Every Frame a Paintingへようこそ 映画が詩的と言うと どう思う? ゆっくり? 壮大? 中身なし? "起きて何かするのか?" 決まり文句だ "いえ" 僕にとっては 話とは関係なく 画や音がユニークであることだ 何度も観た映画が私の血肉となりました 話というよりキャラクターがです そしてとても変わったアプローチも 「間違えられた男」がそうです カメラの動きが恐れを生む 恐怖や不安がカメラと顔で作られる "同じ" リン・ラムジーも同じだ すべてをカメラと顔と細部に込めている 撮るものは全部コントロールしています 正しく配置されるよう時間をかけている 細部はシーンのすべてだからです 細部から学ぼう このシーン 息子がわざと行儀を悪くし 父親が来ると "おーい" "パパ どうだった?写真は撮った?" 父親は画面の端にいる 周りを見てないからだ 母親の恐怖も無視する "まだ子供なんだ そういうもんさ" まだ顔は見えずに このショット 何がわかるか 散らかりはひどくなっていく これは何を意味しているのだろう ラムジーの作品では 話が細部から暗示される 物はあまり置かれない そうして一つの細部に焦点を当てる ロベール・ブレッソンが言っていました 映像に音はなく 音に映像はない 過大に考えるなと 映画の偉大な点だ 映像と音だけで精神に訴える フレームと人の顔と細部によって 一つずつ行こう まずフレーム ラムジーは重要な情報を よくフレームから外す ここでは女性の目 ここではキャラがドアで半分隠れている 全部は見えなくても心情は想像できる 心情が語られてはいないから 少し謎めいている 2番目は 顔 スクリーンは人をそれっぽくさせる プロでなくても ラムジーはプロも素人も作品に起用した 素人こそ最高の役者です カメラの意識をなくせば カメラがないのと同じで リアルに感じる 会話なしで感情を伝えていく "ライアンにそっくり 目が同じ" 3番目 細部の繰り返し 映像の繰り返しに注意してみよう これは母と息子のボディランゲージ 次に10年後 同じことをする 息子は指でこうする そのあと母が卵の殻で同じことをする より前の映画で説明しよう 一つのイメージと別のを見る つながりが見えるだろう ではこの短編映画を観よう 「ガス男」1997年 内容よりも細部を紹介するが わかるだろうか "おぶって パパ" リンネと父親は線路で女の子に出会う ドレスをつかみ 手をつなぐ 顔は見えない その後 また手をつなぐが 今度は "どうした?" "痛い" 父親は二人を持ち上げる 最初でも同じことをしていた 最後 女の子は母に会う 線路にはリンネの後ろ姿 何が起きたのか? これを観せよう わかった? 前後の描写が子供の心情を表す 対象的な場面を通して 間接的で 詩的な映画製作だ すぐに響かなくても 後から来る 魅惑的な目があると言うのですね 視点が映画には置かれている 映画に実際現れている画として 画家のように 美が描かれている "カーテンをどうするの!" 映画には全可能性がある 音も 視点も 形式も その通り 違った映画作りを教える映画は多くない 大きくより 小さく 細部を見せ 多くより 少なく見せる 簡潔でいて 詩的 もし詩的とは何かと聞かれたら… わからない 逃げよう