-
午後は、黙示録に関係する物議をかもす点に
取り組んできましたが、この午後もそうします。
-
二大争点、議論されているのは、
一つは、携挙と呼ばれているもので、
-
二つ目はミレニアムです。
-
これらがこの午後に取り上げたい二つの論点です。
-
午後は頭を使うには最善の時ではありませんね。
特においしいランチを取ったならば。
-
皆さんの中には昨日断食をして、
今日は美味しいランチを取ったでしょう。
-
にもかかわらず、それは正しいと思うので、
今晩までに栄光の内に終えてしまいましょう。
-
先週と今週の私の講義の中で、皆さんに明らかですが、
-
私はクリスチャンが大きな困難、
大患難を通過すると信じています。
-
この時代の終わりのその苦しみは、選ばれた者達のために
神が短くはしますが、
-
しかし、如何に短いとしても、それは極めて難しい時、
クリスチャンにとってはとても難しい時です。
-
にもかかわらず、多くのクリスチャンは今日、それは
間違った教えだと信じて、
-
私が皆さんを迷わしている、
-
クリスチャンは全員大きな困難から逃れて、
それが起こる前に天に挙げられる、
-
従って、そのために心と思いの準備をする必要はないと
信じています。
-
黙示録を他のクリスチャンよりもよく学んでいる
クリスチャンがそのような見解を採ります。
-
多くの主流派の教会では、黙示録について
語ることは殆どありません。
-
殆ど教えることはありませんが、
-
他の教会、例えばペンテコステ、
-
特にブラザレンと呼ばれているグループは、
再臨をよく研究しています。
-
それは良いです。再臨について定期的に頻繁に説教し、
賛美をしているのは大いに褒められていいです
-
しかしながら、多くの人達、たぶんその大半の人達は、
私が皆さんにお話したことと違う見解を持っています。
-
彼らは言います。教会は携挙でこの世界から取り去られる。
-
この言い回しは少し誤解を生みます。
-
それはラテン語の聖書(Vulgate版)の
第一テサロニケ書の四章で、
-
私たちが空中で主と会うことについて、から来ています。
-
実のところ、それはこう言っています。
-
私達は、空中で主に「引き上げられる」、「掴まえられる」
-
その特別な句を訳すラテン語は、rapto rapterie 又は
英語の翻訳の「rapture」で、そこから取られています。
-
「rapture]という単語は、空中でキリストと会うために
引き上げられることを言っています。
-
私は「rapture]を信じます。聖書的です。
-
聖書は言います。私達は彼に空中で会うために
引き上げられるでしょう。
-
それは問題ではありません。多くの人が私に訊ねます。
-
「デイビッドさん、あなたはrapture を信じますか?」
-
私は言います。「もちろん信じます。私達は
全員空中に引き上げられます」
-
意見の本当の違いは、その携挙がいつ起こるのか、
ということです。
-
それが起こるか起こらないかではありません。
-
それは大きな困難の前に起こりますか、
-
その困難の最中でしょうか、
それとも困難の後でしょうか?
-
もちろん、これに関することは、私たちが
クリスチャンとして生きる生き方や、
-
キリストの再臨について他の人達への話し方など
多岐にわたる影響を与えます。
-
この歴史について学ぶことから始めたいと思います。
-
黙示録の解釈に対する、このアプローチには
特別な名前があります。
-
これをディスペンセーション主義と呼んでいます。
-
これは恐ろしく長い単語ですが、
皆さんはこれに出会うでしょう。
-
ですから、それを説明しておきます。
それが実際何を指しているのか。
-
これは黙示録のディスペンセーション的な解釈です。
-
おそらく、アメリカの福音的な大多数の
クリスチャン達に浸透しています。
-
しかしその起源はイギリスにあります。
これは後で見て行きます。
-
実際、イギリス、スコットランド、アイルランドの全てが
この特別なアプローチに貢献しました。
-
昨日の午後に、異なる四つの解釈の学派を見ました。
-
黙示録の預言、予測が成就する、実際に起こるかという時期によって学派が異なります。
-
しかし今日の午後は、黙示録の異なる解釈を見て行きます。
-
ディスペンセーション主義です。
-
それはいくつもの区分から構成されています。
-
皆さんのために掲げてみましょう。
-
それは、キングジェームズ版の
第二テモテの一節から始まります。
-
真理の言葉を正しく区分けすることに
ついて語っています。
-
その節から、聖書を正しい方法で
区分けしなければならないと思われました。
-
正しく真理の言葉を分けなさい。
-
実際は、キングジェームズ版の「分ける」と訳された単語は、実は「耕す」という単語です。
-
真理の言葉を正しく「耕す」。
-
その意味は、み言葉を正しく開ける、開ける、です。
-
分けるではなく、
-
開けるです。
-
しかし、キングジェームズ版は多くの人に、
それは切り分ける意味だと思わせました。
-
それが本質的に、ディスペンセーション主義が
したことです。
-
神の言葉は私たちが注目する必要のある、
大きな三つにわけられます。
-
これが、聖書全体と特に黙示録を解釈するための
ディスペンセーション的なシステムです。
-
最初の大きな聖書の区分けは、
七つのディスペンセーション、
-
七つの期間に分けることです。
-
なぜ彼らは、これらの七つの各時代に、
-
「ディスペンセーション」という言葉を使ったのでしょうか?
-
単純に、神は七つの各時代ごとに、異なった基礎に
基づいて、救いを与えた(dispense)と考えたからです。
-
最初のディスペンセーションでは
神はある方法で人々を救い、
-
二番目の時代には、違う方法で、三番目は、また
違う方法で、四番目、五番目、六番目、七番目と
-
神は常に人々を救いますが、七つの違った方法で救います。
-
これはとても驚異的な提案です。
-
しかしこれがディスペンセーション主義の中心です。
-
神が恵みを異なった方法で与えた七つの
ディスペンセーションとは次の様なものです。
-
最初は「無垢」のディスペンセーションです。
アダムを指します。
-
もし皆さんがノートを取っているようでしたら、今まで
取っていたノートとは全く別なページに取ってください。
-
理由は明らかでしょう。
-
二番目のディスペンセイションはカインからエノクまでです。
-
自己決定のディスペンセイションで、その間、
神は自己決定な人々を救いました。
-
三番目は、人の政府の時代でした。
-
ついでながら、二番目を三番目から分けたのは洪水でした。
-
洪水の後に、人の政府のディスペンセーションです。
-
それから、アブラハムと共に、首長のディスペンセーションが始まりました。
-
それから神は異なった方法で、アブラハム、イサク、
ヤコブ、ヨセフに救いを与えるようになりました。
-
モーセと共に、律法のディスペンセイションに入ります。
-
モーセに十戒が与えられて、それ以後は、律法を守ることにより救われます。
-
新しいディスペンセーション、神の恵みは十戒を守ることを
通して来るという新しいディスペンセーションです。
-
それはキリストが来るまで続きました。
-
恵みのディスペンセーションにキリストが一回目、来たことにより変わりました。
-
ディスペンセーション主義者によると、今、私たちは
信仰により恵みによって救われます。
-
今私が皆さんに話していることは、私が信じているものではありません。
-
どうか、私のティーチングとして取らないでください。
-
他の人が教えていることについての私のティーチングです。
-
再臨は恵みのディスペンセーションを終わらせ、
ミレニア(千年王国)に入ります。
-
人々は異なった基礎を元に救われます。
-
これが聖書を七つに分けるディスペンセーションで、
-
救いはこれらの時期によって全く異なります。
-
さて、この真理は何でしょうか?
-
その目盛りの反対側には、契約の神学があります。
-
プレスビテリアン、ルーテル派がそれを支持します。
-
契約の神学は、「いいえ、ただ一つのディスペンセーションが聖書全体を覆っています。
-
それは全て恵みのディスペンセーションです。
-
全ての時代の誰に対しても、唯一の恵みの契約が
優先しています。」
-
古い契約と新しい契約の間には何の違いもありません。
-
それは全て一つです。それは単に恵みが異なった仕方で表現されているだけです。
-
神が与えた全ての契約を通して、恵みによる救いです。
-
私の見方は、聖書に二つの基本的な契約があるというものです。
-
一つは、モーセを通しての律法の契約、
他方は、イエス・キリストを通しての恵みの契約です。
-
恵みの契約は今、律法の契約を無効にします。
-
私達はキリストにあって、モーセから自由にされています。
-
私はこれらの見解、立ち位置に言及していますが、
-
それは、クリスチャンの教会には、
-
契約という言葉とディスペンセーションという言葉には
広く異なった見方があることを示すためです。
-
しかし、七つに区分けできると言ったことから、
他の考えが出ました。
-
次の大きな区分けが、このように考えた人たちの間に
起こされました。
-
それはキリスト教の教会の中では、比較的最近の事です。
-
これらすべてが出てきたのは過去二世紀の事です。
-
二つ目の区分けは神の人々を二つに分けることでした。
-
現在の地上だけではなく、永遠に、永遠にアーメン。
-
ユダヤ人は神の地上の人々と言われ、クリスチャンは
神の天の人々で、二つは決して一つにはならない。
-
ユダヤ人には未来の運命があり、クリスチャンには
未来の運命があるが、それは同じではない。
-
永遠に続いていくと、新しい天と新しい地がある時に、
-
クリスチャンは新しい天にいて、
ユダヤ人は新しい地上にいます。
-
私達は天の神の人々であり、
ユダヤ人は神の地上の人々です。
-
ユダヤ人とクリスチャンはまったく別々で、
永遠にそのようになるというものです。
-
これらの教師達に導入された三番目の区分けは、キリストは二回戻って来るというものです。
-
彼は二回戻って来る。一回目はお忍びで、もう一回は公に。
-
彼は最初はお忍びで来て、世界は彼が来たのを
知ることはありません。
-
彼らは、クリスチャン全員がいなくなったことを知ります。
しかし、キリストが来たことは知りません。
-
突然クリスチャン全員がいなくなった、
そして数年後に彼が地上に戻って来ます。
-
二回目ですが、実際には三回目です。
彼の聖徒達、天使達と一緒です。
-
これがディスペンセーション主義の図式です。
-
ですから、聖徒のためにお忍びで来ることと、
聖徒達と一緒に公けに来ることがあります。
-
これは深く、深い違い:結果を
-
私達が再臨を見る見方の上にもたらしました。
-
なぜなら、もし彼が大きな困難の前に
ご自分の人々のためにひそかに来るならば、
-
それは今すぐにも起こり得ます。
-
言葉を変えて言うと、彼が来る徴候はありません。
-
預言のカレンダー上の次の出来事ですから、
彼は今晩、あるいは明日来るかもしれません。
-
彼がひそかに来る警告を私たちは全く持っていません。
-
聖書が与える彼の再臨に関する全てのしるしは、
-
大きな困難と反キリストと私たちが話したことすべてに
関係しているからです。
-
しかし私たちが、これらすべてのしるしの前に
いなくなるのであれば、私たちはそれらを見ないでしょう。
-
従ってこの図式を持つ者達は、人々に言います。
-
「あなた方はイエスが来るための準備を
しなければならない。
-
今晩、この午後、私がこの話を終える前に」
-
どんな警告もないでしょう。見るべきしるしはありません。
-
彼はひそかにやってきて、クリスチャン全員を
取って行きます。
-
私は多くのアメリカの車に乗ったことがあります。
-
それらの車の助手席の前に、小さな注意書きがありました。
-
「もしあなたがラッパの音を聞いたなら、すばやくハンドルをつかんでください」
-
私はそれがどういう意味か知っています。
-
これらの車を運転している人たちはこれを信じています。
-
彼らはキリストがいつでも戻ってくることがあり得ると
信じています。
-
あなたが彼らの車に乗っている時に、彼らは
居なくなってしまうかもしれないので、
-
巨大なトラックが迫ってくるのを避けるため、
あなたはすぐにハンドルをつかみなさい
-
これがディスペンセーション的な未来の解釈です。
-
私は公平であろうとして、それがどんなものであるかを
皆さんにお話ししました。
-
その歴史をお話しするかどうか迷っています。
そうしなければならないと考えます。
-
しかし、最初に概要から行きましょう。
教会が大きな困難を逃れて、
-
いわゆる携挙は、クリスチャンのカレンダー、
神の預言のカレンダーの中の次の出来事であって、
-
従って、全く予期だにされず、差し迫っていて、ある意味、
もういつでも起こり得る、いつでも。
-
それが基本的な図式です。このティーチングが何故アピールするのか、私は理解できます。
-
とても深いアピールです。
-
不快感よりも慰めを欲しい人、
落ち込むよりも、励まして欲しい人達にとっては。
-
「大きな困難に関しては心配しないで、あなたは
その中にいないでしょう」と言われるのは、
-
よい知らせです。間違いありません。
-
従って、ある意味、人間の心はそれを
信じるように片寄っています。
-
私達は信じたいのです。私たちが話していたこと
すべてから逃げられることを。
-
そこにはある種のバイアスがあります。
-
慰めだけではなく、それはチャレンジとしても
用いられます。
-
これを信じ、キリストがいつでも戻ってくると信じている
多くの教会や交わりの中では、
-
これが福音のアピールの中でしばしば用いられました。
-
特に、申し訳ないですが、
これらの交わりの中の子供たちです。
-
私はとても多くのクリスチャン達に会いました。
彼らは言いました。
-
「子供の時に、朝起きたら、親がいなくなってしまうのでは
ないかととても恐れて、最初の信仰告白をした」と。
-
これが子供たちに伝道するために使われました。
-
あなたのお父さんとお母さんはクリスチャンです。
-
もしイエスが今晩来たら、彼らはいなくなるでしょう。
あなたが朝起きたら、あなたはひとりですよ。
-
それは子供たちに使うには強力な動機です。
私は悪い動機だと信じます。
-
使徒たちはそんなことを子供たちに
決して言わなかったでしょう。
-
イエスは決して言わなかったであろうことを
私は確信します。
-
それを子どもたちの前に出すのは、
とても間違った動機です。
-
それにも関わらず、人々がキリストに来て、
-
その残りの生涯、彼の忠実なしもべであり続けることを
私はとてもうれしく思いますが、
-
それでもそれを人々の前に出すのは間違った動機であると、
私は信じます。
-
ですから、それはクリスチャンにとって
慰めとして用いられてきました。
-
「困難の前に天に取り上げられたくないですか?」、
-
これはクリスチャンではない人達にも
チャレンジとして用いられました。
-
「もしイエスが今晩戻ってきたら、
あなたは準備ができていませんよ」
-
これは説教を聞いている人たちの上に、
時間の圧力をかけます。
-
しかし、これだけでは、これが正しいのか
間違っているのか決定することができません。
-
この考え方の歴史もそうすることはできません。
-
皆さんにこの歴史についてお話ししたく思います。
なぜなら、ある教義の系図は重要だからです。
-
十九世紀以前、誰もこれを教えず、聞かず、特に、
誰もそれを聖書に見つけていませんでした。
-
これは私にとっては、ある重みがあります。
-
神はみ言葉を通して、私たちに示したい真理と光を
もっと持っていることを私は知っています。
-
それにもかかわらず、もし千八百年間、
誰もそれを聖書の中に見つけなかったのであれば、
-
私の思いの中に、一つの疑問が生じます。
-
「何故彼らはそれを見つけなかったのか、
もし、そこにあったのであれば?」
-
その質問には、これからすぐに答えます。
-
三本の糸が1830年に一本になりました。
-
一本はスコットランド、一本はアイルランド、
もう一本はイギリスから。
-
その三本とはこれです。
-
スコットランドのクライド川沿のポート・グラスゴーと
呼ばれるところに、スコットランド人の女の子がいました。
-
彼女は重い病気でしたが、主が彼女の身体に
癒しの力で触れました。
-
彼女は預言者となり、主からの言葉を伝えました。
-
彼女の名前は、マーガレット・マクドナルドです。
-
彼女の預言の一つは、それほど明らかではありませんが、
彼女の預言の一つは、
-
主からの約束で、主がご自分の民を大きな困難、
大患難から守る、というようなものでした。
-
それが蒔かれた種のようです。
-
スコットランドの教会にヘンリー・アービングという
著名な牧師がいました。
-
彼はそれを取り上げて、それと共に走りました。
-
彼は注目に値する人でした。彼はカトリックの
使徒的教会を始めました。
-
彼はある意味、英国の最初のカリスマ派、
ペンテコステ派でした。
-
彼は異言と聖霊の賜物を経験して、
それらについて語ったからです。
-
それはペンテコステ派が出てきた時より、
はるか以前の事です。
-
彼はスコットランドからロンドンに転居し
-
カトリックの使徒的教会を創設し、
巨大なカテドラルを建てました。
-
そこは私が以前住んだことのあるところから
約2マイルのところです。
-
サリーのギルフォードのオーバリー・パークと
呼ばれるところです。
-
そのカテドラルは未だにそこにありますが、
空っぽで使われていません。
-
しかしそれは、広い公園の敷地内にあり、
邸宅です。オーバリー・パークです。
-
そこにはDr .ヘンリー・ドラモンドと呼ばれる人が
住んでいました。
-
Dr ヘンリー・ドラモンドは聖書の預言に魅せられて、
預言を特別に研究しました。
-
そして聖書の中にある予測を解釈することに
興味のある人々を集めて大会を開きました。
-
オールバリー・コートの大会に、ヘンリー・アービングが
スコットランドから参加し、
-
アイルランドのダブリンから英国国教会副牧師の
J ネルソン・ダービーが参加しました。
-
もし皆さんがブラザレンに属していないなら、
彼の名前を聞いたことが無いかもしれません。
-
しかし皆さんがブラザレンに属しているなら、
確かに聞いたことがあることでしょう。
-
彼はムーブメントを始めた人です。
-
彼は来て 大きな困難が始まる前に逃げ出す話
を聞きました。
-
彼は聖書に戻って、それを多くの箇所に
見つけることができると思いました。
-
そして彼はそれをブラザレンのムーブメントの
土台となるティーチングとしました。
-
ブラザレンの中には二十八もの種類がありますが、
-
私の叔父はイギリスのブラザレンの
指導者達のひとりでした。
-
彼らはあちこちに広がりました。私の親戚のひとりは
-
南アメリカの海岸、ブラジルを上り下りして、
そこでブラザレンの集まりをあちこちに開拓しました。
-
それですから、私の家系には、ブラザレンがいます。
-
しかし、ブラザレンの中でも、これについては
完全な同意を得ることがありませんでした。
-
特にある一人の人はダービーは間違っていると信じて、
この教えからブラザレンを救い出そうとしました。
-
彼の名前を、皆さんのある方々は
聞いたことがあると思います。
-
彼の名前はジョージ・ムーラーです。
-
ジョージ・ムーラーはネルソン・ダービーより
広く知られています。
-
彼は孤児院をもっていました。信仰によって建てた
大きな孤児院です。
-
信仰によって、と言うのは、彼は決して、一度も
お金を求めなかったからです。
-
彼は彼らの必要を決してどんな人にも
話すことをしませんでした。
-
何百人の子供たちと、彼らに何も与えることが無いのに、
朝食に着いて座ります。
-
彼は食前の祈りをし、子供たちのために
主が備えた食事のために感謝します。
-
彼が食卓の上に食事が全く無いことに感謝した時、
-
彼らに、孤児院の外での騒ぎが聞こえました。
-
丁度外で、パン屋の車の車輪が脱輪し、
パン全部を通りにぶちまけました。
-
そして彼らは単に主に感謝して、パンを拾い上げて、
子供たちに持って行き、朝食をとりました。
-
これがジョージ・ムーラーという人でした。
何という人でしょう。
-
彼は信仰の人達のひとりとして知られていますが、
-
ネルソン・ダービーのティーチングに反対したことは
あまり知られていません。
-
しかしながら、ダービーが勝ち抜き、ブラザレンの
ムーブメント全体としては、このアプローチを信じており、
-
イエスがいつでもやって来るということを信じています。
-
ダービーはアメリカに来ました。
彼はひとりの弁護士に会いました。
-
Dr.C・I・スコフィールドと呼ばれている賢い人です。
-
彼はこの見解をその弁護士と分かちました。この弁護士は
素晴らしいアイデアを思いつきました。
-
これを中に記述した聖書を作ろう。付記という形をとって、人間の付記です。
-
そうして、スコフィールド・バイブルはページの上に
神の言葉があり、下に付記があります。
-
それはネルソン・ダービーから取ったものです。
-
それは十九世紀のアメリカで、
聖書のベストセラーになりました。
-
先週言ったことをまた言わせてください。
-
決して、決して人間の付記が中に入っている聖書を
どうか買わないでください。
-
沢山の注釈書を買ってください。聖書に関する本を
買ってください。より多く買う方が、より良いです。
-
問題はあなたの脳は、スコフィールド・バイブルの様な
聖書を読んだ後には、
-
それがページの上にあったのか、下にあったのかを
憶えているほど賢くはありません。
-
読んでいたことが神の言葉なのか、それとも
人の注釈なのかがわからなくなります。
-
その聖書を買った多くの人が、完全に混乱してしまい、
ただ言いました。
-
「ええ、それは、私の聖書の中で読んだので、
真実に違いない。」
-
しかしそれは、ページの下半分にありました。
問題がわかりますね。
-
読んだものがページのどの部分なのかを記憶するのは
とても難しいのです。
-
もしあなたが人の憶測や、神の言葉を説明する試みが
一緒に入っている聖書を持っているならば。
-
ですから私は注釈書や本は自分の聖書から
かなり離して置き、
-
準備する時には、ランチの時に若い人達に言いましたが、
-
バイブルスタディの準備をする時には、
-
聖書と自分にやって来ることすべてを書き留めるための
紙の山だけで、何時間も過ごします。
-
聖書から得られるものすべてを得た後で、
-
見つけたことを他の人が発見したことと確認し始めます。
-
そのようにして、私は聖書の準備をします。
-
私は他の人のコメントによって、自分が見つけたことに
関して影響を受けたくありません。
-
自分自身で見つけることができることを
全て見つける前には。
-
ただ聖書を開いて、聖霊に導いてくれるように頼みます。
-
これがとても大切だと思います。
-
もし皆さんがバイブルスタディの注釈を使用するならば、
-
毎日読むためのノート付きのバイブル・リーディングが
多数あるので、
-
神の言葉よりも、人間のノートにより多くの時間を
費やさないように注意してください。
-
しばしば、このようなものを使うと、
-
節の間を飛ばしてしまい、人間のノートを
学ぶことになってしまいます。
-
本来は、聖書を学ぶことが要求されているのですが。
-
しかし聖書に関する人間のコメントは役には立ちます。
他の人達が見つけたということは、
-
あなたが自分で見つけたことと
比較することができることを意味します。
-
ですから他の人達のコメントを使わないようにと
言っているのではありません。
-
私が言っているのは、それらのコメントをあなたの聖書の
中に持たないでください、ということです。そうすれば、
-
それら(注釈)が神の言葉であるとは思わないでしょう。
まあ、そういううことが起こりました。
-
スコフィールド・バイブルは英国でよりも
アメリカでよく売れました。
-
しかしそういうことは、そこ(英国)にもありました。
-
私はかつて、英国の休暇キャンプのとても
大きなクリスチャンの集まりで、このことを言いました。
-
その日遅く誰かが、ごみ箱にあふれるほどの
スコフィールド・バイブルを見つけました。
-
私の名前は泥まみれになりました。
-
私について言われたことは、ひどいものでした。
-
どうして敢えて人々に彼らの聖書をゴミ箱に
投げ入れるように言うなんて。
-
私はそのようなことは一切言いませんでした。
-
何が起こったかと言うと。青天井のキャンプ場に、
本の売店がありました。
-
突然雷雨が来て、全てのスコフィールド・バイブルに
雨を降らせました。
-
それは神がやったことで、私ではありません。
-
その本は売るには売れず、彼らはそのすべてをゴミ箱に
入れました。それが実際に起こった事でした。
-
しかし私は国全体で、人々に聖書をゴミ箱に投げ入れるよう
言ったと責められました。そんなことはありません。
-
ただ私は、それらが最初に、買われなかったらと
願うものです。
-
今では、もちろん皆さんの国には神学校があります。
私の国には未だありません。
-
ここ米国では、これだけを教える神学校があります。
-
そしてこれを受け入れる生徒だけを受け入れる
神学校があります。
-
その主なものはテキサスのダラス神学校です。
その他に一、二校あります。
-
その神学校の最も有名な生徒は、
ハル・リンゼイという人です。
-
彼の本は世界中で数百万冊売れています。
-
最初の本は「the late great planet earth] でした。
さらに多くの本があります。
-
これらの本の中には良いことがたくさん入っていますが、
しかし注意する必要があります。
-
これらの本はこの図式にその基礎を置いています。
-
私は意見の合わない本を必ず読みます。
-
実際、ある主題について本を書く前に、私は同じ主題の
本で、反対の見解を採る本をできるだけ多く買います。
-
私は全ての見解を聞きたいからです。彼らの質問と
その答えとその批判とを聞きたいのです。
-
そうして、自分自身で考え抜くことができます。
-
私は他の人々には、たくさんの教師に
耳を傾けることを促します。
-
ただ一人の教師のファンになってはいけません。
-
もしそうするならば、あなたは間違いやすい人間に
ついて行っているのです。
-
沢山の教師の話を聞いて、それらを神の言葉と
比較してください。
-
そしてそのような教師の話を聞いた後で、
-
自分で聖書の中に見つけることができたことだけを
信じてください。これが私のアドバイスです。
-
ですから、昨日言ったように、ここを出てから、
-
「デイビッド・ポーソンがこう教えている」と
言わないでください。
-
彼が教えていることが、あなたの聖書の中に
あるかどうか調べて、
-
ご自分でそこにあることを見つけるなら、
-
それを教えているのは私ではなく、
私にそれを語った主です。
-
もしあなたがそこに見つけられないならば、
それを忘れてください。とても重要です。
-
ではこの見解の聖書的基盤を見て行きましょう。
-
その見解を持っている人達は、聖書がそれを
支持していると、真剣に信じているからです。
-
私はスライドを持っていますが、、、
はい、ここにありました。
-
最初に言うことはこれです。
-
聖書の全体を見ても、「私の民は大きな困難を体験しないで
あろう」と明確に述べている節は一節もありません。
-
もし、どこかにそのような一節があれば、
-
私は自分の考え方をかなり革新的に
訂正しなければならないでしょう。
-
しかし、一つも見つけることができません。
また他の誰もできません。
-
なぜなら、この見方は聖書に明確に
表記されているのではなく、
-
聖書からの論理的な推論に基づいているからです。
-
その聖句はこれを推論する、
それはこれを示唆するようだと信じます。
-
その聖句はそう言ってはいないかもしれないが、
そう示唆しているようだ。
-
それが推論です。教義を推論の上に建てるのは
とても危険だと私は思います。
-
私は人間の論理を完全には信頼しないという
こともありますが。
-
私にとって、完全に論理的だと聞こえることが、
神にとっては全く間違っているかもしれません。
-
推論はグラグラした土台です。
しかしそれがそのアプローチです。
-
私はここで他の事も追加しておきたい。
-
これを愛を持って言いますが、
-
自身自分で聖書を読んでその見解に到達した人に
私は会ったことがありません。
-
まったくありません。彼らは全員、それを誰かから
聖書からの推論として教えられました。
-
それは私に重くのしかかります。
-
なぜならキリストに来た多くの人達がいますが、
彼らは聖書だけを持つようにと教えられませんでした。
-
特に宣教の現場ではこれが起こります。
-
しかし、私はこれらすべてを信じるような人たちには
会ったことがありません。
-
私は人々が私に「これが私が信じることです。それは
ディスペンセーションの図式です。」という時、
-
私は単純に訊きます。
-
「あなたはそれをどこから得ましたか?
あなたの先生は誰ですか?
-
あなたの読んだ本の著者は誰ですか?」
-
なぜなら、それはひとりの人から他の人へと、聖書の一つの
可能な解釈として引き継がれているように見えるからです」
-
導き出される推論とは何でしょうか? それはこちらです。
-
先ず最初に、新約聖書に、彼は「すぐに」やって来るという
記述があります。
-
彼が戻って来るスピードに関する記述があります。
-
そこから次のことが推論されます。
-
全ての世代は、彼が「直ぐに、素早く、何時でも」
来るために準備していなければならない。
-
従って彼が戻るのは、もうすぐである、それは、
すぐに起こるという意味です。
-
「私はすぐに来る」「私は早く来ます」という記述は、
-
「私はいつでもやって来ます」という意味であると
推論されます。
-
二番目の推論は、「驚き」の記述によって作られます。
-
「彼は夜に泥棒のように来るでしょう」
「彼は誰も期待していない時に来るでしょう」
-
これらの記述から、「いつでも」と推論されますが、
これもまた論理的に見えます。
-
実際には、「いつでも」と言ってはいませんが、
「いつでも」と意味するように推論されています。
-
三番目です。キリストが戻ることについて、
異なる言葉遣いがあって、
-
その違いから、二回戻ることが推論されると
主張されています。
-
キリストが戻ることについて、確かに
言葉の違いはあります。
-
時々、「主の日」と呼ばれ、また時々「キリストの日」と
呼ばれ、時々「彼の到着」パルージア、と呼ばれます。
-
時々、「彼の現れる」apocalupsis,
-
時々は「彼が聖徒達のために来る」
-
時々「聖徒達と共に来る」
-
これらの異なる表現の間で一つの分割が推進されて、
-
二回、帰ってくることだと、仮定され、
推論されるようになりました。
-
主の日が一つで、キリストの日がもう一つ。
-
彼の到着が一つで、彼の出現がもう一つ
-
聖徒達のために帰る、が一つで、
聖徒達と共に帰るがもうひとつ。
-
新約聖書の言葉は、二つの欄にきれいに分けて入れられて、
-
そこから、彼らは数年間離れた二回の別々な
事柄に言及していると推論しました。
-
次の推論は初期の教会の期待から作られています。
-
「この世代は死なない、これらすべてが成就するまでは」
-
「彼はドアのところにいます」の様な節から、
-
初期の教会は、彼が今すぐにでも来ることを期待したと
推論します。
-
そしてそれは彼らの信仰でした。
-
キリストが戻って来ることに対する彼らの信仰でした。
彼らは彼が直ぐにも来るのを期待して生きました。
-
次は、大患難を描写しているどこの箇所にも、
「教会」という言葉が無いことです。
-
それは確かに真実です。黙示録の四章から十六章、または、
十九章まで、「教会」という言葉は出てきません。
-
新約聖書の他の箇所で、大きな困難の時を描いていますが、
そこには、「教会」という単語は出てきません。
-
従って、「教会」という単語が出てこないのは、
教会が無いことを意味すると想定されました。
-
その言葉が使用されていないのであれば、
教会はそこにはありえない。
-
それから、慰めを強調する議論があります。
-
パウロがキリストが戻ってくることを描いた時、
彼は言いました。
-
「これを用いなさい、お互いを慰めるために」
-
彼らは言いました。
-
彼が戻ってくる前に、私たちが大きな困難を通過しなければ
ならないことを私達に言って、どんな慰めになるのか?
-
私達はお互いに慰め励まさなければならない。
-
クリスチャンが大きな困難を通り抜ける教えとは、
慰めでも励ましでもない。
-
再び、これは聖書には語られていません。
聖書から推論されるものです。
-
最後の推論はこれです。
-
患難は怒りです。注ぎだされた神の怒り。
-
特に七つの怒りの鉢は大きな困難の
クライマックスで注ぎ出されます。
-
第一テサロニケの五章から節が引用されます。
「私たちは怒りの子供たちではありません」
-
そこから推論して、私たちは怒りから救われている、
-
従って、神が怒りを注ぐ時には、
私たちはこの世にはいない。
-
従って、私達は、いなくなっているに違いない。
-
再び、そう聖書には書いてありません。それは推論です。
-
推論とはどんなものか、もう、わかりますか?
-
聖書が語っているあることから、
聖書は語っていないけれども、
-
聖書に語られていることと矛盾せず、一貫性があると
信じられることを導き出すことです。
-
これらが提供されている、聖書の七つの基礎です。
-
再度、強調しますが、「私たちは大きな困難の中に
いないであろう」と語っている聖書の一節はありません。
-
もしひとつでもあれば、議論は終わるでしょう。
-
しかし問題は、推論と論理的な演繹の領域に入ると、
とても論議の余地のある領域に入ってしまい、
-
他の人達が他の推論を導き出し、議論が始まります。
-
真実に忠実なクリスチャン達が、互いに同意できません、
聖書についてではなく、
-
聖書からの異なった推論と演繹について意見が合いません。
-
そのようにして、こういうことが起こりました。
-
私はこれらを再度見直して、二回目それらを見て行きます。
-
それらから憶測されたものが、本当に耐えうるかどうかを
見て行きます。
-
スピードに関する記述:
-
彼が「私はすぐに来ます」と言った時から、
今は既に二千年経っています。
-
「私はすばやくやって来る」と彼は言っています。
-
私達はそれを二千年と合わせなければなりません。
-
一つの可能な方法はもちろん、
神にとっての時間は(人間にとっての時間と)違います。
-
時間の相対性はアインシュタインの理論だけではなく、
皆さんの聖書の中にもあります。
-
時間は異なった人々に異なったスピードで進みます。
-
私はアインシュタインの話が気にいっています。
彼は尋ねられました。
-
「あなたの時間の相対性理論を普通の人が理解できるように
簡単に説明してもらえませんか?」
-
偉大な頭脳の人なので、彼は答えることができました。
-
実際、物事を複雑にするのは、必ずしも偉大な
思想家ではありません。
-
偉大な思想家は通常とてもシンプルです。
-
アインシュタインはこう言いました。
-
「一分間熱いストーブの上に座っているのは、一時間
きれいな女性と話をしているよりずっと長く思える」
-
これで皆さんは時間の相対性原理について分かりましたね。
-
では、わかりましたか?
-
それより、より以上のものがあると思いますが、
とても良い答えだと思いました。
-
主にとっては、一日は千年のようで、
千年は一日の様であり得ます。
-
それは、神にとって時間は意味がないと言っていません。
-
神にとっては、時間は違う速度で過ぎて
行くことができることを意味します。
-
神にとって一日が千年のように思われたに違いない日のこと
を私は考えることができます。
-
皆さんはどうですか?
-
自分の息子が死ぬのを見た日です。
-
それはひどいことだったに違いありません。
-
十字架での、父なる神の苦しみについて
考えたことがありますか?
-
千年間が神にとっては一日の様だ、ということを考えると、
-
イエスが天に戻ってからたったの二日しか
経っていないということです。
-
私達は、「すぐに」「早く」を私達の視点からも、
神の視点からも、とらえなければなりません。
-
時間は相対的です。
-
しかし私は思います。
-
イエスがこれらの言葉を使ったのは、全ての世代に
自分が戻って来ることを考えて欲しいからだと。
-
しかし、使徒ヤコブは手紙の中で、再臨について語る時、
-
農夫から忍耐を学びなさいと言います。
遅いけれども確実です。
-
農夫は収穫が来るのを待たなければなりません。
-
全ての農夫はことが直ぐに起こらないとき、
忍耐を学びます。
-
セント・バーナード・クレルボーは中世の聖徒でした。
-
彼は神にかつて祈りの中でこのようなことを言いました。
-
私はとてもおもしろく思います。
-
「あなたを見ることのない時を
あなたは短いというのですか?
-
お~、主よ、この少しの間は、長い少しの間です」
-
これは素晴らしくないですか?
-
彼はイエスが言ったことについて言っています。
-
「あなた方はしばらくすると、私を見なくなります。
しかし、またしばらくすると私を見ます。」
-
この「しばらくの間」は、とてつもなく長く見えます。
-
実際、新約聖書の時代にも問題となりました。
-
人々は、第二ペテロの三章で、人々は言います。
-
「彼はどこにいるのか、彼の来臨はどこにあるのか。
-
全てが創造の初めからのままではないか。
彼は戻ってこない」
-
この時にペテロは言いました。
「神にとっては千年は一日のようです。」
-
彼はその文脈の中で私達に言いました。
-
「神と私達にとっての時間の相対性を憶えなさい」
-
次の火曜日までに物事が起きないと
私達はとても我慢ができません。
-
神はとても忍耐強いです。そうであることを
神に感謝します。
-
これは 今すぐにでも戻ってくることをサポートしません。
-
「驚き」に関しての記述を取ってみましょう。
-
確かに、新約聖書は言います。
-
彼はあなた方の知らない時にやって来る、
-
彼は夜の盗人のように、期待していない時にやって来る。
-
しかしそれは聖書全体の教えではありません。
-
第一テサロニケ五章は、再臨に関する
第一テサロニケ四章の続きです。
-
第一テサロニケ五章は明言します。
-
起きていて、警戒し、酔っていないクリスチャン達には、
彼が帰ってくるのは驚きではない。
-
彼が戻ってくるのを待ち望んでいる人たちにとっては、
それは驚きではありません。
-
彼らは彼が戻って来るのがわかります。
-
それ故にイエスは言いました。
-
もし家主が盗人がいつ来るのかを知っていたら、
彼は起きていて、盗人がやって来るのを見るでしょう。
-
クリスチャン達、全てのクリスチャン達ではなく、
-
眠くて、彼が戻って来るのを待ち望んでいない
クリスチャン達は驚くかもしれません。
-
未信者は誰もが驚くでしょう。
-
彼が夜の盗人のように来るのは、私達から何かを
取りに来るためではありません。
-
警戒して起きていて、彼が来るのを注意して見ている人達は
驚かないでしょう。
-
ディスペンセーションの図式は、気を付けて
注意して見る対象が何も無いことを意味します。
-
わかりますか?
-
何も見えるしるしがありません。
-
イエスはご自分の再臨について何度も言いました。
-
「見なさい、そして祈りなさい」
私達は何を見るべきでしょう?
-
いつも空の雲を見上げていることはできません。
-
いずれにしても、彼は中東で雲に乗って来ます。
-
私はそこで見ることができません。
-
もし何の警報が無いならば、
-
私はどうやって彼が来るのを見るのでしょうか?
-
イエスが「見て、祈りなさい」と言った時、
彼は彼らに何に注目するかを言いました。
-
彼は彼らに自らが来るしるしを与えました。
-
「これらのことが起こる時には、
私が戸口にいることを知りなさい」
-
これらのことがすべて起こる時には、立ち上がって
頭を上げなさい、あなたの贖いが近いからです。」
-
それは私の顔と同じように明らかではありませんか?
-
私達は彼が来るしるしに注意しなければなりません。
-
それは彼が今日来ないことを意味します。
-
しるしが無いからです。ともかく、
全てのしるしはありません。
-
私達は見て、警戒し、しらふでいなければなりません。
そうすれば、驚くことはありません。
-
彼は、パウロは言います、彼は夜の盗人のように
あなたのところには来ません。
-
なぜならあなたは起きていて、準備ができているからです。
-
言葉の違いについてはどうでしょうか。
-
これに関しては、これだけ言うことができます。
私はとても注意深く学びました。
-
言葉の違いとは、二つの異なる出来事についてではなく、
一つの出来事の豊かな側面です。
-
それらは同じ出来事について
何度も繰り返し用いられています。
-
その言葉を注意深く研究すると、全ての語句が
ただ一回の来臨に言及していて
-
二つの異なった来臨ではないことがわかります。
-
言葉からの議論、または言葉からの推論は崩れます。
-
初期の教会が、彼がいつにでも戻ってくることを
期待していたという事実についてはどうですか?
-
彼らは期待していましたか?
いいえ彼らは期待していませんでした。
-
疑いの余地がありません。
-
例えば、イエスは言いました。
「福音を地の果てにまで届けなさい」
-
どうして彼らは彼がすぐにでも帰ってくることを
期待できたでしょうか?
-
できませんでした。
-
それには少なくとも生涯、そして、
実際、いくつもの生涯が必要でした。
-
弟子たちは、自分達がやりなさいと言われたことを
終えてもいないのに、
-
彼がすぐに戻ることを期待していたなどと、
どうして言えるでしょうか?
-
さらに、イエスはペテロが年を取ってから
十字架につけられるであろうと予測しました。
-
ペテロは、主が今にも戻ってくるのを期待して
毎日を過ごしていたと言えますか?
-
主が既に彼に、年を取ったら
自分が行きたくないところに連れていかれる
-
すなわち、十字架に付けられると言ったのに?
「いいえ」
-
イエスはヨハネが年取るまで生きていて、
死なないと暗示しました。
-
ある者達はこれを間違って理解して、イエスはヨハネが
死ぬ前に戻ってくると決め込みました
-
しかし、イエスご自身、ヨハネ自身が自分の福音書の中で
修正しました。
-
彼は言いました。「イエスは、私が彼が戻るまで
生きているだろうとは言いませんでした。
-
彼はただこう言ったのです。「もしそうだとしたら?」」
-
イエスがペテロにその人生の終わりに
どのようになるかと言った時に、
-
ペテロは言いました。「では彼はどうなんですか、主よ?」
-
とても人間的な反応です。
-
「ヨハネはどうですか?」
-
イエスは言いました。「もし私が戻るまで彼が生きると
私が決めるとしても、
-
それはあなたには何の関係もないことだ、ペテロ」
-
私はその答えが気に入っています。
-
私達の関心事は私たち自身の運命についてであって、
その意味では他の人達の運命であってはなりません。
-
ヨハネは自身の福音書の中にそれを引用して言います。
-
「イエスは自分が戻るまで、私は生きているだろうとは
言いませんでした、
-
ただ、もし彼が生きていることを私が決めたとしても、
それは、ペテロには何の関係もない、と言ったのです。
-
そのようにヨハネは初期の教会の間違った期待を
正さなければなりませんでした。
-
これらすべてが合わさっても、彼らは自分達が
生きている間にと期待したかもしれませんが、
-
しかし彼がすぐに戻ることを期待してはいませんでした。
-
主が来るのは差し迫っているという理論、彼は今すぐ
戻るという理論は、聖書から生まれたのではありません。
-
パウロ自身、イエスが自分の生涯の間に戻ってくることを
望んでいると言いました。
-
それは瞬間に、瞬きする間に、今の身体から
別の身体に変えられるであろうからです。
-
彼はこのように書いています。
-
「私達はこの幕屋を脱ぎたいからではなく、
かえって天からの住まいを着たいからです。
-
しかしながら、私達はむしろ肉体を離れて、主のみもとに
いるほうがよいと思っています。(第二コリント五章)
-
彼が言っているのは、
「私はひとつの身体から次の身体に行きたい」
-
しかし彼が帰ってこないならば、そうなった時には、
私達は新しい身体を持つ、
-
なんとなく彼(パウロ)は不完全、
服を脱いでいるように感じましたが、
-
しかしながら、身体が無くてもその間、
主のみもとにいる方がよいのです。
-
これは、いつでも主が来ることを
期待している人ではありません。
-
では全体の中では一番弱いと私が考える議論に
進みましょう。
-
大患難の箇所のところに
「教会」という単語が見られないことです。
-
代わりに、「選ばれた者達」「聖徒達」という
言葉が出てきます。
-
黙示録の十四章を憶えていますか。
-
「これは聖徒達への呼びかけです。忍耐し、神の戒めを守り
イエスに忠実であり続けるようにと。
-
彼らは言います。そこには「聖徒」と言っているが、
「教会」とは言っていない。
-
イエスが大きな困難について語った時には、
彼は言いました。
-
「主がその日数を短くしなかったならば、
選ばれた者達も失われるでしょう」
-
選ばれた者達、聖徒達、しかし教会はありません。
-
これは小さなことで大騒ぎをする事です。
-
クリスチャン達は新約聖書のどこでも選ばれた者達、
神の選んだ者達、聖徒達として言及されています。
-
全ての書簡が聖徒に宛てて書かれています。
-
皆さんの興味のために、書き出したのですが、
-
パウロの六つの書簡は「教会」という言葉を
使っていません。
-
ただ「選ばれた者達」という言葉を使っています。
-
一つの書簡は、「聖徒達」という言葉を使用していますが、
「教会」という言葉を使っていません、それはユダです。
-
そこから私は、第二テモテ、テトス、第一ペテロ、
第二ペテロ、第二ヨハネ、ユダは
-
クリスチャンのためではないと仮定します。
何と愚かなことでしょう。
-
ディスペンセーション主義者は黙示録を通して大きな困難の時に、
-
選ばれた者達と聖徒達という言葉が使われていることを
問題としましたが、
-
彼らは「お~、それはユダヤ人を意味している」
と言いました。
-
それはちょっと良すぎます。
-
新約聖書の中どこでも、選ばれた者達、聖徒達は
イエスを信じるユダヤ人と異邦人です。
-
マタイの二十四章と黙示録の四章から十八章は
クリスチャンに宛てられたものです。
-
ユダヤ人に宛てられたものではありません。
-
私達がそこを学んだ時に私が言ったように、
-
もし私達がそこにいないならば、
-
なぜイエスは大きな困難について、そのような
すべての情報を私達に与えるでしょうか?
-
それは最悪の効果をもたらすかもしれません。
-
私達はそこにはいません、「ジャック、私は大丈夫」 と、
人の不幸を小気味よく眺めてしまうかもしれません。
-
その感じがわかりますよね。
-
私達が知る必要が無い未来について、なぜイエスは
それほど私達に伝えたいのでしょうか。
-
それが私にとっては一番大きな問題です。
-
選ばれた者達、聖徒達にこれらの章が宛てられていますが、
-
私は、彼らが私達、イエスを信じる者達だと信じます。
-
慰めに強調が置かれています。これを見て行きましょう。
-
「慰め(comfort)」という単語はどういう意味でしょうか?
-
私達の問題は、それが「心地よい、痛みが無い」ことを
意味することです。
-
聖書ではそういう意味ではありません。
-
実際、英語でもそう意味ではありません。
-
「fort」がカギです。fortとは何でしょう?
-
それは困難にある防衛です。
-
Comfortするとは、反対に立ち向う力を
人々に与えることです。
-
フランスに、北フランスに有名なタペストリーがあります。
-
征服王ウィリアムが1066年に来て、
イギリスを征服しました。
-
だれもがイギリスの歴史は1066年に始まったと考えます。
-
征服王ウィリアムがやって来ました。
-
彼の故郷の北フランスのバイユウのある婦人たちが
有名なタペストリーを作りました。
-
その長さは、約二百メートルで、今もそこにあり、
見ることができます。
-
それはガラスのケースの中にとても注意深く
保存されています。
-
皆さんの内何人がバイユウのタペストリーのことを
聞いたことがありますか?
-
ハイ、誰か見た人はいますか? 見ましたか?
-
いいえ、でも聞いたことがありますね。
-
そのタペストリーの中には、征服王ウィリアムによる
イギリスの征服の歴史が入っています。
-
イギリス人はそれほど興味を持っていません。
-
私はそれを見に行きました。そこをまわって来ました。
-
彼(ウィリアム)は自分の軍隊を率いるのに
フランスの司教達を登用しました。
-
フランスの司教が長い槍を持って馬に乗っている
美しい絵があります。
-
彼の前には馬に乗っている、明らかに臆病風を
のぞかせているフランスの兵隊がいます。
-
オディン司教はその槍の先を兵士の背中に押し付けて、
-
兵士がイギリス人を攻撃し続けるようにしています。
-
その絵の下には、
「オディン司教は彼の軍隊を慰めています。(comfort)」
-
素晴らしくないですか? これが「comfort」です。
-
戦い続けるために、槍の先を背中に
突き付けられることです。
-
実際、「fortify (要塞化する)」という言葉は、
古い英語の「comfort」という言葉と同じです。
-
同じ言葉「fort」一人の人を砦にすることと同じで、
-
彼らに電気毛布や、お湯のビン、座るためのクッションを
与えることではありません。(慰めるという意味から)
-
それが私達にとって「comfort」の意味ですが、
comfortは強さを意味します。
-
そしてついでながら、それは聖霊の名前です。
彼は、Comforter です。
-
彼は、私達が攻撃を受けた時に、
私達を砦 (fortress) にする方です。
-
この議論の背後にあるのは、comfort の
感情的な意味であることがわかりますね。
-
私達はお互いに、comfort する必要があります。
-
お互いに力づける、お互いに強くし合うことが必要です。
-
主が帰って来るからです。
-
私達は最後に来ます。これは推論の中でも
最も荘重なものだと私は思います。
-
特に大患難の最後のところで、
怒りの鉢がぶちまけられます。
-
特別に「神の怒り」と呼ばれています。
-
私達が彼の世界にしたことに対する彼の怒りが
とうとうぶちまけられます。
-
神は怒るに遅いけれども、しかし怒りが燃え上がると、
それは特別です。
-
この人たちは言います。
-
「私達は神の怒りから救われている。
神の怒りから解放されている。
-
そうであれば、神の怒りがこの世界にぶちまかれる時に、
どうして私達はそこにいるのでしょうか?」
-
神の怒りは、現在世界にぶちまかれています。
-
ロマ書一章を読んでください。
-
神の怒りは既に天から人間の罪に対して掲示されている。
-
それから、暴力的な社会、崩壊家庭、
ホモの活動が描かれます。
-
神の怒りのしるしは西洋の世界の全てにあります。
-
クリスチャンの家族もそれから逃れられないと、
私は皆さんに言わなければなりません。
-
それはクリスチャン達に影響を与えます。
-
私の友人はドラッグの常習者に襲われました。
良いクリスチャンです。
-
しかし、神の怒りの暴力が彼に臨みました。
私の言うことがわかりますか?
-
私達は必ずしも神の現在の怒りから免れていません。
-
私達が何から救われているかというと、神の怒りの日と
それに続く地獄です。それは確かです。
-
大患難の最後に私たちが経験する怒りは
異なるものでしょうか?
-
もちろん、違うでしょう。
-
一つに、それが短いことを知っています、
-
もう一つは、イエスの来るのがとても近いことを
知っています。
-
しかしもう一つのことは、
-
もし私達を神の怒りから守ることが神の意志であれば、
-
神はそうするであろうことを私達は知っています。
-
エジプトで神はそうしました。
-
怒りをエジプトの災いにぶちまけましたが
-
そのどれも神の人々に触れませんでした。
-
神が彼らの上にシールドを置いたので、
-
神がエジプトの上に、ご自身の怒りを注がれた時に、
彼らは守られました。
-
しかし私が黙示録を読んでみると、
-
神はあるクリスチャン達を守りますが、
他の人を守りません。
-
ある人達は死にます。殉教者たちが出ます。
-
それが、彼らを困難から解放して
天国にすばやく送る神の方法です。
-
他の人達は荒野に逃げているでしょう。母親が逃げる時に。
-
憶えていますか?
-
彼らは神に守られて、神が食料を調達します。
神はそうできます。
-
私達が解放される怒りとは、火の池で終わる怒りです。
-
重圧が来る時、第二の死は勝利した者達に
触れることはありません。
-
私はこの議論が決定的だとは思いません。
-
黙示録からのこの節を聞いてください。
-
あなた方は忍耐をもって耐えるようにとの
私の戒めを守ったので、
-
地上に住む者達を試すために、世界を襲う試練の時から、
あなた方を守ろう。
-
これはそこから取り出されるというのではなく、
その中にいて守られるという約束です。
-
「私はあなた方をそれから守りましょう。」
-
神は完全にそうすることができます。
-
しかし神はそうしないかもしれません。
-
私達が彼の名によって死ぬことを許可するかもしれません。
-
さて実際には、他に少数派の二つの意見があります。
これまでにも述べてきましたが。
-
大会の書籍部に、ある見解の一冊の本がありました。
「患難の最中の携挙」という本です。
-
封印とラッパの後、鉢の前に
-
人々はこの世から取り去られる、クリスチャン達は
取り去られるという見解です。
-
それはアメリカでは大きくなりつつある意見で、
英国でも表れつつあります。
-
私は指摘しなければなりません。それは未だ、
イエスの再臨が二回あることを主張しています。
-
患難の最中に一度、終わりに一度です。
-
私の新約聖書には、二回の訪問の跡を
どこにも見つけることができません。
-
もう一つの見解は「部分的な携挙」と呼ばれています。
-
ある特別な聖なるクリスチャン達が
大きな困難の前に逃げて、
-
残りの人達はそこを通過します。
-
通常、自分達は特別な聖徒達に入ると
考える人たちによって書かれています。
-
しかしこれも、二回再臨があると言っている
基本的な誤りがあります。
-
その核心は、皆さんが自分の新約聖書を調べて、
-
彼(イエス)が二回戻ってくるという明白な記述を
一つでも見つけることができるかどうかです。
-
そこにはありません。
-
それ故に、私は先に述べました。
-
最初にクリスチャン達が訪問されて、取り出される、
という視点を持つようになった人たちの中で、
-
自分で聖書を学んで、その結論に至った人に
私は会ったことがありません。
-
彼らは、「それはそういう意味だ」と彼らに言った
説教者や先生と一緒に聖書を学びました。
-
又は、聖書の他に、「これがその意味です」と
言っている本を読んでいました。
-
私たちは、いつも、それを中古でもらいました。
-
しかし聖霊と共に、自分の聖書に自分自身で
向かう人たちは、
-
彼は一回戻ってくる、そして私達は多くの患難を経て
神の国に入るという結論に至ります。
-
それが彼らの達する結論です。
-
この二百年間に、私の国から皆さんの国に
教えの氾濫がありました。
-
聖書の注釈と人気のある著者たちによって、
それは遠く広く拡がりました。
-
アメリカは現在それを世界中に輸出しています。
-
親愛なるあのオランダの婦人、コリー・テン・ブームが
中国に行った時、
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クリスチャン達が彼女にこう言うのに
ショックを受けました。
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「コリー、アメリカの宣教師達が、『大きな困難が来る前に
私達は天にいるであろう』と言いました。
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大きな困難が来ました。
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どう対応してよいか私達はわかりませんでした。
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なぜ彼らは『私達はイエスのために苦しむ』と
言わなかったのでしょう?」
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コリーはこれを彼女の本の一冊に書きました。
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私は聖徒達が既にひどい迫害に
苦しんでいる国々にいました。
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中国では、クリスチャン達はこう言われました。
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「心配しないでください。患難が来る前に、
あなた方は携挙されます。」
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そして、ひどい迫害が来ました。
数百万のクリスチャン達が拷問されて死にました。
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後に私は、中国からの司教が悲しそうに
話すのを聞きました。
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「私達は失敗しました。私達は迫害に対して、
人々を強くしておくべきだった。
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彼らに、『最初にイエスが来るだろう』 とは言わずに。」
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彼は私(コリー)に振り向いて言いました。
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人々に迫害の時に、どのようにして強くあるかを
伝えてください。
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患難が来る時にいかにして立つか、
気を失わずに立っていることを」
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ついでながら、それは「comfort」の完璧な定義です。
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コリーは続けて書きました。
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私は神聖な命令を持っていると感じています。
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行って、この世の人々に主イエス・キリストにあって
強くあることは可能であると、
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私達は患難のためにトレーニングをしている」と
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何という句でしょう。
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「私達は患難のためにトレーニング中です」
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私は既にイエスのゆえに監獄に入ったことがあるので、
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また中国からの司教に会ったことがあるので、
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聖書の良い聖句を読むたびに、私は思います。
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「うん、私はそれを患難の時に使うことができる」と
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私をそれを書き出して、記憶します。」
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その素晴らしい婦人の事を皆さんご存知ですね。
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彼女が収容所でどんな経験をしたか、
彼女のお姉さんがその収容所で死にました。
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多分、皆さんの内、ある方々は彼女の話を聞いたり、
彼女の本を読んだり、
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または、映画「隠れ家」を見たかもしれません。
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とても、とても感動的です。
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先週皆さんにお話ししましたが、彼女の特別な患難は
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彼女が大変な脳梗塞を起こして、全く麻痺してしまい、
誰からも完全に隔離された時に来ました。
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彼女は彼女の面倒を見る献身的な人々によって
生かされ続けました。
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私は何年も後になって知らされました。
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彼女は二つの事に、ほんの小さな動作で、
応答しただけでした。
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その一つは、彼女の愛する甥、
ピーター・ヴァン・ブルデン、
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彼は映画の中で女の子の洋服を来て、自転車に乗って
ナチから逃れました。
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ピーター・ヴァン・ブルデンがバイオリンを弾くと、
彼女は少しだけ反応しました。
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ある人が私に言いました。彼らは私のテープを
たくさん買いました。
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それらを彼女に聞かせると、彼女はほんの少しだけ
神の言葉に反応しました。
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しかし彼女は彼女の大患難にいました。
しかし彼女はそれに備えていました。
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彼女は聖書を持つことができない場合に備えて、
み言葉を憶えました。
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彼女は自分自身を強くしていました、
自分をCOMFORTしていました。
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患難のためにトレーニングをして準備していました。
七十代の婦人として。
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何という聖徒だったでしょう。
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今、彼女はそこから解放されています。
神が彼女の目から全ての涙をぬぐい取ってくれました。
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彼が彼女を牧しています。
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このセッションの私の最後の言葉は、単純にこれです。
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もし私が間違っているならば、彼らのやり方ではなく、
私のやり方で間違っているほうがよいと思います。
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私は皆さんに大きな困難のために
トレーニングをしてくださいと言って、
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私がそう言う必要が無かったこと、皆さんも
その必要が無かったことを知る方が、
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「大丈夫です、悩まないでください。それは決してあなたに
来ることはありません」というよりもよいと思います。
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「それは決して起こらない」と言うのは
偽預言者達だという気がします。
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「平安が無い時に、平安、平安」と言うのは、
偽預言者です。
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人々の傷を軽く癒すのは偽預言者です。
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強くすることよりも、間違った意味でCOMFORTしたい、
なぐさめたいのは偽預言者です。
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しかし、もし私が間違っているならば、
神が私を赦してくださるように。
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もし彼らが間違っている場合よりも、
私の方がより害が少ないと思います。
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祈りましょう。
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父よ、私達は多くの異なった見解と、
あなたの聖なる言葉の異なった解釈を聞く時に、
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あなたの知恵をどんなにか必要としていることでしょう。
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主よ、私達はあなたの言葉の霊感を信じます。
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私達はそれが真理、全真理、
真理以外の何物でもないことを信じます。
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しかし主よ、私達が異なった解釈を聞く時に、
見分けることができるように助けてください。
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私達がみ言葉を探求して、そこに見つけることに
確信を持つまで助けてください。
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あなたの言葉にしがみついていることが
できるように助けてください。
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何が起こっても、何が来たとしても、その言葉が私達を
堅固にし、立たせ続けることができるように、
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何にもまして、立つことができるようにしてください。
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そして主よ、その偉大な日に、あなたの前に立ち、
誇りをもってあなたの目を見て、
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あなたの恵みとあなたの聖霊の力によって、
私達がそこにたどり着いたこと、
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そしてあなたが私たちに忠実であったように、
私達もあなたに忠実であったことを知りたいのです。
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主イエスよ感謝します。あなたがすぐに戻ってくることに。
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私達の心は叫びます、早く来てください。
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世界はあなたを絶望的に必要としています。
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私達はあなたを必要としています。
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お~、どうか 早く来てください。
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私達はあなたの御顔を見ることを望んでいます。アーメン。