仰は、安心感や
確信を得るために精神レベルで物事を受け入れることで、
経験を分類・制御します。信念はその反対で、知らない状態
に留まり、無意識から生じるものをありのままに受け入れる
ことです。信念は、門のない門を通過するために特異性の
引力や、自己の溶解・解体に降伏することです。
銀河の進化と構造がそのブラックホールの規模と密接に
関連しているように、あなたの進化も真我である内在の
自己の存在と関連しています。ブラックホールは
見えませんが、周りの物体の動きや物理的現実に与える
影響から認識できます。同様に、真我は見えません。
内在の自己は物体ではありませんが、覚醒した行動は
観察できます。鈴木禅師は「厳密に言えば、悟りを
開いた人はいない。あるのは悟った行動だけだ」と
言いました。目に目が見えないように、それ自体は
見えません。それ自体が見る能力を提供するからです。
サマーディはブラックホールと同様、無でも物でもなく、
物や無の二元性の崩壊です。偉大な真実への門はなくても
道は無限にあります。道・ダルマは始まりも終わりも
ない無限の螺旋です。誰も門のない門を通過できません。
誰の精神もその謎を解いたことも、解くこともありません。
誰も通過できないから、「誰」でなくなるしかないのです。
サマーディは道のない道、黄金の鍵です。内的・外的世界
を分ける自己構造を自分だと認識することの終わりです。
自己構造の層やレベルを説明する発達モデルは数多く
あります。非常に古い例を使います。ウパニシャッド
ではアートマン(魂)を覆う鞘をコーシャと呼びます。
各コーシャは鏡のような自己構造の層で、それを自分
だと思うことが真我の認識を妨ぐ、マーヤのベール
またはレベルです。大抵の人が映っているものを自分
だと信じます。1つの鏡は動物の層、肉体を映します。
次の鏡は精神つまり思考、本能、知覚を映します。
別の鏡は、内面的に観察できるエネルギーまたは
プラーナを映し、別の鏡は想像レベルつまり高次の
精神・知恵の層を映します。そしてサマーディ直前
に経験する超越的・非二元的な至福の層があります。
分別できる鏡や自己の側面は無数に存在するかも
知れず、それらは常に変化しています。
大抵の人はプラーナ、高次の精神、非二元的な至福
の層をまだ発見しておらず、その存在さえ知りません。
人生に影響を与えていても、見ることができません。
隠された鏡は、見える鏡より影響を与えています。
意識に完全に照らされていないため、大抵の人に
は見えません。インドラの宝石の網のように、鏡は
反射し合い、反射が無限に他の反射を反射します。
1 つの層の変化は、すべての層に同時に影響します。
光を照らしてくれる有能なガイドに恵まれない限り
鏡のいくつかが影に残される可能性があります。自分は
何を知らないのか知らないのが現実です。ここで鏡を
全部割り、自分自身を反射するものがなくなれば、自分
はどこですか? 精神が静まれば鏡は反射しなくなります。
主体と客体はなくなりますが、原初の状態を無や忘却と
誤解しないでください。内在の自己は物でも無でもありません。
源は物ではなく、空虚または静寂そのものです。
万物の源である空虚です。形はまさに空虚として、空虚は
まさに形として実現されます。この源は創造の大子宮で、
いかなる可能性も含みます。
サマーディは非個人的意識の目覚めです。夢から覚めたとき
に、その夢が全部頭の中で起きたことを知るのと同じです。
サマーディを悟ると、世のすべてはエネルギーや意識の
階層の中で起きているのを認識します。すべては鏡の中
の鏡で、夢の中の夢です。あなたが自分だと思い込んでいる
あなたは、夢でもあり、夢見る人でもあります。
この映画が語ることはすべて手放し、精神で捉えないで
ください。魂はあなたという夢を見ています。夢は変化
するものすべてですが、不変のものも認識可能です。
これは限られた個人的精神には理解できません。
ニルヴィカルパ・サマーディから戻ると、鏡は
再び反射を始め、今生きているように見える世界が
自分だと認知します。一時的な反射だけの限られた
自分ではなく、全存在の源としての本来の自分に
気付きます。高次の知恵の覚醒、胚、般若や
グノーシスはサマーディから生じます。
ヨブ記によると、ホークマー(知恵)は無から生じ、
無限に小さな一点でありながらも存在全体を包含
していますが、鏡の宮殿で形や形態を与えられるまで
認識できません。鏡の宮殿はビナーと呼ばれ、神霊
の胚に形を与える、高次の知恵が作成した子宮です。
[音楽]「Abwoon d'bashmaya」Indiajiva作
鏡や精神の存在が問題なのではなく、それを自分だと
思い込む、人間の知覚が問題なのです。私たちが
限られた自己であるという幻影がマーヤです。ヨガ
でサマーディを悟るには、瞑想の対象物が消えるか、
自分がその中に消えるか、それが自分の中に消える
まで観察するように教えています。さまざまな伝統
で使う言葉は違っても、自我認識や自己中心的な活動
を停止するように教えます。仏陀は否定的な教え方を
し、自己構造の働きを直接調査するように教えました。
サマーディに関しては、苦の終わりだとだけ言いました。
ヴェーダンタの「ネティネティ」は「あれでも、これ
でもない」という意味で、自己実現を試みる者は、自分が
何でないかを知ることで真我・ブラフマン性を探求します。
同様にキリスト教ではアビラの聖テレサが、否定的
な道に基づく祈りについて説明しました。「静寂、降伏、
そして統合の祈りは、神に近づく唯一の方法だ」と。
この段階的な剥ぎ取りプロセスを通じて、永続的で
ないもの、変化するものをすべて捨て去ります。精神も、
自我構造も、隠れた自己の層を含むすべての現象も。
無意識は、唯一の源を反映するには透明になる必要が
あります。無意識内に深い知識や自己が働けば、生命
は未発見の自己を構成する隠れたパターンの迷路に
閉じ込められたままになります。自己の全層が空である
のが明白になると、自己や概念から解放されます。
進化の転換点は、自分が誰だかわからないことに
気付いたときです。呼吸をするのは誰?味わう
のは誰?詠唱や儀式や、踊りや山を体験するのは誰?
観察者を観察し、目撃者を目撃してください。
観察者を観察するとき、最初は偽りの自己しか
見えませんが、粘り強く続ければ消えます。
誰の体験・何の体験かを直接調査してください。
瞬きせず、鋭く、染みるように全存在を使って。
[音楽] 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(意味:行った、
行った、向こう岸まで行った。最後まで行った。解脱だ、万歳。)
目覚める自己はおらず、目覚める「あなた」もいません。
目覚めるのは、分離した自己の幻想や限られた自分の
夢からであり、言葉にしても無意味です。その認識は
実際の自己の停止を要し、言葉では表現できません。
言葉にしようとした瞬間、精神に戻ってしまいます。
私はすでに言いすぎました。
普通、目覚め・夢・深い眠りの 3 つの意識状態があります。
サマーディは意識の基底状態、第 4 の意識と呼ばれる
ことがあります。この原始的な覚醒状態は、他の意識
状態と並行して持続的に存在できます。ヴェーダーンタ
ではトゥリヤと呼ばれ、キリスト意識、クリシュナ意識、
仏性、またはサハジャ・ サマーディとも呼ばれます。
サハジャ・ サマーディでは、内在の自己が人間の
全機能を使い存在し続けます。変化する現象の螺旋
の中心で静寂さが動かずに存在します。思考、感情、
感覚、エネルギーはその周囲を回りますが、静止度や
「私は在る」感覚は、活動中も瞑想と同様に残ります。
深い眠りでも内在の自己は存在し続けるかも知れず、
意識状態が変化しても「私は在る」感覚は変化しません。
これがヨガの睡眠です。
ヘブライ聖書(旧約聖書)の雅歌(ソロモンの歌)
には「私は眠るが、心は目覚めている」とあります。
永遠の非人格的意識は、キリストの言葉「アブラハム
がいた前から、私はいる」に反映されます。
無数の顔、無数の形を通して輝く1 つの意識。
最初は両極性から生まれる弱い炎のようです。
女性的エネルギーを開放するために男性性が意識
を浸透する。繊細で簡単に失われるため、成熟する
まで守り、生かし続けるのに細心の注意が必要です。
サマーディは、時を超えた意識状態であると同時に
成長過程の一段階で、有機的に時間をかけて養われます。
サマーディに・今に・時を超えた現実に長くいれば
いるほど、心・魂・アートマンからの指示が増え、
条件付けされた構造からの指示は減ります。こうして
人は低次の精神や病的な思考から解放されます。
内部配線が変わります。エネルギーはもはや無意識
に古い条件付けされた構造に流れません。つまり、
自己構造や外界の形態と同一視されなくなります。
サマーディを実現するには、自身の完全な降伏となる
偉大な努力と、自身の全存在やエネルギーの包括的
な降伏が必要です。努力と降伏のバランス、陰と陽です。
一種の努力のない努力です。
インドの神秘家でヨガ行者のパラマハンサ・ラマクリ
シュナ曰く「髪に火の付いた人が池を求める如く覚醒を
求めないのなら、求めるな。」全存在で求めるのです。
自我を超越する修行中は、胎児を生存させるために、
世のパターンに戻らないために、勇気、警戒、忍耐
が必要です。流れやマトリックスの容赦ない圧迫や
輪廻の歯車に逆らって進む意志が必要です。全呼吸、
全思考、全行動が源を悟るためにあるべきです。
サマーディは努力によっても、努力なしでも実現できません。
努力も無努力も捨ててください。精神の中にだけ存在する
二元性です。サマーディの実際の実現はあまりにも
単純で曖昧なため、二元論的な言葉で常に誤解されます。
世に目覚める原始意識は1つだけですが、それが多数の
の精神層に隠されています。雲の裏に隠れた太陽のように
層を1枚ずつ削るごとに、真我が明かされていきます。
精神層が落ちるごとに、違う名のサマーディで呼ばれます。
異なる経験や現象に名前を付けます。
サマーディは非常に簡単なので、何でありどう実現する
か教わったとしても、精神は必ずそれを見逃します。
サマーディは実際、簡単でも難しくもなく、精神がそう
するだけです。実現するために精神を止めるので、精神
がない限り問題ありません。出来事とは全く違います。
サマーディの最も簡潔な教えは、この句にあるかも
しれません。「静かになって、知りなさい。」
言葉や画像でどう静けさを、音を立てながらどう沈黙を
表現するのでしょうか。この映画はサマーディを概念的
に説明するものではなく、不活動への革命的な呼びかけ
です。瞑想・内的沈黙・祈りへの呼びかけと・・・
やめなさい!
病的な精神の行動をやめ、静かになり知ってください。
静寂から何が生まれるかは誰も言えません。
霊的な心から行動せよという呼びかけです。
それは古代を思い出すようなもので、魂が目覚めて
自分を思い出します。それまでずっと眠っていた乗客
でしたが、空虚が目覚め、自分は万物だと気付きます。
盲人に色を説明できないように、限られた自我の精神
にサマーディは想像できません。精神はそれを知ること
も作ることもできません。サマーディを悟るのは見方を
変えることで、物を見るのでなく見る者を認識します。
アッシジの聖フランチェスコは「探している物は、探して
いる者だ」と言いました。一度月を見れば、その反射
を認識できます。真我は万物に常在しますが、あなたは
それに気付きません。精神や感覚を超えて真我を認識し
それに留まれば、平凡さにも畏敬の念を抱きます。
自分自身が畏敬の対象になります。
欲を捨てたいと思うのも欲。捨てようとしないでください。
静かになる努力自体が行動なので、頑張っても無駄です。
既存の静寂さに気付き、「静かになって、知りなさい。」
すべての好みを捨てれば源が明確になりますが、源に
さえ執着しないでください。偉大な真実、道は1つでも
2つでもありません。ラマナ・マハルシは言いました。
「自己は1つで、制限されていれば自我で、無制限なら
それは無限で偉大な真実です。」
この説明を信じても、信じなくても見逃しました。どちら
も同じ精神レベルで作用するからです。知識は必要です
が、自己探求を始め、自分の存在のあらゆる側面を調べ、
誰が調査しているかを発見し、自己でなくより高い意志
に従って生きれば、知識を超えて旅する意志があるなら、
私が指摘することに気付くかもしれません。そして
初めて、存在の深遠な神秘と美を味わえます。
人生には別の可能性があります。概念や教義、条件
付けされた活動や好みを超えた、自身の存在の奥深い
静寂の中に、神聖で計り知れない何かを発見できます。
技術や儀式や実践からは得られません。それを得る方法
やシステムもありません。道への道はありません。
禅で言われているように、生まれる前の本来の顔を
発見することです。自分にさらに何かを加える
ことではありません。幻想を払拭する自分自身の
光になることです。名前や形を超えた神秘に留まるまで、
生命は常に満たされず、心が落ち着くことはありません。
「音楽」オーム・シュリーム・ラクシミ