みなさん こんにちは
ご存知かと思いますが
私の盲導犬のグラデスです
まずは彼女の番 窮屈は苦手なので
先にハーネスを外します
伏せ!
わたしのスピーチの間に
引っ掻いたり 立ち上がったり
眠りながら吠えるかもしれませんが
よろしくお願いします
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは
こう述べています
「常にあなたを
変えようとする世の中で
自らを保つということは
最高の達成である」
わたしに言わせれば
それは大きなチャレンジです
もともとチャレンジなんて
好きなたちではありません
大勢の中の一人で十分です
自由な考え方 自分の生き方が
確保されればそれで構いません
ですが身体障害によって
何かが決めつけられる となれば
傍観者でいるわけにはいきません
わたしは昔から本や文学が好きでしたので
図書館司書か言語学者になって
いつも本に囲まれて過ごしたいと
思っていました
ですが盲目であるわたしの経験では
特にここ数年において
身体障害者に向けられた社会的差別や無知は
大変強く あまりに不公正であることに
気づきました
これでは図書館司書として
普通の暮らしを楽しむのは無理です
「人生には二つの選択肢がある」と
デニス・ウェイトリーは言いました
「ありのままの状況を受け入れるか
その状況を変えるという任務を
引き受けるか」
普通の生活をしようとするだけで起きる
様々な困難について考えると
普通の生活をしようとするだけで起きる
様々な困難について考えると
障害者たちが意味のある
充実した毎日を送ろうとしたら
選択肢はたったひとつそれは
状況を変える任務を受けて立つしかありません
わたしは4歳のときに
網膜色素変性症と診断されました
そしてこの20年間で徐々に視力を失いました
医者は両親に
40-50歳で失明するだろうと告げました
大学や学校に行くのは問題ないはずでした
ですが実際は そうはなりませんでした
8歳ですでに本の活字が読めなくなり
黒板も見えなくなりました
大学に行き始めた頃には
鏡の中の自分の姿さえも
見えなくなっていました
人生の節目ごとに
私はいつも同じ決断を迫られました
自分に用意された言い訳を受け入れ
あわれな自分とともに やすやすと生きるか
覚悟を決め 未知の世界に足を踏み入れるのか
わたしはいつも後者を選びました
わたしはモンゴルの視覚特別支援学校で学び
2000年にそこを卒業しました
その当時
盲目の人が受ける教育といえばそこまででした
普通ですとその後
障害者のための工場で働くか
家にいるかのどちらかですが
わたしはそんな「普通」はいやで
大学に行きたい
いい仕事にも就きたいと思いました
両親や家族に
誇りに思ってもらいたかったのです
そのためには
他の人の2倍強い気持ちで
他の人の2倍努力する必要が
ありました
14歳になるまで
わたしはありふれた子供でした
いずれ失明するとは知らず
ただ目が悪いだけだと思っていました
病状が日々の生活に及ぼす影響といえば
分厚いメガネのせいで
時に悪口を言われることや
読み間違えることぐらいでした
しかし14歳になって 真実を知らされた時
時間との競争が始まりました
目の見えない生活は想像もつきませんでした
視力を失えば
すべてを失うと思っていました
そしてはっと気づきました
なぜ あの頃 父があちこちの博物館に
連れて行ってくれたのか
私が8歳のときで
博物館にはつまらないものや
怖いものしかありませんでした
でも ようやく理解しました
父はわたしの記憶に何かを残したくて
我が国の歴史や文化を見てほしかったのです
パニックに襲われたのを覚えています
見て学ぶべきことがどれほど多く
そして残された時間がいかに少ないか
気づいたときでした
読むべき本を探し始めました
本だけが心のよりどころだと思っていました
寮の部屋で
息つく間もないほど読書に読書を重ねました
まるで本なしでは生きていけないみたいでした
3週間で 学校にあるモンゴル語の点字本は
すべて読み終え
学校の科目も同じ勢いで勉強しました
できるだけ多くの知識を
頭の中に詰め込みたかったのです
失明した時に備えて
自分でできるだけのことを
したかったのです
残念ながら学校には資料が少なすぎました
苛立ちが募りだしました
何もかもが足りなかったのです
ですが そんな状況でも
意思は揺らぎませんでした
そして他の選択肢を探すようになりました
例えば 学校の本を読みつくした後
英語の点字図書が寄付されていることを知り
どうしたのかというと
英語を勉強することに決めました
英語の先生などいませんでしたし
教材 教本などありませんでした
そんなことではあきらめません
特別支援学校卒業後
健常者の通う普通の高校に行きました
それは大学に行くためで
10年の高等教育を受けなければなりません
これもまた 大変でした
盲目の生徒への教え方や接し方を
誰も知らなかったのです
盲目の生徒への教え方や接し方を
誰も知らなかったのです
学校初日にですが 点字を打っていたら
怒られたことを 今でも覚えています
穴開けが 授業の邪魔ですって
怖いことも照れくさいことも克服しました
自分の障害に閉じ込められるのはゴメンです
2006年 モンゴル人文大学を卒業し
2007年にモンゴルの視覚障害者として
初めてフルブライト奨学生となりました
(拍手)
2009年 ルイジアナ州立大学の
図書館情報科学科で修士号を取得
モンゴルで初の盲導犬とともに帰国しました
(笑)
モンゴルでは
オーディオブックは一つもなく
点字図書も足りませんでした
モンゴルの高校・大学では
ないものばかりでした
ノートのための点字紙も足りませんので
書き写すのは大事なことだけに留めて
できるだけ記憶に頼らねばなりませんでした
教材や文具が不足して
大変だとは言っても
社会の無知と向き合うことに比べれば
大したことはありません
それはわたしの歩みを妨げる
唯一の理由でもあります
ある時 記者に質問されました
人生で一番辛いことは何でしょう
「貢献できないこと」と答えました
その理由は
人間の気持ちや技能は 人に伝えることで
はじめて意味を持つと信じているからです
世の中に還元するべき成果を
共有できないのは最大の悲劇です
想像してみてください
知識やエネルギーに満ち溢れているのに
何も貢献できないこと
能力のある大人なのに
子供のように扱われること
ひとりの人間として見られず
障害しか見られないこと
理解や認識の欠如が
差別や誤解が生まれる元となります
教材などの不足よりも
このことによる影響は深刻です
食べる物がなく お腹が空くだけで辛いけれど
それとは違う次元の辛さというのは
食べ物がないことが問題だと
気づいてくれないことです
物があるだけで
いろいろ可能になりますが
それは道具にすぎないのです
世の中の理解があってこそ
それらの道具は働き始めます
個人的に ここまでは長い道のりでした
ですが 教育された若者
社会的不利にいる人間の代表として言えば
まだやることは沢山あります
わたしの経験からわかったのは
世の中が変わっていくには
個人の成功だけがすべてではありませんが
始まりとはなりえます
この20年で失ったものは大きかった
でも学びも多かった
失明は世の終わりではありません
人生において何に出くわすかということは
自分では選べません
それを受けて対処してみようという力
それが世の中を変えることになります
ヘレン・ケラーは言いました
「扉が一つ閉じられたときに
がっかりしてそればかり見ていると
別の扉が開いたのにも気づかない」
ですから見るだけではなく
人生を経験して下さい
人生は見るだけではもったいない
みなさんはオープンな方々だと信じています
この多様な世界に生きるみなさん
社会の公正さや民主主義を信じるみなさん
障害者に手を差し伸べることをお願いします
可哀想だからではなく
理解をもって受け入れて下さい
ありがとうございます
(拍手)