今更ながら 私たち皆が 問うべき問題があります 「どこで道を誤ったのだろうか 新型コロナウィルス対策だけでなく 私たちの市民生活において」です 何が私たちを 政治的に二極化しギスギスした この局面に導いたのでしょうか ここ数十年で 勝者と敗者の隔たりは深まり続けており 政治に悪影響を与え 私たちをばらばらにしました 隔たりの一部は 不平等に関するものです しかし 不平等に伴う 勝ち負けに対する態度も その一部です 頂点に立った者は 成功は自力で成し遂げたものであり 自分の優秀さの尺度である そして 敗者に対しては その人自身が悪いのだ と思うようになりました 成功についての このような考え方は 一見 魅力的な ある原則に由来します すべての人に 平等に機会が与えられるなら 勝者が得た勝利は その人にふさわしいというものです これが 能力主義が掲げる理想の本質です もちろん実際問題としては 理想通りにはいきません 足掛かりとなる機会が 誰にでも 平等に与えられているわけではないのです 貧困家庭に生まれた子供は 成長しても貧困のままという傾向があります 裕福な親は自分たちの優位性を 子供に受け継がせることができます 例えば アイビーリーグの大学では アメリカで 収入が上位1%の 家庭出身の学生の数が 下位50%の家庭出身の学生を 全員合わせたよりも多いのです しかし問題は 私たちが謳う 能力主義の原則を 逸脱していることだけではありません 能力主義の理想そのものに不備があります 負の側面があるのです 能力主義は公益を むしばみます 勝者を思い上がらせ 敗者に屈辱を与えます 能力主義のせいで 成功者は過度に成功に酔い 成功途上でのツキや幸運を 忘れてしまいます そして自分よりも運に恵まれなかった人や 資格面で劣る人を 見下すのです これは政治においても問題です 大衆の反発の強力な源泉の一つは 多くの労働者が持っている感覚で エリート層に見下されているというものです このような不満を抱くのも当然です グローバル化が不平等を深め 賃金の停滞を招いたときに グローバル化の支持者は 労働者に もっともらしい助言をしました 「グローバル経済の中で 競争して勝ちたかったら 大学へ行きなさい」 「何を勉強したかで どれだけ稼げるかが決まる」 「やればできる」 エリートは この助言に隠された侮辱が 見えていないのです 大学に行かなければ 新しい経済で成功しなければ 失敗は自己責任です これが隠された意味です 多くの労働者が能力主義のエリートに 反発するのも無理もありません では どうすべきでしょうか? 市民生活を3つの観点から 考え直す必要があります 大学の役割 働くことの尊さ 成功の意味 です 私たちは 将来の選択肢を増やしてくれる 最高学府としての大学の役割を 考え直すことから始めるべきです 高い資格を持つ人々に囲まれて 日々を過ごす私たちは 基本的な事実を忘れてしまいがちです それは たいていの人が 4年制大学の学位を持たないことです それどころか アメリカでは 3分の2近くの人が持っていません ですから 大学の卒業証書を 立派な仕事や まともな生活の 必要条件とするような経済を構築するなど 愚かなことなのです 人々に大学への進学を 勧めることは よいことです 金銭的に余裕のない人でも 大学に進学できるようにすることは さらに よいことです しかし これは不平等の 解決策ではありません 私たちは 能力主義の闘争のために 人々を武装させることより 大学の卒業証書は持たないが 社会に欠かせない貢献をしている人々の 生活をよくすることに注力すべきです 働くことの尊さを再定義し 政治の中心に据えるべきです 働くこととは 生計を立てることだけではなく 公益に寄与し それに対する認識を 得ることであるということを 忘れてはいけません このことを ロバート・ケネディは 半世紀前に次のように言い表しています 「仲間意識 コミュニティ 共通の愛国心 これらの必要不可欠な価値観は 単にモノを一緒に購買し消費することによって 生まれるのではない 適切な賃金での尊厳のある雇用によって 生まれるのである それは被雇用者が 『私は この国の建設を手助けした 私は壮大な公益事業の参加者なのだ』 と言えるような雇用である」 このような国民感情は こんにちの社会生活からは ほとんど見当たりません 私たちは ある人が稼ぐお金を その人の公益への貢献の尺度として とらえることがよくあります しかし これは間違いです その理由を キング牧師が 説明してくれています 牧師が暗殺される少し前に起きた — テネシー州メンフィスでの 清掃作業員によるストライキを顧みて キング牧師は言いました 「私たちのごみを収集してくれる人は 突き詰めて考えると 医師と同じくらい重要です なぜなら もし彼が仕事をしなかったら 病気が蔓延するからです 仕事は すべて尊いのです」 こんにちのコロナ大流行を見れば 明らかな話です 普段 私たちの目に入らないような 労働者たちに 実はどれだけ依存しているかが 露呈しました 配達業者 保守作業者 食料品店の店員 倉庫作業者 トラック運転手 看護助手 保育士 訪問看護従事者 こういった職業は給料がいいわけでも 特に尊敬されるわけでもありません しかし今 私たちは この人たちを エッセンシャルワーカーとして認識しています 今こそ まさに この人たちの賃金と認知度を いかに その仕事の重要性に 見合ったものにするかについて 公けに議論するときです また 私たちが持つ 能力主義の傲慢を 道徳的 さらには精神的にも方向転換し 疑問視するときでもあります 自分の活躍を可能にしている才能に 私は道徳的に見合っているか? 私に偶然 備わった才能を 賞賛する社会で生活しているが それは私の手柄なのか? それとも運なのか? 自分の成功を当然 自分に相応しいと 主張することは 他の人の立場に立って自分を見ることを 難しくしてしまいます 人生における運の役割を認めることは それなりの謙虚さをもたらします 生まれや 神の恵み 運命の神秘といった 巡り合わせが悪ければ 自分もああなっていた と この謙虚さの精神が 今 私たちに必要な公徳心です この謙虚さの精神が 私たちを隔てる過酷な成功の倫理から 引き返す道の始まりなのです この謙虚さの精神が 能力主義の横暴の先にある — より平穏で懐の広い社会生活へと 私たちを導くのです