芸術を通して表現する事が許されるとー 人は偉大な物を作ろうとします 媒体が何であろうと 資金がどれくらいあろうと 流通形態がどうであろうと 人が何かを作るときー おもしろいものを作りたがるんです 人にハンマーと木切れを与えてもー おもしろいものを作りー コンピュータと ブロードバンドアクセスを与えてもー おもしろいものを作るのです 3、4、50年前は 人は物を作りませんでした 代わりに写真の展示に行ったり レコードを買ったりしました そしてプロの芸術家が存在しましたがー 今では 誰もが写真家で、映画作家でー 小説家でミュージシャンです 以前は10ドルか16.98ドルかそこらでー CDで売ることができました 秘密の謎だったからです それがどのように行われー 誰が行いー どうやったら自分にできるかが 今ではその謎は自明のものです なぜなら 誰にでも できるようになったからです 流れが分かったんです 芸術家にとっては大変恵まれた時代です 創造性を制限するものはなくー 技術発展は許す限りの創造の可能性をー 芸術家に提供しています 誰でも映画を作ることができます 5,000ドルあればカメラが買えー 買えなかったとしてもー 映画を製作し、配信する方法はいくらでもあります いろいろなプラットフォームがあります それらは表現を行う人にとって良い事ですがー 同時に 成功を難しくしています 次代のファスヴァンダー、次代のヴァンダー 次代のヒッチコック、次代のスコセッシがー 現在のビジネスで成功するとは思えません FacobookやYoutubeに初期作品を上げてもー ゴミクズの海の中で見失われてしまいます Time誌が2007年のベストパーソンとしてー "You." つまり“あなた”と“私”を挙げました 全世界的に自慰行為が横行しています かつて、芸術家になると裕福になりー 共有できるアイデアや情熱があれば 芸術家になれました 再びそこに向かうでしょう かつてない程に多くの人達がー 多くの芸術を、多くの手法で生むでしょう 世界中で出会ったほとんどの芸術、音楽ー 文学、創作表現分野の人達は皆揃ってー 喜びと不安を同時に感じています 将来の食い扶持は確かではありません しかしながら、作品作りの可能性とー 支持者との直接交流を 心から喜んでいます “レイキャヴィック(アイスランド)” オーラヴル・アルナルズと言います アイスランドに住んでいてー クラシックをポップミュージックに変えて 演奏しています クラシックをもっとポップにした感じでしょうか? はじめて音楽を作り始めたのは2006年の初頭でー 最初のアルバムを録音しました 最初の作品から3、4ヶ月でオンラインに音楽を上げー すぐに売り切れました とても早い展開でした 数年単位でなく 数ヶ月の期間で起きました 自分は新世代のクラシック作曲家だと思っています あるいは、ただ"音楽家"と言った方が ふさわしいかもしれません 2つの異なる世界を複合させる事でー コントラストが生まれますがー 一方でただの音の振動に過ぎません 理論的にはコンピュータから出る音とー ピアノから出る音に明確な違いはありません 両者ともスピーカーから出るときにはただの音波です クラシックは他の世界から本当に隔絶していてー その隔たりを壊してー 一般的なジャンルとして扱いたいのです クラシックとは別物としている扱われているー ポップやロック、ダンスミュージックなどと同じように “テクノロジーの力” 音楽を作り始めたときはー ほとんど全てのタスクについて機材が必要でした ボーカルをEQしたいとき 楽器の音域やダイナミック・レスポンスを制限したいとき 洞窟にいるみたいにエコーやディレイを加えたいとき それぞれに専用の特殊な機材が必要でした 古いドラムマシンはー 変なMIDI/DIN同期変換機を通してしかー シーケンサーと通信できませんでした だから電子音楽を作る際にはー 音を出すだけでも難しかったのです 例としてLouder Than a Bombをー 作っていた時を思い出してみるとー ミュートをする必要がありました 10トラックくらいを一度に 全部を一度にミュートするんです でも自動制御はありませんでした だから皆で音楽を聴いてー タイミングに合わせー 1、2、3って具合にー 皆が同時に行う必要がありました そして 離すのも同時である必要がありました 今と比べて昔は 音量調整 ひとつ とってもー そういったやり方をする必要がありました 大きな違いはー 当時は30歳とか35歳くらいでなければー 人材も資金も足りずに録音ができませんでしたがー 今では自分のコンピュータで できます 誰にでも できます 音楽を始めた頃にー 継続できた理由の1つはー コンピュータを使って多重録音ができたことです ベースを弾いた上にギターやボーカルを重ねたり しかもそれが簡単にできたからです ソフトウェアなのでー どんな若者でもー 海賊版かどうかに関係なくー Reason、Logoc、Abletonなどを使ってー たった5分で できるのです 20年前は 半年か1年かかったことが "カラーリスト"にはいろいろな側面がありますがー 基本的には、映像の"見栄え"の調整を行います 明るさ、コントラスト、色、彩度など 映像に見栄えを与えるのです "これ"をはじめた頃は フィルムのロールを取り出してスキャナーに載せ 映像を作るためにスキャナーの光量を調整していたんだ そこまで大きな違いはないけど 今ではフィルムロールの代わりに ファイルやシーケンスといったものを使ってる "RED"はおそらく最新の、言わば デジタル・モーションピクチャーカメラです 最も革新的なところは 多くの人が言うように 価格の桁が違うという点よりも 高品質なモーションピクチャー画像を 多くの人が作成できるという事実にある それが一番大きい もっと安いカメラはいつでも買うことができるけど あの価格帯であのイメージ生成ができるカメラは 今までになかった それが一番革新的なところだね ロサンジェルス 今、ある意味 歴史的とも言える RED STUDIOSにいます ここは5つある音楽舞台の内の1つで こっちでは今、大きなREDプロジェクトを撮影しています こっちでも、こっちでも撮影をしています ここの舞台は実地研究所として使っています フル4Kのシアターがあって カメラや作業行程のテスト いろんな理論のデモなどを行っていて 実際に今、これから行うテスト用のセットを作っています この"RED"全ての反乱の初期に カメラを作っていた時 多くの人が絶対成功しないと思っていました ただ笑って からかっていました 詐欺だとか、お蔵入りとか 時間とエネルギーの無駄だとか 狂った"RED"の連中のために時間を無駄にするな 実際は何もできやしないからと それがこの反乱の全てです できないと言った人達の言う事を信じない事 道具としての"RED" そして映画製作の観点からそれが持つ意味は とても興味深い なぜなら製作されるはずのなかった多くの映画が 製作される事になるからです これは映画に多くの選択肢が生まれるということ より多くの創造性が日の目を見る、ということです 映画製作の仕事が私にできるとは思ってもいませんでした 映画が大好きだったし、執筆も好きだったけど 人生でそれができるようになる事が起きることはなかった それが起きたのは 2005年の"South by Southwest"のような映画を 見始めた時だった 人々がマンブルコア(口ごもる)映画と呼ぶ デジタル撮影の短編の物語で 同世代くらいの人達が作っていたのだけど 突然思ったの これは違う世界で今や誰でも映画が作れるって 以前よりも多くの若者が多くのツールを 入手できるようになってきていて 以前は高価だったので上流の人々しかできなかったことが 今では、かなり安く映画を製作できるようになった 大資本の映画並の質かどうかは別として、それも可能だけど とにかく今では映画製作を安く行う方法がある 編集を安く行う方法、撮影を安く行う方法 配給を安く行う方法 より多くの若者がそれを行う事ができるようになっている Jimi Hendrixは エレキギターが存在しなかったら 当時のこの17歳の少年は想像できなかっただろう よし!この音を作るためにエレキギターを発明しよう! とはならなかっただろう エレキギターは実用的な理由に基づいて とても実用的に発明された 1930年代のビッグバンド時代のリズムギターは 音量を大きくする必要性があり テクノロジーを使って音量を大きくしたのです つまり、言いたい事は テクノロジーが常に先じて 芸術家は後からついてくるのです 例えばジミヘン こうやってワーンと音を鳴らしてみて かっこいい、これを使いたいって だから芸術家は常にテクノロジーの後に来るのです 油絵を発明したのは芸術家ではないし ムービーカメラを発明したのも芸術家ではない テクノロジーは一般的に 何か他の目的で発明され 芸術家がやって来て 乱用したり 変えたりする そういう意味でテクノロジーは偉大なんだ 音楽をやる主な目的は人に刺激を与えるため どんな形であろうとね 例えば刺激を受けてアートを作りたいと思うとかね それは必ずしも1つとは限らない 例えば僕が音楽を作って人に聞いてもらい 彼らからいろんなアートを送り返してもらってる いつも何かしら、ビデオや絵画、写真 曲のネーミングとかをもらってる これを双方向でできないかと思って ファンが僕を刺激して、一緒に作る おもしろいコレボレーションだよ たくさんの人と行う巨大なコラボレーション それでプロジェクトを始めたんだ 曲に対する作品を作って僕に送るように奨励して プロジェクトの一員になって また僕を刺激し 最終的にいくつかの作品を 曲のアートワークとしてリリースする そのプロジェクトではたくさんのビデオを受け取ったよ 人形のコマ撮りとか、すごいのを本当にたくさん 特に気に入ったのは 今まで会った事もないアルゼンチンの人のもので とてもシンプルなヴィジュアルで 音を視覚化した感じで 色が音楽に合わせて動く ある色がヴァイオリンでもう1色がピアノで それでメールを送ったんだ こんにちは、オリバーです ビデオを見て、これを宣伝したいって 曲に対するオフィシャルビデオとして 他の人の作品やアルバムのアートワークに対して したのと同じように 彼はそれをとても気に入ってくれて 最終的にそれが今までで一番成功したビデオとなり 一昨年の僕の成功はこれに寄るところが大きかったんだ 産業は死んだ 芸術の世界では、かつて 作品を入手する場所が明確だった 娯楽を手に入れる場所が 器があったんです テレビだったり、建物だったり 時には新聞の一面だったり それは素晴らしい事だった ただ当然、同様にその古いやり方には代償があって それは、あなたの選択をだれか他の人が決めていて その人達も人間ですから 必然的に限られた範囲での主義や嗜好や考えのものであった そして、不幸にも、伝統的に、そして一般的には それは特定の権力を持ったグループを代表するものだった 自ら権威づけられたグループ 他人に権威づけられたグループを 言うならば、一般的には白人達が 新聞の一面で美術館での出来事を知らせていた 少なくとも伝統的には 芸術には古い歴史があり 音楽にも古い歴史があり 絵画や彫刻や演劇にも古い歴史がある しかし、産業が生まれてからは ほんの50年です 音楽産業、映画産業と呼ばれるもの それは最近の話です かつての生産システムはその過程に確かな価値をもたらしました 原子の時代には 音楽や映画を記録するには資本が必要で さらなる資金と専門性が TV局や新聞といった限られたチャンネルへ 流通させるために必要でした こういった手段がとても高価だったために 本当に限られた芸術家しか紹介されてこなかった 『パーミッション・マーケティング』を書いた後 やり終えた感じで、全く書く気が起きなかった そんなとき、Malcolm Gladwellが 推薦文を書くために『tipping point』を送ってくれて それを読んで、何か分からないまま突然ひらめいて 10日か12日くらいで本を書き上げた 彼の影響を受けて書いた本 それが『Unleashing the Ideavirus』だった 本を書き終え、読んでみると アイデアの拡散の仕方に関するものだった 次はどうする?って思って なぜなら、そこで無償のアイデアはより速く拡散し 拡散したアイデアが勝利することを書いていたから だから出版社へ行って 一昨年にニューヨークタイムズのベストセラーがあったにも関わらず 新しい本ができたよ 出版してもいいよ だけど今すぐ出したい だから、オンラインで無料で配布したい、とね すると出版社のお偉方が言った 是非出版したい だけど無料ではできない そして出版には1年かかる、ってね だから僕は信念に賭けて 本をオンラインでeブックに投稿したんだ 初日に3000人がダウンロードした たいした数じゃない でも次に6000人、その次は12000人 そして100万人、そして今に至っては500万人だ 僕が使ったのはノートパソコンとインターネットだけだよ それで500万人だよ それでお金になるの?って聞かれるけど そもそもお金を作ることが目的ではなく 主張がしたかっただけだ そして主張ができた アイデアが拡散する方法についての そこでおもしろいことが起きた 人々が私にメールをよこすようになって 気に入ったけど画面上で見るのはごめんだ、って そこですぐに印刷屋に一本電話をかけて 自費出版版を用意して アマゾンで40ドルで売り出したんだ 2000年頃の話だけど 200ページの本にしては破格の40ドルだよ ベストセラーの5位に入り 誰かが日本語に翻訳してさらに4位に入り その他の言語にも翻訳されだして 配布した本よりも多くのお金が手に入ったんだ そして今まで売ったどの本よりも そこで学んだことは うまい儲け方ではなく 全てが変わり もはや産業は死んだということだ あらゆる事が民主化することに賛成だ 民主化すればする程良い そしてインターネットは民主化にとって素晴らしい物だ 音楽を皆が作ってアップすることができるという事実は 私は基本的に、素晴らしい事だと思う でもそれと同時に物事をどんどん押し進めている 皆が曲を素晴らしくするために 高価なスタジオで1月かけていたような事が 自前でできるようになったと思っていたが 全てを変えてしまった それも過去にものにしてしまっているんだ 今では誰でもできてしまう 物事は変化していて 私は変化していることを好む 10年前は コンサートに行けば ステージに演者がいて それに対する1万人の観客がいるのが当たり前だった 将来、そして今からのメディアでは コンサートに行くと1万人の人がいるが 違いは 彼ら自身が芸術家と自負し 他の人が観客だと考えていること 問題は、皆が同様に考えている点だ 芸術家と観客を混同する罠に陥り 観客の方が有識で、権威があり 創造的で、才能があると思い込むとき 別の約束を前提としがちだ つまり、急進的な民主化をありがたがる そして文化的、政治的な意味合いで言う"民主化"を 定義通り、あるいは良く言えば最新のビジネスである 芸術創作におけるそれと混同するのは間違いだ この脱工業化の時代では 自動化や孤独、コミュニティの崩壊により 創造的な行為を通して 自分達の心を満たすようになった 街に出ると 誰もが小説を書き、映画を作り 歌を作る事ができると思っている だから子供達がこぞってバンドに入り 皆が座って偉大な本を書こうとし ビデオカメラを買ってYoutubeに動画をアップしている 多くの人が音楽を作りるようになり 音楽は間違いなく民主化された 誰もがアルバムを作る事ができる どんな個人でも 最低限のソフトがあれば 音源を作る事ができる 音源をネットに載せ 全世界に存在を知らせる事ができる 問題は皆がそれをやっていることだ 誰もが成功したミュージシャンになれるでしょうか? 誰もが音楽を買ってくれるファン基盤を持てるでしょうか? 間違いなく不可能です 才能のある人と、ない人がいるからです それが不幸な現実です 多くが望まない現実です 大多数は才能がないからです だから、真剣な若い映画製作者にとっては とても憂鬱な時代です 大衆に任せると 全てが民主化され 全てがクリック数によって決められてしまい 芸術家の真剣さを台無しにしてしまう "grey goo"という考え方があります 自己複製を行う極小のバイオマシンがあるとすると 世界中がその"grey goo"で覆われることを止められない その小さい奴が自分以外何も残らない限り 自分を複製しつづけてしまう、というものです 芸術と文化も同じような原理に至るかもしれない 皆が音楽家で、二流の音楽を作っていると 結果として世界は二流で覆われてしまい 二流で満足するようになってしまう それは危険なことだと思う 輝くべき文化的な新時代への入口にいるという 証拠は何一つありません 証拠があるとすれば 著書やその他で言っているように 文化的な暗黒時代の入口にいるかもしれないということです コンスタンティノーブルが崩壊し 創造的な世界が破壊され 自己主張を吐き出すだけの 民主的文化の危機に 誇大広告とそれに対する反動の時代です その交互の流れは継続的に存在します とてもおもしろいのは 2年前には"次に来るのはこいつらだ”と言って 誰もが話題にしていたバンドが 今ではどこに行った? 知らないって 次に来ると思っていたこっぱずかしい流行やサブジャンルがあった たくさんの批評家やブロガーが互いにマスかいていた 新しいものを発見するのは安易だから 将来自分達が少し恥ずかしくなると思う "マンチェスター" コンサートをしに マンチェスターに来ています フルオーケストラで 指揮者のアンドレ・デ・リッダーが— 一緒にやらないかと連絡をくれて— 新しいアルバムをフルオーケストラ用に— アレンジし 初演するんです 私にとって とても重要な出来事です フルオーケストラ用にアレンジを行うのは 初めてですが— それができることを— うまく行けば 証明できるからです "ロイヤル・ノーザン・カレッジ・ オブ・ミュージック" UKで一番の音楽大学でー いくつかの学部は国でも一番です 若いミュージシャンが多く— オリバーが来た時も大変驚いていました "子供じゃないか!"って でも同時に 彼らが演奏するのを聴いて— 素晴らしい音を奏でる 成熟したミュージシャンであることに— さらに驚いていました 元々の構想は— 毎年度末に行っていた— 博物館やギャラリー、去年は駅舎など— 外へ出て 普段は音楽がない場所で 演奏をするというものでした ここはコンサート・ホールで— いつも音楽が存在しるので— 今度は逆に— 保守的なオーケストラがやらないような形で— そういった場所では演奏されないような— 音楽を集めることにしたのです 私はクラシック畑の人間ではないので— アレンジもよく分からないまま行いました オーケストラのためにアレンジをしたことはないのに— 突然 ストラヴィンスキーが隣にあるようなー ショーの主役になりー 若いのに大きなショーをやるのでー 天才か何かと人が期待するけど— 実際はトンチンカンで落胆するかもしれないと思いました でも重要なのは良いことでー ルールや慣習ではなく いいものを演奏する事だと理解してくれることを 期待しています "アーティストがパワーを持つ" ニューヨークの広告週間で最近— パネリストをすることがありました "デジタルな才能の不足"というパネルでした 広告業界の重役達が話していたのは— デジタルな才能の不足に関してでした かつてない程 少なくなっていると 私はそう思いません むしろ増えていますがー マディソン街の小さな箱や代理店のためではなくー 自分のために 自分のソフトウェアとハードウェアでー 働いておりー 自分の意欲や情熱のために製作を行っています アーティストが力を持つ時代にいて 自分達が持っている力を認識しないことにー 混乱します アーティスト無しにはレコード会社は成立しません アーティスト無しには会場は埋まりません アーティスト無しにはTシャツも売れません クリエイティブな世界は— 知人と その知人を知っているのが誰かによってー 分断されていてー 状況に依存していました 今 新しく ユニークなのはー 才能のある人がー 個人で発信し 自分のキャリアを作ることができることです 代理店で働く必要はないんです 自分の仕事やブランドを作ることができるのです "東京" とても独立的で、自主運用されー 自分達やファン、そしてー 音楽や映画、絵画などを通した創造の方向に基づいて キャリアの決定を行うー 新しいタイプのアーティストを見るようになりました ニューヨーク 簡単に言うとSHILOはー 大部分は旧来の制作会社ですが その成り立ちはそうではありません 旧来のモデルではディレクター、編集スタジオ、 広告代理店などがありー それぞれが製作の持ち場をもっているために 争いが生じていましたがー そういったことを止めようと言ってー 今ではディレクターがデザインや編集をすることもあります これは環境を全く変えてしまう複合的な形でー みんなが何でもできる という考えです デザイナーがディレクションをする時にー 従来とは異なったアプローチをするかもしれません それが異なる結果となって現れます 単にやり方の善し悪しの話だけでなくー 違った視点から得られる 違った結果になりえるのです ほとんど全てのひらめきは スケートボードから来ています そのような視点から世界を見ることから始めた 私達にとって興味深いことです ビデオを制作して自分達で配給し続けていたのは 私達が初めてです するとVHSカメラが発売され 自分達で撮影や複製をしてー 誰かに送る事ができるようになり スケートボードが始まったのです 夢を実現する、自分達でやる、 世間が言うことは気にしないー というところに本質があります 街に出てスケートをすることは 設えられた野球の試合を待つのとは違いー ただ やるんです 自分達で仕事ができる能力を持つ事はー 要素を組み合わせる方法を より自由に、視覚的に、魔術的にします そして 事前に準備された形ではなくー より即興的で、瞬間を反映したものになります 草の根的に、自己学習的にやっています ここにいる人の大半は自己学習をしています 一般的な教育は受けていますが 必ずしも映画やデザインの教育というわけではなくー 夢を達成するための個人的な成長のために やっています プロの世界で今 起きていることを学ぶ 形式的な訓練は無いと思っています 映画産業では専用のツールの使い方を学びますがー 必ずしも 製作や楽しむために必要な 基礎感覚の準備とはなり得ません “ロサンジェルス” “南カリフォルニア大学” アダム・ワトソンと言います ここで映画撮影術を学んでいてー あらゆる種類の書き物もしています 今は監督を担っているー ミュージックビデオに取り組んでいます たくさん学ぶことがあります 学校に行かずに仕事が手に入るなら上出来ですがー ロバート・ロドリゲスやタランティーノがー 自主制作で映画を作って 一晩の内に成功したという話はあまり聞きません オスカー受賞者や候補者の内、何人が 映画学校出身者かを見れば分かるでしょう 5年前でさえ 入学者の何割かはー 編集的会話術やアクション適合の概念を 知りませんでした ワイド・ショットで手が下にある場合にー クローズ・アップでここにあると どういう意味になるか? 必ずしもアクション適合をする必要はありませんがー 少なくとも4年生以降に実験的に学ぶ概念です 絵同士をつないでー ひとつの場面から次の場面に飛ぶと どうなるかが 試せるようになるからです 彼らはたくさんの映画製作の経験を持って 学校にやって来ます 時には全て、あるいは監督、撮影、編集、 作曲、役者といったように そのために彼らはイメージを 頭に思い浮かべる事ができますがー 共同者に対して いろいろな手段を使って 説明や表現をする必要がありません ですから、ここで私やこの学部が教えている核心はー 自分の物語りに参加してくれるようにー それを他人に対して表現できるレベルまで 理解する方法に他なりません 学生は変化の速さに慣れていなければなりません 5年後にはなくなってしまう今日の技術を 彼らに教えることはできません 彼らに教えなければならないのはー 効果的な物語りの方法、イメージの使用、 そして毎年変化する技術に慣れることです “工芸の消失” 創造的過程における デジタル革命の最も素晴らしい面はー 工芸の知識と 創造性 の分割方法にある かつては良い写真家になるためには 現像やプリントの方法、カメラの仕組みをー 知らなければならなかったが 今では関係がない 音楽でも同様で、素晴らしい音楽家になるためにはー 楽器の演奏方法や関連する技術の仕組みについて 熟知していなければならなかったがー 今はパソコンを起動する方法だけ知っていれば良い ボニー・ヴェアーは山小屋で あのレコードを作りました あれ以上のレコードを私は知りません いつも聞いています 20人で作ったと言われたらー いづれにしろ私は聞きたいと思うでしょう 同じ物や同じ個人的な経験が できたかどうかは分かりませんがー 興味深いレコードであることに変わりはありません 彼が書く曲は"山小屋の男"そのものです 惜しむべき物はありますがー スタジオの個人普及から興味深いものが 出てくるかもしれません 若いミュージシャンの罪は テクノロジーに頼り過ぎているということです 彼らは標準以下の部分的な仕事をしー テクノロジーにそれを補完することを期待します “それを直すツールを知ってる” “それを調律できる”、“それとこれを編集できる” “あれやこれやを調整できる” 不幸にも彼らはそういった道具が手に入ることを 知っています そしてそれが できてしまいます 本来、手間のかかる作業ですがー ほとんど全てを直すことができてしまいます 直し終わった後、パフォーマンスは存在しません 何も残りません 工芸はもはや必要ありません 小説家の工芸、アートの工芸、音楽家の工芸は 失われました 10年前にドラマーと一緒に作業をしていてー 音楽的に、あるいは正確性においてー 特定の箇所を演奏できなかった場合ー それができるまで やるか、 別の誰かを雇いました 今では同様に音楽的に、正確性において 特定の箇所を演奏できなかった場合ー その質が得られるまで私は編集を行います モータウンのレコードを例に挙げてみるとー 素晴らしいアーティストによって 全てが演奏されています 今では、全てのレコードとは言いませんが 私が作るようなポップスのレコードの多くはー 一般的に機械的に編集されー 人によっては、固い正確性ー コンピュータ的な正確性とも捉えられます アートや音楽における完璧さは 個人的に心地よくありません 私がビリー・ホリデイを聞くのは 脆弱性をもっているからです ニック・ドレイクを聞くのは 脆弱性と非完璧さをもっているからです 完璧なデジタル・アートには 恐ろしさとつまらなさ さえ感じます デジタル・アートや音楽を製作する製作サイドの エンジニアやプロデューサーのいくらかはー 脆弱性や美観や人間性を排除して ひたすら正確性を目標にしています 私にとって最も重要なことはー 45分の映画や、そのダイジェスト、あるいは youtube上の個人によるたくさんの短編を通してー 正直で、おもしろく、複雑な作品を見ることです そして、芸術性やおもしろさを考えずに テクノロジーを使って作品を作るのは とても安易だと思います なぜならそれらが私にとって重要であり 配給や撮影の方法は誰も気にしません 突出したアイデアがなければなりません 私は近代のテクノロジーを使っているので尚更です (RNCMの保守的な音楽家をはじめとする 近代音楽はー) (異なる分野に適応し、 学ぶ必要があると思いますか?) 将来的にそうありたいのであれば必要でしょう 何にでも適応する必要があります ひとつの種の音楽に留まっていたくなければ (演奏家としての技術は明らかに高いですがー) (いわゆる伝統的な形で訓練され、普段あなたが 一緒にやらないであろう人達と一緒にやるのはー) (どんな感じでしょうか?) 彼らが理解するのに少し時間がかかりました 最初は、マネージャーから個別のパートが送られー 少ない音符で、リハーサルの必要もないくらい 簡単なものだと思ったでしょう そうしてリハーサルに来ると 何が起こっているか分からずー 感情がありませんでした 全体の通しを行った後にー 突然理解したんです この人は普段行っているのとは 違うやり方をする人でー 適応しなくてはならないって そうして曲の物語や感情を理解する機会を得るとー 美しく演奏し始めました クラシックでのやり方にとらわれずー 感情とその表現に集中して演奏することができました 私は間違いなくクラシック界には属していません クラシックの音楽家として自分を捉えたことは ありませんがー その世界の人達が私達のやり方に賛否を 持っていることは理解しています クラシック現代音楽は閉じた世界でー それは恥ずべきことと思いますがー そこでの問題は、音楽が美しくなければならずー 慣例的な言語を使用しなければならないことでー この音楽の場合は 異なった文脈でそれを使用しておりー 攻撃的な批判を受ける可能性があります お金と努力の無駄だと クラシックの世界は こちらに属すには クラシックらしくないと言います ラジオ局からも同じ反応をもらいます ポップスのラジオ局にとってはクラシックすぎー クラシックのラジオ局にはポップすぎるんです 基本的にはどこにも属さないんです 音楽に対しオープンで、クラシック音楽と同様に ポップミュージックを好きだと思っていた友人でもー これは気に入らないかもしれません どの棚に入れれば良いかという風に カテゴライズすることができないために “時間、場所、出来事” 全てが変わったと認識したのはー 7年か9年前にEMIにいた友人からの話を聞いた時です たくさんの子供を呼んで音楽を聞いてもらう 消費者テストでー 帰り際に無料のCDを 持ち帰ってもらおうとしたがー 16-7歳くらいの子供達20人の誰もが 持ち帰らなかったそうです ヒラリー・ローゼンです 米国レコード産業協会の議長とCEOをしていました 1998年の売上は好調でした 売上は増加傾向にありー CDはまだ底打ちではありませんでした ショーン・ファナングとナップスターを創設しました アイディアが浮かんだ時は二人とも高校生でした 創設時には会ったことさえなくー インターネットを通じてコミュニケーションを とっていました 初期段階のナップスターの構想はー mp3ファイルの共有を 主婦でもできるくらい 簡単にできるシステムでした はじめてナップスターを使った時ー あらゆる音楽にすぐにつながることができると 分かりー 同時に、メディアや音楽についての考え方も 変えてしまうだろうと感じました 同じようにはいかないだろうと 家にはダイアルアップの接続があったのですがー 大学に来てはじめてイーサネットのT1接続があってー それは興奮しました 狂ってようにパソコンをやり、 閉じたのは2週間後でした 進行表示がmp3を1つダウンロード中で、 残り2時間だと表示されていましたがー それでも驚きでした まだ試したことのない会社役員と 話していた時のことを憶えています “今すぐパソコンの前に行って、 私の指示に従いなさい!”という具合でした ナップスターに出会った音楽ファンの大半はー 驚愕しました また、憤慨している人もいました 興奮と激しい怒りの間で 様々な感情をもたらしました 私達はレコード会社にとっての"目覚まし”でした ネット上でのコンテンツ配信の潮流を 彼らが認識せざるを得ないー 先駆けだったのです 前からー メディアとの関わり方を大きく変えてしまうようなー 何かを作る人になりたいと思っていました だからこそ私はナップスターには心酔しー それは一瞬で意識を変えてしまうものでした 今日の音楽はー 私達に向けて“流されている”ようなものです 人々は レコードは買ったりはしますがー 一から十まで曲を聞くようなことはなくー Facebookやmyspace、 メールを通して曲を手に入れー 音楽は雑音の流れのようなものなのです 子供のときはレコードを買ってきてー 純粋な集中の瞬間が訪れたものでした 全ての細部を楽しみー レコードやそれが針を載せて回転する様子を 見たりしてー 完全に集中していましたがー 今は必ず何かをしながら音楽を聞くようになりました ほとんどがそうです コンピュータの画面を通すとー データを処理しているだけのような気分になります 音楽を聴く喜びを拒絶しているようです メールチェックやtwitterの更新のようなー 一つのタスクとしてしか見ていないようです 価値が下がっている訳ではないと思います より個人的には聴くようになっています 80年代にもウォークマンはありましたがー 100万ものiPodがある状況は見られないものでした あっちで聴いたり こっちで聴いたりー 聴き方が“散漫”になったと言えます 心構えが変わってしまったと思います 映画を見に映画館に行くのは覚悟が必要です 家を出て 移動するような決断が必要になります 一方で家のコンピュータには2000もの映画がありー ひとつを試して 途中で止め また他のを試すことがー 3ドル程度で できてしまいます ある夜、映画と本を同時に見ていることに 気づきました それは狂信的で狂っていると言えます 映画を見ながらメールを見たり テレビを見ながら仕事も頻繁にします 私達はとても注意散漫な環境に置かれているのです それはテレビの編集方法を見ても明らかです バン、バン、バンとー リアリティー・ショーやMTVを見るとー 場面、フラッシュバック、グラフィックが写されます 作品の鑑賞を強く欲求する感じではなくー クリエーターはこの課題に対してー 人々に見てもらように仕向ける必要があります 音楽を録音するテクノロジーがー 20世紀の音楽を定義しました 全てのものが録音されー 販売されるべきものでした しかし、そのことがー “音楽”を制限しました 新しい時代に突入しようとしています 時間と、場所と、場面がより重要になりー 音楽が作られ、その経験を享受するための 要素となるでしょう アーティストが作った音楽をー 人々が無料でダウンロードできるようになるとー ファンである事を証明する物がなくなります "隣の人も無料でダウンロードした” そうなるとファンである事を証明する物がないんです しかし、ライブを見ることはー ファン以上であることを証明します ライブは本物のファンにー 演奏を購入し、宣言をする機会を 与えることができます なぜならそれは個人的な問題だからです 経験がより重要視されるでしょう その夜限りの出来事を見る経験が 録音された音楽は安価になっています 1曲79ペンスで買えー アルバム全体を買わずに、好きな曲だけが買えます ライブによって音楽の“危険性”が保たれるでしょう 誰もmp3やレコードでは驚きません ありきたりのものです レコードの発売日に並ぶことでは もう誰も興奮しません いつか発売されて聴けるのですから でもライブでは何が起きるか分かりません そして一度きりです CDやmp3では音楽をこんな感じで 平面的にしか見れません ライブだとこんな感じです 音楽に逃避し、陶酔できることをー 皆、恋しがっているんです そこに魔法はないと人は言いますがー 我を忘れ、没頭し、記憶に残る感情が ライブにはあります レナード・コーエンのライブの記憶がありますがー 鳥肌が立つ程の出来事で 一生忘れません 人は可笑しい生き物でー ダンスや相互作用をしたりー 楽しんだり、学んだりすることが好きです そういう風にできているんです 音楽と環境と若者にとってー 音楽を本当に楽しめるようになることは 素晴らしいことです それが再び 音楽産業の一部となりー 私の世界の一部にもなるからです 私はクラブに通う若者だったので、そうではなくー ライブはロックの人達のものでした 多くのミュージシャンは現在、ますますー ステージに立って観客とつながる方法をー 見つけざるを得なくなっています かつてはラジオのヒット曲を演奏すれば良かったがー 今ではその つながりは もっと純粋でー もっと人間的である必要があります CDやレコードで音楽を聴く体験はー ライブとは比較できません 異なった観客にアプローチするー 異なる体験だからです 1、2人の観客に対し、1.5万人です “マンチェスター” ここまで来れて光栄だよ 準備はいい? 僕が先に? いつ降りればいい? 心配しなくて大丈夫 本当に? 1920年代や30年代に生まれたー 他の産業の過去を振り返ってみてもー “あんなことができたのならー” “その場にいたかった!”と人は思います 今回のはそれより さらに大きい そのことを無視して "不景気で大変だ!”と言いますがー 最高の時なんです アーティストとして不確実性を 受け入れなくてはなりません 方向性を事前に決められる世界にはいないのです 闇の中をさまよい、何が起きるか分かりません それは、私にとっては楽しい事です 音楽産業は変化しておりー 他の事全てを置き換えてしまうようなー ひとつの新しい解答がなされるとは思いません 永遠に、多様で、未定義であり続けるかもしれません 10年後に現在を振り返って見てみたいです 映画産業が停滞するのか? 新しいやり方が始まるのか? この急速な変化が止まるのか? あるいはテクノロジーに習熟する者にとってー 物事は常に変化し、安定しないという現実なのか? 革命の問題は、とても単純化して言えばー ひとつの世界が死に、次の世界に自動的にー 置き換えられることを仮定していることです 革命が そうとは限りません メディアの世界も そうとは限りません 私達は古い世界を破壊したがー 何に置き換えられるか まだ分かっていません 何にも置き換わらないかもしれません 文化的営みの終焉を見る可能性さえあるのです 変革の時代にいると思います その中にいると気づきませんがー 20年後に振り返れば分かるでしょう 10年後に今を振り返って思うでしょう “なぜクラウドで編集しなかったのか?” “大きいカメラばかりで信じられない” 20年後、30年後、50年後にはー 切ない懐古的な気持ちで今を振り返るでしょう 25年前の携帯電話を見るのと同じように “大きくて、かわいくて、不格好で、 ある地域でしか使えない”って あるいは寄席演芸のようにー あらゆる旧式のテクノロジーはー 不格好で、繊細で、魅力がありましたがー 私達は前に進んだんです