トニーです "Every Frame a Painting"の時間です 私の好きな引用を。 A・マッケンドリック監督いわく "映画監督が本当に演出するのは観客の注意です… …演出とは強調の問題なのです… …重要なものを強調するのです… 裁判長 2分ください マック …ちいさな ひと押しによって。" 邪魔するな 妹様からメッセージが 近頃は ほとんどの監督が強調するのに クローズアップから… クローズアップして… クローズアップします。 けれどあまりに多いcoverageは俳優には負担です。 今では機械化しました 人物にどんどん寄っていく それで何もしなくなった なぜって何が起きているかを伝えるものは 全部揃っているからね。 それでは今日は別の選択肢を考えてみましょう。 標準的なcoverageの代わりに すべての俳優を同じフレームに入れて いっしょに演技させるのです。 別の言い方をすれば "アンサンブル・ステージング" アンサンブル・ステージングとはカットを使わずに強調を演出することです。 1番目のテクニックです。私たちは喋る人に注意が向きます。 話しかけられているのが誰であろうとも。 これはよく2番目のテクニックと組み合わされます。 より重要な人物をライトに近づけるか カメラに近づけるという。 もし目立たせたくないのなら 遠くへやりましょう あるいは焦点を外したり。 もちろん、注意とは相対的なものです。 たとえピンボケであっても 観客に何かを注視させることはできます。 動かすことによって。 私たちは人の手の動きや 目の動きを特に意識しています。 また、フレーム中央に何かを置いて誘導することもできます。 実は、これは映画の天丼ギャグのひとつです。 真ん中に映る登場人物は… 容疑者を攻撃し続けます。 この流れで5番目のテクニックへ。 俳優の体の向きです。 カメラに対して俳優はどちらを向いているでしょう? 私たちが見るのは顔全体…それとも3/4くらい? 横顔…あるいは全く見えない別の角度でしょうか? 複数の俳優を映す時には、 なんらかのバリエーションを用意することが重要です。 観客は人物を見る必要はありません。彼を振り向かせて。 これによってコントラストが作られていることに注目してください。 右の3人は顔を合わせ、ソ刑事は別のところを見ています。 実際、最初の30分は彼は常にメイングループから離れていて、 他の人が無視する文書を見ています。 これで7番目がわかります。 カメラを微妙に動かす。 注目してください、ここで焦点が絞られます。 4人から… …2人へ ここにいる間に私たちの注意は 討論の一方から他方へと移り 最終的な勝者の決定に向けられます。 そして最後に、人間は社会的な生き物であることを忘れないでください。 私たちは他人の視線に誘導されるものです。 それでは、ポン・ジュノ監督が何故アンサンブルを奏でるのかを考えてみましょう。 これは映画全体で私のお気に入りのショットです。 初めは1つの物語、2人の警官の口論だと思います。 ポン監督は何もしていないようです。 彼は私たちの注意を パク刑事からソ刑事に目を向けさせただけです。 しかしフレーム中央で何かが目を引き、 チョ刑事がホステスと いちゃついているのに気づきます。 これで2つのストーリーです。 全景と背景。 そして監督は2人を喧嘩させて対比させます。 シリアスと… …マヌケを。 シーンが構築されると、カメラをゆっくり押し込み、 女性たちを隠して、私たちの注意をメインのペアに集中させました。 そして、俳優たちに手を使ってストーリーを語らせます。 特に口論が彼の沸点に達した時に。 しかし突然、課長がシーンに割り込んできます。 アンサンブル・ステージングが完成する瞬間です。 予想外の第3のストーリーが他の2つを中断します。 ジョークと共に。 これ以降、シーンの残りは第3のストーリーで、 課長は連続殺人犯を捕まえるための計画を説明します。 しかし何故これを一度に行うのでしょうか? 私が思うに、テーマの強調です。 第1のストーリーは些細な口論。 第2のストーリーはただの欲望。 誰も職務を全うせず、みな自分勝手です。 第3のストーリーまで事件のことを考えません。 課長は文字通りフレームの道徳的"中心"を提供します。 もし監督がこのシーンをcoverageで撮影していたら、 ストーリーとの間に関連は見られなかったでしょう。 第1と… …第2の間に。 そして両方から… 第3まで。 これは今日では信じられないほど珍しい演出であり、 顔を切り分けるのではなく、アンサンブルとして 場面を合奏することの価値を示しています。 俳優というものでありたいと思うんだ 俳優そのもので 顔へのアップで語らせないでほしいとね