Netflixドラマの「ストレンジャー・シングス」は
過去の象徴的ポップカルチャーへのラブレターだ
1970~80年代の映画やドラマから引用し
ノスタルジアのある光景を作り出してる
すべてがうまく混ざっている
テーマからプロット
脚本から会話
"俺は撃てない"
"なぜそう思う"
"お前が警官だから
規則がある"
"お前が警官だから"
"規則がある"
"そうだな"
しかしノスタルジアに頼りすぎるのは危険だ
過去の中にある有害な表現を
再現する可能性があるからだ
特に男らしさと恋愛に関してそうだ
それが表れたのがストレンジャー・シングス
シーズン3のジム・ホッパーというキャラだ
「私立探偵マグナム」にインスパイアされた
アロハシャツを着たホッパーは
突然劇的に性格を変える
最初の2シーズンでは
内省的な性格だったのが
シーズン3では攻撃的な性格になった
"おい"
"おい!"
"開けとけって言っただろ!"
"ノックしてよ"
ジョイスとの好戦的な関係は特に問題がある
"変人じゃない 病気なの"
"ああだこうだ"
"え?"
"どっちでも同じだ"
"やめてよ"
"すまないが"
"何だ"
"痴話喧嘩はよそでしてくれ"
"痴話喧嘩じゃない"
"やめて"
その関係性は1980年代の
有名なカップルに由来する
「チアーズ」に出てくる
サムとダイアンの愛憎関係だ
"お前はとてつもないバカだ"
"今まで見た中で一番のな"
"あんたこそ一番傲慢な人よ"
"黙れ!"
"口を閉じろ"
"やって"
"やる?"
"お前を壁に叩きつけてやる!"
愛情ある緊張として描かれる
非常に不健康な関係だ
ここでは ハリウッドが描くその緊張関係に
愛情があるという表現はしないでおく
現実には違法な虐待的行動だからだ
"いつもそうしたかった"
"チャンスが来たな"
"あんたなんか嫌い"
"俺と同じか"
"もっとよ"
恋愛の前兆としての敵対は
チアーズだけのものではなかった
この有害なパターンは 初期の映画からあり
長く続く伝統の一部ではあった
しかし1980年代にはどこにでも見られた
"私に怒らないでよ"
"いや君に怒っていいはずだ"
"特に先生様に人生を教わっている時はね"
"どういう意味?"
"俺を責めるな
君を助けにここまで来たんだぞ"
"助け?私は一人で平気よ"
"生き延びたら殺してやる"
"何だよ"
"考え過ぎ"
"じゃあ何でついてくる
さよならのキスがほしいのか?"
"ウーキーのキスがね"
"いいだろう"
"すぐキスできる"
ハリソン・フォードはそのキャリアを
好戦的な恋愛関係で築いてきた
特にインディー・ジョーンズで
"あんたライオンの調教師?"
"連れてきてやったんだ"
"少し口を閉じてろ"
"わかったか 嬢ちゃん"
"連れてきてやった?"
"あんたが私に夢中になってたんでしょ"
"そうか?"
なぜドラマがそのような耳障りな表現を
取り入れてしまったのか理解するには
最初の2シーズンでのホッパーの
キャラ特性を見る必要がある
ホッパーは最初 離婚とトラウマに苦しむ
行き場のないアル中として登場する
何も起こらない町で
警察署長になることを辞退する
"ジョイスの息子が見つかりません"
"そうか 俺に任せろ"
"慌ててます"
"話は終わりだ
コーヒー飲んで考えよう"
"でも…"
"コーヒー飲んで考える"
また顔を殴って問題を解決しようとする
ちょっとした問題人物でもある
シーズン1での目標は
目的意識を取り戻すことだ
"おい"
"何かあった"
失踪事件の謎を解き明かす過程で
周囲の人々とのつながりを取り戻していく
"君は正しかった"
"ずっと正しかった"
シーズン2でもその方向性でいく
自身の恐怖を乗り越えつつ
再び父親になろうとする
"よし やろう"
まだ気性は荒く 仕事と家庭の
両立はうまくいっていないが
"おい まだ終わってない"
進歩はあり アルコールに依存したり
人を殴ったりすることはない
自分の感情を慎重に扱うことを学習した
"元には戻らない 何事も"
"でもよくはなる"
"ゆっくり"
シーズン2の最後には 心と心を通わせ
自分の気持ちをイレブンと共有した
"怖かったんだ"
"それで俺は"
"怒ってた"
"すまない"
"俺は本当に…"
"バカだった"
"ああ"
"バカだった"
だがシーズン3になると
キャラは窓の外に投げられた
1980年代のカウボーイ警官になるために
"やるかクソが"
だがそのアクションヒーローブランドの復活は
不健康な行動を引き起こす地雷原となる
新しいホッパーは横暴な火薬庫であり
関わる女性に対して容赦がない
彼はイレブンと新しいボーイフレンドの
マイクの関係を妨害する
"あのいけすかないマイクが
あの子をだめにしてる"
"どうにかしないと"
"落ち着いてホッパー"
"別れさせないと"
"あなたは関係ない"
ジョイスはホッパーに
落ち着くように言う
"よく話せば"
"いや話しても無駄だ"
"怒ったり 指図せずに"
"話すの"
"心と心で"
"心と心?"
"何だそれ"
女性が男性の人間関係を助けるために
感情的な労働者となっている
"ほら 言ってみて"
"俺たちが心地いいような
環境を作っていこう"
だがこのバージョンのホッパーは
感情の表現方法を忘れているため 無駄だ
"気持ちを共有する"
"気持ちを共有…"
"いや無駄だ こんなの"
"いけるって"
彼は突然 少女との関わり方が
わからなくなった
前のシーズンではできていたのに
"マイクを殺す"
"俺は警察署長だ"
過保護な父親がおかしく演じられるが
それは古い家父長制を思い起こさせる
"開けとけ"
若い女性は自分で
正しい判断ができないため
年上の男性が介入して
保護してやるという考え方だ
何かに操られたのか
彼は怒り以外で自分を表現できず
マイクを遠ざけようとして脅迫する
"狂ってる!"
"狂ってる…"
"真の狂気が見たいか?"
これは彼が暴力や脅迫に頼った
多くある例の一つに過ぎない
"正気か?"
"さあな 確かめてみよう"
1980年代のタフガイ表現のように
その暴力はカジュアルに描かれる
大量殺人や拷問をしている時でさえも
"制圧した"
"ああ やった"
先程のジョイスとの機能不全な関係は
彼の劇的な退行のもう一つの例だ
"食事行かない?"
"今日はだめ"
"そうか だな"
ジョイスに断られたにもかかわらず
騙してデートしようとする
"食事をしながら話そう
今夜7時はどう?"
"ノーと言う前に
一つはっきりさせたい"
"これはデートじゃない"
"デート?"
"これデートなの?"
"デートじゃないよ"
"誤解しないようにしようと"
"しないわ"
"よかった ただの食事だな"
そして彼女がデートではないものに
来なかったため 彼は怒り出す
"誰かな?"
"話がある"
"そうだね"
"あんな待ちぼうけはなかったな"
"何してる"
前の2シーズンで
"見て"
ジョイスの直感を尊重すべきであることは
過去に学んでいたはずだった
しかし新しいホッパーは 彼女の超常現象に
関する調査をあざ笑っただけだった
"俺に誘われて怖くなったんだろ"
"今も怖くなって発明をし始めた"
"俺を突き放すために"
"なぜなら神が 俺たちが
離れることを禁止したから"
"そういうことかな?ジョイス"
彼の恋愛感情は
"どうだ?"
エスカレートして彼女を
尊重しないというだけでなく
嫉妬も絡み 彼女の他の男性との
関係を監視するようにもなる
"彼の話を聞いて"
"新しい彼氏か?"
"そう 私が話した相手は
みんな私の彼氏になるの"
"あいつロシアの人形に似てる"
"あっそう"
"デートしよう また同じ店でか"
その行動は危険なものとしては描かれず
むしろ誘惑的なものとして描かれる
"どうする?歩いて帰るか?"
"あなたから離れるなら何でもいい"
"君たち"
"ふざけた演技はやめて
二人の愛を認め合ったらどうだ?"
"ありえん!"
"ちょっと下がってて"
"やめて やめて"
女優のエヴァン・レイチェル・ウッドが
ツイッターでホッパーの有害性を指摘すると
何が問題かわからなかった人たちから
大量の擁護コメントが送られた
"教えてやろう"
架空の人物の口喧嘩を見るのは楽しいが
メディアがそれを恋愛として描くことは
攻撃も恋愛の一部だという考えを強化しかねない
精神的虐待の深刻さが
軽視される可能性もある
実際には 精神的虐待は
身体的暴力と同じくらい有害なものだ
メディアは危険な神話を広めている
横暴な男性はその攻撃性を下げるためにも
特別な女性が必要なのだと
しかし親密な相手こそ
怒りの矛先になる場合が多い
ホッパーのような男性に女性は必要ない
必要なのはセラピーだ
ドラマの脚本家は不健康な関係を
批判のためあえて描いたのかと期待しても
シーズン最後のエピソードで
そうではないことが明らかになる
"俺たちいろいろあったけど"
"いいチームだと思う"
1980年代の恋愛ドラマから来たシーンで
ジョイスはホッパーの態度に好意的に応える
"金曜8時?"
このような筋書きは 攻撃的な行動も
愛情のサインなのだという観念を強化する
"確認するけど…"
"それはデート?
一応そこははっきり…"
"ホップ"
"私の気が変わらないうちに黙って"
"わかった"
人々を不健康な関係に留まらせる
ねじれた論理である
"頑張ってサム 頑張って"
ドラマチックな緊張関係を簡単に描けるため
作家は戦闘的な相互作用を取り入れるのを好む
だが衝突を書く方法は他にもある
例えば 外圧がかかっている場合とか
トラウマ体験の共有もそうだし
それはストレンジャー・シングスにもあった
恋愛関係を敵対関係ばかりから
書き続ける正当な理由はない
考えてみると 健康的な人間関係が
スクリーンで描かれることはめったにない
しかしながらストレンジャー・シングスにも
前向きな恋愛関係の例はあった
"どうも"
"どうも"
"これの他の色のはある?"
"確認します"
ボブはジョイスの陽気な恋人で
シーズン2から登場した
ボブはジョイスの話を聞き
気持ちを尊重する
"バカみたいでしょ"
"いや そんなことないよ"
自分が望んでいる関係も正直に話す
"ホーキングに引っ越すのは?"
"一緒に"
"え?"
"いや おかしいよね"
ホッパーがシーズン3で
ジョイスを扱う方法とは正反対だ
"君が好きだ"
"君に関わっているものも"
"家族も息子も"
ボブの愛情深い性格は
恋愛ドラマでは珍しい
珍しすぎて 私たち視聴者は
彼には何か裏があるのではないかと
自動的に想定する
"誰か来た"
"僕を見て"
"ジョイス・バイヤーズとデートしてる"
"嘘だろ?ありえない"
"全部うまくいく"
"そうね"
視聴者は愛情深い男性キャラが
実際には悪人であることを期待する
"期待していいんだな?"
もしその男性キャラが
最初の印象通りの人物なら
"ボブ・ニュービー
スーパーヒーローさ"
大抵は他の男性キャラを
引き立たせるために殺される
"僕らみたいな大人しい人が利用される"
"もっとやれよって"
"なぜそうするのか"
"自分が強いと感じたいんだ"
未知の世界で生き残るための
「能力を持っている」とされるのは
ホッパーのような
暴力的なタフガイだと描く
攻撃的な男性性という理想を
正当化するのに役立つ手法だ
多くの人が虐待と認識できない理由は
それを善良な男性がするところにある
その男性は魅力的で勇敢に描かれている
現実世界で虐待する男性のように
彼らは常に暴力的であるわけではない
暴力は波のように現れ
優しい時もあれば反省する時もある
ホッパーは「善人」なので 視聴者は
彼がジョイスと一緒になることを望む
怒り 嫉妬 数々の問題行動にもかかわらず
視聴者は彼の側につくよう仕向けられる
ホッパーは単純な間抜けではないからだ
私たちは彼の内省的で優しい一面を
前の2つのシーズンで見てきている
シーズン3の終わりには 彼が深い部分では
善人であると描かれるシーンもある
彼は世界と愛する人々を救うために
命を賭けているように見える
この自己犠牲表現は将来動画にする予定だが
今はそれ自体は悪くはないと言っておく
だがホッパーのような問題を抱えた男性キャラは
英雄的な死が償いとして描かれることがよくある
その手軽さをもって男性は ゆっくりとした
痛みを伴う変化をする必要から逃れている
最後のフラッシュバックも
同様の目的を果たしている
自身の感情をイレブンとどう共有するか
考えているシーンで彼の心の声が聞こえる
"でも最近は感じている"
"君との距離を"
"君が遠くに行ったみたいに"
ナレーションが 誠実で思いやりがあり
傷つきやすい男性であることを思い出させる
問題は気持ちがあっても
行動が伴わなければ意味がないことだ
そしてホッパーは結局
少女と心を通わせることをしなかった
ホッパーの死は 彼が振りまき続けた害悪を
免罪するために配置されている
実際に謝罪したり
行動を修正したりすることなく
問題は 男性が怒りの問題を抱え
不適切な行動をする描写ではない
キャラが欠点を持つことは
親しみを持たせるための重要な要素だ
問題は その欠点の描き方だ
不健康な行動の言い訳にしていないか?
重大な懸念として描いているか?
そして 男性は変化することを学んでいるか?
アドベンチャーもので男性ヒーローが
行動を変える方法を学ぶことはめったにない
うまくコミュニケーションを取る方法
健康な関係を構築する方法を
"何て言った?"
シーズン2の最後では ホッパーは
古い男らしさの制約から解放されたように見えた
残念なことに 製作者がインスピレーションを
懐かしいものの中に無批判に頼ると
男性キャラの新しい可能性が想像できなくなる
その結果 男性が過去に囚われたまま
退廃的な男らしさの理想を
抱き続ける危険性があるのだ